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追撃の命

夜明けの鐘が鳴る頃、南雲城の大広間には、まだ冷たい空気が残っていた。

そして、――裏切りの余韻だけが、そこに澱んでいた。



 玉座に座す南雲景綱は、肘掛に指を掛けたまま、じっと前を見据えていた。

 昨夜の混乱はすでに鎮まり、血の匂いも洗い流されたが、城の奥底には、確かな苛立ちが澱のように沈んでいる。


 「……逃がしたか」


 低く吐き出す声に、前へ進み出たのは、須藤忠興であった。


昨夜、高成に斬られた肩は出血こそ多かったが、深手には至らなかった。

すでに止血も済み、多少の不便はあれど、動きに支障はない。


やり場のない怒りをぶつけるように、昨日南雲の中で最も異形を多く切り伏せたのは、忠興だった。

忠興は部下からの報告を、簡潔明瞭に説明する。


 「は。高成は女を連れ、馬を使い城下の森を抜けたものと思われます。東方の川で、痕跡を見つけたとの事。」


 状況だけ見れば溺れ死んだ可能性もあったが、忠興は万が一にもありえないと思っていた。高成は、抜け目のない男だ。――死体を見るまでは、決して死んだとは思えない。生きている。そう、確信があった。


景綱の口元が、わずかに歪む。


 「……見失った、か」


 怒りよりも、どこか愉悦に近い光が、その瞳に宿った。昨日僅かに覗かせた狂気はなりを潜め、今はただ、純粋に狩りを楽しんでいる。そんな様子だった。忠興はそんな主君の様子に、内心安堵していた。


 「忠興」


 「はっ」


 「追え。殺すな。

 ――生け捕りだ」


生け捕り――昨夜とは打って変わった指示だった。

そこに、景綱なりの思惑があることだけは、忠興にも察せられた。


忠興の本心としては、今すぐにでも罪を償わせ殺したい思いではあるが、彼は主君の命に背いたことなどなかった。

景綱こそが、示されるひとつの道だ。それが違うことなど、あってはならない。

忠興は一瞬も迷わず、膝を突いた。


 「御意。必ずや、御前へお連れ致します」


 景綱はゆっくりと立ち上がる。


 「あれほどの力、使わぬ手はあるまい」


 その言葉に、広間の空気が微かに揺れた。





その後。

 忠興に高成追撃の命が下ったと知れ渡ると同時に、若侍たちの間にざわめきが広がった。


 「……高成様が、裏切ったって……本当なのか」

 「信じられん……あの方が」

 「だが、城を出奔したのは事実だ」


高成は、内情を知るもの以外には、これまで南雲随一の忠臣と思われていた。忠興とは違い妄信的ではなく、主に意見はするものの、それらはすべて理にかない、幾度と南雲の危機を救って来た。景綱も、そんな高成を重宝しているように見えていた。


そんな忠臣が、村娘1人を連れて逃げた。

若い侍達を動揺させるのも、無理はなかった。




その輪の外れに、一人の男が立っていた。


 小瀬景久。


 高成と同い年、同じように剣を磨いてきた男。

 若侍の中では数少ない実力者であり、

 そして――高成に、臆することなく声を掛けてきた存在。


 小瀬は、誰とも視線を合わせず、黙って話を聞いていた。


 (……やはり、か)


 胸の奥で、静かに言葉を転がす。


 高成の違和感。

 人より一歩引いた距離。

 どこか“城に根を下ろしていない”ような気配。


 ずっと前から感じていたものが、

 ようやく形になっただけだ。


 (とうとう、この時が来たか)


 だが、それが敵意なのか、覚悟なのか、

 自分でも判別がつかない。


そんな折、会合を終えたのか、忠興が中庭を通過するのが見えた。

几帳面な男で、普段から片眉を釣り上げたような顔をしているが、今日はその凄みが余計に増している。


(あー、おっかねぇ。)


小瀬は、忠興という男が苦手だった。


須藤忠興は譜代の出で、与力頭を務める南雲の重臣だ。家老ではないが、軍事と城内の実務を一手に担い、景綱の右腕と目される存在である。


景綱に妄信的で融通が聞かない。

同世代であるが、家柄も人柄も、小瀬にとっては絡みづらい人物だった。


(……やるしか、ないよな)


それが、誰のためなのか。

小瀬自身にも、まだ分からなかった。


 小瀬は時忠の前へ進み出た。


「須藤様。追撃には、俺も同行します」


 忠興は一瞬、小瀬を見た。


 冷静な視線。

 値踏みするような、しかし拒絶ではない目。


 「……高成の友だな」


 「友、というほどでは」


 小瀬は曖昧に笑った。

友と認識されていた等と知れば、あの仏頂面が不快げに歪むのは、想像に容易かった。


小瀬は頭を捻り、最もらしい文言を思いつく。


 「ただ、腕と癖は知っています。

 追うなら、役に立つかと」


 時忠は数秒考え、短く頷いた。

小瀬の目的を測りかねているのだろう。だが、高成を追うとなれば、少しでも使える駒は多いに越したことはない。幸い自分は要職についてるわけでもなく、自由な身だ。断る理由はないだろうという勝算があった。


 「よかろう。

 だが覚えておけ。今回の相手は“裏切り者”だ」


 「……承知しています」


 その返事に、感情は滲ませなかった。





 馬が引かれ、武装が整えられる。


 時忠は無駄のない動きで鞍に跨がり、部下たちを見渡した。


 「目標は高成と、女。

 女は傷つけるな。

 高成は……生きて捕えろ」


 命令が下る。


 小瀬は最後に馬へ乗りながら、ふと城を振り返った。


 (高成……)


 逃げた理由も、連れ去った女の意味も、

 小瀬は何ひとつ知らない。


 ただ一つ確かなのは――

 あの男は、軽い気持ちで刃を翻す人間ではない、ということ。


 「……お前は、何を選んだんだ」


 呟きは、誰にも届かない。


 やがて追撃隊は城門を抜け、

 朝霧の中へと消えていった。


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