8. 小鬼の狩り場④
「カイルっていっつも剣の練習ばかりだね」
仲の良い友人のシアにそう言われて、エリスは頷く。
マットを先頭に、盗賊団を捕まえようと現場に向かう少年少女は全部で五人。
少年が三人で、少女が二人だ。
エリスの友人であるシアは、青い髪をしたエリスと同じ歳の少女で、間近に迫った祭りでは、歌い手に選ばれるほど歌が上手い。
前を歩く三人の少年の後をなんとなくついて歩きながら、エリスとシアはおしゃべりのほうに熱中している。
「最近は特にそうね。もう朝から晩まで暇さえあればああやって裏庭で剣を振り回してるわよ」
「それだけ練習してるなら、かなり強くなったのかな?」
「う、うーん」
エリスは首を捻る。
「……少しずつ強くはなってるんだと思うわ。父さんも、だからこそカイルに迷宮に潜る許可を出したんだし」
なんとなく歯切れが悪くなったのは、そのフォルドがカイルのことを不器用で覚えが悪いと言っていたからだ。
冒険者として才能があるとも言っていたが、現時点で「かなり強くなったの?」と訊かれれば、首を捻ってしまう。
「へえ、じゃあカイルはもう迷宮に潜ってるんだ?」
「一応ね。今はまだお目付け役が一緒にいないとダメらしいけど」
「お目付け役かぁ。そういうの冒険者にもあるのね」
シアの家では親が大工をしている。大工の仕事でも熟練者が経験の浅い者の上に立って面倒を見るのが当たり前であり、そういう仕事のやり方には馴染みがある。
「一応うちも零細だけどクランだからね。クランのメンバーなら駆け出しの世話はするものだわ」
逆に言えば、クランに入っていない冒険者は誰の世話にもなれない。誰からも教わらず、全て自分自身で試行錯誤しながら身につけていくしかないのだ。
だからこそ、新人の冒険者はまず仲間を探す。迷宮を探索するのにも、情報を収集するのにも人数がいたほうが効率が良い。
仲間と共に迷宮に潜り、必死で生き残る。そしてどこかのクランの目に留まり、声がかかるのを待つのだ。
それを考えれば、冒険者としてスタートする時点でクランに所属できたカイルは幸運なのだ。
例えそのクランが変な名前の零細組織だとしても。
「エリスは剣の練習とかしなくてもいいの?」
「どうして?」
「だって、エリスもそのうち冒険者になるんでしょ?」
「……」
常識的には子は親の職業を継ぐものだ。
だから、フォルドの後を継いでエリスが冒険者になると、自然にシアが思ったのはおかしな話ではない。だが、エリスはすぐには答えられなかった。
エリスも、自分が冒険者になることを考えていないわけではない。
というよりも、それ以外の職業、例えば針子や商人などをやっている自分が想像できない。
かといってすんなり冒険者になるかといえば、それにも躊躇いを感じてしまうのだ。
生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの殺伐とした日常をこれからずっと送ることになると思えば、簡単には覚悟が決められない。
生活のために冒険者になり、金が貯まれば辞めると割り切れるのなら悩まずに済むのだろうか……?
(ダメね。きっとそんな覚悟じゃ、父さんに止めろと言われる)
冒険者になるならば、どこまでも潜り続け、迷宮を破壊するまで立ち止まらない。それだけの覚悟があるかどうかをよく考えろとフォルドには言われたのだ。
「……シアは将来大工になるの?」
「まっさかぁ」
話を逸らすために訊いたエリスに、シアはクスクスと笑う。
「わたしは、大工の組合で働くつもり。事務の仕事ね」
何の繋がりもない場所でいきなり雇ってもらえることはまずない。
したがって、親の跡を継がないとしても、子供は親の仕事の関係で繋がりのある場所で働くことになる。
シアも選択できる範囲で一番自分に合った職場を選んだのだろう。
となれば、シアに倣えばエリスが働くのは冒険者ギルドになるのだろうか?
