7. 小鬼の狩り場③
不運なことに、次の日は迷宮に入ることはできなかった。
迷宮の天候が荒れたのだ。
迷宮はひとつの生き物のように、貪欲に周囲の魔力を吸い上げる。
そのせいで迷宮に入る冒険者も自らの魔力を徐々に吸われていき、いずれ魔力を消耗しきって倒れることになる。迷宮酔いだ。
だからある程度魔力のある者でなければ、迷宮に入ることすら適わない。
さらに迷宮は、この世界に元から存在する魔力もまた吸い上げる。
このため地中を通る魔力の流れが滞ってわだかまり、淀んで瘴気と化しているらしい。
だから迷宮内では、精霊が瘴気に当てられて不安定となり、ときに荒れ狂い、ときには逆に動きを止める。
特に大穴の中ではそれが顕著で、不安定な精霊のせいで外は快晴なのに大穴の中では暴風雨、なんてこともそう珍しくはない。
これを冒険者たちは『迷宮の天候』と呼び、その日に迷宮に入れるかどうかを判断する目安に使う。その日の迷宮の天候状況は、都市の役人が外壁上に立てた旗で冒険者たちに知らせるのだ。
それによると、今は真夏だというのに、迷宮の中は吹雪らしい。
ただでさえ気の荒い氷の精霊が、瘴気に当てられて暴れ回っているのだ。
それを迷宮を囲む外壁の上に立てられた旗の信号で知って、カイルは意気消沈した。
せっかく張り切っていたのに水を差されたのだ。
「ははは。それで不貞腐れているのか。ガキだねぇ」
そう言って笑ったのは、同じクランに所属するランドという名の男だ。
レイクやヨナも所属するパーティ【緑水の渦】の最後の一人で、種族はカイルやフォルドと同じヒューディマだ。
気安い性格のおかげで、カイルなどにとっても親しみやすい男だ。
食事の支度は見習い扱いのカイルの役目だが、こうして暇なときには自分からカイルの手伝いをしてくれることも多い。
カイルにとってもこのクランの中でもっとも気心が知れているのは、このランドだろう。
「だってやっとフォルドが迷宮に潜る許可を出してくれたってのにさ」
「気持ちはわかるが、さすがに今日の天候じゃなぁ」
「でもさ、天候の影響があるのって、大穴だけだよね? それなら迷宮の横穴に入るまでの少しの間だけ我慢すればなんとかなりそうな気がするんだけど」
未練がましくカイルがそんなことを言うが、ランドは「やめとけ」と首を横に振る。
「確かに大穴が一番天候の影響が強い。横穴のほうにも多少は影響があるが、それほどでもない」
「なら……」
「だが、その横穴に入るまでの僅かな時間でも厳しい天候ってことだ。俺も前に一度経験したことがあるんだが、酷かったぜ」
そのとき、ランドは迷宮で二日過ごし、地上に戻ろうとしていた。
だがその二日間で天候が崩れたのだ。
横穴から大穴に出ようとすると、酷い吹雪で伸ばした自分の手すらよく見えないほどだった。
風も荒れ狂っていて、足元が見えない状態ではとても進めるものではなかった。
結局、吹雪が止むまでさらに数日、迷宮内に閉じ込められることになったのだ。
「……そんな吹雪って、迷宮の外では冬でもほとんどないよね?」
「ああ。地上よりも迷宮のほうが天候の荒れ方は酷いぞ。常識が通じないところだからな、迷宮ってのは」
そのときのことを思い出したのか、ランドが顔をしかめた。
「じゃあ、ランドたちも今日は迷宮に行かないの?」
「ああ。俺たちも今日は休みだ。たまには街をうろついて、鍛冶屋でも冷やかしてくるさ」
「欲しい装備があるんだ?」
「うん? まぁいつだって良い装備は欲しいけど、懐具合のほうがなぁ」
「あー」
台所で忙しく手を動かしながらも、気安い会話が続く。
「お前は今日も訓練か?」
「うんまぁ、そのつもり」
「しっかし、お前は暇さえあればいっつも訓練ばっかりしてんなぁ。たまにはどっか遊びに出かけるとかしたらいいんじゃないか?」
「そんな余裕はないよ」
「余裕なんてものは、なかったじゃ済まないんだぜ。どうにかして作らなきゃダメなもんだ。いっつも張り詰めていたら、上手くいくものも上手くいかないさ」
