表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/7

01:マザコン娘は寄りかかる

「フン、フ、フンフフ~」


 極上のメロディがキッチンから広がっている。

 その軽やかな鼻歌は彼女がゴキゲンなときの癖であり、私の癒しだった。

 トン、トンという包丁の音にグツ、グツという鍋の音が加わり、アンサンブルになる。


 今晩のメニューはカレーだ。

 ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、牛肉、隠し味のチョコレート。

 素材もレシピもありきたりなれど、彼女がこしらえた一品は格別だ。


 私はソファに座ったまま、脚をパタパタと泳がせる。

 顔がにやける。テレビのアナウンサーが重苦しい事件を報じていようとも、まるで気にならない。


 彼女の料理を味わうことができるのは私の特権なのだ。

 富豪であってもこの幸福を手にすることはできない。

 ただひとり、この世に私だけ。


「お待たせ~」


 彼女がエプロンを脱ぎ、皿をダイニングテーブルに並べたのと同時に私は席についた。


「待ちわびたよぉ」


 お腹をさする。グゥ……という音が鳴り、彼女は笑いながら米とカレーソースをよそった。サラダもセットだ。


「わ。今日もおいしそう! さっすがマ……」


 私が言いながらスプーンを握ると、額に軽くデコピンされた。


「っ!」

「こら。〝いただきます〟は?」

「う……」


 口をとがらせた彼女の顔が眼前に迫り、私はどきまぎした。

 日焼けした私とはちがう、色白の肌。

 桜色の口紅は艶やかに顔を彩り、ムッとした表情もじつにかわいらしい。


「ゴメンなさい、ママ……」


 私はおでこをさすりながら言う。

 デコピンのかすかな痛みすら、ママからの行為だと思うと愛おしい。


「もう。あなたは昔っから、せっかちなんだから」


 ママも席につき、頬杖をついた。


「だって、ママの料理だよ? 毎日、この時間はお預けを食らった犬の心境なんだから」

「大げさね、ただのカレーでしょ。市販のルーだし。専門店みたいにスパイスをデンパリングするわけじゃないし」

「チッ、チッ。ママの愛情こもった料理を一日三食。それが私の必須栄養素だからね」


 大口を開けてカレーをほおばる。

 ああ、安心する味だ。


「ちょっと。そんなに慌てて食べると喉を詰まらすわよ」


 ママがじっと私を眺めている。それがうれしくて、食欲が増す。


「はは、それもいいかもね。これが最後の晩餐でかまわないよ、私は」


 栄養失調寸前だった時期を思うと、食のありがたみが骨身にしみるものだ。

 ましてやそれが愛する人の料理ならなおさら。


「もう……アホなことばっかり」


 ママはほほ笑みながら、テレビに視線を移す。

 ニュースはすでに終わっていて、バラエティー番組の時間だった。


「あ、このタレント。この頃、出番多いわよね」


 画面に目をやると、二十代後半の元アイドルが愛嬌をばらまいていた。

 たまにずれた回答をして男性陣からツッコミを入れられているが、計算のうちだろう。


「ううん……愛らし系、というのかしら。私は、ああはなれないわね」

