第ニ話 悪役令嬢、剣を取り魔法に挑む
初めて「魔力」を感じたのは、五歳の誕生日の少し前のことだった。
昼下がりの庭園で、マーガレット・クレアはいつものように剣を振っていた。淡い金糸のような髪が陽光を弾き、幼いながらも正確な踏み込みを見せるその姿は、まるで小さな戦士のようだった。
「……フッ!」
木剣が空を切る音と共に、軽やかな足さばきで踏み込み、見えない敵を斬るように一閃。だがその時、体内からふわりと広がるような温かな感覚が、腹の奥から胸へ、そして指先へと流れた。
(これが……魔力……?)
前世の知識ではどうしても想像できなかった不思議な感覚に、杏奈――マーガレットは思わず木剣を取り落とした。
「マーガレットお嬢様! お怪我はありませんか!」
駆け寄ってきたのは、専属の侍女アリシアだった。クレア家に仕えて十五年、信頼できる年若い女性だ。だがマーガレットはそれに首を横に振り、震える手を見つめた。
(この世界の魔力って、本当に体内から流れるんだ……)
手のひらから漏れたそれは、ほのかに光っていた。薄紫のきらめきは風に溶けるように消えていった。
(やれる。剣術だけじゃない。私には魔法の才もある)
この瞬間、マーガレットは決意する。この世界のすべてを理解し、最強の悪役令嬢になるのだと。いや――むしろ、本物の「強き貴族」として生き直すのだと。
なぜならそれこそが、この世界の未来を変える唯一の道だから。
「お嬢様、また剣術を? それに、今日は魔法の基礎式まで……っ。体を壊してしまいますわ」
アリシアの心配も無理はない。五歳の幼児とは思えない過酷な鍛錬は、時に使用人たちの間で噂になるほどだった。
しかしマーガレットは知っている。この世界の未来において、彼女――「マーガレット・クレア」は、主人公クローツ・ハートと第一王子ウィリアム・フィンの恋路を阻む「悪女」として断罪される運命なのだ。
前世で読み込んだ小説の記憶は鮮明だった。ヒロインであるハートは才気あふれる庶民出身の少女。フィン王子は魔術・剣術において天賦の才を持つ冷徹な王子。そして原作の中で、マーガレットは嫉妬に狂い、陰謀を巡らせ、ついには断頭台の露と消える。
(あの未来には絶対に辿り着かせない)
その決意が、幼い彼女を突き動かしていた。
魔力制御の基礎式を日記に書き留め、呪文語と理論を前世の物理法則と照らし合わせながら理解を深める。剣術も筋肉のつき方や重心移動を、現代のトレーニング理論に則って独自に改良した。
そんな彼女の様子に、少しずつ周囲も変化していった。
まず、屋敷内での使用人たちが彼女を見る目が変わった。厳格だった執事のマルセルでさえ、ある日ぽつりと呟いたのだ。
「まるで……公爵様の若き頃のようでございますな」
両親――特に母・ベアトリス公爵夫人は、娘の非凡さに目を細めるようになっていた。
「この子は、我が家の誇りになるわ。完璧な令嬢として、どこへ出しても恥ずかしくないように育てましょう」
(ありがたいけど、方向性がちょっと違うんだよなあ……)
だがその教育方針も利用できるものは利用する。マナー、言語、舞踏、音楽――貴族として必要な嗜みすら彼女にとっては「武器」だった。
そして政治的な学びも、両親の背中を見て吸収していった。
クレア公爵家は、国政の中枢に多大な影響力を持つ。父・エドワード公爵は財務に、母・ベアトリス公爵夫人は外交に明るく、時に国王の信任を受ける立場でもあった。
食事中の何気ない会話も、マーガレットにとっては学びの場だった。
「隣国との関税交渉が難航しているの。特にラグナス港の交易税を引き上げたのは、彼らにとって想定外だったようで」
「そもそもあちらが協定を一方的に破棄したからだ。今回はこちらの強気姿勢が正しい。だが将来的には妥協点を見出さねばな」
(税率の見直しと外交の妥協点。これは現代でもあった事例に似てる……)
マーガレットは食事のたび、頭の中で前世の知識と照らし合わせながら思考を巡らせた。総務省で学んだ組織論や交渉術が、まさかこんな形で役に立つとは思いもしなかった。
(でも、この世界の問題はそれだけじゃない)
彼女が最も違和感を持っていたのは、「奴隷制度」と「階級固定」だった。
原作でもそれは背景設定としてしか扱われていなかったが、実際の社会では深刻な問題だった。奴隷たちは物として扱われ、貴族の気まぐれ一つで命すら奪われる。教育や権利など存在せず、労働力として酷使されていた。
(ここをどうにかしなきゃ、この国は変わらない)
だからこそ、マーガレットは「力」が必要だった。
剣の力。魔法の力。言葉の力。交渉の力――そして、民を惹きつけ導く「人の心を掴む力」。
それらをすべて兼ね備えたとき、ようやく彼女は「悪役令嬢」のレッテルを振り払い、自らの信じる正義で世界を変える「革命家」になれるのだ。
それが、彼女の野望。
季節は巡り、彼女が八歳になった頃――ついに、王都からの「召喚状」が届く。
それは、王立セント・リービヒ学園への仮登録試験の案内だった。通常は十二歳から入学を許されるその学園だが、極めて稀に「飛び級」も許されることがある。
そして彼女は、最年少での飛び級候補として名を連ねたのだった。
「お嬢様……あなた、本当に……」
驚きに声を震わせるアリシアの前で、マーガレットは静かに微笑んだ。
「ここが、私の出発点だから」
そして、原作の運命が大きく狂い始める。