「フォルドやレイクにも似たようなことを言われるけどね」
「だろ? お前が早く目的を果たしたいと思ってるなら、尚更だ。上手く気を抜いた時間を作ったほうが、結局は早道なんだぜ」
ランドがニヤリと笑う。
「なんなら、夜に俺が良い骨休めのできる場所にでも連れってやろうか?」
「いらない。ランドのことだから、どうせなんかエロい場所なんだろ?」
ランドは夜になれば歓楽街の酒場に出かけることが多い。
レイクやヨナと一緒にも行くが、一人でも行く。それもどうやら、娼婦が客引きに来るような、少しばかり怪しげな店が好みのようだ。
「そんなことばっかりしてるから金がなくなるんじゃない?」
呆れたようなカイルに白い眼を向けられて、ランドは鼻白む。
「いや、別に俺らもそんな高いところなんか行けないさ。その、ちょっときわどい衣装の綺麗なお姉ちゃんを見ながら酒を飲むくらいなんだって。ホントのとこ」
「へえ。それならそんなに金はかからないの?」
「お、もしかして結構乗り気なのか? そうだよな、カイルだって年頃の男だもんな!」
なぜかやたらと嬉しそうに笑う。
「そうだな、少しだけ店に入るときに金を払うけど、酒やつまみは普通の酒場と変わらないぜ。あとはその、気に入った娘を連れだしたりしなければ、大丈夫だ。で、行くか?」
「うーん。興味はあるんだけどな、……やっぱやめとく」
「なんだよ、ノリが悪いな。そこまで言ったんなら来ればいいだろ? 何事も物は試しってやつだぜ」
「だってさ、そういうところに行くと、気に入った女の子ができたりするんだろ?」
「まぁ普通にあるよな」
それの何が問題なんだ、と首を捻るランドに、カイルは答える。
「今は妹のことだけ考えていたいからさ」
「……相変わらずストイックっていうか、そう思い詰めることもないと思うんだがなぁ。まだお前十四歳だろ?」
「妹を助けた後なら、必ず行くからさ。そのときにまた誘ってよ」
「まぁいいけどよ」
あまり納得したようには見えなかったランドだったが、それ以上はカイルを連れ出そうとはしなかった。
「そういや、ランド」
「ん?」
「中には、たった九日で最初のランクアップをした冒険者がいるって聞いたんだけど、それってホント?」
「……どっからそんな話を聞いてくるんだ?」
「ただの噂だよ、噂。で、どうなの? ホントにそんなスピードでランクアップってできるもの?」
ランドは答えるべきか迷ったが、結局もう知っているなら仕方ないと諦めた。
本来はカイルのような新米冒険者に教えるような話ではないのだ。
「……多分本当だ。それって実は、結構有名な話なんだぜ。ギルドが緘口令を敷いているからあまりおおっぴらには話せないんだけどよ。新米を卒業した冒険者ならみんな知ってることだ」
「そうなんだ……」
最初から嘘だとは思っていなかったが、やはり事実なのだ。
やりようによってはたった数日でもランクアップは可能なのだ。
知らず、カイルは笑みを浮かべていた。
「おい、カイル。言っておくが、それは例外中の例外だぞ。狙ってやるようなことじゃない」
「……うん、わかってる」
「ホントかよ?」
疑わし気な視線で見られて、カイルは口元を慌てて引き締める。
カイルが同じことをやろうとしていると思われたら、非常にまずい。
「それよりもさ、ランド、暇なら少し剣の相手をしてくれないか?」
「えー? この前付き合ってやったばかりじゃないか。他のやつに頼めよ」
「他のやつって言ったって、レイクは頼んでも断られるし、フォルドやヨナは、手加減しないからさ。訓練を頼むと、大体怪我をして終わるんだ。はっきり言って、迷宮の小鬼なんかよりよっぽど危険だよ」
「ハハハ」
愉快そうにランドは笑う。
「あいつらは確かにあんま手加減は上手くないよな。カイルが嫌がるのも無理はないか。しゃーない、あとでちょっと相手してやるよ」
そして、その代わり、と続ける。
