6. 小鬼の狩り場②
(こいつはなにを言ってるんだ?)
さっきのカイルは絶体絶命だったはずだ。いや、ゴブリンの一撃を受けてもそれで死ぬわけではないだろう。
だが、間違いなく無傷では済まなかったはずだし、迷宮で酷い怪我を負うということは死ぬのとほぼ同義である。
カイルはソロで迷宮に潜るつもりなのだから尚更だ。
それを助けられておいて、言うにこと欠いて余計なお世話だと?
レイクがそう思うのは当然だったが、カイルにはカイルの言い分があった。
「この一戦でもう迷宮を出るっていうのに、レイクがやってしまったらなんの経験にもならないだろ!」
「バカが! 俺が手を出さなかったら、経験どころか、お前は小鬼にやられてただろうが!」
「そんなのやってみなきゃわからないっ」
威勢よく怒鳴ってはいたが、実はこのときカイルの中の冷静な部分が、このままじゃまずいと訴えていた。
けたたましい警告音が、頭の中で鳴り響いていたのである。
第一、ついさっきまでカイル自身、今は我慢するときだと考えていたはずだ。
すぐにレイクに自分が間違えていたと謝って、許しを請うのが正解のはずだ。
新米のカイルのために付き添ってくれているレイクの、機嫌を損ねても良いことなんかなにもない。
だが、それがカイルにはできなかった。
せっかく自分が仕留めるはずだったのにと、熱くなってしまったカイルの気持ちが譲らない。
どうしても、カイルの戦闘に割り込んだレイクが許せなかった。
レイクはカイルの胸ぐらを掴んで持ち上げた。
本気で苛立っていた。このクソ生意気な小僧をどうしてやろうか。
「わかるんだよ! あのまま放っておけばお前は間違いなく魔物の爪を食らっていた」
だが、吊り上げられながらも、カイルの目はレイクを睨んで動こうとしない。
「だからどうした! 無傷かどうかなんて関係ないっ。僕は絶対にあいつを倒して、その分の【混沌の雫】を手に入れていたんだ!」
「………………チッ」
いくら睨みつけてもカイルの視線が動かないのを見ると、レイクはカイルの胸ぐらから手を放す。
その場に尻もちをついたカイルだったが、すぐに立ち上がってレイクに詰め寄る。
「フォルドの言いつけだから、付き添いに来るのは仕方ないし、指示だって守るさ。けど、僕の邪魔はするな。僕は早く強くならなきゃならないんだ」
「お前……」
レイクは、カイルの鉄色の瞳の中に狂気を見た気がした。
「くそっ。付き合いきれねぇぞ。こんな狂ったガキには」
背筋に走った怖気を気づかなかったことにして、レイクは吐き捨てる。
「……おい、カイル。アレを見ろ」
レイクはカイルの斜め後ろを指差した。
「……?」
カイルは眉根を寄せ、まだ興奮冷めぬまま、それでも後ろを振り返る。
そこには倒れ伏す一人の若いドワーフの冒険者がいた。
仲間の女戦士が、動かない仲間の元に近寄らせまいと、必死で小鬼の攻撃を防いでいる。
「小鬼なんか、弱いもんだ。冷静に一対一でやり合えば、まず負けることはねぇ。駆け出しの【星無し】だろうとな。だがそれは、普段通りの実力の出せる万全の状態でなら、の話だ。実戦は違う。そういうわけにはいかねぇ。あのドワーフになにがあったかは知らねぇが、たった一度足を滑らせた程度のことでも十分なんだ。誰だってああなる可能性は常にある」
そこでレイクはごく普通の足取りで、だがそれなのにカイルよりもずっと素早く女戦士の元に近づくと、一瞬で小鬼を蹴散らした。
あまりの手際に呆然とする女戦士には一顧だにせずに、レイクは倒れたままのドワーフの冒険者に、魔法薬を容赦なくぶちまけた。
だがそれでも、ドワーフの若者は息を吹き返しはしなかった。
「チッ、魔法薬が無駄になっちまったか」
レイクは舌打ちして魔法薬の瓶を投げ捨てる。
直後、ドワーフの冒険者の左手の甲が魔法陣の形に輝く。
かと思うと、その魔法陣から上下に細長い八面体の形をした精霊石が出現して、高く浮かび上がる。
その精霊石には、透明な液体が九割方溜まっていた。
「ランクアップまで、あともう少しだったんだ……」
カイルの口から、呟き声が漏れた。
それまでこの冒険者が迷宮で命懸けで戦った成果。それを惜しんで、カイルが目を伏せる。
そして次の瞬間、精霊石は砕け散る。
中の【混沌の雫】が飛び散る。だがそれは、地面に落ちる前に空気に溶けるように消えていった。
精霊石自身も、キラキラと輝きながら細かい砂粒にまで砕けて、そしてやはり消滅してしまう。元々そんなものが存在しなかったように。
これが冒険者の最期だ。死と共に、精霊石は砕け散る。それまで必死に魔物を倒すことで溜めていた、【混沌の雫】もまた失われるのだ。
「あ、あのっ、ありがとうございました。仲間に魔法薬を使ってくれて。代金は必ず払いますので」
「ああ、いい、いい。気にするな。俺が勝手に使っただけだ。無駄だったわけだしな。代金なんか取らねぇよ」
頭を下げる女戦士に、面倒くさそうにレイクはひらひらと手を振った。
女戦士は、もう一度レイクに頭を下げ、仲間の身体の上に覆いかぶさると、小さく嗚咽を漏らした。
力なく倒れ伏したドワーフの冒険者は、まるで眠っているように見えた。
死んでいると理解はしているが、実感がまるで伴わない。見ていてつらいのは、死体よりも泣いている女戦士のほうだ。
