01:マザコン娘は寄りかかる
「フン、フ、フンフフ~」
極上のメロディがキッチンから広がっている。
その軽やかな鼻歌は彼女がゴキゲンなときの癖であり、私の癒しだった。
トン、トンという包丁の音にグツ、グツという鍋の音が加わり、アンサンブルになる。
今晩のメニューはカレーだ。
ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、牛肉、隠し味のチョコレート。
素材もレシピもありきたりなれど、彼女がこしらえた一品は格別だ。
私はソファに座ったまま、脚をパタパタと泳がせる。
顔がにやける。テレビのアナウンサーが重苦しい事件を報じていようとも、まるで気にならない。
彼女の料理を味わうことができるのは私の特権なのだ。
富豪であってもこの幸福を手にすることはできない。
ただひとり、この世に私だけ。
「お待たせ~」
彼女がエプロンを脱ぎ、皿をダイニングテーブルに並べたのと同時に私は席についた。
「待ちわびたよぉ」
お腹をさする。グゥ……という音が鳴り、彼女は笑いながら米とカレーソースをよそった。サラダもセットだ。
「わ。今日もおいしそう! さっすがマ……」
私が言いながらスプーンを握ると、額に軽くデコピンされた。
「っ!」
「こら。〝いただきます〟は?」
「う……」
口をとがらせた彼女の顔が眼前に迫り、私はどきまぎした。
日焼けした私とはちがう、色白の肌。
桜色の口紅は艶やかに顔を彩り、ムッとした表情もじつにかわいらしい。
「ゴメンなさい、ママ……」
私はおでこをさすりながら言う。
デコピンのかすかな痛みすら、ママからの行為だと思うと愛おしい。
「もう。あなたは昔っから、せっかちなんだから」
ママも席につき、頬杖をついた。
「だって、ママの料理だよ? 毎日、この時間はお預けを食らった犬の心境なんだから」
「大げさね、ただのカレーでしょ。市販のルーだし。専門店みたいにスパイスをデンパリングするわけじゃないし」
「チッ、チッ。ママの愛情こもった料理を一日三食。それが私の必須栄養素だからね」
大口を開けてカレーをほおばる。
ああ、安心する味だ。
「ちょっと。そんなに慌てて食べると喉を詰まらすわよ」
ママがじっと私を眺めている。それがうれしくて、食欲が増す。
「はは、それもいいかもね。これが最後の晩餐でかまわないよ、私は」
栄養失調寸前だった時期を思うと、食のありがたみが骨身にしみるものだ。
ましてやそれが愛する人の料理ならなおさら。
「もう……アホなことばっかり」
ママはほほ笑みながら、テレビに視線を移す。
ニュースはすでに終わっていて、バラエティー番組の時間だった。
「あ、このタレント。この頃、出番多いわよね」
画面に目をやると、二十代後半の元アイドルが愛嬌をばらまいていた。
たまにずれた回答をして男性陣からツッコミを入れられているが、計算のうちだろう。
「ううん……愛らし系、というのかしら。私は、ああはなれないわね」
「いや。ママのほうが何万倍もかわいいし」
私は間髪入れず、否定する。嘘ではない。
ビジュアルは至高であるし、やや幼さを残した性格に由来するふるまいにはキュン、とさせるものがある。無垢なのだ。
ふと、ママが頬の触覚ヘアを指でいじりだした。
照れるときは、顔に出さずにいつもそうする。
「いやいや。肌もっちもちのあなたから言われても……ねえ?」
ぎこちない笑みとともに、上目づかいをされる。
私はなにかが無性にうずき、カレーをかっこんだ。
「あ、わかった。おべっか使っておこづかいをせびろう、という算段でしょ。その手には乗らないわよ」
ママはしてやったり、という表情になる。
またしても、かわいい。
私はスプーンを置いて身を乗り出し、顔を思いっきり近づけた。
「な、なに……?」
「私のこの目。冗談だと思う?」
