【コミカライズ進行中】契約通りに脇役を演じていましたが
賑やか好きなルクスピア王国の国王は、頻繁に夜会や晩餐会を催し、国中の貴族を招いていた。今夜も、絢爛豪華な王宮でパーティーが開かれる。ベルリング公爵家の姉妹――ロゼとシュリカもそこに招待されていた。
「今日もよろしくね、お姉様?」
広間に入る扉の前で、シュリカがロゼの耳元でそう囁いた瞬間、ロゼの首の周りにある首輪のような形の痣が淡い紫に光る。
ロゼはわずかなためらいのあとで、小さく頷く。
「……分かったわ」
(どうせ私に、拒否権はない)
ロゼの返答を聞いたシュリカは、満足げに口角を持ち上げ、くるりと背を向けた。彼女は先に、大きな扉を通って夜会の会場である広間に入っていく。
シュリカが動いた瞬間、花のような甘い香水の匂いが辺りに漂い、ヒールが大理石を踏む軽快な音が響いた。
長く伸ばしたウェーブのかかった髪がなびくのを、扉の前で警備していた二名の騎士が、うっとりとした表情で見つめた。ロゼは重々しい足取りで、シュリカの後ろに続いた。
広間では、ダンスや酒を楽しんだり、噂話に花を咲かせたりして、皆それぞれ楽しんでいた。
「きゃぁぁっ……!」
そこに、シュリカの悲鳴が響き渡り、賑やかだった広間が一瞬で静寂に包まれる。
ロゼが、テーブルの上の色とりどりのケーキが盛り付けられた皿を手に取り、シュリカのドレスに押し当てた。そして、冷たく言い放つ。
「手が滑ったわ。せっかくのドレスが台無しね」
「お姉様、ひどい……っ」
シュリカが汚れを落とそうと下を向いたとき、髪飾りが床に転がる。ロゼは花の繊細な装飾を足で踏んで壊した。
「大事にしていた髪飾りが……」
「落とす方が悪いでしょ。どんくさいわね」
ロゼは悪びれもせず、腕を組んで鼻で笑う。
姉妹の様子を見ていた人々がざわめき始め、「またか」と口々に呟いた。
こうした社交の場で、ロゼがシュリカを虐げるのは、珍しいことではなかった。
「どうして私のことをいじめるの? 私は、お姉様のことが大好きなのに……っ」
「私はあなたなんて、嫌いよ」
人々はシュリカを気の毒に思い、ロゼを非難した。『シュリカ様が可哀想』『なんて意地悪な姉なの?』『ロゼ様は悪女だ』。そんな噂話が、次々に耳を掠めていく。
しかし、公爵令嬢に直接苦言を呈すことができる者はいなかった。
ロゼはシュリカに近づき、小さく尋ねる。
「これでいい? 満足したでしょ」
「ええ、もういいわ」
満足そうに口の端を上げたシュリカに、背筋が粟立つ。
実際、ロゼはシュリカの命令で引き立て役を強制的に演じさせられているだけだった。
ルクスピア王国には禁術が存在する。ロゼはその中のひとつ――契約魔術で妹に支配されていた。国での使用が禁じられているが、高度すぎてそもそも大抵の人には扱えない。 だが、優秀な魔法の使い手であるシュリカには使いこなすことができた。
契約印は、ロゼの首とシュリカの右手の甲に刻まれており、お互いにしか見えない。契約主の命令に逆らおうとすると首が締め付けられ、それでもなお抵抗すると窒息死する。
悪女として振る舞うせいで、ロゼの社交界での評判は最悪だった。一方、姉を脇役に据えたシュリカは、悲劇のヒロインである自分に酔いしれていた。
◇◇◇
妹の命令で、ロゼは屋敷にいるとき、部屋から出るなと命じられている。だから、いつも窓の外をぼんやりと眺めながら過ごしていた。両親は契約魔術に気づいておらず、社交界で悪女と名高いロゼを疎ましく思っている。
ルクスピア王国民は、十歳になると魔術師の素質を確かめる儀式を受ける。その結果、妹は類まれな魔力量を持っていることが分かったが、ロゼには魔力がなかった。儀式は神殿で行われたのだが、魔力を測定した瞬間の、神官たちや両親の反応は今も鮮明に覚えている。
『おお、なんと豊富な魔力量だ。こんな数字……滅多にお目にかかれない』
『すごいぞシュリカ。よくやったな……!』
『シュリカはきっと天才なんだわ!』
大きな青いガラス玉のような測定石に手をかざして、魔力を測った。水晶の色の変化で魔力量は分かる。白から黒に向けて色が濃くなるほど魔力は強くなるのだが、シュリカは測定石が手をかざすと真っ黒になった。沢山の大人たちに褒められたシュリカは、満足そうな様子だった。
『でも、お姉様は……』
ロゼはシュリカの二年前に、その儀式を行っていたが、測定石は真っ白になり、淡い光を放った。魔力量はゼロ。逆にそういう人間は珍しいと、神官たちに笑われたのを覚えている。
『魔力がないなんて、可哀想』
シュリカの瞳の奥に、優越感が滲む。このとき、シュリカは姉のロゼを、自分の格下と見なした。
ロゼは優秀な妹と比較され、両親に虐げられてきた。
『お前は名門ベルリング家の面汚しだ』
『魔法が使えないなんて本当に情けない子……。ロゼと違ってシュリカは、我が家の自慢だわ』
そんな言葉をいつも両親から聞かされていた。
ある日、ロゼは久しぶりに家族の食卓に呼び出される。どうやら、ヒューゼン大公からシュリカに縁談が来たらしい。シュリカは、それを嫌がって駄々をこねていた。この場に呼び出された意味を、ロゼはなんとなく察していた。
「大公は呪われてるって噂よ。そんな相手と結婚するなんて絶対に嫌……っ!」
シュリカは両手で顔を覆い、わっと泣き始めた。
キースハルト・ヒューゼン。彼は三年ほど前に、広大な領地を治める大公家の当主となった。シュリカと同じく類まれな魔力量を持ち、魔物から人々を守っている。魔力量を測るための儀式で、彼はあまりの魔力の大きさから、測定石が割れたと言われている。
元々社交界に姿を現さないミステリアスな存在だったが、ここしばらくは体調を崩して療養している。シュリカが恐れているように、『呪われているのではないか』という噂を耳にすることも。
ベルリング公爵家よりヒューゼン大公家の方が家格ははるかに上で、大公家からの依頼は命令に等しい。この縁談に、拒否権などない。ベルリング家は公爵家ではあるものの、歴代の当主たちが散財を繰り返してきたため、借金を抱えている。だから、ロゼは召使いのような真似を長らくさせられていた。