カイルはそんな二人をジッと見ていた。
「わかるか? これが冒険者なんだぜ?」
カイルの肩を掴んで、一度強く握ってから、レイクは「おい、帰るぞ」と言ってカイルの返事を待たずに歩き出した。
◇◆◇
「おい、さっきまでの威勢はどこにやった? あん?」
嘲るレイクの声に、言い返すこともできずにカイルはただ荒い息を吐く。
迷宮酔いだった。
迷宮では、ただそこにいるだけで魔力を消費していく。
そして魔力が欠乏すると、眩暈や酩酊感、それに頭痛などが起きる。酷いときには意識を失うことすらある。
この症状を、冒険者たちは迷宮酔いと呼ぶ。
冒険者としては魔力の少ないカイルは、この短い迷宮探索であっさりと魔力を使い果たし、迷宮酔いになってしまったのだ。
だが、明らかに意識が朦朧としているのがわかるのに、カイルは泣き言も言わなければ、足を止めようともしない。
足元をふらつかせ、しきりに頭を左右に振りながらも、必死に迷宮の出口に向かって歩き続けていた。
(こいつ、マジで根性だけはありやがんな)
ここで倒れて動けなくなってしまうくらいのほうが、まだ可愛げがあるというものだ。
それならば、レイクは生意気な後輩に「自分がどれだけ未熟なのかわかったか?」とでも説教して、次回は少しはやり易くなっただろう。
だが、カイルにはそんな可愛げはない。
明らかに迷宮酔い、それも結構酷いそれに罹っているというのに、泣き言ひとつ口にしない。そのおかげでレイクが口にできるのはちょっとした嫌味くらいのものだ。
仕方なくレイクは舌打ちして口調を改める。
「おい、なんだってそんなにお前は焦って強くなろうとする?」
「……」
カイルは口を開く体力も残ってないのか、ただ訝し気にレイクを見返すだけだ。
「いや、わかってるぜ。一応はな。お前が妹を助けるために例の【笑う魔物】をぶっ殺そうとしているのはよ」
たまたまそこに現れた蜘蛛の魔物を、会話の片手間に投げたナイフで簡単に始末して、レイクは続ける。
「そのこと自体は立派だと思うぜ。冒険者としても、この街に住む者としてもな。だが、あの魔物は、お前のような新米がどうにかできるような代物じゃねぇ」
昨年の魔物の氾濫で迷宮の外まで出て来たあの魔物は、川を渡って西岸地区の職人街に現れた。
そして、そこで多くの犠牲者を生んだのだ。
都市の一般住人たちだけではない。犠牲者には冒険者も、それに騎士さえも含まれていた。
【笑う魔物】と呼ばれるそいつは、職人街を好き勝手に歩き回り、まるで足跡のように石に変えた都市住人を後に残して消えた。
そして今は迷宮の中層にいて、やはり多くの冒険者と騎士に被害を出している。犠牲者は今、白い石となって迷宮に取り残されているという。
正直、現在【四星】であるレイクですら挑もうという気にはならない。
「助ける前にお前が死んじまったら元も子もねぇだろうが。妹のためにも、もっと慎重にやるべきなんじゃないのか」
カイルは自分の腰ほどまでの高さのさほど大きくもない段差に、両手をついて渾身の力で乗り越える。
震える膝を無理矢理伸ばして立ち上がると、先を歩く獣人の背中を睨みつけた。
感情のままに叫びたくなったが、なんとかカイルは自制した。
迷宮に来たのは今回が初めてではなかったが、まともに魔物と戦ったのは、今日が初めてだ。
初めての実戦。初めての命の遣り取り。そして初めて魔物を殺したのだ。自分が冷静ではないことを、カイルは自覚していた。
レイクは言い方はともかく、カイルのことを考えて助けに入ってくれたのだし、今も忠告をしてくれている。それはわかっている。
なのに、どうしてこうも腹が立つのか。
自分が怒りを抱くのは間違いなのだと、わかるのだ。
それでもどうしても沸々と怒りがこみ上げる。
「……時間がないんだ。石にされたアイラの魔力が、徐々に小さくなってきてるのがわかるんだ。魔力がなくなれば、きっと父さんのように、砂になって崩れ落ちてしまう」
石にされた都市住人たちに共通するのは、魔力を持っているということだった。
魔力を持っていない者が石にされたときには、石像とならずに砂となって崩れ落ちるのだ。
そして魔力を持っている者も、石にされている間に徐々に魔力を失っていき、そして完全に魔力を失ったところで砂に変わることになる。
実際、昨年の魔物の氾濫からの一年で、石にされた者たちが次々と形を失い、砂に変わってしまったのだ。
今となっては、恐らくまだ人の形を保っている石像は、そう多くはないだろう。
幸いカイルの妹はそれなりに多くの魔力を持っていたらしく、今でも形を保ってはいる。だがそれも、どこまで長く続くか定かではない。
「だからといって、お前が死んでも結局は同じことだろうが」
「僕は、死なない!」
「そうやってバカみたいに死なない、死なないと連呼してりゃあ死なずに済むのかよ」
迷宮ってのはそこまで甘いものじゃないとレイクはカイルに言い聞かせる。
「誰だって自分が死ぬと思って迷宮に潜るようなやつはいねぇんだ。それでも毎日何人も、下手したら何十人も死んでいく。お前だってすぐにその仲間入りするぜ、今のままじゃな」
正論だ。疑いようもない正論だ。腹が立つくらいに。
そんなことはカイルだってわかっている。理解している。だが、それを認めて、その後に残るものは何だ?
