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名を捨てる朝

森を抜けかけた頃、馬の足取りが目に見えて重くなった。

鼻から荒い息を吐き、首を低くして歩いている。


まいも、鞍の上で身体を支える力が残っていなかった。

夜通し揺られ、寒さと緊張で感覚が鈍っている。指先がかじかみ、手綱を握る力も弱い。


高成はそれを一目で察し、自らは馬を降り歩みを緩めた。


ほどなく、崩れた板塀の向こうに屋根だけを残した小屋が見えた。

炭焼きに使われていたのだろう。炉の跡が黒く、地面には炭屑が散らばっている。


そこに向けて高成が馬を誘導するのを見て、まいの薄れかけていた意識が浮上した。


「ここは?」


「無人の小屋だ。」


それ以上の説明はなく、小屋の前まで来ると、高成はまいを鞍から下ろした。


「あ……」


 地に足をつけた途端、足元がふっと軽くなり、地面が傾いた気がした。


「──ー!!」


衝撃に備えて目を瞑った。

 しかし、その前に腕を掴まれ、倒れるはずの身体が受け止められていた。


「しっかりしろ」


 低く落ち着いた声。

 恐る恐る目を開くと、気づけば高成の胸元がすぐそこにあり、視界いっぱいに綺麗な彼の顔が迫ってる。


(……近い)


 ただそれだけのことなのに、心臓が一気に跳ね上がった。

これまで高成に背を預けていたのに、今になって急にその近さを自覚する。


 それに、農作業で鍛えたはずの足は情けなく力を失い、まるで手弱女のように倒れかけてしまった自分が恥ずかしかった。


「す、すみません……!」


(ただの農民なのに……迷惑かけて)


 そう思うほどに、頬が熱くなる。

 高成の指が肩に食い込み、支えられている感触がやけに生々しくて、息の仕方さえわからなくなった。


 彼はまいを見下ろし、ほんの一瞬だけ表情を和らげる。


「顔色が悪い。少し休め」


 それだけ言うとすぐに距離を取る。

 離れたはずなのに、胸の奥に残った鼓動だけが、なかなか静まらなかった。

気まずくて足元をみて立ち止まる。

彼は気にした様子もなかった。


これ以上の迷惑はかけられないと思い、戸口に向かって歩く。ひっそりと高成を盗み見ると、馬の手綱を解きゆっくりと外へ導いていた。


 馬は鼻を鳴らし、重たげに首を振る。長い道のりだったことは、素人のまいにもわかっていた。


漆駒(うるしこま)、よく耐えたな」


 高成はそう呟き、馬の首筋を撫でる。

 手つきは驚くほど静かで、労わるように指先が毛並みに沈んでいった。


そして、鞍に括りつけていた革の水袋を外し、少しずつ口元へ含ませる。

 馬が落ち着くまで、彼は何も言わず、ただ側に立っていた。


 まいはその様子を、戸口からそっと見ていた。


(……あんなふうに、話しかけるんだ)


 怖い人だと思っていた。

 剣を振るう姿も、鋭い視線も、どこか人を寄せつけない雰囲気も。


 けれど今、高成は馬を「道具」ではなく、共にここまで来た存在として扱っている。

 それが、なぜか胸の奥にじんと沁みた。


(この人は……強いだけじゃない)


 そう気づいた瞬間、先ほど感じた恥ずかしさや戸惑いとは違う感情が、静かに芽を出す。

 自分を支えた腕の確かさと、今見ているこの優しさが、不思議と一本の線で繋がっていく。


 まいは視線を逸らし、小さく息を整えた。

 これ以上見ていたら、何か大切なものを、知らずに掬い上げてしまいそうだった。


 


小屋の中は、外よりもひんやりとしていた。

 土壁と低い天井。乾いた藁の匂いに、かすかに獣の気配が混じる。


 使われなくなって久しいのだろう。

 隅には壊れかけの桶と、古い縄。

 床には踏み固められた土の上に、ところどころ藁が残っているだけだった。


 それでも、風は遮られ、視線を防ぐ壁がある。

 それだけで、胸の奥に溜まっていたものが少し下りていく。


 高成は入口を一瞥し、戸を半分だけ閉めた。

 外の気配が完全に断たれないよう、あえて隙間を残す。


「ここで少し休め」


 命令ではなく、淡々とした声音。

 まいは頷き、言われるまま藁の上に腰を下ろした。


 藁は思ったよりも柔らかく、冷えた身体を受け止めてくれる。

 膝を抱えると、外の物音が遠く感じられた。


(……隠れられてる)


 追われている現実は変わらない。

 それでも、この小さな空間だけは、今は安全だと思えた。


 高成は戸の近くに立ち、壁際に背を預ける。

 刀に手が届く位置を保ったまま、視線だけを外へ向けていた。


 守っている、というほど仰々しくはない。

 ただ、ここにいる間は何も起こさせない——

 そんな無言の意思が、空気のようにそこにあった。


 まいはその姿見て、静かに息を整える。

 恐怖が消えたわけではない。

 けれど、怯え続けなくてもいい場所が、今は確かにあった。


しかし、ただ運ばれていた自分よりも、高成の方の疲労が気になった。


「生田様は、休まないのですか?」


高成の視線が、じろりとこちらを見る。

まいは一瞬肩を強張らせた。身の安心はあれど、やはり緊張はするのだ。


「……私はいい」


「でも…っ、その、寒い…ですし……」


ごにょごにょと言葉尻に詰まる。

 それを諦観していた高成は、直垂を外し、外側だけをまいに寄越した。


「早く横になれ」


「だ、大丈夫です、寒いのは慣れてます、それより…生田様のほうが…」


「倒れられる方が迷惑だ」


それ以上の言葉はなかった。


(私が寒くて寝れないって意味じゃなかったのに……!)