「いや。ママのほうが何万倍もかわいいし」


 私は間髪入れず、否定する。嘘ではない。

 ビジュアルは至高であるし、やや幼さを残した性格に由来するふるまいにはキュン、とさせるものがある。無垢なのだ。

 ふと、ママが頬の触覚ヘアを指でいじりだした。

 照れるときは、顔に出さずにいつもそうする。


「いやいや。肌もっちもちのあなたから言われても……ねえ?」


 ぎこちない笑みとともに、上目づかいをされる。

 私はなにかが無性にうずき、カレーをかっこんだ。


「あ、わかった。おべっか使っておこづかいをせびろう、という算段でしょ。その手には乗らないわよ」


 ママはしてやったり、という表情になる。

 またしても、かわいい。

 私はスプーンを置いて身を乗り出し、顔を思いっきり近づけた。


「な、なに……?」

「私のこの目。冗談だと思う?」

「いや、だから。年相応というものがあるでしょう。三十代後半ともなると、それなりの自覚が……」

「関係ない」


 ばっさりと断じる。


「あの……」

「ママが認めるまで、ずっとこのままだから」

「う……」


 ママが目をそらす。このシチュエーションに、CMの寸劇のセリフが重なる――〝あなたが認めるまで、ずっとこのままですよ〟


「ああ、もう! わかったから、離れなさい!」


 両手で顔をどけられる。柔らかいし、あたたかい。


「ふふ、勝った」

「はあ……なんなのよ。この毒にも薬にもならないやり取りは」

「ほら。ママはドキリと昂ったし、私はクスリと笑ったから」


 私は友だちに対するようなノリで応じた。

 もう、こういうやり取りができるのはこの世でママしかいない。


「だいたい、かわいいというならあなたでしょう。花の十代の花盛り。もっとこう……私がイチバン、みたいな態度でもいいと思うけど――昔みたいに」


 私の手がぴたりと止まる。


 昔――中三から高一にかけての、最も愚かしい時期。


「まあ……おとなになったからね」


 おとなになるとは、すなわち現実を知ることだ。


「まだ十七歳じゃない。子どもでいいのよ」


 わかっている。

 子どもでいるとは、すなわち現実を知らんぷりすることだ。


 だからママといっしょにいられる。

 ゆりかごのような庇護のもとにすごせる。

 そのすばらしい楽園に、いつまでもしがみついていたい。


「ところで、今日はどうするの?」


 ママがスプーンを口にしながら〝日課〟についてたずねた。


「モチロン、今日もだよ」


 私はためらいもせず頼む。


「はいはい。じゃあ、食べ終わったらね」


 ママはいやな顔ひとつしなかった。

 歓喜と申し訳なさがない交ぜになる。


 世間には、どれほどいるのだろうか。

 母とともにお風呂に入る高校生の娘は。




「スゥ~、ハァ~……」


 脱衣所で服を脱ぎ、呼吸をととのえる。

 ママが先に入り、少し経ったら私も加わる――それが日々のルーティーンだ。もう三ヶ月は続いている。

 脈がでたらめになり、目まいにも似た症状を呈するのは、ふたつの相反する感情のせいだ――期待と、気がかり。


「……クシュン」


 いつまでも棒立ちのわけにはいかず、意を決してドアを開けた。

 