今回の縁談で、借金のことを知っているのか、ヒューゼン大公家からは結婚の支度金として多額の資金援助を持ちかけられており、両親にとって喉から手が出るほど美味しい話でもあった。
シュリカを気の毒に思った母と父が慰める。
「可哀想なシュリカ。お母様もあなたを行かせたくないわ……っ。呪いが万が一でも移ったら大変だもの」
「縁談を拒絶すれば、両家の関係悪化に繋がる。それに、大公閣下はシュリカをひと目見たらすぐに気に入って手放さなくなるだろう。どうしたものか……」
父は眉間をぐっと指で押し、悩ましげにため息をこぼす。
すると、シュリカがロゼを見据えて「そうだ」と言った。シュリカの瞳の奥が意地悪に揺れたのを見て嫌な予感がし、ロゼはひゅっと喉の奥を鳴らす。妹がこういう目をするときは大抵、ロゼに新しい命令を下すときだ。
両親が会話に夢中になっている横で、シュリカはロゼに耳打ちする。
「お姉様が身代わりで見合いに行って、破談にしてきてくれない? お姉様は人から嫌われるのが特技だもの。ね、できるわよね?」
そのとき、契約魔術が発動してロゼの首輪が光る。その光は、ロゼとシュリカにしか見えない。
要するにシュリカは、見知らぬ大公の前で悪女として振る舞えと命じているのだ。シュリカは今までもそうして、面倒事をロゼに押し付けてきた。ロゼは暗い顔をしながら頷いた。
◇◇◇
シュリカの命令を拒むことができず、ロゼはキースハルトとの見合いの日を迎えた。ロゼは自分の持っているドレスの中で、特に品のないものを選んだ。細身のドレスがロゼの身体の曲線を浮かび上がらせ、わざとらしく開いた胸元から谷間が覗く。首には大きな宝石が嵌め込まれたネックレスをつけ、耳にもきらきら嫌味な輝きを放つピアスをつけた。指輪や靴も、同じ系統のものを選ぶ。
露出度が高くて派手な格好は、悪女っぽさが際立つ。ロゼの好みではないけれど、できるだけキースハルトに与える印象を悪くしたかった。
ロゼがヒューゼン大公家の屋敷の門に到着すると、大勢の使用人が出迎えてくれた。
「お待ちしておりました。シュリカさ、ま……」
使用人たちは、淑女らしからぬ派手な装いのロゼを見て、表情にわずかに戸惑いの色を浮かべた。なぜなら、彼らはみんな、優秀な魔法の使い手で人当たりがよく評判がいいシュリカ・ベルリングが来ると思っていたからだ。模範的な淑女とは程遠い目の前の令嬢の様子に、混乱するのは無理のないこと。
「何をぼんやりしてるの? 早く案内して」
「は、はい! かしこまりました。こちらです」
大公家はロゼの実家より、はるかに大豪邸だった。廊下の壁には高そうな絵画や壺がいくつも並べられ、床に敷かれた絨毯も踏み歩くのが惜しまれるくらい上質なものだった。
見合いの場は、大公邸の応接室だった。応接室もまた絢爛豪華で、ロゼは恐縮しながらソファに腰を下ろした。
(大公様は、どんな方なのかしら)
もし、とても怖い人だったらどうしよう。失礼な態度を取って不興を買ってしまったら、それこそベルリング公爵家との関係が悪くなってしまう。
ロゼはその席から逃げようとしたが、契約魔術が発動して息が苦しくなった。
「…………っ」
(それでも、やれってことなのね。シュリカ)
この縁談を破談にできなくては、シュリカにどんな報復を受けるか分からない。
キースハルトを怒らせて公爵家が取り潰しになろうと、ロゼはもう知らない。しぶしぶ、破談にするために悪女を演じることに決める。
まもなく、応接室の扉がゆっくりと開かれ、ひとりの男性が入ってきた。彼の姿をひと目見て、ロゼは息を呑んだ。
「今日はよく来てくれた。俺はヒューゼン大公家の当主、キースハルトだ」
実際に会ったキースハルトは、とても美しい男性だった。夜空のような漆黒の髪に、高い鼻梁と切れ長の唇。全てのパーツが整い、完璧な位置に配置されている。彼を初めて見たとき、『シュリカが好きなタイプ』だと思った。
格上の相手から挨拶されたら、当然自分も立ち上がって挨拶を返すべきだ。だが、ロゼはふてぶてしい表情でそれを無視し、腕を組んで顔を背けた。
「シュリカ嬢?」
キースハルトはロゼの向かいに座って、こちらを不思議そうに見つめた。
「――なぜ俺の話を無視する? 気に入らないことでもあるのか?」
ロゼはキースハルトを三十分以上無視している。向き合ってソファに座るふたりの間に沈黙が続く。大公に失礼極まりない態度を取っていることに、罪悪感といたたまれなさを感じる。
(破談にしなくては、またシュリカに叱られてしまうの。ごめんなさい、大公様)
心の中で、そう謝罪する。
ロゼは足を組み、短いスカートから覗く足をあからさまに見せつけながら、ふんと鼻を鳴らす。
そして、長い沈黙をようやく破る。
「はっ、思ったより大した男ではないみたいね」
キースハルトの話を散々無視しておいて、最初に口にしたのがこの言葉だ。キースハルトは呆気にとられ、わずかに眉を上げる。
「全然私のタイプじゃなくて、がっかりだわ。もっといい男を期待していたのに」
「…………」
それからロゼは、使用人に横柄な態度を取り、食事に文句を言い、酒を大胆にあおった。そして、キースハルトに嫌味をこぼし続ける。
見合いの席でのロゼの高慢な態度に、キースハルトは困惑していた。そしてとうとう、彼からこんな言葉が出る。
「シュリカ嬢はとても品行方正な令嬢だと聞いていたが」
「噂と違って残念でしたね。素の私はこんな感じなんです。私がどんな女かよくお分かりになったでしょう? 破談にするのなら今のうちですよ」
(こんな悪女と結婚したがるような物好きはいないはず――)
ロゼはそんな確信を抱いていた。けれど、キースハルトから予想外の言葉が返ってくる。
「いや、このまま縁談は進める」
「…………今なんと」
「君と結婚すると言っている」