「その代わり、今度お前も俺に付き合えよ。少しくらいはお前も酒は飲めるんだろ? たまには妹以外にも目を向けたほうがいいぜ」
カイルがあまりに妹を助けることのみに集中することから、よほど兄妹仲が良かったのだろうと言われることがある。
口には出さないが、ランドなどもちょっと執着し過ぎじゃないか、と言いたそうにしている。
だが、実のところそんなに兄妹仲が良いということもなかった。もちろん不仲ではない。だが、特別べったりと仲が良いわけでもない。
ごく普通の兄妹だったと思う。
カイルは絵の修行に忙しかったから、家族の中で触れ合う機会が多かったのはまず父だ。
まだもう少し幼いころなら妹と一緒に遊ぶこともあったが、最近ではそんなこともなくなっていた。
妹のほうはといえば、知識欲が旺盛で、よく図書館に通っていたようだ。
具体的にどんな本を読んでいたのか、カイルはよく知らないが、以前に読んでいた本をチラッと見たときには、なにか複雑な文様と数式が書かれた難解な本を読んでいた。
「うげっ、こんなの、本当にお前理解できてんのか?」
疑わし気に訊いたカイルに、アイラはにんまり笑って、「当然でしょ。こんなの、初歩よ、初歩」と答えたものだ。
頭の出来がどうやら違うらしいと認めるのは、兄としては悔しいような、誇らしいような、複雑な気分だった。
多分将来は、なにか研究者とか、技術者のような職に就きたかったのだろう。
それが難しいということもカイルなりに想像できたから、いずれは諦めることになるのだろうな、とも思っていた。
画家の工房と研究者では接点がない。接点のないところにいきなり行って仕事を教えてくれなどと言っても上手くいくわけがない。
例え隷従契約を結んでもいいから弟子にしてくれと頼み込んでも、恐らくは断られるだろう。
両親は取りあえず今は好きにさせておく方針だったようだし、カイルも妹に余計なことを言ったことはない。
現実を突きつけるのは自分の役目だとは思わなかったし、はっきりいえばそんな役目はご免だった。
だが、結局はそんな機会は誰にも与えられないまま、永久に失われることになったのだ……
とにかく、そこまで仲の良い兄妹ではなかったが、それでも兄妹なのだ。今となってはただ一人残された家族だ。
両親が魔物に殺され、カイルの憎しみは魔物と、迷宮そのものに向かった。
本来、性格的にカイルの行動原理は単純なのだ。
『やられたら、やり返す』
恩には恩を、仇には仇を。
借りは返さなければならないし、復讐は果されなければならない。
一発殴られれば、こちらも一発殴り返す。……できればさらにもう一発くらい。
したがって、家族が全て亡くなっていたなら、間違いなくカイルはただ魔物を殺すことを目的に行動していただろう。
無謀なまでに迷宮に侵入し、今頃は命を落としていたかもしれない。
だが、カイルにはただ一人、残された家族がいた。
妹がある意味カイルのストッパーになっている。
妹を石にしたまま、怒りに身を任せてしまうわけにはいかない。
復讐に向かうはずのカイルの憎しみの念は、微妙に方向を変えて、妹を救う方向に向かっている。
だから、目的が妹を救うという前向きなものであったとしても、原動力は暗い、心の底に澱のようにわだかまる恨みだ。
全てはアイラを助けてからだ。カイルはそう思う。
その後なら、思う存分復讐のために行動できる。怒りの炎に焼かれることができる。
アイラを助けた後でも冒険者を辞める選択肢はカイルにはない。
画家になることを望んでいたはずなのに、今では画家として働く自分を想像することさえ難しいのだ。
◇◆◇
「おい、カイル!」
相変わらず裏庭で剣を振り続けるカイルに呼びかけたのは、隣のパン屋の息子のマットだった。
水色の髪と緑色の瞳を持った少年で、カイルと同じ十四歳。五歳上の兄がいる。
将来はかなり粗忽なところのある兄を手伝ってパン屋を継ぐつもりでいる。