どうしようもない、どうすることもできない、クソみたいな現実だけではないか。
ならばそんな正論はクソ食らえだ。
「……なら、レイクが僕の代わりにあいつを倒してくれるって言うのか?」
「……いや。それは無理だな。やってみようなんて気にもならねぇよ。【七星】の騎士ですらやられたんだ。分が悪すぎるぜ」
「ハハ。だろうね」
カイルは乾いた笑い声をあげた。
結局そうなのだ。レイクが言いたいのは、妹のことは諦めろということだ。少なくとも自力で助けるのは無理だと。
それならばカイルが冒険者をやる意味などなくなるのだが、レイクはカイルが冒険者をやるのにも反対なのだから、それでいいのだろう。
ある意味では主張が一貫しているとも言える。
冒険者を辞めてどうするか?
カイルは自問してみる。
なんとか、父の工房を立て直そうとするのだろうか。画家組合に頼めば、資金を融通してもらえるかもしれない。
借金で工房を修復し、絵の修行を続ける。工房の主人として絵画工房を開くためには、営業認可があるだけでは足りない。
工房長として、カイル自身の実力を認められる必要がある。
組合の審査のために絵を毎日描くことになる。絵を描くことは好きなのだ。特に苦痛ではない。そのこと自体は別に不満はない。
一日中カンヴァスの前に座り、集中して絵を描く。
そして疲れ切って、寝室に戻り、そして、……そこで石になった妹の姿を見るのだ。
毎日少しずつ減っていく妹の魔力を感じて、残り時間を数えながら、運よく誰かがあの【笑う魔物】倒してくれるのを待つ……
(そんなのお断りだ!)
カイルにはとても耐えられない。無理なのだ。
それに比べたら、冒険者として暗い迷宮に潜り、醜悪な魔物と殺し合ったほうがよほどマシだ。
ふらつく足を一歩一歩前に出す。
足元の石に躓いて転びそうになるが、踏ん張ってなんとか堪えた。
「僕が考えなきゃならないのは助けるためにどうすればいいか、それだけだ。強くならなければならないなら強くなる。強くなるために魔物を倒さなければならないなら倒す。誰にも邪魔はさせない」
「……ああそうかい。勝手にしろ」
結局それからも、カイルはレイクの手を借りずに迷宮を出るまで自力で歩き切った。
大穴から出たところで天を仰いで倒れ込んでしまったが。
たった二刻足らずの迷宮行でここまで消耗するようでは、カイルが自分で言うほど強くなるなんて、とてもレイクには考えられない。
だが、少なくともカイルが自分が強くなることを信じ、それに向かって一直線に進もうとしていることは、認めざるを得なかった。
◇◆◇
その夜、フォルドの私室で今日のカイルの様子を尋ねられたレイクは珍しく言い淀んだ。
「……どうもこうもねぇよ。俺はあいつが冒険者に向いてるとはとても思えねぇ」
「ああ。実際見てみても、意見は変わらなかったわけか」
妙に疲れた様子のレイクを見て、フォルドは苦笑する。
「当然だ。ありゃどう見ても、ほんの少しの間目を離せば、その隙にあっという間に魂が冥界に逝っちまうぜ。闇の女神に魅入られた、ってやつだ」
闇の女神は冥界を統べると言われている。したがって、闇の女神に魅入られるとは、常に死の縁を彷徨っているような者に対して使う言葉だ。
「魔物が目の前にいないときならまぁ、それなりに冷静に行動できるようだが、いざ魔物が現れたら、もう倒すことしか考えてねぇ。そうなると魔物以外の物は全て目に入らねぇんだろう。自分が死ぬか魔物が死ぬか、二つに一つだ」
カイルの戦い方は、魔物のそれに近かった。
決して退こうとしない二匹の魔物が、自分の身体がどうなろうと意に介さずに、ただ互いに相手を殺そうとぶつかり合う。
レイクの目にはそんなふうに映っていた。
「そこは俺も心配してる。このままじゃすぐに死んじまいそうだってな。だがそれだけか?」
フォルドはレイクの目を覗き込む。その目で見られると、レイクは心まで覗き込まれるような錯覚を覚えてどうにも居心地が悪くなる。
なにしろ、目の前の男は【百目】のフォルドと呼ばれるほど、優れた感覚の持ち主だ。そう感じてしまうのも無理はなかった。
「あー」
レイクは上手い言葉を探して目を泳がせる。
殺風景な部屋の中で、大きな暖炉が目に入る。
夏の今は、ただ煤で黒く汚れた小さな穴でしかないが、冬になればなくてはならない最重要設備へと変わる。
暖炉の上の壁には、三本の短い木の棒と布で作った、六角形の飾りが掛けられている。
この世界を創った、六柱の神々を信仰する、六精神教のシンボルだ。
「カイルの根性は認める。覚悟みたいなものも伝わって来た」
「ふむ」
「だが、そんなものは実力がなければなんの意味もない。ただ死ぬのが早まるだけだ。やはり俺はあいつはすぐに冒険者を辞めさせてやるのが正しいと思うぜ」
「ううむ」
フォルドの表情になにか反論がありそうな雰囲気を感じ取ってレイクは顔をしかめる。
