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記憶の面影

落ちる、と思った瞬間、声も出なかった。


 視界がひっくり返り、夜気が一気に肺へ流れ込む。足元が消え、身体が宙に放り出される感覚。叫ぼうとして、喉が凍りついた。

どこに掴まればいいのか分からず、空中で高成と離れそうになる。


「──────っ!」


 目を瞑り衝撃に備えたが、固い腕に強く抱き寄せられる。

骨が軋むほどの力。胸に押しつけられ、視界を覆う衣の匂い。

 はっとして彼を見る前に衝撃が来た。


 ――どん、と重たい音。


 地面に叩きつけられたはずなのに、痛みはなかった。

 衝撃はすべて、彼の身体が受け止めていた。


「……っ」


 低く息を吐く音が耳元で弾ける。

 その温度が、まだ生きているのだと教えてくれた。


「目を閉じろ」


 短く、命じるような声。


 言われた通り、ぎゅっと目を閉じた瞬間、再び身体が浮いた。

 高成はまいを抱えたまま、迷いなく走り出していた。


 闇が流れる。

 背後で、城の喧騒と炎の爆ぜる音が遠ざかっていく。


 足が地を蹴るたび、彼の心臓が早鐘のように伝わってくる。

 それでも、その腕は揺るがない。


 ――怖い。

 ――でも、落ちない。


 その確信だけが、私の意識を繋ぎ止めていた。


 やがて、風を切る音が変わった。


 鼻先をかすめるのは、土と草の匂い。

 城壁の影を抜けた先、闇に沈む城下の外れ。


「……いた」


 高成の声が、わずかに緩む。


苔むした石垣の影に繋がれていた黒鹿毛の馬が、高成の気配にいななきを上げる。

鋭い瞳、筋肉の張った見事な馬だ。


 「漆駒うるしごま、行くぞ」


 馬は高成の声に従うように首を振り低く嘶く。地を蹴ったその脚は強い。主人の期待に応えてみせる、そんな自信すら感じる。



 彼は私を下ろすことなく、片手で手綱を掴み、軽々と鞍へ飛び乗った。

 私はその前に抱えられ、否応なく彼の胸に押しつけられる。


支えるように腕が回される。背中に、人の体温。


漆駒が踏み出した瞬間、身体が揺れ、思わず息を呑んだ。だが、落ちない。


「掴まれ」


 言われる前から、まいは高成の衣を握りしめていた。この手を離せば、生きられないことを、理解していた。


 高成が手綱を強く引く。

馬は弾かれた矢のように闇へと飛び出した。


 地面が流れ、夜が裂ける。

 城下町の灯りが滲み、背後で怒号が上がった。


「いたぞ!」


 蹄の音が重なり、複数の追手が向かってくる。


 「いたぞ! 馬で逃げる気だ、囲め!」


 「遠巻きにしろ! 生け捕れとの命だ、矢は放つな!」


背筋が凍る。


 だが、高成は振り返らない。

 速度を落とすこともなく、むしろ馬腹を蹴った。


 風が、頬を切る。

 涙が勝手に溢れ、視界が滲む。


 城下の道を外れ、闇の濃い方へ。


「森に入る」


 それだけ告げて、彼は進路を変えた。


 枝が顔を掠め、葉擦れの音が一斉に立つ。

 月明かりは遮られ、視界は急に暗くなった。


 後ろで、追手の怒声が乱れる。


 道を失い、馬を操りきれず、蹄が乱れる音。

 高成の愛馬は、迷わない。


漆駒が急斜面を駆け降り、枝がまいの頬をかすめる。


 高成は馬の速度を緩めず、ただ森の奥へ奥へと進んでいった。

 木々の隙間を縫い、ぬかるみを避け、闇そのもののように走る。


 まいはただ、高成の腕にしがみついていた。


 問いも、恐怖も、裏切りの意味も――

 すべて、今は言葉にならない。


 ただ、この腕が離れないこと。

 この背中が、自分を前へ運び続けていること。

 それだけが、確かだった。

森の奥で、追手の音が次第に遠ざかる。


まいを、不思議な感覚が襲った。


 高成の着物越しに届く体温。

 微かに香る木々と、焚いた香のような匂い。


 ──この匂い……。


 なぜか胸の奥が痛むほど懐かしい。

 思い出せない、けれど確かに知っている。

 そんな矛盾した感覚が、まいの意識の奥を掻き乱した。


 目を閉じた瞬間──

 暗闇の中に光が裂けるように、記憶の断片が浮かんだ。


 燃える森。

 空を覆う煙。

 悲鳴と怒号。

 そして、腕。

 誰かの大きな腕に抱えられ、まいは走っていた。


 その腕は、恐怖の中で唯一の庇護だった。

