第八話 悪役令嬢、青薔薇の騎士と出会う
冷たい風が吹き抜ける早朝の訓練場。まだ陽も昇り切らぬ薄明のなか、剣戟の音が鋭く響いていた。
マーガレット・クレアは、身にまとうドレスを戦闘用の乗馬服に替え、一本の細身の剣を握っていた。対峙するのは、王立騎士団直属の訓練士官。男の剣筋は素早く鋭いが、マーガレットの動きも負けていなかった。
剣と剣が交わり、火花を散らす。だが彼女の額に汗はなかった。
(もっと速く。もっと強く。私はこの手で、理不尽を断ち切らなければならない)
最後の一撃を決めたとき、士官は剣を落とし、肩で息をした。
「……見事です、クレア嬢。これほどまでに鍛錬されていたとは」
「鍛える理由があるからよ」
剣を収めたマーガレットの瞳には、一点の曇りもなかった。彼女は武器を手にすることを恐れない。権力だけでは守れないものがあると知っていたからだ。
「次は、魔法訓練場を借ります」
「はっ、手配いたします!」
士官が走り去ると、訓練場の隅にいた一人の青年が歩み出た。
「随分と精悍な剣筋だな。まさか公爵令嬢がこれほどの腕とは」
マーガレットが振り返ると、そこには深い群青の軍装に身を包んだ騎士が立っていた。肩にかけられたマントには、一輪の青い薔薇の刺繍。王国に七人しかいない〈青薔薇騎士〉の証である。
「あなたは……」
「アレクシス・フォン・ラングレー。第二騎士団の副団長にして、王太子殿下直属の剣だ」
その名に、マーガレットの眉がぴくりと動く。
(……ゲームの本編には登場しなかった“裏キャラ”。確か、原作の設定資料にだけ記されていた……王家の諜報部門とも繋がる、孤高の騎士)
目の前の男は、ゲームのメインルートにはほとんど現れない。だが、政治や軍事改革の裏で重要な動きを担っていた“裏の英雄”だった。
「王太子殿下から、君の護衛を命じられた。特に貴族たちの反発が強まる今、命の保証はできないからな」
「……まさか、そこまで状況が差し迫っているのですか?」
「侯爵派の一部が、君の失脚を画策している。噂では、スキャンダルや暗殺まで。殿下が動いたのは、それだけ君の存在が“影響力”を持ち始めた証拠だ」
マーガレットは静かに頷いた。
「覚悟はしています。けれど、私は引きません。青薔薇の騎士様、あなたに命を預けても構わないかしら?」
アレクシスは薄く笑うと、無言で片膝をつき、剣を突き立てて宣言した。
「この命をもって、貴女を守り抜く。それが王命であり、私の誓いだ」
数日後。
マーガレットは王城で開かれる〈貴族評議会〉に出席するため、青薔薇騎士に護られながら正門をくぐった。評議会とは、貴族によって構成される非公式の政治会議であり、王国の政策や社会制度のあり方が論じられる場だ。
本来、未婚の令嬢が出席することは極めて稀。しかし、マーガレットは特例としてその発言権を与えられていた。王太子レオンハルトの指示である。
「クレア令嬢、あなたの席はこちらです」
案内されたのは、中央に近い最前列。周囲には侯爵や伯爵、枢密院に連なる実力者たちが並んでいる。
「……この視線の圧力、懐かしいわね。まるで官僚時代の国会答弁みたい」
そう心中で苦笑しながら、マーガレットは姿勢を正した。
議題は三つ——奴隷制度の段階的廃止、貴族と平民の教育格差是正、そして、王立魔法学院の一般開放。
どれも“既得権”を揺るがす内容であり、反発は必至だった。
「王立魔法学院を、平民に? 冗談も休み休み言っていただきたい!」
真っ先に声を上げたのは、古参の伯爵リオネル。教育の門戸開放は、彼の影響力の根幹を揺るがす。
「平民が魔法を学んだらどうなるか……秩序が崩れますぞ!」
「秩序とは、“誰かの支配”で成り立ってはならないのです」
マーガレットが立ち上がり、言葉を放つ。
「優れた知と技を持つ者が正当に評価され、力を貸し合える社会。私が目指すのは、それです」
「理想論に過ぎる!」
議場にどよめきが広がる。
だがその瞬間、扉が開き、レオンハルト王太子が静かに現れた。
「理想を語る者がいなければ、現実は変わらない」
彼の言葉は、議場を静める冷たい風のようだった。
「諸君。クレア嬢の提言は、王家の意志として支持する。我が国は、変革の時代にある」
重く、確かな宣言。
その背後には、アレクシス・ラングレーが沈黙のまま立ち、マーガレットに短く頷いていた。
評議会の後、城の庭園で一息ついたマーガレットに、アレクシスが近づいた。
「よく戦ったな。言葉で世界を変えようとする者は、剣を握る者よりも困難を背負う」
「ええ。でも私は、言葉も剣も使って、この国を変えてみせる」
そう答えた彼女に、アレクシスは不意に尋ねた。
「……なぜ、そこまでして改革を?」
問いに、マーガレットは一瞬目を伏せ、そして遠くを見つめて答えた。
「私には、見えてしまったの。未来の、この国の行く末が」
アレクシスの瞳が鋭く細められる。
「君は何者だ?」
「悪役令嬢よ。そして——未来から来た、“改革官僚”でもあるわ」
数秒の沈黙のあと、アレクシスは初めて小さく笑った。
「……ならば、君に賭けてみるのも悪くない」
「青薔薇の騎士が味方なら、百人力ね」
そのとき、空に一羽の鷹が飛来し、アレクシスの腕に止まった。脚に結ばれた封筒には、黒い封蝋——王宮の極秘命令だ。
彼はそれを一読すると、マーガレットに向き直った。
「緊急だ。南部辺境で、奴隷商人の反乱の兆しがある。王命により、君を随行させる。実地視察だ」
「ようやく現場に出られるのね。なら、準備を始めるわ」
それは、マーガレットにとって初めての“現地派遣”であり、この国の深層を知る旅路の始まりでもあった。
(行くわ、どこまでも。たとえ“悪役”と呼ばれても)
青薔薇の騎士とともに歩むその道が、彼女をさらに強くすると、まだ誰も知らなかった。