「なんだよ、なにか言いたいことでもあるのか?」
「お前の言うこともわかる。俺も半分は同じ意見だ」
「じゃあ残りの半分はなんだって言うんだよ」
「あー、この前エリスとも似たような話をしたんだがよ……」
「あん?」
訝しむレイクに、フォルドは自分の考えを言って聞かせた。
冒険者にもっとも重要な資質はどこまでも迷宮に潜って戦い抜く覚悟だということ。そしてその覚悟という点ではカイルは優れた資質を持っているということを。
「だからな、迷宮を破壊するという目的のためには、才能のある冒険者ってのは、まずどこまでも、迷宮を破壊するまで潜る覚悟のあるやつのことを言うんだ。そしてそういう意味じゃ、カイルのやつはレイク、お前よりもよっぽど才能があると言えなくもない」
「……」
なにやら理不尽な非難を受けたような気分で、レイクは反論したいところだったが、どう反論したものか、すぐには言葉が出てこなかった。
認めたくはないが、フォルドの言うことにも一理あると認めざるを得なかった。もちろん、ひとつの考え方としては、だが。
「もちろんお前だけじゃないぜ。俺だってそんな覚悟はない。だからある意味、俺よりもカイルのほうが才能があるってことだ」
「……いや、それはないだろ。さすがに、いくらなんでもよ」
【十星勇士】にして【百目】の二つ名を持つフォルドよりもあの駆け出しのほうが才能があるなどと、とても認められるようなことではない。
だがフォルドは、真面目な顔で首を振る。
「本気だぜ。俺は運よく【十星】まで来たが、これ以上無理して深層まで行こうなんて思っちゃいない。エリスのこともあるしな。死にたくないんだ。カイルのように自分の死なんぞ無視して突っ込んでいくような真似は無理さ」
「あんなやつ、どうせすぐに死んじまうぞ」
「多分な」
「……おい」
それじゃ、今までの話は何だったのか、と、レイクは白い眼でフォルドを見る。
「だがな、迷宮を攻略するという意味じゃ、俺たちみたいな覚悟のない人間よりは、例えすぐ死ぬかもしれないとしても、覚悟のある人間のほうが貴重なんだよ。カイルのようなやつが一〇〇人いて、そのうちたった一人生き残ったやつが英雄になってくれりゃいいんだ」
「はっ。九九人が死のうと、どうでもいいってわけか」
「そうだ。そんな考えが気に入らんのはわかるが、迷宮攻略ってのを話の中心に据えれば、そうなるんだ」
「そしてそういう視点で見れば、カイルは才能がある冒険者ってことか」
「まぁな」
レイクは恐ろしく苦い薬でも飲んだような渋面を作る。
「俺もそこまで割り切れるわけじゃないがな。知ってるやつにはなるべく死んで欲しくないとも思う。だがな、迷宮は潰さなきゃならん」
「はっ、世界を守るために、か?」
「そうだ」
冗談のつもりで言ったレイクの台詞に、フォルドは真面目な顔で頷いた。
「多分、カイルは死ぬだろう。だが、俺にはカイルに冒険者を辞めろとは言えん。あいつ自身の希望もあるが、それだけじゃない。冒険者として、自分よりも有望な相手に冒険者を辞めろとは言えないだろうが」
「一〇〇人中、九九人は死ぬとしても、か?」
「一〇〇〇人中、九九九人が死ぬとしても、だ」
「……わかったよ。いや、納得はできねぇが、そういう考えもあるってのはわかった」
レイクは、部屋を出ようとして、扉を開けたところで振り返る。
「ああ、ひとつ言い忘れてた」
「……なんだ?」
「カイルのやつにはまだソロでの迷宮探索を許可しないんだろ?」
「ああ。お前の話を聞いた限りじゃ、まだ無理だろうな」
レイクはひとつ頷いて続ける。
「なら、また誰か付き添いをつけるんだろうが、カイルに、ヨナをつけるのは絶対に止めたほうがいいぜ」
「ああ、俺もそのつもりだ。ヨナに教師役が務まるとも思えんからな。……でも、一応お前がそう思った理由を聞いておこうか」
「ヨナのやつは、カイルと噛み合い過ぎる。暴れ馬に鞭をくれてやるようなもんだ。完全にコントロールが効かなくなるぞ。そうなればカイルなんかあっさりとお陀仏だ」
そしてフォルドの返事を待たずに、部屋を出た。
◇◆◇
一方カイルは、迷宮から戻ってからずっと、――夕食の支度をする時間を除いて――クランハウスの裏庭で剣を振り続けていた。
最初は、レイクに歯向かってしまったことを後悔して落ち込んでいたのだが、すぐにクヨクヨ悩んでも仕方ないと切り替えた。
あのときはどうしても頭に血が昇ってしまって、我慢ができなかったのだ。
初めての戦闘で興奮したせいなのだろうと、カイルは思う。
たった三回小鬼と戦っただけだが、それでも今日はカイルにとって初めて実戦を経験したのだ。忘れないようにそのときの経験を身体の奥のほうに刻み込んでおきたかった。
(あのとき、真っ直ぐ向かってきた小鬼に対して僕は、こう……)
自分の動きをおさらいし、もっと効果的に相手を倒せる動きはなかったか、頭の中で検討する。
