第三十九話 悪役令嬢、王太子の影を追う
春風が吹き抜ける学園の庭園。演習から数日が経ったにもかかわらず、王立アストリア学園の空気にはまだ、剣戟の音の残響が漂っていた。
騎士科と貴族科の合同演習での“異常な作戦漏洩”と、奇妙な敵の動き。それらの余韻を、マーガレット・クレアは一人、胸の奥に抱えていた。
「……やはり、あれは偶然じゃなかったわ」
図書室の奥の書見室。革張りの椅子に腰をかけ、報告書を読みながら呟くマーガレットの瞳は冷静で鋭い。かつて官僚として国政に携わっていた彼女の直感が告げていた。――演習中の情報漏洩は、内部からのものだ。しかも、学園の上層部に近い人物が関与している。
報告書の一枚をめくったそのとき、ノックの音が響いた。
「マーガレット様。王太子殿下がお見えです」
扉の外から聞こえたのは、侍女の控えめな声。
マーガレットは驚きつつも微笑を浮かべた。
「お通しして」
扉が開かれ、現れたのは、氷のような銀髪を持つ美貌の青年――王太子レオンハルト・フォン・アストリアであった。整った軍服姿の彼は、普段と変わらぬ冷静な表情を保っていたが、どこか緊張の色が滲んでいた。
「マーガレット。演習以来、君とはきちんと話していなかったな」
「殿下もお忙しいご様子でしたから」
微笑みつつも、マーガレットの瞳は王太子の内面を見抜こうとしていた。
彼が現れたということは、何か重大な“動き”が始まろうとしている――そう直感していた。
レオンハルトは黙って一冊の封筒を机に置いた。
「君にしか渡せないものだ」
マーガレットは丁寧に封を切り、中の文書を目を通す。
そこには、王城の機密情報の一部――王立情報局が秘匿していた“秘密結社”の動向が記されていた。しかもその活動拠点の一つに、学園の地下納屋が使われているというのだ。
「……この文書、確かなものなのですね?」
「ああ。父上――陛下の耳にはまだ入れていない。だが私には確信がある。この結社の背後には、学園内の貴族派が絡んでいる」
「学園の貴族派……つまり、反改革派勢力?」
レオンハルトは静かに頷いた。
「彼らは、君が制度改革を提唱し始めてから動き出した。君の周囲に情報が流れているのも、恐らくこの派閥によるものだろう」
マーガレットは静かに椅子から立ち上がり、窓の外の校庭を見やった。
「改革を志せば、当然反発もある……分かっていたこと。でも、これほど組織的とは」
「危険が迫っている。だからこそ、君に先んじて知らせておきたかった」
レオンハルトの声音には、かすかな焦燥が混じっていた。
それを察したマーガレットは、ふと微笑を浮かべて彼を見上げた。
「……心配してくださっているのですね」
王太子は一瞬言葉を詰まらせた。
「……当然だ。君は、同志だからな」
「……それだけ、ですか?」
問いかけた瞬間、沈黙が二人の間に落ちた。
図書室の窓から、春風がふと入り込み、カーテンを揺らす。
レオンハルトは少しだけ視線を逸らし、そして静かに答えた。
「……それ以上の言葉は、今はまだ、口にできない。だが――いずれ、必ず」
マーガレットの頬がわずかに紅く染まる。
彼女はそっと視線を伏せ、ふと笑った。
「ええ、そのときを待っています。殿下ではなく、“あなた”の言葉として」
しばしの沈黙ののち、レオンハルトは一礼して部屋を後にした。
その背を見送ったマーガレットの胸の奥には、静かな決意が芽吹いていた。
――私は、あの人の隣に立てる存在にならなければ。
翌日の夜、マーガレットは一人、学園の裏庭にある古い納屋へと向かっていた。
情報局の報告にあった秘密結社の“出入り”の時間帯を狙っての潜入である。
風は冷たく、月は雲に隠れていた。闇の中、マーガレットは外套に身を包み、足音を立てぬよう慎重に進む。納屋の扉はかすかに開いており、中から微かな灯りが漏れている。
(やはり、誰かいる……)
彼女は息を潜め、扉の隙間から中を覗いた。
そこには三人の影があった。黒いフードを被り、顔は見えない。だが会話の内容は明確だった。
「――次の演習には、“事故”を仕込む。標的は、クレア公爵令嬢」
「王太子の動きが活発になっている。あの女が切り札なのだろう。今のうちに潰す」
「学院評議会の後ろ盾もある。我らが動けば、彼らも黙っていまい」
(やはり、学園の内部と結託して……)
その瞬間、マーガレットの背後に冷たい刃の気配が迫った。
「……聞きすぎだ、お嬢さん」
咄嗟に体を沈めると、頭上で風を裂く音。振り返れば、黒装束の男が一人、短剣を構えていた。
マーガレットは即座に足を払い、男の体勢を崩す。だが、すぐに納屋の中から別の男たちが駆け寄ってくる。
「囲まれた……!」
だがその時、空気を切り裂く声が響いた。
「その手を離せ!」
銀の剣閃が闇を貫き、男の腕から短剣が弾かれる。
「殿下!」
レオンハルトが数名の近衛とともに現れた。彼の登場に驚いた敵は、一斉に逃走を図る。だが、幾人かは捕縛され、現場には多くの証拠が残された。
息を整えるマーガレットに、レオンハルトが手を差し出す。
「怪我は?」
「大丈夫……助かりました」
「言ったはずだ。危険が迫っている、と」
王太子の声には、どこか怒りが混じっていた。自分が間に合わなければ――という恐れが、彼を突き動かしていたのだろう。
マーガレットは静かに微笑んだ。
「でも、“あなた”が来てくれた。それが何より、心強かった」
二人の手が重なる。
やがて夜空から、雲の切れ間から月が覗いた。
その光が、未来の同志たちを優しく照らしていた。