冒険者というのはそれなりに顔が広いものだから、フォルドに頼めばギルド以外にもなんとか伝手をみつけてくれそうな気もするが。
「一応、もう大工のギルドに挨拶には行ったのよ。これからよろしくってね。実際に見習いとして働き始めるのは次の春からになるんだけど」
「ふうん」
やっぱり、みんなそろそろ将来の仕事を決める時期なのだ。
マットも両親の跡を継いでパン屋をやると言っているし、他の子たちもそれぞれ考えていることがあるようだ。エリスももうあまり呑気に構えてはいられない。
フォルドが仕事を決めるようにエリスに急かすようなことをしないせいで、曖昧なままにしてしまっているが、いつまでもそういうわけにはいかない。
それはわかっているのだ。エリスも。わかってはいるのだが、決断は難しい。なにしろこれからの一生がそれで決まってしまうといっても過言ではないのだ。
エリスにはみながなぜそんなに簡単に決断できるのか、不思議なくらいだ。
「でも、働いてみて自分に合ってないと思ったら困らない?」
「そうだねぇ。そのときは誰か適当な男を捕まえて結婚しちゃうしかないよねぇ……エリスはやっぱり結婚するなら、強い冒険者がいいの? お父さんみたいに」
「と、父さんみたいな冒険者と結婚!?」
自分でも意外なほどにエリスは動揺した。冗談じゃない。
ぶるぶるぶると濡れた犬のように激しく首を振る。
「嫌よ、絶対嫌だわ! あんなガサツな男となんか結婚しない!」
「でも、そう言っていても案外親と似た相手と結婚しちゃうんだって」
「いやー!」
悲鳴をあげたエリスを見て、シアは楽しそうに笑っていた。
◇◆◇
建物の陰に隠れて、マットが全員に止まれと合図する。
「よし、ここだ。……いいぞ、盗賊団のやつらはまだ来てないようだ」
「……なんでそんなことがわかるんだ?」
仲間の少年の一人、オウルがマットに訊く。
「そりゃあ、まだあそこのお供え物が盗まれていないからさ」
マットはそう言って、祠を指さす。
それは、水の女神を祀る小さな祠で、こういった祠はあちこちにある。もちろん、水の神に限らず、だ。人々は毎日、この祠に食べ物や花などを捧げて、日々の平安を祈るのだ。
特に、水の女神は幸運を司ると言われていて、庶民からの人気が高い神でもある。
「やつら、あそこに供えられている食い物を、毎日盗んでいくんだ」
「ふうん。でもさ、なんだって今そんなもんを盗むんだ?」
「バカだな。そりゃ腹が減るからだろ?」
なにを言ってるんだといわんばかりの口調だった。
バカにされたオウルは顔を赤くして憤慨する
「そんなことはわかってるって! そうじゃなくて、なんで今なんだってことだ! お供え物が欲しければ、夕方まで待てばいいじゃないか。そしたら誰も文句なんか言わないのに」
それはそうだ。
お供え物というのは、食料そのものよりも、敬う気持ちが重要なのだ。神さまに喜んでもらって、夕方になれば後は持ち帰って食べたり、犬にあげたりするものだ。
夕方以降なら、別に孤児が持って行っても気にする者はあまりいないだろう。だが、お供えした直後の朝のうちに持って行くなら話は違う。
「バカね。今の季節に夕方まで食べ物を置いておいたら腐っちゃうからに決まってるじゃない」
「……そ、そうか」
エリスにまでバカにされて、オウルはしょげてしまった。
「ま、そういうこった」
マットは苦笑いをして続ける。
「ちょっと前まではやつらも実際に夕方になってから持って行ったらしい。けど、この暑さだからなぁ。最近じゃお供えしたらすぐに盗んでいくんだ。うちの親父も何度もやられて、いい加減腹を立ててる」