「右手の爪を振り下ろしてきた相手に、それを受けるんじゃなく、こう、横にくるっと回って躱せば……、いや、この態勢じゃ反撃しにくいな……」
最初に戻ってもう一度初めから検討しなおす。
「大体、相手の先制攻撃を受けた時点でもうダメなんだよな。本当は……」
両手で木剣を握って、真上から真っ直ぐに振り下ろす。
「この一撃で終わらせられれば最高。だけど、僕の場合リーチが短いからなぁ」
それでも小鬼よりは長いのだが、経験の浅いカイルには、相手の攻撃が届かず自分の攻撃が一番効果を発揮する、丁度良い間合いを測るのが難しい。
「……間合い、間合いか。まずはそこだけ意識してやってみるか」
カイルは目を瞑り、今日見た小鬼の突進のスピードを思い出す。
絵の修行をしていたおかげか、目で見た映像を頭の中に再現するのは得意なほうだ。
「フッ!」
短く息を吐きだして、木剣を振り下ろす。
「うーん」
自分の動きに納得できずにカイルは顔をしかめる。
「なーんか、へろっとしてんだよな。フォルドが振ると、びゅって感じなのに」
リーチの短さを補うことができるとしたら、それは剣の速さだ。
相手とリーチにあまり差がないと、タイミングはシビアになる。だが、剣の振りが速ければ、多少のタイミングのズレはカバーできる。
すぐに身体を成長させることはできないが、剣の振りは練習次第でもっと無駄のない動きにできるはずなのだ。
取りあえず、今日は剣を振り下ろす基本の動きだけを練習することにカイルは決めた。
一度そう決めれば、カイルはひたすらに剣を振り続ける。
余計なことを考えずに、ひとつのことだけに集中できる時間はカイルは嫌いではなかった。
昔を思い出すからかもしれない。一心不乱に絵を描いていたあの頃を。
いつの間にか【天央の燈篭】の明かりも消え、都市が闇の女神の腕に抱かれても、カイルは剣を振り続けた。
このとき、カイルは周囲の明るさなどはほとんど意識していない。
身体の外よりも、内に集中した状態とでも言えばいいだろうか。
だが突然、横合いから衝撃を受けてカイルは木剣を弾き飛ばされた。
「よ、カイル。剣筋を整えることばかり考えすぎてるナ。速く、真っ直ぐに剣を振ることを意識しすぎて、握りが甘いゾ」
カラリと笑いながら、カイルの木剣を飛ばしたのは、女蛮族の少女だった。
少女の名前はヨナ。レイクと同じ【緑水の渦】のメンバーで、十七歳の女蛮族の戦士だ。
女蛮族らしく黒髪、黒眼の少女で、長髪を後ろで一本の三つ編みにまとめている。
ただ、波打った髪が一筋、二筋、顔の両側を流れ落ちている。
そして、やはり女蛮族らしく美しい少女だ。
美しさにも色々あるが、女蛮族の美しさは肉感的な美しさだ。
冒険者の間でよく言われる冗談に次のようなものがある。
『鑑賞するなら森妖精、嫁にするなら人族、そしてベッドを共にするなら女蛮族が一番』
ただ、これは多分に男の強がりを含んでいる。
女蛮族は好色だとよく言われるが、決して誰でもいいわけではないからだ。
気に入った男に対して積極的なのは間違いないし、彼女たちに誘われて過ごす夜は甘美なものだ。――少なくともそう言われている。
だが、男の好みには非常にうるさいし、お眼鏡に適わない者は邪険にあしらわれる。それでも諦めない男は実力行使によって排除されるのだ。
それはともかく、確かにそんなふうに噂されるだけあって、彼女たちは大抵、胸も腰も豊かで、しかもそれを見せつけるように肌が多く露出した衣装を身に着けている。
ヨナもそんな女蛮族のスタイルに忠実なひとりで、スラリとした黒に近い褐色の四肢を大胆に見せつけている。
言葉に不自由はまったくないが、少しだけ訛りがある。
これは、女蛮族には独自の言語があって、彼女たちの領地では今でも共通語ではなく、そちらの言葉を使っているからだ。
「いいんだよ。今は練習なんだから。ものには順序ってものがあるだろ? まずは真っ直ぐキレイに剣を振ることを意識してやってるんだ」
カイルは、レイクとはまた違った意味で、ヨナのことも少し苦手に感じていた。
レイクは明らかにカイルを侮っていて、それをまったく隠そうともしない。何度か「お前は冒険者に向いてないから、画家にでもなれ」とはっきり言われたこともあった。
そしてヨナはと言えば、ガサツでデリカシーがなさすぎるのだ。
カイルだってそう繊細なほうではないし、そもそも冒険者にそんなものを求めるのが間違っているのだが、そんな冒険者の中でもとりわけヨナは無神経なのだ。
ずけずけとものを言うし、遠慮がない。
何も考えずに行動し、それを自認するどころか、美点だと信じているのだ。
せっかく無心で練習していたところを邪魔されて、当然ながらカイルは苛立った。
それでも弾き飛ばされた木剣を拾ってもう一度剣を振ろうとしたところでまた剣を飛ばされた。
さすがに腹が立ってヨナを睨みつける。