「お、いらっしゃい」


 甘い声。

 私はドキリとする。

 ふわりと柑橘系の香りに包まれて、ママはゆったりとしたバスタブにつかっていた。

 その白いデコルテに、釘づけになる。

 もう何度目かもわからない光景なのに、胸が跳ねた。


「おお……いいね。眼福、眼福」


 私は合掌し、拝んだ。


「娘が出していい声音じゃないわね」


 ジト目を向けられる。


「母が出していい色気じゃないからだよ」


 私は、たわごとを装いながら身体を洗い、邪念をふりはらった。

 母が出していい色気ではないのだ。ホントに。


「でも、安心したわ。それだけ軽口が叩けるなら、もうひとりでも湯船につかれるかもね」


 ママが両腕を前に伸ばしながら言った。


「え――」


 そのとき。

 いきなり、胸がズキリと痛んだ。

 それまでの幸せな昂奮とは明らかに異なる、緊張。

 それは止まらず、動悸はいよいよでたらめになる。


琉海(るか)。どうかした?」

「う、ううん。なんでもない」


 私はごまかすように正面を向き、シャワーの蛇口をおそるおそる、ひねった。

 ざわざわとした悪寒が心臓を撫でつづけている。

 水流は弱めにし――うん、だいじょうぶ。


 どうにか泡を洗い流し、問題はここからだ。

 私はバスタブの縁に手をかける。

 乳白色の水面は、プールとは違う。だから恐れるものなどなにもないはずだ。

 なのに身体が抵抗する。せっかく洗ったのに、額から汗がだらだらとこぼれる。


 ――どうして? 今日は一段とひどい。このところ、ずっと安定していたのに。


琉海(るか)? やっぱり、あなた……」


 足がすくみ、ひざをつく。顔がこわばり、目をぎゅっとつぶった。


 〝おおい、もっと頑張れよぉ。ギネス記録だと、人間は二十四分は息を止められるらしいぜ。もっとだ。もっと潜れ、潜れ、潜れ……〟

 〝やめて、やめて……痛い……〟


琉海(るか)!」

「――え?」


 その声で、我に返った。

 私の手に、ママの手が乗せられていた。

 そのぬくもりが肌を伝わり、ほっとしたのもつかの間、涙がこぼれた。


「あ……」


 ママに引き寄せられ、バスタブ越しに抱きしめられる。


「ゴメンね。辛かったね。私がうかつだった。もっと慎重になるべきだった」

「な、なにも、ママが悪いことはないよ……ただ、ただ私が……うああ……」


 もう止まらなかった。

 背中をさすられながら、堰を切ったようにむせび泣く。


「だいじょうぶ。収まるまで、ずっとこうしてあげるから……」

「あ、あ……ありがとう……」


 私は、ぶざまな私を意識のそとから俯瞰していた。

 これが私だ。

 ママがいないともうまともに暮らせない、人間の残骸――ひとりでも生きてゆけるという思いあがりへの、報いだ。

 

「どう、落ちついた?」

「うん……」


 ママに背後から囁かれる。

 十分ほど盛大に泣き腫らしたあと、どうにか発作は収まり、湯船につかることができた。

 とはいっても、ママの胸を背もたれにしないとすぐに決壊する危うさだ。

 それほどトラウマは水に根ざしている。


「私、まるで依存症みたい」

「何の?」

「ママの」

「なら私は琉海(るか)依存症かな。私の手の届く範囲にいるのが、ほっとするもの」

「……やっぱり、いやだった? 私が家を出たの」

「いやじゃないわよ。でも、心配だった。とっても」


 その表情は、私の後ろ暗さに呼応するような暗さだった。


「……ゴメン」


 かつての私はどうかしていた。

 むやみに意地を張り、引き留めてくれたママを罵り、ひとりで県外の高校に進学した。

 水泳部の特待生として寮に入り、自立とそれに伴う将来への期待に胸を膨らませながら。

 そして、その結果が――


 今でも、いやでも思い出す。あの夜を。

 息を止めて、ひたすら潜って。水面に顔を出したらたちまち……


 原因はいまだにはっきりとわからない。

 ただ、なにかを誤った。

 集団内における勘どころ――実権をにぎる主と、それに対する暗黙のかしづきを知る由もなかった。


「ダメだねぇ……私。無理に背伸びして、壁にぶつかって。むしろ幼稚園児なみに退化しちゃった」


 今の私が、元は水泳部のホープだったといっても誰も信じないだろう。


「気にしないの。またゆっくりと成長すればいいじゃない。あなたのペースでね。それまで、お風呂にもいっしょに入りましょ?」


 私は口を沈め、プクプクと泡を吐いた。

 わずかずつ、悲しさが恍惚に上書きされる。


「ぷはっ……。でもさ、十年後も二十年後もそうするわけにはいかないでしょ?」

琉海(るか)が望むなら、それでもいいのよ。あなたの願いなら、絶対に協力するから」


 ママの腕が私のお腹に回される。

 その感触に背すじがゾクゾクした。細いが、しかと私を囲う腕。

 その圏内では、すべてが肯定される。

 世俗からは非難されるような状態も、母親に対するいびつな愛情と依存心も、なにもかも。


「ホントに、いいの?」

「ええ。私のできる範囲でなら」

「言ったね?」


 私は向き直り、私のAカップとは比較にならないほどの巨大な膨らみに相対した。


琉海(るか)?」

「ふふふ……」


 にたつきながら、その巨峰をわしづかみにした。


「きゃっ!」


 真正面から、かわいらしい悲鳴がもれる。


「おお……ふにふにだあ」

「ちょ、ちょっと!」


 さらに揉み、顔をうずめようとすると脳天にチョップが直撃した。


「イタッ!」

「やりすぎ!」


 ママは両腕で胸をかばうようにしながら、口をとがらせる。


「あ、危なかった……」


 理性がすっ飛んでいた。


「危ないのはあなたよ。まったくもう……」


 言葉はつっけんどんだが、安堵の気配が伝わってくる。

 私がバカな真似をすれば、それは元気の証明になる。

 だから、これでいいのだ。


 私はもう一度、ママにしがみついた。

 今度は、なにも言われなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