意味が分からず、頭に疑問符を大量に浮かべるロゼ。
「どうして……? 私なんかと結婚しても、大公様にはなんのメリットもありません」
「色々と事情があるんだ。手続きはこちらで進めておくから、今日は帰ってくれていい」
「そんなっ、困ります……!」
椅子から立ち上がり、応接室を出て行こうとするキースハルトを見て、ロゼは青ざめる。この縁談を破談にできなければ、あとでシュリカにどれだけ責められることか。
「では、詳しい話はまた後日」
「ま、待って――」
パタン、と閉ざされた扉を見つめ、ロゼは頭を抱えた。
(どうしよう。結局破談に――できなかった)
◇◇◇
「話が違うじゃない!」
「きゃっ――」
公爵邸の居間に、シュリカの怒鳴り声が響く。
見合いから帰ったロゼは、破談にできなかったことでシュリカに叱責され、頬を叩かれる。シュリカは時々こうして、癇癪を起こすことがある。一度スイッチが入ったらロゼに止めることはできない。
彼女は両親や使用人たちにこうして辛く当たることはしないのに、ロゼに対してだけは容赦がない。外では模範的な淑女として振る舞い、ロゼを鬱憤のはけ口のように扱った。
「破談にできなかったってどういうことなの!?」
「ご、ごめんなさい……」
「謝って済む問題じゃないから。ただでさえ魔術を使えない落ちこぼれなのに、頼み事ひとつまともにこなせないなんて」
シュリカは呆れ混じりに笑い、ロゼの髪をぐいっと引いて顔を覗き込む。
「お姉様って、どれだけ無能なの? ほんとに呆れるわ。お姉様に生きる価値なんてないんじゃない?」
ロゼは静かに、シュリカの言葉を受け止めていた。
散々金切り声で恫喝されたあと、『罰として食事をとるな』『何も飲むな』、と命じられ、辛い時間を過ごすことになった。心はとっくの昔に、凍りついていた。両親や妹に罵倒されるたびに、心はすり減っていき、無能な自分がこういう辛い目に遭うのは仕方がないことだと受け入れるようになっていた。
数日後、キースハルトが改めて求婚に来た。
シュリカはロゼに、再び身代わりとして見合いを破談にして来いと命じる。
ロゼは三日間水を飲んでいなかったため、明らかに体調が悪かった。私室から応接室に向かう途中、なんどもふらついては壁に寄りかかってを繰り返し、ようやく応接室に着いた。
扉を開けた瞬間、またひどい目眩に襲われる。
(もうだめ。身体が……だるい)
すると、倒れかけたロゼをキースハルトが抱き留めた。
「大丈夫か? 顔色が悪い。熱は……ないな」
ロゼの額に触れ、熱がないか確かめるキースハルト。彼の優しさが胸に染みた。誰かに心配してもらったのは、初めてのことで。
(こんな私に親切にしてくれる人を騙すのは……心苦しい)
大公邸で散々な態度を取ったのに、キースハルトはこんな自分を気遣ってくれた。ロゼはひどい罪悪感に苛まれ、きゅっと唇を引き結ぶ。そうして、弱々しく言った。
「キースハルト様、ごめんなさい。私はシュリカではなく、姉のロゼなんです」
ロゼは正体を明かし、シュリカがキースハルトとの結婚を嫌がっている旨を洗いざらい打ち明けた。そして、この縁談はなかったことにしてほしいと丁寧に頼んだ。だが――
「ではロゼ、俺と結婚する気はないか? 結婚は期間限定だ。本当に嫌なら拒んでも構わない」
まさかキースハルトが、シュリカではなくこのままロゼと結婚すると言い出すとは思わず、びっくりして言葉を失ってしまう。社交界で妹をいじめる悪女として有名なロゼが、結婚相手に選ばれるなんて……。
(まさか、大公様は悪女好きなの? なんだっていいわ。この屋敷から逃げられるなら……)
ひとつ確かなのは、キースハルトには結婚を急ぐ理由があるということだ。
結婚すれば実家から逃げられると踏んで、誘いに乗る。
「分かりました。大公様と――結婚します」
話がまとまったので、キースハルトはすぐに帰ると言った。前回の縁談のときもそうだったが、キースハルトはどこか急いでいる感じがする。せっかちな人なのだろうか。
帰り際、扉に向かうキースハルトがよろつき、テーブルに手をつく。彼の顔が真っ青になっているのを見て、ロゼは慌てて駆け寄る。
「大丈夫ですか……!? もしや、ご気分が悪いのでは。水を」
ロゼは咄嗟にコップを差し出し、「誰か人を呼びましょうか」と気遣う。
「自分も体調が悪いくせに、俺を心配しているのか? 縁談のときと態度が違うようだが」
突然のことに驚き、素の自分に戻っていた。しかし、シュリカとキースハルトの縁談を破談にするという目的は達成したので、悪女のフリをする必要はもうない。
「水をどうぞ」
ロゼは質問に答えず、コップを手渡した。すると、コップを持ち上げたキースハルトの手首に、視線が止まる。わずかに覗いた袖口に、禍々しい黒い痣が広がっていた。
「呪いの噂は本当なんですか?」
「ああ。時々こうして痛むことがある」
「呪いが人に移ったりは……」
「それはない」
キースハルトは魔法の研究や魔物と戦う組織である――魔法省の元エリート魔術師で、現在は療養中だ。呪いの痣が左手にあり、手袋で隠している。呪いの原因は、瘴気が溜まった川で溺れている子どもを助けて、瘴気にあてられたためだと説明した。
時々体調が悪くなるから、できるだけ早く屋敷に帰ろうとしたそうだ。
「被害者の子どもに迷惑がかからないように、呪いの件は公にしていない」
図らずもキースハルトに呪いを負わせてしまった子どもが、誰かに非難されないように守ったのだ。
(本当に優しい人。苦痛が少しでも和らぎますように)
ロゼは心の中でキースハルトを憐れみ、苦痛が和らぐように願った。すると、キースハルトがわずかに眉を上げる。
「今、何か魔法を使ったか?」
「いいえ」
(というか、私は魔力がないのだけれど)
ロゼは不思議に思って、首を傾げた。
「俺は魔力に敏感な体質なんだ。君から魔力の気配に似た……いや、それより神聖なものを感じたが……気のせいだったか」
「はぁ……」