だがヨナはまったく悪びれなかった。
「バカだナ、カイルは。そんなただ真っ直ぐ剣を振る練習したって意味ないだロ。実戦で練習と同じように剣を振るわけないンダ。無駄なことは止めて寝たほうがいいゾ」
これを純粋な善意で言ってるところがヨナの質の悪いところだと、カイルは思う。
ヨナは極端な実戦派で、練習は意味がないどころか有害だと考えている。戦闘に必要な技術も力も、全て実戦で身につければいいというのが彼女の持論だ。
いや、彼女の、というか、女蛮族という種族がそういう考え方なのだろう。
女蛮族という種族は、脳筋というか、とにかく考える前にやってみろという感じらしい。
まず行動。次に行動。とにかく実践あるのみ。
それで死んだとしても「あいつは運が悪かった」で済ませてしまうようなおおらかさ(?)がある。
もしヨナがカイルの立場だったなら、なにも悩むことなく、フォルドの言いつけなど無視して迷宮に向かうのだろうか。
そして、その結果どうなろうと、後悔をしないでいられるのだろうか。
答えはわからない。だが、カイルはそこまで単純には割り切れそうもない。
「いいから放っておいてくれよ。ヨナには関係ないだろ」
「まァ、関係ないと言えば関係ないかナ。ワタシはマスターから、カイルの迷宮探索に付き合う必要はないって言われてるしネ」
「……そうなのか?」
フォルドは迷宮の付き添いを頼むのは【緑水の渦】が良いと言っていたし、ヨナだってそのパーティの一員なのだ。それなのにヨナはダメなのだろうか?
「ワタシは後輩の指導に向いてないんだとサ。失礼よネ?」
「ああ、そういうことか。なるほど」
「なに納得してるのヨ?」
感覚派というか、物事を頭で理解するというより、肌で感じて理解するようなタイプのヨナは、確かに人に教えるには向いていないかもしれない。
一方、ヨナはレイクのように口うるさいタイプじゃないから、カイルにとってはヨナが付き添いのほうが好都合という気もする。
(でも、せっかくなら色々教えて欲しいってのもあるんだよな)
自分よりもよほど経験がある冒険者に教わるチャンスはそう多くない。
せっかく好き添いについてもらえるなら、ちゃんと冒険者として必要なことを教わりたいという気持ちもあるのだ。
「カイルは今日、随分迷宮で無茶をしたってレイクから聞いたから、ちょっと一緒に潜ってみたいんだけどネ。ワタシ、無茶をする冒険者って好きだからサ」
「そ、そう? それは、その……ありがとう?」
無茶をして褒められた経験のなかったカイルは、なんと答えたものか戸惑ってしまう。
しかし同じパーティだというのに、レイクとヨナでは随分言うことが違う。
「今日、カイルは初めて迷宮に行ったんだロ?」
「いや、違うよ」
「エッ? そうなのカ? マスターが今日初めて、カイルに迷宮に入る許可を出したって聞いたんだけド?」
珍しくヨナが驚いて目を丸くする。
「うん。実は僕がフォルドのところに来る前にも、一応何回か迷宮に潜ったことはあるんだ。一人でね」
「ああ、なるほどネ。じゃあ魔物を見るのも、今回が初めてではなかったのカ?」
「そうだね。見たことはあったよ。……ただ、戦ったことはなかった。前のときは、戦おうにも武器も防具もなかったから、隠れてやり過ごしたんだ」
「ってことは、魔物を仕留めたのは、やっぱり今日が初めてカ?」
「うん、そう」
頷くカイルに、ヨナは「なら無駄にならなくて良かっタ」と笑う。
「なにが?」と不思議がるカイルを手招きすると、近寄ってきたカイルに、ヨナは革紐と獣の牙でできた素朴なペンダントを見せた。
「これってなに?」
「お祝いだヨ。初めて獲物を仕留めた者にあげるンダ。うちの氏族の慣習でネ。本当は仕留めた獲物の身体の一部を使って作るのがいいんだけどサ」
初めての獲物が迷宮の魔物だった場合、魔物はすぐに迷宮に吸収されてしまう。
「そういうときは仕方ないから、代用品で済ませるンダ。これは狼の牙だヨ」
そう言ってヨナは、カイルに後ろを向かせて、その首にペンダントをかけた。
「これでヨシ。カイル、随分遅かったけど、始めての狩りの成功おめでとウ」
「……なんか微妙な誉め言葉だけど、ありがとう」
なんでも女蛮族の場合は、大抵は十歳にもならないうちに最初の狩りを経験するのが普通らしい。
それと比べれば、今十四歳のカイルは確かに遅いだろう。
「最初が遅くても、これから取り返せば問題はないサ。カイルは早く強くなりたいんだロウ?」
「もちろんだよ」
「なら、無茶をするのは正解だヨ。レイクなんかは止めるだろうけどネ」
「……僕は別に無茶をしようと思ってるわけじゃないんだけど」
カイルが少しばかり不本意そうにそう言うと、ヨナは「アハッ」と破顔した。
「それはいいネ。うん、悪くないヨ。その調子でやると良イ」
「……なにを褒められたのかよくわからないけど、わかった」