「腹を立ててる、って。じゃあ、マットのお父さんは、盗んでいく孤児たちになにかするつもりなの?」
シアに訊かれてマットは腕を組んで考える。
「多分、まだそこまでは考えてないと思う。でも、あまり続くようならいつか対処しなくちゃならなくなるよな」
「対処って、例えば?」
「そんなことはわからないよ。でも、衛兵に通報するか、冒険者ギルドに依頼を出すか、くらいじゃないか? 一番効果がありそうなのは【盗賊ギルド】に頼むことだけど、さすがになぁ……」
「【盗賊ギルド】!」
シアが身体を竦ませる。
【盗賊ギルド】。構成員の数ならこの迷宮都市の数ある冒険者クランの中でも随一の有力クランだ。
だが、その名前は賞賛よりも恐怖の対象として語られることが多い。
正式の名称は別にあるはずだが、誰もそんな名前では呼ばない。母体が別の街で活動していた盗賊ギルドだったため、この街に移って来て冒険者クランとなった今でもその綽名で呼ばれる。
有力クランでありながら都市のスラムにわざわざ本拠地を構え、多くの酒場や娼館、賭場などを経営し、裏では盗賊や暗殺者などの元締めのようなこともしているらしい。
勢力の大きさと、節操のない活動で恐れられている組織だ。
この迷宮都市の闇を司ると言ってもさほど大袈裟ではない。
この【盗賊ギルド】に比肩しうるクランと言えば、迷宮都市では【デミシュトック傭兵団】か、【レンオーツ廃領騎士団】くらいのものだろう。
盗賊をまとめているだけあって、こういった問題の対処には一番相応しいかもしれない。
金を出せば依頼することはできるし、問題が解決するのはほぼ確実だ。
だが、それはやはり非常手段なのだ。
【盗賊ギルド】に依頼した時点で穏便な解決はありえない。
二度と同じ問題が起きないという点で根本的な解決が望めるが、そのやり方は『暴力で思い知らせる』といったものだ。
泥棒とはいえ、子供に行う対処としては躊躇ってしまうのも当然だろう。
「だからさ」
マットは続ける。
「そんなことにならないうちに、俺たちでちょいと懲らしめてやろうってことさ」
「……そういうことね」
エリスは頷いた。
確かに【盗賊ギルド】なんてものが出てくるよりも、自分たちが注意して止めさせられるならそのほうがいいだろう、と納得した。
……このあたり、マットも、それにエリスも孤児たちの実情というものをわかっていない。
孤児たちがどれだけ飢えていて、目の前にある食糧をどれだけ欲しているかを知っていれば、そう簡単には諦めないとわかるはずなのだが。
やはり、親のいる普通の家庭で育った者には、孤児たちの実情はなかなか理解できないということなのだろう。
それからジッと建物の陰で盗みに来る孤児を待つことになったのだが、拍子抜けするほどあっさりと泥棒を発見した。
「……いた。あれだ」
マットが囁く。どれどれとエリスがマットを押し退けるようにして覗き込むと、そこにはエリスよりも少し年下と思われる少年がいた。
◇◆◇
建物の影に隠れて見張るエリスたちの視線の先にいたのは、まだ一〇歳にもならなそうな一人の少年だった。
おそらくは孤児だろう。泥と埃で元の色がわからないほどに汚れた衣服を身に着けている。
「本当に子供じゃない。あの子がお供え物泥棒なの?」
「しっ!」
首をかしげるエリスの口をマットが手でふさぐ。
「……」
半目でマットを睨むエリスを宥めて、「いいから見てろよ。いまにやるぞ……!」
仕方なくエリスは視線を孤児の少年に戻す。
少年はキョロキョロとあたりを見回す。確かに少々怪しい雰囲気ではある。だが、この真昼間の道端で本当に盗むのだろうか?