気になる発言を残したキースハルトは、痛みが落ち着いたあと公爵邸を去っていった。
まもなく、シュリカが応接室にやって来て、ロゼが代わりに大公と結婚することが決まったと説明した。
「わあっ、よかった。縁談が成立したら、私の人生が台無しになるところだったわ。私の身代わりになるなんて、お姉様もたまには使えるわね」
「あなたの願いは叶えたでしょ。だから、水を……」
「水? ああ、もう三日も飲んでないのよね。いいわよ、水を飲むことを許可するわ。これから身代わりになってもらうのに、死なれても困るから」
シュリカは縁談を回避できたことを喜びながら、水を飲み食事をすることをロゼに許可する。
ロゼがコップの水を飲もうとしたとき、シュリカはコップを取り上げ、ロゼの頭に水をかける。ロゼの稲穂のような金髪から、絨毯の上にぽたぽたと水が落ちた。
シュリカは意地悪に口角を上げて言った。
「――結婚おめでとう、お姉様。呪いが移って死んでも、私のこと恨まないでね?」
キースハルトの呪いが移らないことを、ロゼは言わなかった。シュリカがキースハルトに会い、呪いが移らないと知ったら、縁談を受けると言い出す気がしたからだ。ロゼはただ、シュリカから逃げたい一心だった。
数日後、ロゼは身支度を整え、屋敷を発つことになった。ロゼを見送る者はいなかった。
ボストンバッグを持ったロゼは、屋敷を見上げながら決心する。
(もう自分を偽るのは嫌。これからは私らしく、好きに生きるのよ)
◇◇◇
大公家に嫁ぎ、妹の支配から解放されたロゼの生活は一変した。
立派な部屋と侍女を与えられ、手厚く歓迎された。最初、使用人たちは悪女と噂されるロゼのことを警戒していたが、大公邸での生活が始まると、噂とは裏腹に穏やかで優しいロゼの様子に、次第に心を開いていった。ロゼがシュリカに命じられていたのは、あくまで彼女の引き立て役だけ。だから、大公家では妹の引き立て役を忘れ、自分らしく過ごした。
『ロゼ様、噂では高慢で意地が悪いと言われていたけれど、実際は違ったわね』
『ええ。私もすごく親切にしてもらって、なんだか拍子抜けしちゃった』
『縁談にお越しになったときも怖い印象だったけど、今はすごく優しい方って感じ』
使用人たちの間で、しょっちゅうそんな噂話が交わされていた。
ある日、侍女のひとりがロゼの大切にしていた髪飾りを壊してしまう。朝、侍女がロゼの髪を結っているときに、持っていた髪飾りに変に力が加わって、折れてしまったのだ。
「大変申し訳ございません! ロゼ様……! どうかお許しを……っ」
厳しく叱られるだろうと怯えて泣いている侍女を見て、ロゼは宥めるように微笑む。
「わざとやった訳じゃないし、謝らなくていいわ。仕方ないもの。ほら、泣かないで」
懐からハンカチを取り出し、涙をそっと拭ってやると、彼女は驚いて目を見開いていた。
彼女を医務室に連れて行き、手にできた傷の手当てをした。椅子に座りながら、侍女はおずおずと言う。
「申し訳ございません。ロゼ様。私たち、ずっとロゼ様のことを誤解していて……」
「ううん、いいの。謝らないで」
ふわりと微笑めば、侍女も釣られて笑顔を見せた。ロゼの中に、屋敷の人たちとの信頼関係が少しずつ築かれていく実感が湧いてきた。社交界で自分がどのように噂されているかは知っているし、それらは全て事実だ。大公家の人たちが、戸惑いながらもロゼを受け入れようとしてくれることがありがたい。
侍女の手当てを終えたあと、キースハルトが医務室を訪れた。彼は呪いの痛みを紛らわす鎮痛薬を取りに来たのだが、薬はちょうど切れていた。キースハルトは棚を閉じ、こちらを振り向いた。
「噂や縁談のときと、随分態度が違うな」
シュリカに、大公家でも悪女のフリをしろとは命じられていない。
だが、彼からそう指摘され、ロゼははっとした。キースハルトがなぜロゼに求婚したのかずっと疑問に思っていたのだが、もしかして彼は――悪女好きなのだろうか。
そう考えると、悪女ではない自分は屋敷から追い出されるのではないかと心配になった。
「キースハルト様は、悪女好き……なんですか?」
「違うが」
ひとまず、悪女ではなかったからと家を追い出されることはなさそうだ。ではなぜ、ロゼを妻に選んだのだろうか。
すると、キースハルトは椅子に腰かけ、いつもつけている左の手袋を外した。以前見た禍々しい痣が、より大きくなっていた。
「俺はそう遠くないうちに死ぬ」
「……!」
「この呪いの痣が全身に広がると、身体が土のように崩れて命を落とす」
「そんな……っ」
なんて恐ろしい呪いなのだと、身震いする。
(キースハルト様はずっと、呪いに身体をむしばまれる恐怖と戦ってこられたんだわ)
呪いのせいで、キースハルトの余命はわずかだった。神殿で診てもらったものの、解呪の方法はとうとう見つからなかったという。きっと、想像を絶する苦しみや不安を経験してきたのだろう。
キースハルトが死ねば、大公家の爵位は彼の弟に渡る。だが弟は、享楽好きでだらしなく、女遊びばかりしている。
大公家のしきたりでは、当主は家督を継いでから三年以内に結婚しなければならない。
キースハルトがロゼと縁談をしたとき、期限はたったひと月に迫っていた。
もしそのしきたりを守らなければ、当主の資格を疑われ、弟に家督が渡ってしまうかもしれない。キースハルトはそれを懸念し、妻を探した。だが、結婚しても自分はどうせ死ぬ身だと思い、悪女なら後腐れがないと、ロゼとの結婚を決めたのだった。
「死ぬ前に、弟以外に次の当主にふさわしい者を後継にするつもりだ。君はそれまでの間、屋敷で自由に過ごしてくれていたらいい。そのあとは、一生不自由なく暮らしていけるよう、環境を整えよう」
ロゼとキースハルトの結婚による利害は一致している。しかし、キースハルトが自分の命を諦めきっているのが、ロゼには気になった。
(キースハルト様のおかげで、私はあの地獄のような実家から逃げることができた。その恩に報いたい)
手袋を外してあらわになった呪われた左手を、ロゼは慎重に触れる。