カイルは首を捻るが、ヨナはまったく気にせずに話を続ける。
「カイル、知ってるカ? 今までで一番ランクアップするのが早かった冒険者のことをサ」
「一番ランクアップが早かった冒険者?」
カイルが知らないと首を横に振ると、ヨナはそうだろうと頷く。
「あまり広まっていないんだヨ。多分、真似する新米冒険者が出たら困ると思って、わざとギルドで広めないようにしてるんだろうネ」
「……それは、つまりよっぽど無茶をしたってこと?」
「その通りサ。なんと、そいつは、冒険者になって僅か九日で【星無し】を卒業し、【一星】となったンダ」
「九日って、冗談だろ?」
カイルは信じなかった。
いくら何でもそれは何かの間違いだろうと、カイルは眉をひそめる。
冒険者がランクアップするのにかかる期間はバラバラで、あまり参考になるようなデータはない。
安全に配慮して行動すればするほど必要な期間は長くなり、リスクを冒せば短くなる。
もっとも安全な方法でランクアップしようと思えば三年かかるし、迷宮で積極的に戦えば一年もかからないだろう。
あまり比較する対象がないので、早いとか遅いとか、一概には言えないのが普通だ。
だが、九日というのはそんな常識の範囲を余裕で飛び越えて異常だ。
あり得ないと言ってもいい。
「あり得ないと思うのが当然だけどネ、でもこれは本当なンダ。ワタシが直接ギルドの職員に聞いた話だからネ」
ヨナはまるで自分の手柄を自慢するように胸を叩く。
「その冒険者はネ、実は……」
「実は?」
「迷宮で迷子になったのサ」
「なんだそりゃ!」
ヨナは「カイルもなかなかノリがいいネ」と、嬉しそうにケタケタと笑う。
「でもホントなんだヨ。その冒険者は、楽観的で、考え無しだったンダ。一人で迷宮に入り、どんどん先に進ンダ。あまり何も考えずにネ」
そして、何匹か魔物を倒し、そろそろ戻ろうかと思ったところで、勝てない魔物に出会ってしまった。
慌てて逃げ出し、なんとか敵を撒こうとして走り回るうちに、完全に迷ってしまう。
「……でもその冒険者、【星無し】だったんでしょ? ならそんなに深く潜ってはいなかっただろうし、そう簡単に迷うかな?」
カイルは訝しむ。
迷宮は深層に近づくほどどんどんと複雑になっていくのだ。表層は比較的構造が単純なはずだ。
だが、ヨナは「表層域だって迷うときは普通に迷うヨ」と答える。
迷宮の構造は複雑だ。
大まかに言えば、巨大な大穴を中心にして、螺旋を描くようにして地下深くに続いているが、その通路はときに枝分かれし、ときに合流し、複雑に続いている。
全てを網羅する正確な地図は存在しない。
立体的な構造なため、平面上に描くには限界があるし、未だ知られていない通路も多い。
それでも、迷ったときには上り坂を進めば良いと思われがちだがそれも違う。
上りだったはずの通路が、そのうち下りに変わることなどいくらでもある。
頻繁に上りと下りを繰り返し、全体としてどちらに向かっているかわからなくなることもある。
平らだと思っていた通路が、実は緩やかな坂だったりすることも珍しくない。感覚に頼って望む方向に進むことなど不可能に近いのだ。
「その冒険者は完全に道に迷って、誰にも出会わないまま、何日も迷宮をさ迷ったンダ」
「食糧は?」
「一応ある程度は持っていたらしいヨ。それでも足りない分は魔物を食ッタ」
「……魔物って食えるの?」
「美味いかどうかは知らないけどネ。迷宮に吸収される前に解体すれば、一応は食えるらしいヨ。素材を採取するのと同じ要領サ」
魔物は死ねば煙のように迷宮に吸収されるが、上手く瀕死の状態にしてやれば、素材を採ることもできる。
魔物の角や牙などがときに武器や防具のための素材になるため、わざわざ魔物の素材を狙う冒険者もいる。
だが、カイルは食べるために魔物を解体する話は聞いたことがなかった。
「でも、魔力だってさすがにきれるでしょ? 九日ももつはずがないよ」
カイルなど、迷宮で二刻も過ごせばそれだけで魔力がなくなるのだ。もし同じ【星無し】で九日も魔力がもつのだとしたら、あまりに不公平というものだ。納得できない。
「そりゃもつはずがないサ。当然魔力はきれル。そしてそのたびに眠ったんだろうネ。迷宮の中でも、眠ればそれなりに魔力は回復すル。そして、回復すればまた行動できるってわけサ」
「そんなこと……」
カイルは絶句する。
魔物が徘徊する迷宮の中で、何日も無防備で眠っては魔力を回復させたというのだろうか。
その調子で迷宮酔いのたびに眠っていたら、一日の行動時間はどれくらいになるのか。おそらく、一日に四刻も行動できなかったのではないだろうか。
そして残りの時間は運を天に任せるしかないのだ。
よほどの強運がなければとても生き残れるものではない。
想像しただけでもゾっとする話だ。
確かにこれは、ヨナが無茶だというのも当然だ。無茶というか、無茶苦茶だ。