 温かくて、力強くて、胸元から聞こえる鼓動が、確かに安心を与えてくれた。


 ──あのときの匂いも、

 ──この匂いだった。


 「……どうして……」


 まいは高成の腕を確かめるように強く握り、かすれた声を漏らした。


 「どうして、私を助けるんですか……?」


 問いは震えていた。

 恐怖と、見えない何かへの期待と、疑念と……全部が入り混じった声だった。


 高成はすぐに答えなかった。


  闇は濃く、木々が頭上で風を切り裂き、馬の蹄が乾いた土を削る音だけが響く。



 「生田様……!」


 叫ぶと、高成の腕に力がこもった。


 「今は答えられない」


 その声は冷静で、しかし、かすかな迷いが混ざっていた。


 「まずは追っ手を振り切る。話はそれからだ」


 高成はまいを守るように身体を僅かに傾け、馬を深い森の影へ誘った。


 「しがみつけ。落ちれば死ぬぞ」


 「……はい」


 返事は震えた。

 けれど、心の奥底では別の震えがあった。


 この腕の温かさを、私は知っている。

 いつ……どこで……?





──────




 どれほど馬を走らせただろうか。

 闇は濃く、木々は絡みつくように道を塞ぎ、風の音すら飲み込んでいた。


 やがて、高成は馬の速度をわずかに緩め、深い竹林の陰で手綱を引いた。


 「ここで少し息を整える。……長くは止まれん」


 まいは鞍から降りると、膝が砕けそうになった。

 足が震えて立っていられない。

 高成が支えようと手を伸ばすが、まいは思わず身を引いた。


 その動きの意味を、高成は黙って受け止めた。


 息が荒い。胸が痛い。

 まるでまだ逃げ続けている夢の中にいるようだった。


 しばらくして、ようやくまいは言葉を搾り出した。


 「……どうして……助けるのですか……?」


 震える声は夜気に溶けて消えそうだった。


 「私を攫っておいて……城に閉じ込めて……景綱様に差し出して……。

今度は助けるなんて……。意味が……わかりません……」


 高成は竹林の向こうをじっと見据えたまま、まいの方を見ない。


 やがて、ゆっくりと言葉を落とす。


 「すべては……目的のためだ」


 まいの胸が締めつけられる。

 期待した自分が愚かだったと、そう言われたような痛み。


 「目的……? それは……私を利用するため、という意味ですか……?」


 返答はない。

 高成の横顔には光がなく、何を思っているのかわからない。


 それでもまいは、もう一度しがみつくように問いかけた。


 「……私は……どうなるのですか……。

 南雲家を裏切って……こんなことまでして……あなたは……」


 その瞬間──


 高成の表情がわずかに動いた。

 痛んだような、迷ったような……一瞬で消えた陰り。


 「ここでは話せん」


 吐き出すような声だった。


 「……追手だ」


 次の瞬間、風が揺れた。

 竹葉がわずかに震え、土の上を誰かが踏みしめる気配が走る。


 遠く、複数の人間の息遣い。

 鉄の擦れる音。

 そして“声”。


 「いたかもしれんぞ! 周囲を広く捜せ!」


 まいの心臓が跳ね上がった。


 高成は迷いなくまいの腕を掴む。


 「乗れ」


 「で、でも……っ」


 「死にたいのか」


 きっぱりした声に、身体が動いた。

 高成はまいを抱え上げ、軽々と鞍へと戻す。


 漆駒は、主の緊張を感じ取ったのか蹄で地を鳴らし、方向転換する。


 「南雲領を抜ける。ここに留まれば挟み撃ちになる」


 「ぬ、抜けるって……そんな、遠くまで……!」


 「行くしかない」


 その声は冷たく鋭いが、どこか焦りを押し殺しているようにも聞こえた。


 漆駒が地を蹴る。


 闇を裂き、森の奥へ奥へ。

 追手の松明が交差し、怒号が近づき、また遠ざかる。


 まいは高成の腕にしがみつきながら、震える唇を噛んだ。


 知らない土地へ、知らない目的へ。

 救いなのか、さらなる地獄の始まりなのか。


 ただひとつ確かなのは──


 高成の腕の温かさだけが、今落ちてしまえば死ぬ闇の中で、唯一の現実だということ。


 高成の衣の匂いが、また胸を疼かせる。


 ──どうして……。

 ──どうして、懐かしいの……?


 馬の蹄が闇を切り裂き、二人は南雲領外へと逃れようとしていた。


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