第十五話 悪役令嬢、雨の日に心を重ねる
初夏の雨が、静かに学園の庭園を濡らしていた。
マーガレット・クレアは一人、図書塔の最上階にある小部屋の窓辺に佇み、曇ったガラス越しに外を見つめていた。灰色の空はどこまでも沈み、滴る雨が、心の中に沈殿する言葉にならない感情を映し出しているようだった。
あれから、王都での一連の騒動——貴族会議での発言、王太子レオンハルトとの共闘宣言、秘密結社〈ロゼ・ノワール〉との邂逅——そのすべてを経て、マーガレットは再び学園という「物語の舞台」に戻ってきていた。
けれど、何かが変わっていた。彼女の中で。
「悪役令嬢」としての自覚。改革の志。そして——恋。
「ウィリアム様……」
ふと名前が唇からこぼれた瞬間、扉が静かに開いた。
「ここにいたんだな、マーガレット」
聞き慣れた、けれどどこか優しげな声が空気を震わせる。
振り返れば、そこにはウィリアム・アーデンが立っていた。青薔薇の騎士の名を持つ彼は、相変わらず端整な顔立ちと落ち着いた佇まいで、しかしその瞳だけはどこか困ったように揺れていた。
「探したよ。学院中、ずっと……」
「どうして……?」
問いかけの意図を尋ねるより早く、マーガレットの声が震えた。心が揺れていた。
ウィリアムは数歩、静かに近づいてきて窓辺の隣に立つ。そして、窓越しに外を見ながら呟いた。
「君が王太子殿下と“同志”になったと聞いた。〈ロゼ・ノワール〉とも接触していると」
その言葉に、マーガレットの背筋がぴしりと伸びた。
「それでも、私は君の味方でいられるのだろうか、と」
「……あなたが、味方でいてくれたから、私はここまで来られたのよ?」
マーガレットはそっと言葉を返した。
思い出す。騎士団での剣の稽古。初めて平民街へ赴いた夜。ウィリアムは常に、彼女の傍にいてくれた。無言の盾として、時に鋭い問いを投げかける刃として。
「でも……その“味方”という言葉は、案外、心を惑わすものなのかもしれないね」
ウィリアムがふと微笑む。その表情に、マーガレットは言いようのない不安を感じた。
「ウィリアム様……?」
「マーガレット、僕は君がどんな道を進もうとも、それを否定するつもりはない。でも、どうか——時々は、自分の心の声も聞いてほしい。改革のため、国のため、家のため……そうやって“他人のため”に走り続ける君の姿を、見ているのがつらくなる時があるんだ」
その言葉は、まるで雨のようだった。
静かに、しかし確実に、マーガレットの胸の奥を濡らしてゆく。
「私の心……」
「そう。君自身が、どう生きたいか——それを、君は時に忘れそうになる」
ウィリアムの言葉には、怒りも皮肉もなかった。ただ、優しさがあった。凍えるような雨の夜に、そっと差し出されたマントのように。
「私は……私自身として、生きていいのかしら」
その問いは、マーガレットの本音だった。
斉藤杏奈としての記憶。転生者としての使命感。悪役令嬢としての立場。すべてを背負ってきた彼女は、「一人の少女」としての願いを、どこかに置き去りにしてきたのかもしれない。
ウィリアムは、何も言わず、そっと彼女の手に触れた。
その手は温かかった。
「生きていい。むしろ、生きてほしい。君が君として、誰かを愛しても、愛されても、いいはずなんだ」
「……私、怖いの。自分の気持ちに正直になることが」
マーガレットの瞳が潤む。
「誰かを好きになることは、弱さを持つことでもあるでしょう? それが、改革の足枷になってしまったら……」
「なら、僕がその弱さを引き受ける。君が君でいるための、盾になる」
ウィリアムは真っ直ぐに言った。
「それが、僕が“味方”であることの、もう一つの意味だから」
マーガレットは言葉を失い、ただウィリアムの手を見つめた。
少女小説のヒロインが、何度も経験するような“心の嵐”が、今まさに彼女の内側を吹き荒れていた。
雨音はいつの間にか止んでいた。
曇り空の先に、わずかに陽光が差し込んでくる。
「……ありがとう、ウィリアム様。少しだけ、自分を許せた気がするわ」
マーガレットは微笑んだ。その笑顔は、初めてウィリアムが見せたあの日の少女の、それに重なっていた。
「じゃあ、これからは生徒会の会合にも戻ってきてくれるかな?」
少しだけ冗談めかしたウィリアムの声に、マーガレットは肩をすくめる。
「ええ、でも生徒会改革も必要そうね。そろそろ“名ばかり貴族の遊び場”から脱却する時じゃないかしら?」
「まったく、君はどこまでも“悪役令嬢”だな」
「ふふ、もちろん。でも、今日は少しだけ……“恋する乙女”でもいさせて」
その言葉に、ウィリアムは小さく息をのんだ。そして、まるで舞台劇のように、静かに一礼した。
「喜んで。マーガレット・クレア嬢。君のその姿に、僕は心から敬意を表するよ」
二人の距離は、確かに縮まっていた。
言葉よりも先に、心が重なり始めていた。




