7.幕間 寝巻奇譚(全世界品行方正)
ドスン、大きな振動が寝ている私を襲った。けたたましい警告音が響いているが、それが何の危険に対するものかは教えてはくれない。これでは大人しく二度寝することさえままならない。
目尻をぐるぐると指で回してほぐす。寝起きの時には目が鋭くなるを気にしてしまうので。
窓を開けて外を確認する。既にしらけていた空は事の重大性を私に知らしめた。外に出ると細い肩紐のトップスにタオル生地のショートパンツをはいた寝巻き姿の少女が一人立っていた。
「愛」
不安そうな顔をしているが、私を見つけホッとした表情に変わる。
私は寝起きでまだ目が鋭いままだったのだろう。彼女がそんな私に気づく。朝に目が鋭くなるのは、もっと寝ていたいのにもかかわらず朝がやってくる世界を恨んでいるからなのだろうか。
「今起きたの?」
少しあきれた顔になって聞いてきた彼女は十森朱里である。私が起きる前から大きな揺れが何回もあったらしい。
「いやいや、外が明るくなる頃を見越してさ」
「怖かったの。早く会いたかったのに」
返す言葉もなかった。
先ほどあった揺れの影響だろうか、道路上にはアスファルトを突き破り大きな穴が開いていた。日常的の風景の中にポカリと空いた非日常的の穴はそこはかとない恐怖感と何が起きるかわからない期待感を与えてくれる。
朱里が外に出たときには穴が開いていなかったという。私の感じた最後の大きな振動で一気に崩れ落ちたそうだ。
顔を出して穴の中をのぞいてみるが、先は暗くどこまでも続いているように感じる。
「おーい、でてこーい」
私が穴に向けて発した言葉は反響し暗闇の底に消えてゆく。何故だかどこまでもどこまでも際限なく落ちていくような気がする。
「どうする?」
朱里が私に行動の選択権をゆだねる。
「降りてみる?」
朱里はゆっくりと首を縦に振った。その後、朱里はいきなり私の手を握った。驚いている私をほっといて朱里が言った。
「じゃあ、せーので飛び降りるよ」
「恐れ知らずか!」
「怖いよ。だから手をつないだんじゃん」
「逆に危ないでしょ」
「一緒なら大丈夫なのに」
根拠のない理論をぶつけてくる。世界きっと大丈夫なはず研究所調べの理論なのかもしれない。
穴の中はどうなっているかはわからないのだ。私はロープを取り出し、重しをつけて穴に投げ入れて
みる。しばらくの後、ポスッという音が反響しながら届き、ロープがたわんだ。どうやら底はあるらしい。
持っていた側のロープを近くの街灯の柱にもやい結びという結び方でくくりつける。
「あれ?」
たぶんこんな結び方だったはずだ。
「なに? その結び方?」
見ていた朱里が問いかけてきた。
「重いものをぶら下げるときに使う結び方なんだよ」
これからぶら下がる自分のことを重いと言ってしまったが、人間が総じて重いのだからしかたがない。結び終え穴に降りてみる。
「ぐへっ!」
うろ覚えで結んだもやい結びは間違っていたようで、途中でほどけてしまったらしい。落ちている、まずい、死、と次々に頭の中によぎるも、すぐにお尻が地面とぶつかった。幸いにもそんなに穴は深くなく怪我もなかった。
しかし、降りてみるとただただ穴だった。両手を広げるとぶつかるぐらいの大きさである。
「大丈夫?」
上から心配する朱里の声が聞こえる。
私の「大丈夫」の返事を聞くと紐を結び直したのだろう、朱里も穴に降りてきた。
「ちょ、ちょ、ちょ。狭いでしょ」
穴の中に二人もはいると身動きが取れないくらいぎゅうぎゅうである。
「でも、なんだか落ち着く」
落ち着かないでもらいたい。体が壁面の土に押し付けられている。なんか、地下水が湧いているようで服が濡れている。
「一回上がってよ」
「でも、お母さんのお腹の中ってこんな感じなのかな」
「双子でぎゅうぎゅうだったならそうなのかもね」
その後、何ラリーかの会話をして、朱里は渋々といった感じで穴から出てくれた。
暗さに目が慣れてくると周りが見え始めた。しかし見つけたものは、底の方に横に小さい穴が延びているのと先ほどずっと服を濡らしていた水が湧いていることを再確認したぐらいだった。
小さな穴に手を突っ込んでみるが、手応えは何もなかった。どこまでも続いていそうで気になるが、小さくでもならない限り通れそうにない。
壁面に手を当てて、地下水をためる。それを口に持って行く少し啜る。「なんか、この湧き水おいしいよ」と上にいる朱里に向かって言ったら、「ミネラルかなんかでしょ」と適当に返された。
「そんなもん、飲まないほうがいいよ」
「湧水だよ。美味しいイメージじゃん」
「出されたものをホイホイと飲む大人にはなってはいけません。そんなことしてもいい事ないんだから」
朱里が慌てて穴の上に顔を出し、叫ぶ。
「パトカーが来た。上がってきて」
街角に空いた穴にいるのは何の罪、になるのかわからないが、面倒ごとはごめんだ。
急いで上がると、立ち往生している車の群れの奥にパトカーのパトランプが見えた。そこから、二人の警察官がこちらへ向かってきている。
ロープを回収しようとすると街灯に二重固結びで縛られており、簡単には回収できない。結び目をナイフで切り回収し、その場を後にした。
「地下世界に繋がっているかと期待したけどなー」
私がため息交じりにそう言うと、朱里が反応した。
「いや、警察に地下牢獄に連れて行かれるところだったでしょ」
「警察はそこまで非人道的ではないよ」
「窓も扉も無い地下牢獄だよ」
ふとあることを思い出して口にする。
「地下世界と言えば……」
「地下世界と言えば?」