正気の沙汰ではない。狂気の業だ。だが、それをやれば――
「そして必死に迷宮で生き延びて、九日が経ったとき、その冒険者はランクアップしたンダ」
「……それって、その間によっぽどたくさんの魔物を倒したってこと?」
「そりゃ、生き残るために、出会った魔物で勝てそうな相手は倒したらしいけど、たった九日でそこまで大量の魔物は倒せないヨ。普通の冒険者がランクアップまでに倒す魔物の数よりよほど少なかっただろうネ」
「じゃあどうしてその冒険者はランクアップできたのさ」
「そこだヨ」
「そこ?」
ヨナは重々しく頷く。
「つまり、手に入る【混沌の雫】の量は、倒した魔物の数だけで決まるわけじゃないってことダ」
「……嘘だろ?」
ヨナは横に首を振る。
「え、本当なの?」
ヨナはコクリと頷く。
「誰がそのシステムを決めてるのかは知らないけどネ。どうやら、その誰かは、無茶をする冒険者が好みらしいのサ。絶体絶命の窮地を乗り越えた者。勝てるはずのない魔物を打倒した者。そういった冒険者は通常ではあり得ないほどの【混沌の雫】が与えられるンダ」
「そして、ほんの九日でランクアップした……?」
「そうサ」
そしてヨナは唆すような、挑発するような目でカイルを見る。
早く強くなりたいと言ったカイルには、その道を進む覚悟があるか、とその目が問いかけていた。
「……」
カイルの表情が、自然と引き締まる。目指すべき目標を見定めた顔になった。
正気じゃなかろうと、無茶苦茶であろうと、とにかくやればやれるのだ。実際、それをやった人間がいる。
ならば、カイルにできないと決まったわけでもないだろう。
他の冒険者にとっては、絶対真似してはならない、悪例だ。
だが、カイルにとっては福音だった。
「……ま、もしマスターが良いって言ったら、一緒に潜ろうネ。楽しみにしてるヨ」
機嫌よくクランハウスに戻っていくヨナを、カイルは複雑な気分で見送った。
どうもヨナはカイルを唆そうとしているようだ。性悪の悪魔のように。
強くなりたいのなら無茶をしてみろと。
なぜヨナがカイルにそうさせたいのかはわからないが。
(多分、あまり深い理由はないんだろうな)
なんとなくそんな気がする。
ただ、カイルの望みを知って、それを叶える方法があった。そういうことなんだろう。
つまりただの親切。もしくは好奇心。
そのちょっとした親切によってカイルが死ぬことになっても、それはそれで仕方ないとヨナは思えるのだろう。そこが普通の人と少し違うだけだ。
本当ならもう少し剣の練習をするつもりだったカイルだが、ヨナのおかげで完全に集中が切れてしまった。
カイルは、慎重に周囲の気配を探り、他に誰も近くにいないのを確認すると、左手の甲を上に向けて目を瞑る。
(来い……)
心の中で呼びかける。
カイルの手の上に、ひとつの石が浮かび上がる。カイルの頭の上にまで浮かび上がり、円を描いてくるくると回る。
透明な石だ。まるでガラスのような縦に長い八面体の石の中に、液体が入っている。
水のような透明の液体だ。それが石の中にほんの数滴ほど、溜まっている。
「チェッ。小鬼二匹じゃこんなものか」
ゆっくりと回転する精霊石と呼ばれる石の中で液体が小さく揺れる。カイルはその由来を知らないが、冒険者の間で、【混沌の雫】と呼ばれるものだ。
混沌の眷属である魔物を倒すことで、次第に石の中に雫が溜まっていく。
そしてこの液体が精霊石を満たすとき、カイルは最初のランクアップを果たすのだ。そうすれば、駆け出しの時期を脱して、カイルは表層域からさらに下層へと行けるようになるだろう。
より強い魔物を、より多く倒せるようになるのだ。そして魔物を倒すことで、さらに星を増やし、またさらに強大な魔物を倒す……
延々と続く冒険者としての道のり。その第一歩を記すのだ。
だが、このままではランクアップなど何時になるかわかったものではない。
(フォルドに内緒でこっそりとひとりで迷宮に入ってみようか、……いや、他の冒険者もいるのだから、多分誰かには見られるよな。……変装でもするか?)
思考の海に沈むカイルの耳に、小さな足音が聞こえてくる。
ハッと我に返ると、カイルは少し慌てて精霊石を消す。
自分の精霊石は人に見せるものではない。冒険者ならば秘匿して然るべきものだ。
といってもカイルの場合は【星無し】なのだから、特に隠すほどのこともないのだが。
それでも秘密にしろとフォルドやレイクにきつく言われていることもあって、反射的に隠してしまう。
「まだやってるの、カイル。やりすぎるのも良くないって父さんが言ってたわよ」
エリスだった。呆れたような顔が、窓から洩れるランプの明かりで青白く浮かび上がる。
「あと少しでやめるって」
もう一度木剣を構えて、また振り下ろす動作を繰り返す。
結局、エリスが呼んで来たフォルドに拳骨を落とされるまで、カイルの訓練は続いた。