すると、少年は道のすぐ脇にある小さな祠に近づく。
少年は、その祠に捧げられた食べ物をさっと手に取り、両手で抱えると脱兎のごとく逃げていく。
「やりやがった! 捕まえるぞ!」
「おう!」
マットは叫ぶと、先頭に立って少年を追いかける。
オウルともう一人の少年もそれに続くが、シアなどはあまり乗り気ではないようだ。
マットのことを追いかけようとはしない。こういった争いごとに、関わりたくないのだろう。
「シアは行かないの?」
「エリス、わたしたちはここで待ってたほうがいいよ、きっと。わたしたちが行っても多分役に立たないし」
「そうかもしれないけど……」
シアの言うことも正直わかる。エリスも本当のところを言えばシアと同じで、これ以上マットについて行くのはあまり気が進まないのだ。
でも、ここまでついて来ておいて、こっから先は気が進まないから帰るというのでは、なんとなくマットたちを見捨てたような罪悪感がある。
迷ったエリスが祠のほうを見ると、そこには荒らされた祠を見て眉をひそめる住民の姿がある。
多分、近くに住む人だろう。もしかしたら盗られた食べ物を供えた本人なのかもしれない。
「……シアは家に帰ってて。わたしはもう少し追いかけてみる」
「えー、エリスも止めておいたほうがいいと思うけどなぁ」
渋るシアを残して、エリスはマットを追って走り出した。
脛までの長さのゾロっとした薄手のガウンが、膝のあたりにまとわりついて走りにくい。
「こんなことならもっと走りやすい服を着て来ればよかった!」
エリスは舌打ちすると、ガウンの裾を両手で持ち上げた。
今日着てきたのが、お気に入りの刺繍の入った赤のガウンでなくてよかったと、エリスは思う。
こんな風に走れば、どうしても服が跳ね上がった土や泥で汚れてしまうからだ。
道の先に、前を走るマットたちの姿が見える。
そしてそのさらに先に、泥棒の少年が駆けていく。
チラッとたまに振り返るのだから、自分が追われているのは少年も気づいているはずだ。
(きっと逃げるほうも必死よね)
そう思えば、こうして追いかけるのはなにか気の毒な孤児の少年を虐めているような気分になる。
だが、実際に悪いことをしているのは少年のほうであり、自分たちは大きな問題になる前に少年を止めようとしているのだ。
(別になにもしないから、早く捕まってくれればいいのに。お互いのために)
そんなことを考えながら、エリスは走った。
◇◆◇
お供え物を盗んだ孤児の少年は、大きな通りを避けて、小さな路地を駆けていく。
十字路を右に左にと頻繁に曲がりながら、全体としては南に向かっているようだ。
迷宮都市は、東西に山がある、南北に長い谷間に作られた都市だ。
都市の中央には谷間の底を流れるフーセル川が南北に走る。
したがって東岸地区の東側と西岸地区の西側には山が迫り、地形も起伏が大きくなる。
少年はその東岸地区東側の、坂が多く、道も曲がりくねっている地域を、迷いなく走っている。
マットたちも見失わないように必死で少年を追いかけた。
さすがに前を走る孤児の少年も、自分が追いかけられていることには気づいているようだ。
時々後ろを振り返っては、怯えたような目でマットたちを睨みつける。
まだ一〇歳にもならないような孤児の少年が、自分より身体の大きい年長の少年たちに追いかけられているのだ。怖がるのは当然だろう。
本人たちは真剣だが、はたから見ればどこか微笑ましい子供たちの追跡劇はしばらく続いた。
【天央の燈篭】はいつの間にか色を黄に変えていた。
路地のほうも、徐々に舗装された石畳から、むき出しの土へと変化した。
三人は孤児の少年を追っていくが、先を行く少年が路地を曲がる度に見失いそうになる。
それでも続いて路地を曲がれば、遠くに食糧を抱えた少年の姿が見える。
「……マット、どこまで追いかけるんだ? そろそろ泥街に入っちまうぜ?」
オウルが走りながらマットに注意を促す。
「くそっ、もっと早く捕まえられると思ったのに、あいつ、すばしっこいな」
「どうする? 泥街はあの【盗賊ギルド】の縄張りだぞ」