「肩書きだけの妻ですが、力にならせてください。そんな諦めたような顔をなさらないで。諦めなければ、解決の糸口が見つかるはずです……!」
今はまだ見つかっていないが、呪いを解く方法はきっと見つかるはずだ。希望はどこかにあると信じていたい。キースハルトは自分のことを心配するロゼに驚き、瞳の奥を揺らす。
「なぜ、俺の力になろうとする?」
「あなたが、恩人だからです」
「恩人?」
ロゼはこくんと頷く。キースハルトがいなければ、今もまだ自分はシュリカの言いなりになる日々を過ごしていただろう。シュリカに契約魔術で、契約のことを他者に口外するなと命じられている。だから、詳しいことは言えなかった。
すると、キースハルトはおもむろに手を伸ばし、ロゼの頬に手を添えた。大きくて節くれだった男の人の手。触れ合う肌から体温が伝わり、不思議とロゼは安心感を覚えた。彼はずいとこちらの顔を覗き込み、呟くように尋ねた。
「おかしな女だ。縁談の日の君と同一人物だとは思えない。一体、どの顔が本当の君なんだ?」
シュリカの契約魔術の影響を受けていない、今のロゼが本当のロゼだ。こうして素直な自分を誰かに見せるのは、もう随分と久しぶりのことだった。
◇◇◇
ある日。ロゼはキースハルトとともに、彼の薬を買いに街に出かけていた。街道にはひっきりなしに人々が行き交い、かっぽかっぽと馬の蹄が石畳を踏む音が響いていた。道の脇には様々な店が軒を連ねており、小さな露店から美味しそうな匂いが漂ってきて、食欲をそそった。
ロゼは歩いている途中、人混みの中で、大きな荷物を持っている男性にぶつかった。
「きゃっ――」
衝撃でよろめいたロゼを、キースハルトが抱き寄せる。彼の力強い腕に支えられ、シャツから爽やかな香水の匂いが鼻を掠め、どきどきと心臓が加速していく。異性との触れ合いに慣れていないのだ。
「大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫……です」
「はぐれないように、手を」
キースハルトは無表情でこちらに手を差し伸べてきた。
彼にとってはなんでもない行為かもしれないが、ロゼは目をさまよわせ、迷ったあとでキースハルトの袖をちょこんと摘んだ。そして、上目がちに尋ねる。
「で、では……袖をお借りしても?」
「構わない」
そう答えたキースハルトは、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
街道を歩いていると、様々な事情を抱えた人が目に留まる。
困っている人を放っておけないロゼは、お腹を空かせて物乞いをしている子どもには、身につけてきたネックレスやピアスを渡し、道に迷った異国人に道案内をし、落し物を拾って持ち主に走って届けるなどした。
「ロゼは人がいいな」
「そんなことは……。ただ、困っている人を見ると放っておけなくて」
「そうか」
ロゼが困っている人に親切にする姿を、キースハルトは見守っていた。
ふたりはその後、流行りの貴族向けの衣装屋に入った。ロゼがベルリング公爵家にいたころは、好きな服を買わせてくれなかった。ベルリング家は借金を抱えた名ばかりの公爵家で、家計はいつも火の車。領地からの収入のほとんどは、シュリカのために使われていた。
ロゼは召使いが着るような粗末な服を着て、外出の際のドレスは必要最低限しか持たせてもらえなかったし、シュリカが許したものしか着られなかった。
衣装屋に並ぶ流行のドレスに、ロゼは目を輝かせる。
(かわいい……)
ロゼも年頃の乙女らしく、好きなドレスを着てお洒落を楽しんでみたかった。キースハルトに「好きなものを選ぶといい」と言われ、ロゼは胸を高鳴らせる。ロゼは店員とともに、次々と色んな服を選んでは試着をした。
「きゃあっ、本当にお似合い!」
「とってもお美しいです!」
まるで着せ替え人形みたいな気分だった。店員たちはロゼが何を着てもオーバーなリアクションをした。彼女たちは褒めてばかりなので、本当にロゼに合っているのか分からない。白いフチありの帽子を被り、ふわりとスカートが広がるオフショルのドレスワンピースを着て、ロゼはキースハルトに尋ねる。
「あの……変、ですか?」
「いや、とても良い。今試着したものは全てもらおう」
「ぜ、全部ですか!? それはさすがに申し訳ないです……」
「妻に服すら買えなくて、なんのために働いていると思うんだ?」
そう言われて、甘えることにした。ロゼは大公家の財力に驚かされながら、贅沢な買い物を楽しんだ。しかし――
「キースハルト様、お顔が真っ青です……! もしや、また腕が痛むのですか?」
衣装屋での買い物の途中、キースハルトが辛そうにしているのに気づいたロゼ。彼は時々、呪いの痣がある腕が痛むと言っていた。もしかしたら、ロゼの買い物の邪魔をしまいと気を遣って我慢させていただろうか。
キースハルトが汗をかいているのを見て、ロゼはなぜもっと早く気づかなかったのかと自責する。キースハルトは頷いた。
「ごめんなさい。私、気が付かなくて……」
「謝るな。楽しそうに買い物をしていたから、邪魔したくなかっただけだ」
「外に出て少し休みましょう」
呪いによる腕の痛みを訴えたキースハルトを、衣装屋の外に連れ出し、ベンチに座らせる。
キースハルトはかなり辛そうにしていた。普段は表情の機微に乏しく、何を考えているのかよく分からない彼だが、今は余裕のなさそうな真っ青な顔をして、呼気を乱している。
目の前で人が苦しんでいるのに、何もできないのが歯がゆい。
(どうか早く、鎮まって)
ロゼは彼の背中を優しく擦りながら、痛みが引くように祈った。すると、キースハルトの苦痛が急に治まった。ついさっきまで真っ青だった彼の顔は元の血色を取り戻し、乱れていた呼吸も元通りになった。
キースハルトは、不思議そうにこちらに尋ねる。
「今、俺に何かしたか? 初めて会ったときと同じ、魔力のような気配がした」
