第一話 悪役令嬢、目覚める
冷たい石の床が背中を打つ感覚で、私は目を覚ました。
重たい瞼をゆっくりと開けると、見慣れない天井が目に飛び込んできた。白く装飾された天井、煌びやかなシャンデリア。柔らかな絨毯に囲まれた豪奢な部屋――そのどこを見ても、平成の日本には存在しない光景だった。
(ここは……どこ……?)
ぼんやりとした頭で記憶をたぐる。たしか私は、夜遅くまで残業した帰り道で、信号を渡ろうとした――その瞬間、鋼鉄の車体が猛スピードで迫ってきて……。
(……死んだ、んだっけ……)
心臓が冷たくなる。
そして、それと同時に――流れ込んできたのは、まったく別の記憶だった。
貴族の娘として生まれ、優雅なドレスを着て、上流階級の社交界に身を置いてきた少女の記憶。両親は冷酷だが教育熱心で、厳しい躾と礼儀作法に育てられた。……だが彼女は、物語の中で“悪役令嬢”として描かれ、主人公であるクローツ・ハートと第一王子ウィリアム・フィンの恋路を阻む存在。
その結末は、断頭台。公開処刑。
私は確信した。この人生は、私が大好きだった乙女小説『暁の約束』の世界。そして、私が今この身を置いているのは、悪役令嬢――マーガレット・クレア。
「……なんでこうなるのよ……!」
悲鳴のような声が漏れた。私、斉藤杏奈はただの公務員だった。恋愛と小説と紅茶を愛する地味なOL。地味だけど、人生をそれなりに楽しんでいた。
なのに、転生した先が推しカプ(クローツ×ウィリアム)を散々苦しめた悪女って、どんな罰ゲームよ。
「でも……あの結末を、見たくはない……」
あの時、クレアが処刑された場面。あの描写がどうしても胸に引っかかっていた。彼女は本当に、悪だったのか? あの微笑は演技だったのか?
そんな問いが、読者だった私の中にずっと残っていた。そして今、その答えを得るチャンスがある。
「なら……変えてやろうじゃない。物語の結末を」
この世界で、私は悪役令嬢マーガレット・クレア。
けれど、その中身は総務省に勤めていた27歳の地味OL、斉藤杏奈。社会制度、行政、組織改革、資料作成、庶務調整――その手の仕事にはちょっとだけ自信がある。
舞踏会の駆け引きは苦手かもしれない。でも政治改革なら、任せなさい。
(総務省仕込みの行政知識と、読者として得た物語の未来予測――これで、結末を変える)
静かに拳を握ったその時、扉がノックされた。
「お嬢様、目が覚めましたか?」
入ってきたのは、年の近い女中。茶色の髪を束ねた、柔和な表情の娘だった。名前は――
「……リゼ?」
「はい。私です。熱はもう下がりましたか?」
リゼ・アルマーニ。クレアに忠義を尽くす侍女。原作では唯一、最後までクレアの無実を信じてくれた存在だった。彼女の存在が、処刑の場面で唯一の救いだったと、読者だった私は強く印象に残っている。
「……ありがとう、リゼ」
「えっ……いえっ、当然のことです、お嬢様!」
頬を染め、慌てて一礼するリゼに、小さく微笑む。
そう、私はもう一人じゃない。この世界には、支えてくれる人がいる。なら、変えられる。
まずは、原作の知識を整理しよう。
この世界、正式には『ゼムリア王国』と呼ばれている。王都を中心に貴族制が敷かれ、地方には領地を治める領主がいる。マーガレット公爵家はその中でも五大公爵家の一つ。軍事・財政・司法の一角を担うほどの権力を持つ。
その娘である私、マーガレット・クレアは、幼少から魔法と剣術の才を見せ、12歳になる年に王都の名門――セント・リービヒ学園への入学が決まっている。
この学園での生活こそが、物語の本編が始まる舞台だ。
入学と同時に、主人公クローツ・ハートと第一王子ウィリアム・フィンが出会い、恋に落ちる。クレアはそれに嫉妬し、策略を巡らす……と、そういう筋書きだった。
でも、ここで私が“本当のクレア”として生きるのなら、そこに割り込む必要はない。
「私が目指すのは、“完璧な悪役令嬢”じゃない。“正義の悪役令嬢”よ」
悪役令嬢の立場を逆手に取って、社会構造を変える。虐げられた平民、歪んだ貴族制度、奴隷制度の撤廃、官僚の腐敗――
そういった闇に、“クレア”という存在を通じて切り込んでいくのだ。
その第一歩として、私は幼少期の訓練に全力を注ぐことにした。
朝は剣術。昼は魔法。夜は政治と経済の勉強。両親から与えられた家庭教師の教えに飽き足らず、前世の知識を駆使して体系的に整理する。
魔力の構造、術式の理論、剣術の重心移動――そして、領地経営の基礎知識。税制改革案に、年貢の割合計算、貨幣流通と徴税システム。
特に注力したのは、奴隷制度の理解だ。
この世界には“労働奴隷”と“魔力奴隷”の2種類が存在する。前者は債務や犯罪によって売られた人々、後者は魔力を抽出され道具として使われる者たち。
原作ではそれが“当たり前”の背景設定だった。でも、私はそこに切り込みたい。
(クレアがその制度に対して疑問を持ち、実際に行動を起こす――それだけでも原作の筋書きは大きく変わる)
そして――運命の日。
「お嬢様、入学許可証が届きました!」
リゼが駆け込んでくる。その手には、白銀の封蝋が施された一通の手紙。
「セント・リービヒ学園からです!」
私はその手紙を受け取り、深く息を吸った。
「いよいよね……物語が、始まる」