 上手く伝わらなかったことがもどかしい。しかしこれ以上ごねれば、そちらの方が迷惑だろう。


 大人しく藁の上に身を横たえる。直垂には微かに残る体温と、鉄と土の匂いがあった。

 安心していいのか分からないまま、それでも身体が先に限界を迎える。


 入口には、高成の影。

 立ったまま、外を見張る気配が消えない。


 ――この人は、敵、なのかな。


 そう思ったところで、まいの意識は沈んだ。


 





 夢を見た。



 月明かりの下、燃え落ちるような光。

 誰かが呼んでいる。


 声は聞こえないのに、胸の奥だけが応える。


 ――戻れ。


 ――忘れるな。


 幼い自分の手。

 血のついた地面。

 そして、こちらを見る影。


 怖いのに、逃げられない。


 (怖い、怖いよ、助けて──)



「……りゅう」


その呟きは、果たして夢の中か現実のものか。




「──────!」


 まいは、己の心臓の音で目を覚ました。


(何……この夢……)


ドキドキと脈打つ心臓はなかなか治まらず、空気は変わらず冷たいのに、まいは冷や汗をかいていた。目にはうっすらと涙が滲む。


 小屋の中は薄く明るくなっている。

 ここに着いた時には日は登りかけていたが、いったいどのくらい眠っていたのだろうか。


 入口を見ると、高成は同じ場所にいた。

 姿勢も、気配も、変わらない。

まいが目覚めた気配を感じたのか、目線だけはこちらを見ていた。


──その手が、僅かに強ばっていることを、まいは気づかない。


「……今、どのくらいですか」


「昼前だ」


 短い答え。


 まいは喉を押さえ、息を整えた。

 夢の内容ははっきりと思い出せないのに、胸の奥に重みだけが残っている。


 (私は何か忘れている……)


──今は。


高成が言っていた、今は思い出さなくていい何かを。


考え込んでいると、高成が動き出した。


ここはまだ目的地ではない。仮初の休息だったことを思い出し、まいも起きて服を整えた。


今の服は南雲で貸し与えられた物だ。

監禁されてたとはいえ、城の物だ。平民のものとは違い生地がしっかりしている。

しかし、服についた汚れと返り血が乾き、バリバリとして不快だった。


 高成は小屋の奥を探り、まとめて置かれていた布包みを引き寄せた。


 中には、派手さもない、実用一点張りの装いが入っていた。高成が準備していたとは思えない、ここの元住人のものだろう。


「これに着替えろ」


「……いいのでしょうか?」


「今の服装では目立つ。……身分を、偽装する」


 そう言って、衣を差し出す。

今は逃亡中。背に腹はかえられないことは理解していた。

まいは頷き、着替えを承諾した。


高成はそれを確認すると、背を向け、自身も装いを解き出した。

まいも慌てて目を逸らし、言われたとおり、地味な色の小袖に着替えはじめる。


上に短い羽織を重ね、前掛けを結ぶ。荷を包んだ風呂敷を抱えると、行商の手伝い娘に見えるはずだった。髪も一つに結び、余計な癖が出ないよう押さえる。


 高成は少し離れたところで身支度を整えている。厚手で色の褪せた上衣に、汚れた短外套。袖口は紐で括られ、無駄がない。深く笠を被ると、顔立ちはほとんど分からなくなった。


 刀も変わっていた。

 派手さのない、皮で巻かれた簡素な鞘。飾りではなく、使うためのものに見える。鋭さは消えないが、武士とは断じきれない姿になっていた。


山を越える行商に雇われた用心棒と、その手伝いの娘。


 そのように見えるよう、それぞれに身なりを整える。


(これで、目立たないよね)


 まいがそっと振り返り見上げると、高成は一瞬だけ視線を向けた。


「それでいい」


 それだけだった。

 余計な評価も、感情もない。けれど、少なくとも高成の目には違和感なく映ったのだろう。

 その事実に、まいは胸の奥でひそかに息をつく。


 小屋を出ると、冬の空気が容赦なく頬を刺した。

 吐く息は白く、冷たさが現実を引き戻す。


 高成は馬の手綱を取り、迷いなく南へ続く道へと向かう。


「行くぞ」


 短い言葉。

 それが合図だった。


 南方の街へ。

 何が待っているのかは分からない。夢の意味も、この先に待つものも、まだ何一つ掴めていなかった。


 それでも、立ち止まる理由はない。


 まいは何も言わず、歩き出す。

 朝の森の中で、二人分の足音が、静かに、確かに重なっていった。



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