「わ、私は何も。ただ、痛みが楽になるようにと祈っただけです」
すると、キースハルトは左手の痣の面積が明らかに小さくなっていることに気づき、驚きながら呟く。
「痣が――小さくなった」
ロゼも小さくなった痣を確認し、キースハルトと顔を見合せる。呪いの痣が全身に広がると、キースハルトの身体は土のように崩れて命を落とすことになる。それなら、痣が小さくなったのはとても良いことだ。ロゼはこの幸運に感謝して、手を重ね合わせながら無邪気に微笑んだ。
「こんな不思議なことがあるんですね。このままもっと小さくなるといいですね」
「普通はありえないことだ。君は、一体……」
喜ぶロゼとは対照的に、キースハルトは物言いたげにこちらを見ていた。
ふたりは次に、キースハルトの鎮痛薬を買いに薬屋を訪れた。キースハルトがひとりで大丈夫だというので、ロゼが店の外で待っていると、予想外の人物が現れる。
「元気そうね? お姉様」
「シュリカ……」
それは、シュリカだった。シュリカはこちらに歩み寄り、ロゼを上から下まで品定めするかのように見つめた。ベルリング公爵家にいたころのロゼは、いつも体調が悪そうで、不健康にやせ細っていた。加えて、召使のような装いが、ロゼのみすぼらしさを際立たせていた。
だが、今のロゼは健康的に肉がつき、清潔な服を着ている。シュリカは見違えたロゼの様子を見て、どこか不服そうに言った。
「そのドレス、今大人気でなかなか予約が取れないデザイナーのものじゃない。ふうん、そんなに素敵なドレスを着せてもらって、思ったより大公家で良い思いをさせてもらってるのね?」
「え、ええ。毎日とても幸せに過ごしているわ」
「気に入らないわ」
すると、シュリカはこちらにずいと迫り、耳元で囁いた。
「――大公邸でも悪女として振る舞って」
契約魔術が発動し、ロゼの首輪が淡い光を放つ。そして、契約主であるシュリカの手の甲の印も光った。契約魔術は絶対。一度命令されれば、抗うことはできない。逆らうことは、ロゼの――死を意味する。シュリカはこれまでロゼを引き立て役として利用し、嫁ぎ先でもロゼが苦しむのを望んでいるのだ。
「お姉様が幸せになるなんて、絶対認めないんだから。大公様にも、屋敷のみんなにも嫌われちゃえばいいのよ」
「…………っ」
シュリカは意地悪に口角を釣り上げて、そう言い放つと、踵を返して立ち去った。
せっかくキースハルトとの初めての外出で浮き足立っていたのに、シュリカに出逢ってしまったのが運の尽きだった。浮かれていた心に、一瞬にして影が差す。
「ロゼ? 随分と暗い顔をしてるが、何かあったのか?」
真っ青になっているロゼを、まもなく薬屋から出てきたキースハルトが心配する。
彼は顔を覗き込みながら、「顔色が悪いぞ」と気遣い、頬に触れようと手を伸ばしてきた。ロゼはその手をパシンと振り払い、鋭い目で彼を見つめる。
「触らないで」
そして、地を這うような声で告げる。
「あなたに触られると寒気がするの。顔色が悪いのも、キースハルト様と一緒にいると……とても不愉快だからです」
「ロゼ……? なぜ急にそんなことを言い出す?」
「あなたのことが、嫌いになったの」
「そんな泣きそうな顔をして言われて、信じるとでも?」
「……っ」
本当はこんなことを言いたくない。悪女を演じ続けないと、首輪が締まって窒息死してしまうからだ。しかし、優しくしてくれたキースハルトにひどい言葉を投げかけた罪悪感が募り、胸が痛む。それでも、キースハルトはロゼを心配してくれた。
(お願いだから、私に優しくしないで。私、最低だわ。もういっそ、この首輪が締まって死んだ方がマシなのかも)
ロゼは唇を引き結んで、泣くのを堪える。
キースハルトは、突然態度が変わったロゼに戸惑っていた。
ロゼはそんな彼に、「あなたと同じ馬車に乗りたくない」と冷たく言い放ち、ひとりで馬車に乗って屋敷に帰った。
馬車の中で、ロゼは首を押さえながら顔をしかめる。
(きっと、キースハルト様にも、屋敷のみんなにも、失望されてしまうわね。この見えない首輪がある限り、私に自由は……ない)
妹の契約魔術の支配から解放され自由になったと思ったのに、結局自分は妹の操り人形のままだ。ロゼはひとり、失意に沈んでいった。
◇◇◇
少しずつ信頼を築いていたのに、高慢な態度をとるロゼに大公邸の人々は落胆した。ロゼは契約魔術の強制力によって、食事が不味いから作り直せと言ったり、ドレスが気に入らないと怒ったり、わがまま放題に振る舞った。
周りの人たちが自分に失望していくのを見るのが辛くて、ロゼは自室に引きこもりがちになった。
(こんなこと、したくないのに)
ロゼは柔らかな寝台に身を沈め、泣くのを堪えた。もうしばらく、キースハルトとも顔を合わせていない。
(キースハルト様の呪いの具合はどうかしら。もっと小さくなって、完全に消えてくれますように)
そして、両手を組んでキースハルトの呪いが治ることを祈った。大公家で辛い毎日を過ごしていても、その祈りは欠かさなかった。ロゼにとって、祈ることだけがキースハルトの恩に報いる唯一の方法だった。
それから、ひと月が経った。大公邸の庭園でロゼはひとり、静かに散歩をしていた。ひと月前までは侍女たちも一緒に歩いていたが、今ではもう誰も付いてきてくれない。ロゼの心にはすっかり霧が立ちこめ、頭上に広がる空は嫌味なほど青々としている。
ロゼは、ようやく屋敷から出てシュリカの支配から逃れたのに、まだ悪女を演じ続けている自分に自嘲する。
庭木の根元にうずくまり、ひざに顔を埋める。季節はすっかり秋で、冷たい風がロゼの体だけではなく心さえも冷やしていく。
すると、キースハルトが現れ、自分の上着をロゼの肩にかけた。
「そこにいたのか」
「キースハルト様……」
「最近の態度は目に余るな。まるで、縁談のときのようだ」
「私は元からこういう性格なんです。放っておいてください」
ロゼはキースハルトを冷たく突き放そうとするが、キースハルトは引き下がらない。