朱里はすぐに聞き返す。しゃべっている途中なのに。
「地下世界と言えばあの山の山頂付近に地下世界に通じる道があるって聞いたことがあって、行ってみる?」
私は朝日を受けて赤くなっている一番大きな山を示した。
「うん」
目的地が決まれば行動あるのみだ。電車を乗れば麓までは行けるはず。
「ほら、電車に乗らないと」
私は朱里を急かしてそう言った。
電車の車両には私達しかいない。私は悠々と席に着くが、朱里はくっついて隣に座った。
「危うく警察にお世話になるところだったよ。品行方正、聖人君主をモットーにやってきたのに」
「私だって無病息災をモットーにしてきたのに警察に捕まるところだったんだよ。それに愛は品行方正と言うより天真爛漫でしょ」
本当に自分のことを品行方正だとは思ってはいなかったが、人から天真爛漫と評されるのも釈然としない。そんな私の心中を察して、「天使みたいでかわいいって意味だよ」とよくわからないフォローを入れる。
「ンランマン」に「みたいでかわいいって」と言う意味があったみたいだ。
「でも、四ヶ月前のあの時は品行方正だったかな」
「あぁ、あの時ね。あの、世界中の人が品行方正になった時ね」
あの時とはいつか。なぜ一定の期間に世界中の多くの人が真夜中の誰もいない赤信号を律儀に守ったり、早寝早起きをしたり、自転車での危険なすり抜けをしなくなったり、暴飲暴食を控えたり、思い思いのいい子で過ごしていたのかというと。
ARertグラスが普及してから犯罪数は大きく低下した。犯罪被害者のARertグラスに搭載されているカメラが犯罪の一部始終を記録していて、大きな証拠になることが抑止力になっている。
また、重大事件に関しては容疑者のARertグラスの映像、GPS等のデータがARert社から警察に提供され、目撃した可能性のある人にもメッセージが送られるなどの取り組みから検挙率が高くなった事で犯罪に手を染める人も極めて少なくなった。
しかし、それだけでは世界中の人を品行方正にすることはできない。被害者の出ていないような軽微な違反ではARert社は関与しないし、健康状態を把握してアラートを出すことはあっても強制はできない。
そんなARertグラスが新機種の発表をした。前回のARertグラス新機種発売の初日には買い求める人が全世界全ての店舗に殺到した。十日前から座り込む人も出るなど多くの人が集まって押し合いへし合いの結果、怪我人も出てしまったほどであった。
そこでARert社は大枚を叩いて全世界一千万人新機種プレゼントキャンペーンをおこなった。世界中の約千人に一人が当選する前代未聞のキャンペーンだった。
その落選の発表が新機種の発売日が過ぎてから十回くらいに分けて順次行われていき、残った一千万人が新機種をプレゼントされることになっていた。
これによって、当たるかもしれないと思った人は発売日当日に買い求めることがなく、人が分散され無事に発売日を殺到することはなかったという。
無事に発売するだけなら他にやりようはいくらでもあっただろうが、この豪快さがARertに引き込まれる魅力の一つなのだろう。
そして、キャンペーン発表の時に広告で『いい子に待っていて』と言うフレーズが使われ、店に殺到しないでねと言う意味ではあったが、ARertグラスで監視して素行が悪い人には当たらないようにするのではないかと噂が立ち、当選発表までの期間にみんなが真面目に生きることになったのだ。
山は近づきすぎると綺麗には見えない。稜線と見上げる角度が重なるからだ。適度な距離が必要なのだと思う。しかし、これからその山を登らなくてはいけない。私が言い出したことなのだが。現実世界で登るよりはましなのでいいことにしておこう。
「この服のまま登るの?」
朱里は裾を掴み両手を広げ、下を向き自分の服を見ている。朱里の格好は起きたときと同じ格好にモコモコのパーカーを羽織った姿。私もサテン生地の上下が一体化した洋服。半袖半ズボンでおなかのところを紐で結んでくびらせている。まあ、要するに寝巻きである。
「でも、アイテムBOXの中に着替えが入ってないから、どこかから調達してこなきゃだけども。まあ、設定で装備による外的影響がOFFになっているから、最悪は問題ないけどね」
「かわいいからいいけど」
結論としてまともな服はどこかで調達できたら調達しようということとなった。こうして、寝巻きで山に登る奇天烈な所業が始まった。
くっ、つらい。なぜ山を登るのか、そこに山があるならトンネルを掘ればいい。そんなことを朱里に話す。
「でも今回は、山を登るのが目的だからね」
たしなめられてしまった。でも、登ればいいだけなら方法は他にもあるだろう。
「せめて、山の急坂が全部階段で登れるようになればいいのに。まだ楽だよ」
「それじゃあ、風情がないよ」
「欲を言えば、エスカレータがいいけど」
「もっと風情がないよ」
「降りるときは長い滑り台がいい。絶対楽しいよ」
「それは楽しいかも」
最後だけ朱里が同意してくれた。
「ここかな?」
山肌にポカリと空いた穴は未知へ続く道のような気がする。
「とりあえず、入ってみる」
私が提案すると朱里は頷いた。
穴も斜めに延びていて、降りて行くにも支えが必要だろう。杭を地面に打ち付け、ロープをくくりつける。そして、穴の中に投げ込んだロープを伝って降りていく。
進んでいくと看板を見つけた。看板には「←こちら地下世界」と書いてある。怪しさ満点だが、このVRの世界ならさほど不思議ではない。
そして、一抹の不安が消え去り、間違っていなかったと確信を持って足を進めることができる。