第五話 悪役令嬢、奴隷少年をひろう
馬車を止めさせた瞬間、マーガレットの視線は屋敷の裏手にある小さな物置小屋に吸い寄せられた。赤錆びた鍵がかけられた木戸。敷地の中で唯一、人の手が及んでいないようなその空間に、彼女の勘が働いていた。
「クレア様、どうかされましたか?」
後ろから控えていた従者セシルが尋ねる。マーガレットは一瞬逡巡したが、ためらいを振り切って指を差した。
「――あの中。誰かが閉じ込められてるわ」
セシルの顔に驚きと戸惑いが浮かぶ。だがマーガレットは迷わず、小屋の扉へと足を向けた。
「クレア様、危険かもしれません。ご自分で行かれるのは……」
「私が行かなくて誰が行くの? “あの時”と同じ轍は踏まないわ」
“あの時”――それは斉藤杏奈として働いていた官僚時代、ひとりの少女を救えなかった過去のことだった。形だけの視察、帳簿上の整合性。それに騙されて、現場の悲惨な実態を見逃した自分。だから今度こそ。
錆びた扉に手をかけ、魔力を帯びた指先で鍵を破壊する。静かな爆ぜる音とともに、閂が外れた。中から漂ってきたのは、湿った藁と血と――鉄臭い絶望のにおい。
扉を開けたその瞬間、光に目を細めるように、影の奥から一人の少年が身を起こした。
「誰……だ……?」
かすれた声。青白い肌、瘦せこけた頬、血に汚れた布きれのような服。年の頃は12、3歳ほどか。金属の首輪がその身に嵌められている。
「……あなたの名は?」
マーガレットは優しく問いかける。少年は虚ろな目でマーガレットを見つめた。
「名前なんて、ない……番号で呼ばれてた」
「……!」
マーガレットは拳を握りしめた。これが、この国の貴族が平然とやっていること。見えないところに押し込め、名前も与えず、物のように扱う。
「じゃあ、これからは“アラン”よ」
「……え?」
「あなたの名前はアラン。今からあなたは、私の保護下にある。クレア公爵家令嬢、マーガレット・クレアの名において、正式に保護を宣言するわ」
その言葉に、少年――アランはしばらく瞬きを繰り返したのち、涙を流した。声にならない嗚咽が、小屋の中に響いた。
数時間後、屋敷に戻ったマーガレットは、医師と洗濯婦、料理人を呼び出してアランの世話を指示した。
だが、屋敷の中は騒然としていた。
「クレア様、あの子は“商品”です。お父上がお戻りになれば……」
「うるさい!」
いつも温厚なマーガレットの怒号に、使用人たちが一斉に黙り込む。
「人間を商品と呼ぶな。私が命じたの。今後あの子は、クレア家の一員として保護する。誰も逆らわないで」
威厳を込めて言い放つと、使用人たちはすぐに頭を下げた。変わったのだ。あの気弱で我が儘だった令嬢は、もういない。
そしてその夜、マーガレットはアランの部屋を訪れた。彼はきれいに洗われ、傷には薬が塗られていたが、その眼はまだどこか不安定だった。
「私を……どうするつもり?」
「守るつもりよ。私には……あなたが必要なの」
「必要?」
「ええ。私は、変えたいの。この国を。人が人として扱われない社会を、終わらせたい。あなたも、力を貸してほしい」
アランは不安げなまま、黙りこんだ。
「私には記憶があるの。前の世界のこと。官僚として働いてた、もう一人の私の人生。あの世界でも、格差はあった。けど――少なくとも、名前がない子どもはいなかった。生きているだけで価値があるって、誰もが知っていた」
その告白は唐突だった。しかし、言葉には真実の力があった。
アランはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。
「……じゃあ、僕に剣を教えて」
「え?」
「剣を。誰にも負けない力がほしい。もう、奪われないように」
その願いは、涙に濡れた決意だった。マーガレットは頷いた。
「わかった。教えるわ。剣も、知識も、礼儀も。あなたは、誰よりも自由になれる力を手に入れる」
彼の小さな手を握る。手はまだ震えていた。けれど、その手には確かに命が、意志が宿っていた。
「誓うわ、アラン。これは“契約”よ。あなたはもう、奴隷なんかじゃない。これからは、私の大切な仲間よ」
その夜、アランは生まれて初めて、自分の意思で眠りについた。
その頃――
帝都ローレルの王宮では、ひとつの報告書が王太子の元へ届けられていた。
「クレア家の令嬢が、奴隷の少年を保護した……?」
報告を受けたのは、アルフォンス・ルクセンブルク王太子。金色の髪と鋭い瞳を持つ彼は、報告書の内容をじっと見つめた。
「この令嬢……また面白い動きを見せたな。婚約破棄を回避したと思えば、今度は奴隷制度に手を突っ込むとは」
「殿下、これは放置してもよろしいので?」
側近が問いかける。アルフォンスは静かに笑った。
「放置? いや、監視だ。……あの女、ただの悪役令嬢では済まないかもしれん」
そして、彼はつぶやく。
「マーガレット・クレア――お前は、この国の運命を狂わせる“鍵”かもしれんな」