「今の君が本当の君ではないことくらい、分かっている。過ごした時間は短いが、街で困っている人を放っておけない優しい性格が、本来のロゼだ。違うか?」
「……っ」
どうしようもない最低な態度を取ってしまったのに、それでもなお誠実なキースハルトの言葉が、心に深く染み渡る。
本当のことを言いたいのに、契約魔術によって首が締まり、命令されていることを口にできない。たったひと言『助けて』と言えれば、ロゼが何らかの事情を抱えていることを彼が察してくれるだろう。しかし、そのひと言さえ、契約魔術は許してくれない。
(言わなくては。苦しくなってもいいから、言いたい)
ロゼは締め付けられる首に爪を立て、涙をこらえながら震える声を絞り出した。
「助け、て……」
すると、キースハルトは頷き、ロゼの腕を支えながら言う。
「力になる。肩書きだけでも、俺は君の夫だ」
それは、呪いを抱えたキースハルトに、ロゼがかけた言葉と同じだった。
首を押さえ、けほけほと咳き込み、息苦しそうにするロゼ。それを見たキースハルトが、「――そこか」と呟き、ロゼの首に触れる。
「なんらかの強制魔法がかかっているな?」
「……!」
「ひと月前、出かけた帰りにロゼから禍々しい魔術の気配を感知した。君自身は魔術が使えないから……誰かに術をかけられているのではないかと疑っていた」
シュリカはとても優秀な魔術師だ。まさか、彼女の術を見破れる人がいたとは思わず、ロゼはびっくりして目を見開く。一方、キースハルトはロゼの首を確認しながら、冷静に続けた。
「かなり高度で、複雑な術だ。……ここまで俺でも気づけなかったということは、相当実力のある者の仕業なんだろう。犯人は言えるか?」
ロゼは首を横に振る。契約魔術について口外しないように、シュリカに命じられているからだ。
「そうか、事情はだいたい察しがついた。完全には解けないが、一部は解ける」
キースハルトが呪文を唱えると、契約魔術の首輪が発光する。
「本当の自分を偽らせている命令のみ、解除した」
カチャ、と鍵が解錠するような音がした。命令がひとつ解除された瞬間だった。
「ここでは、君らしくいろ」
「私のことを信じてくださって、ありがとう。キースハルト様」
これまで誰ひとりとして気づいてくれなかったロゼの苦しみを、この人だけは分かってくれた。
キースハルトの優しさに救われ、凍りついていたロゼの心が甘く溶けていく感覚がした。
ロゼは安堵し、ふわりと微笑む。その瞳に滲んだ涙を、キースハルトが優しく指で拭った。
「ロゼ。この一ヶ月、俺の呪いが良くなるように祈ってくれたんじゃないか?」
「は、はい。でも、どうしてそれを……」
彼はおもむろに手袋を外す。すると、呪いの痣が劇的に小さくなっていた。確か、神殿はこの呪いを解く方法はないと言っていたという。死を待つだけのキースハルトの暗い顔は、今もまだ鮮明に眼に焼き付いていて。こんなに小さくなるなんて、本当に奇跡みたいだ。
ロゼは驚きのあまり、口を手で押さえて目を見開く。
「嘘……」
「ロゼがこの屋敷に来てから、俺の呪いは徐々に小さくなっている。君の力について、部下に調べさせていた。驚かずに聞いてほしい。……君は、百年ぶりにルクスピア王国に誕生した――聖女かもしれない」
「……!」
◇◇◇
それから、三ヶ月ほど穏やかな日々が続いた。キースハルトは、ロゼが契約主に接触しないよう、細心の配慮をしてくれた。外出を控えなくてはならなかったけれど、シュリカの命令に従わなくていいというだけで、ロゼは心から満足していた。
屋敷の使用人たちも、ロゼがずっと契約魔術に支配されていたことを知り、同情を寄せてくれた。
また、キースハルトにかけられた呪いも、ロゼが祈りを捧げることで日に日に小さくなっていき、三ヶ月を経てついに完全に消失した。聖女は古来より、祈りの力で国の平和と安寧に貢献してきた存在だ。
今日は、キースハルトの快気祝いとして、大公邸で夜会を開いた。しかし、それはあくまで名目であり、本当の目的はロゼの契約主を炙り出すことにあった。ロゼは契約魔術によって契約主の名前を口にすることができない。そのため、あえて接触を図り、犯人を明らかにしようという作戦だ。
夜会前、キースハルトに大量の貴族名簿を見せられ、ロゼはシュリカの名前を見つけたが、『この人です』と言えずに息苦しくなった。更に名簿から人数を絞ろうとした途端、契約による首の圧迫でロゼは気絶してしまった。
そこで、キースハルトはシュリカの名前が記された名簿の者を全員、夜会に招待することになった。
今回の作戦は、禁術が絡んでいるため、魔法研究の中心である魔法省や王国騎士団にも協力してもらっている。
「まさか、大公様がこんなに素敵な方だったなんて」
夜会に招待されたシュリカは、キースハルトを見て開口一番にそう呟いた。小さな呟きは、キースハルトとロゼの耳には届かず、夜会の喧騒に溶けて消える。
シュリカはスカートを摘み、優雅な淑女の礼を執る。
「お初にお目にかかります、大公様。私はロゼの妹のシュリカです。姉がいつもお世話になっております」
シュリカの愛らしい容姿とお手本のような挨拶に、周囲の人々は感嘆の息を漏らす。シュリカは手を差し伸べ、キースハルトに握手を求めた。
「ああ、こちらこそ、いつも彼女には世話になっている」
キースハルトはシュリカを疑うことなく、握手に応えた。手を握る瞬間、シュリカはうっとりとした表情でキースハルトを見ていた。一方、ロゼはシュリカと対峙したことで、顔色を失っていた。
(ここには騎士様や魔術師様、それにキースハルト様がいる。万が一のことがあっても、きっと大丈夫)
そう自分に言い聞かせるものの、シュリカに支配されていた過去のトラウマから、手が小刻みに震えていた。キースハルトと挨拶を交わしたシュリカは、今度はロゼの方を向く。すっかり萎縮したロゼを見て、シュリカは満足そうに口角を持ち上げ、そっとロゼを抱き締めた。