「……かまうもんか。泥街ったって、広いんだ。それにいくら【盗賊ギルド】だって、縄張りに入っただけで襲ってくるってわけでもないだろう」
マットを含め、都市の子供たちはみな、都市の泥街には入らないように親からきつく言われているのだが、このときマットは自分の冒険心を優先させた。
泥棒を捕まえるという滅多にない冒険をここで中途半端に終わらせるのが惜しかったのだ。
それに、泥街がこの都市でもっとも治安の悪いスラムだとしても、そこには住む人がいて、生活がある。商店もあれば酒場も食堂もある。
いくら危険と言われていても、入ってすぐになにか起こるとも思えない。
泥街が、入った人間がすぐに死んでしまうような場所なら、さすがにそんな場所で人間が生活なんかできるわけがない。
マットたちが泥街に入ると、まず気がつくのは臭いだ。ゴミがあちこちに散乱したままになっており、それに泥が混じり合い、腐って臭う。
建物は半分崩れているか、完全に崩れているようなものが多い。
この辺りは都市の中でも迷宮の入り口に近い区画で、迷宮から魔物が溢れるようなことがあれば真っ先に被害が出る場所だ。
したがって地価が安く、治安も悪い。あまり都市の行政官の手も届きにくく、整備も他の区画より遅れがちになる。
排水溝などがあまり整っていないせいで水はけが悪く、雨が降れば街中至るところで泥が積り、異臭を放つ。
それが泥街というこの区画の異名につながっているわけだ。
通りの脇には、ボロボロの衣服を身に着けた人間が、泥まみれで寝転がっていたり、座り込んでいたりする。
虫にたかられているのに、ピクリとも動かないのが、マットたちに嫌な想像をさせる。
「や、やっぱ、ここはやべぇよ」
オウルが唾を飲み込んだ。
これ以上先に進めずに立ち止まったマットたちに、エリスが追いついた。
「ハァ、ハァ。マット、ど、どこまで行くのよ! ここってもう泥街じゃないの?」
「エリス、ついて来てたのか。シアは?」
「あまり乗り気じゃないようだったから、残してきたわ。家に戻っていて、って言っておいたんだけど」
「ならいいや」
というか、せっかく来てくれたけど、エリスも残っていてくれたほうが良かったな、とマットは思う。
エリスは整った容姿の少女だ。泥街の住人からしたら、良い獲物に見えるかもしれない。
エリスが合流したことで、危険度はぐっと増したような気がした。
「泥棒の子はどっちへ行ったの?」
「あ、ああ。あそこの路地だ」
マットが暗い路地の先を指さす。
細い路地で、入ったら出れないような、不吉な雰囲気がある。
両側の建物に挟まれた、暗くて細い、谷間のような街路だ。
路地の手前には、死体のように仰向けに寝転がって動かない薄汚れた男がいる。
「そう……」
「お、おいっ、エリス!」
マットたちを置いて、エリスが路地に近づいて覗き込む。
エリスもここの雰囲気が怖くないわけではなかったが、ここで帰るのではせっかくここまで来た意味がないと思ったのだ。
だがそこは、細い路地の割にけっこう先まで続いていて、奥のほうは物陰に隠れてよく見通せない。
近くの家の壁には、泥でなにかの図形か、奇妙な文字のようなものが描かれている。
エリスが振り返ると、マットたちは既に及び腰で、これ以上は気が進まないのは一見して見て取れた。
もう一度路地の奥を覗き込んで、エリスは迷った。
エリスとしてはもう少し進んでみたいと思うのだが、さすがに一人では行きたくない。
どうしようかと思っていると、今までまったく身動きせずに路地の手前で寝っ転がっていた男が、身体を起こしてエリスを見た。伸び放題の髪の奥で、黒い瞳が虚ろな光を放っていた。
「っっ!」
ビクッと身体を強張らせて、声にならない悲鳴を飲み込んだエリスがじりじりと後ろに下がる。
マットたちも、早く戻って来いと必死で手招きしていた。
やがてエリスがマットたちのところまで戻るまで、男はジッとエリスを見ていた。
「い、行くぞ!」
逃げるぞ、と言わなかったのは、最後の意地だっただろうか?
だがそれは口にしなかったというだけだった。
勇ましく泥棒を捕まえるために泥街にまで乗り込んだ三人の少年とエリスは、泥街の入り口であえなく逃げ帰ることになった。