「いや、だから。年相応というものがあるでしょう。三十代後半ともなると、それなりの自覚が……」
「関係ない」
ばっさりと断じる。
「あの……」
「ママが認めるまで、ずっとこのままだから」
「う……」
ママが目をそらす。このシチュエーションに、CMの寸劇のセリフが重なる――〝あなたが認めるまで、ずっとこのままですよ〟
「ああ、もう! わかったから、離れなさい!」
両手で顔をどけられる。柔らかいし、あたたかい。
「ふふ、勝った」
「はあ……なんなのよ。この毒にも薬にもならないやり取りは」
「ほら。ママはドキリと昂ったし、私はクスリと笑ったから」
私は友だちに対するようなノリで応じた。
もう、こういうやり取りができるのはこの世でママしかいない。
「だいたい、かわいいというならあなたでしょう。花の十代の花盛り。もっとこう……私がイチバン、みたいな態度でもいいと思うけど――昔みたいに」
私の手がぴたりと止まる。
昔――中三から高一にかけての、最も愚かしい時期。
「まあ……おとなになったからね」
おとなになるとは、すなわち現実を知ることだ。
「まだ十七歳じゃない。子どもでいいのよ」
わかっている。
子どもでいるとは、すなわち現実を知らんぷりすることだ。
だからママといっしょにいられる。
ゆりかごのような庇護のもとにすごせる。
そのすばらしい楽園に、いつまでもしがみついていたい。
「ところで、今日はどうするの?」
ママがスプーンを口にしながら〝日課〟についてたずねた。
「モチロン、今日もだよ」
私はためらいもせず頼む。
「はいはい。じゃあ、食べ終わったらね」
ママはいやな顔ひとつしなかった。
歓喜と申し訳なさがない交ぜになる。
世間には、どれほどいるのだろうか。
母とともにお風呂に入る高校生の娘は。
「スゥ~、ハァ~……」
脱衣所で服を脱ぎ、呼吸をととのえる。
ママが先に入り、少し経ったら私も加わる――それが日々のルーティーンだ。もう三ヶ月は続いている。
脈がでたらめになり、目まいにも似た症状を呈するのは、ふたつの相反する感情のせいだ――期待と、気がかり。
「……クシュン」
いつまでも棒立ちのわけにはいかず、意を決してドアを開けた。
「お、いらっしゃい」
甘い声。
私はドキリとする。
ふわりと柑橘系の香りに包まれて、ママはゆったりとしたバスタブにつかっていた。
その白いデコルテに、釘づけになる。
もう何度目かもわからない光景なのに、胸が跳ねた。
「おお……いいね。眼福、眼福」
私は合掌し、拝んだ。
「娘が出していい声音じゃないわね」
ジト目を向けられる。
「母が出していい色気じゃないからだよ」
私は、たわごとを装いながら身体を洗い、邪念をふりはらった。
母が出していい色気ではないのだ。ホントに。
「でも、安心したわ。それだけ軽口が叩けるなら、もうひとりでも湯船につかれるかもね」
ママが両腕を前に伸ばしながら言った。
「え――」
そのとき。
いきなり、胸がズキリと痛んだ。
それまでの幸せな昂奮とは明らかに異なる、緊張。
それは止まらず、動悸はいよいよでたらめになる。
「琉海。どうかした?」
「う、ううん。なんでもない」
私はごまかすように正面を向き、シャワーの蛇口をおそるおそる、ひねった。
ざわざわとした悪寒が心臓を撫でつづけている。
水流は弱めにし――うん、だいじょうぶ。
どうにか泡を洗い流し、問題はここからだ。
私はバスタブの縁に手をかける。
乳白色の水面は、プールとは違う。だから恐れるものなどなにもないはずだ。
なのに身体が抵抗する。せっかく洗ったのに、額から汗がだらだらとこぼれる。
――どうして? 今日は一段とひどい。このところ、ずっと安定していたのに。
「琉海? やっぱり、あなた……」
足がすくみ、ひざをつく。顔がこわばり、目をぎゅっとつぶった。
〝おおい、もっと頑張れよぉ。ギネス記録だと、人間は二十四分は息を止められるらしいぜ。もっとだ。もっと潜れ、潜れ、潜れ……〟