あまり才走ったところがない少年だが、面倒見がいいので近所の子供たちを引き連れて遊んでいることが多い。
「おい、おいってば! カイル、無視すんなよっ」
しばらくの間は無視していたカイルだったが、あまりにしつこいので仕方なく訓練を中断した。
ランドとの稽古はすでに終わっていて、今はカイル一人で素振りをしていた。
「なんだよマット。僕は忙しいんだけど」
カイルがそちらを向くと、マットは一人ではなかった。
近所の子供を四人ばかり引き連れている。そして、なぜかその中にエリスもいる。
エリスは誰とでも仲良くなれるタイプというわけではない。普段はあまり大勢で行動することはないのだ。
別にマットとその仲間たちと仲が悪いわけではないが、それほど一緒にいるところは見ない。
多分、マイペース過ぎるのが原因だろうとカイルは思っている。
大抵は仲の良い女の子の友達一人か二人と一緒に行動している。
今はエリスと一番仲の良いシアも一緒だから、その付き合いでついて来ているのだろうか。
「カイル、ちょっと一緒に来てくれよ。お前冒険者だろ?」
「……そりゃまぁ、一応冒険者だけど、それがなにか関係あるのかよ」
「アリもアリ、大アリだぜ! 盗賊団を捕まえるんだ」
「は? 盗賊?」
詳しく聞いてみると、何のことはない、盗賊団とは路地裏で暮らす孤児たちのことで、盗む物というのは食糧なのだという。
「……大袈裟だな。子供がちょっとばかり食べ物をくすねただけじゃないか。どこが盗賊団だよ」
完全に興味をなくしてカイルが欠伸をする。
昨日からずっと剣を振り回していたせいで、背中の筋肉が痛む。
肩と首を回してみると、関節がコキッといい音を鳴らした。
「ちょっとばかりって程度じゃないんだ。毎日、必ず祠のお供え物を盗んでいくやつがいるんだよ。それも一人や二人じゃない」
「ふうん。とにかく僕は忙しいからさ。他を当たってよ」
もはやカイルは聞く耳を持たないようだった。
さっさと剣の訓練を再開してしまった。
もうこれ以上邪魔するなとばかりにブンブンと音を立てて剣を振り回す。
カイルに言わせれば、マットよりも食糧を盗んでいく孤児たちの気持ちのほうがよくわかるのだ。
毎日食べるものを確保するのに必死になる孤児たちが、道端に放置されているお供え物を取っていくことになんの不思議があるだろう?
むしろ当たり前のことだ。
魔物の氾濫で家族を失くしてからフォルドに拾われるまでのほんの数週間とはいえ、路地裏で暮らす孤児だったカイルも毎日の食糧を得るのに必死だった。
週に二度の配給に並ぶだけではまったく足りない。
裕福そうな家の裏口の戸を叩き、なにか食べ物をもらえないかと、懇願したこともある。
食堂の残飯を目当てにゴミを漁ったことすらある。
そんな孤児が目の前に食糧を見せられて、取っていかないとでも思うのだろうか? なぜその程度のことに腹を立てるのだろう?
いちいちそんなことで孤児たちを咎めだてしようとするマットのほうが、カイルには不思議に思える。理解しがたい。協力する気になんてとてもなれない。
「チェッ、冒険者のくせに使えないヤツめ」
マットは舌打ちした。
もともとあまり付き合いの良いほうではなかったが、以前はもう少しカイルもこちらの誘いに乗って来たのに。
最近では脇目もふらず剣の訓練ばかりしている。
「仕方ないな。まぁ別にカイルがいなくたってコソ泥の一人や二人、なんとかなる。行こうぜ」
マットはそう言って、近所の少年たちを引き連れて行く。
「マット、ちょっと待て」
「なんだよ」
急に呼び止めて来たカイルを、マットが胡散臭げに振り返る。
「一応言っとくけど、孤児なんかに関わらないほうがいいと思うぞ。絶対、碌なことにはならないからさ」
「……それは自分の経験から言ってんのか?」
「どうぞ、好きに取ってくれよ」
「ふん、じゃあ俺も一応覚えておく。……行こうぜ」
エリスは何か言いたげな目でカイルを見ていたが、結局何も言わなかった。