一見、仲良し姉妹の抱擁のように見えるが、ロゼは不快感しかなかった。
シュリカはロゼの耳元で、そっと呟く。
「――大公様を私に譲って。お願いを聞いてくれるわよね? お姉様」
「……!」
彼女の呟きと同時に、ロゼの首輪が光を放ち、契約魔術が発動する。一度契約魔術が発動してしまえば、シュリカの命令に逆らうことができない。ロゼは今までずっと、シュリカの言うことを聞いてきた。
その直後、キースハルトが言った。
「そうか。そうやって君は、ロゼを操り人形にしていたんだな」
「え……?」
キースハルトが呪文を唱えると、ロゼの首とシュリカの手の甲のそれぞれに、契約の証が浮かび上がる。それはロゼとシュリカにしか見えなかったものだが、呪文によって他の人にも見えるようになった。
キースハルトは控えていた魔術師と騎士たちに告げる。
「この者は禁術である契約魔術を使い、長きにわたってロゼを支配してきた。その罪は重い」
「どうして、気づいたの……っ?」
「魔術の気配に敏感な体質でな」
「何よ、それ……」
騎士たちは次々と現れて、シュリカを拘束していく。シュリカは拘束を解こうと身じろいだ。
「や、やめなさい! 離して……っ」
契約印を見た広間の人々は、驚愕をあらわにした。
「信じられない……」
「シュリカ様が禁術に手を染めていたなんて……」
「人は見かけによらないものね。じゃあ、今までロゼ様を悪女だと思っていたのも、誤解だったってこと?」
品行方正で天才的な魔術師として評判だったシュリカの所業に、人々は混乱している。そんな中で、キースハルトはシュリカとロゼの間に立ち、両手をかざして言った。
「――強制解除」
契約魔術を解除するのは通常、契約を交わした当事者のみが可能だ。だが、契約主よりも魔力量が大幅に上回る魔術師が、契約者の半径二メートル以内で呪文を唱えれば、強制的に契約を解除できる。
次の瞬間、長い間ロゼの自由を奪ってきた首輪が、シュウウ……と音を立てて消失した。
(これで、ようやく……)
自由を取り戻したという実感は、まだ湧かない。ロゼは震える手を押さえ、騎士に両腕を拘束されたシュリカを見下ろす。するとシュリカは、声を荒らげた。
「こんなことして、許されると思ってるの!? 今すぐ私を解放して! 早く、離しなさいっ! お姉様はいつも、私の引き立て役でいればいいのよ……っ!!」
暴れながら喚くシュリカに、ロゼは玲瓏とした声で告げた。
「私の人生は、私が主役なの。もうあなたの引き立て役はごめんよ。さようなら、シュリカ」
「…………っ」
シュリカは愛らしい顔を歪め、悔しげにロゼを見上げていた。
◇◇◇
更に、半年後。
シュリカが国で禁術とされている契約魔術を姉に使用していたことは、国中を騒がせた。裁判の結果、シュリカには終身刑が言い渡された。普通、禁術を使用した者は処刑されることが多いが、シュリカが公爵令嬢ということが考慮され、命を取られることはなかった。
また、呪いが解けたキースハルトは、体力も急速に回復し、この半年で見事に復調を果たした。そして、魔法省に復帰することになった。
「全て、君のおかげだ」
「私はただ祈っただけです。キースハルト様が頑張ったからこそ、呪いを乗り越えられたんですよ」
大公邸の庭園。陽光があまねく麗らかな春日。
ロゼとキースハルトは、ガゼボの中で一緒に紅茶を飲んでいた。
均等に整えられた茂みは新緑を芽吹かせ、花壇には色彩豊かな春の花が咲き誇っている。時々、心地の良い爽やかな風が吹いては、ロゼの長い金髪を揺らした。
キースハルトは懐から封筒を取り出し、テーブルに置く。「それはなんですか?」とロゼが尋ねると、彼は魔法省から届いたものだと説明した。
「調査の結果、やはり君は聖女で間違いないそうだ」
しばらく前に魔法省を訪ね、身体を調べてもらった。
魔力なしだと思われていたロゼだが、実は人を癒す神力を有していた。神力を持つ者は聖女と呼ばれ、この国では百年ぶりの誕生となる。キースハルトの呪いを解いたのも、神力による癒しの力だった。
「そこでひとつ、提案がある」
「提案……ですか?」
「ああ。魔法省に協力するつもりはないか?」
具体的な内容は、瘴気によって汚染された湖や川を浄化したり、魔物との戦いで怪我をした兵士たちを癒すというものだった。もちろん、ロゼはまだ聖女の力を自覚したばかりなので、修行が必要になるそうだ。もしそれができたら、キースハルトのように瘴気の呪いで苦しむ人たちを救える。
ロゼは、飲みかけのティーカップを両手で触りながら、不安そうに言う。
「私なんかで……お役に立てるのでしょうか」
「何を言う。この国は君の力を必要としている」
「それなら、ぜひ力にならせてください」
「ありがとう。君はとても――特別な存在だ。この国にとっても、俺個人にとっても」
「……!」
キースハルトの真剣な眼差しに射抜かれ、ロゼの心臓がどきっと跳ねる。
「あまり良い出会いではなかったが、君のひたむきで優しいところにいつの間にか惹かれていた。君が好きだ。最初は期間限定だと伝えたが、この先もずっと、俺の妻でいてくれないか?」
その誠実な告白に、ロゼの目にじわりと涙が滲む。ロゼは花が綻ぶように愛らしい笑顔を浮かべ、強く頷いた。
「はい、喜んで。私もキースハルト様をお慕いしています」
キースハルトは、どん底からロゼを救ってくれた人だ。彼の優しさに触れるうちに、ロゼの中にも自然と愛情が芽生えていた。
シュリカはかつて類まれな魔法の才を持ちもてはやされていたが、今は禁術を使った罪人として地下牢に閉じ込められている。一方のロゼは、百年ぶりに誕生した聖女として、これから国の色んなことに関わっていく。
いつだって、主役は妹だった。妹に自由を奪われ、脇役として生きてきたロゼ。だがこれからは、自分の人生の主役として、幸せな日々を築いていこうと心に決めた。――大切な夫とともに。
終
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