〝やめて、やめて……痛い……〟
「琉海!」
「――え?」
その声で、我に返った。
私の手に、ママの手が乗せられていた。
そのぬくもりが肌を伝わり、ほっとしたのもつかの間、涙がこぼれた。
「あ……」
ママに引き寄せられ、バスタブ越しに抱きしめられる。
「ゴメンね。辛かったね。私がうかつだった。もっと慎重になるべきだった」
「な、なにも、ママが悪いことはないよ……ただ、ただ私が……うああ……」
もう止まらなかった。
背中をさすられながら、堰を切ったようにむせび泣く。
「だいじょうぶ。収まるまで、ずっとこうしてあげるから……」
「あ、あ……ありがとう……」
私は、ぶざまな私を意識のそとから俯瞰していた。
これが私だ。
ママがいないともうまともに暮らせない、人間の残骸――ひとりでも生きてゆけるという思いあがりへの、報いだ。
「どう、落ちついた?」
「うん……」
ママに背後から囁かれる。
十分ほど盛大に泣き腫らしたあと、どうにか発作は収まり、湯船につかることができた。
とはいっても、ママの胸を背もたれにしないとすぐに決壊する危うさだ。
それほどトラウマは水に根ざしている。
「私、まるで依存症みたい」
「何の?」
「ママの」
「なら私は琉海依存症かな。私の手の届く範囲にいるのが、ほっとするもの」
「……やっぱり、いやだった? 私が家を出たの」
「いやじゃないわよ。でも、心配だった。とっても」
その表情は、私の後ろ暗さに呼応するような暗さだった。
「……ゴメン」
かつての私はどうかしていた。
むやみに意地を張り、引き留めてくれたママを罵り、ひとりで県外の高校に進学した。
水泳部の特待生として寮に入り、自立とそれに伴う将来への期待に胸を膨らませながら。
そして、その結果が――
今でも、いやでも思い出す。あの夜を。
息を止めて、ひたすら潜って。水面に顔を出したらたちまち……
原因はいまだにはっきりとわからない。
ただ、なにかを誤った。
集団内における勘どころ――実権をにぎる主と、それに対する暗黙のかしづきを知る由もなかった。
「ダメだねぇ……私。無理に背伸びして、壁にぶつかって。むしろ幼稚園児なみに退化しちゃった」
今の私が、元は水泳部のホープだったといっても誰も信じないだろう。
「気にしないの。またゆっくりと成長すればいいじゃない。あなたのペースでね。それまで、お風呂にもいっしょに入りましょ?」
私は口を沈め、プクプクと泡を吐いた。
わずかずつ、悲しさが恍惚に上書きされる。
「ぷはっ……。でもさ、十年後も二十年後もそうするわけにはいかないでしょ?」
「琉海が望むなら、それでもいいのよ。あなたの願いなら、絶対に協力するから」
ママの腕が私のお腹に回される。
その感触に背すじがゾクゾクした。細いが、しかと私を囲う腕。
その圏内では、すべてが肯定される。
世俗からは非難されるような状態も、母親に対するいびつな愛情と依存心も、なにもかも。
「ホントに、いいの?」
「ええ。私のできる範囲でなら」
「言ったね?」
私は向き直り、私のAカップとは比較にならないほどの巨大な膨らみに相対した。
「琉海?」
「ふふふ……」
にたつきながら、その巨峰をわしづかみにした。
「きゃっ!」
真正面から、かわいらしい悲鳴がもれる。
「おお……ふにふにだあ」
「ちょ、ちょっと!」
さらに揉み、顔をうずめようとすると脳天にチョップが直撃した。
「イタッ!」
「やりすぎ!」
ママは両腕で胸をかばうようにしながら、口をとがらせる。
「あ、危なかった……」
理性がすっ飛んでいた。
「危ないのはあなたよ。まったくもう……」
言葉はつっけんどんだが、安堵の気配が伝わってくる。
私がバカな真似をすれば、それは元気の証明になる。
だから、これでいいのだ。
私はもう一度、ママにしがみついた。
今度は、なにも言われなかった。




