11. 地図の要らない世界③
エリスが外に出ると、カイルがいつものように裏庭で剣を振り回していた。
既に【天央の燈篭】の灯は消えている。暗闇の中、最近では珍しく風が流れていた。
エリスの腰のあたりにまで伸びた緑の草が、涼し気に揺れている。
現在までに確認されている八の属性精霊の内、もっとも忙しなく動くのが風の精霊だ。
世界をめぐり流れる風は、常に移動し続け、休むことがない。
だが、それでもやはり、強く流れるときもあれば、他の精霊に邪魔されてあまり身動きできないこともある。
精霊というのは、他の属性の精霊があまりに活発に動くときには、その働きを邪魔されてしまうことがあるらしい。
今の迷宮都市は、火や水の精霊の力が強くなりすぎて、風の精霊の働きが鈍っているのだ。
その風が今日は北から南へと、連なる山の谷間を通り道に、心地よく吹いている。
そのおかげで、涼しいとまでは言えないが、それでも日中の、息が詰まるような暑さは大分和らいでいた。
(本当に、よくやるわよね)
クランハウスから洩れる、僅かな明かりの中で木剣を振り続けるカイルを、呆れまじりに眺めながらエリスは思う。
例え残された唯一の家族を救うため、という理由があったとしても、ここまでひた向きに努力できる者はそういないのではないだろうか。
毎日毎日、暇さえあれば常に剣ばかり振っているイメージが、カイルにはある。
これで一年前までは剣を握ったことすらなかったというのだから、驚きだ。
(アイラ、だっけ。カイルの妹の名前……)
エリスは、初めてあの石化した少女を見たときのことを思い出す。
一年前のことだ。
突如として、迷宮から魔物が溢れ出したのだ。
原因はわかっていない。自然現象のようなものだという説から、何者かの陰謀だとする説まで様々に語られてはいるが、結論は出ていない。
なんにしろ、それはあまりに突然に起こった。前兆らしきものもなく。
都市内の子供や女性などの非戦闘員は避難するように言われ、エリスは都市の衛兵の誘導に従い、東のイシュマル山に掘られたトンネルを通って東に向かった。
一週間ほど避難地で過ごした後、幸いにも無傷だったクランハウスに戻ると、見慣れない石像が家の中に置かれていたのだ。
あの石像を見たときの衝撃は未だ忘れられない。
恐怖に彩られた真に迫る表情。
細部にわたって作り込まれた生きているような造形。
それもそのはず。
フォルドが言うには、迷宮から溢れた魔物の中に、石化の能力を使う者がいたらしい。
この石像は、その魔物の犠牲者なのだという。
それをフォルドが街でみつけて持ち帰ったのだ。
信じられないことに、魔物に石化された人間を物のように売買する人間もいるらしい。
確かにそれが生きた人間であることを無視すれば、どんな名工によって創られた石像よりも精緻な彫刻ではあるのだ。
フォルドとしてはそんな人間の手に渡るよりはと、保護するくらいのつもりだったのだが……
石像は、物置の中に布をかぶせて置かれることになった。
そして、それからしばらくして、その石像の少女の兄だと名乗る少年が現れたのだ――
「ねぇ、カイル」
「……なんだよ?」
素振りは休まずにカイルが訊き返す。
「そこまで焦らなくてもいいじゃない。多分、カイルは急ぎすぎてるわ。そこまで焦らなくても、カイルは迷宮に入れるようになったばかりなのよ?」
焦らなくとも、カイルはちゃんと目的に近づいていると、エリスは言う。
「焦って急いだ挙句、クランから追い出されたら元も子もないじゃない」
カイルにここ以外に頼る当てはないはずだ。あれば路地裏生活などしていたはずがない。ということは、ここを追い出されればまた寄る辺のない孤児に戻るしかないのだ。
特にカイルは、石になった妹がいる。
妹を背負って路地裏に戻るなど、とても考えられないはずだ。
「あのね、カイル。わたし、あのとき、カイルが初めてここに来たとき、絶対に妹を助けるんだ、って言ったでしょ? そのために冒険者になったんだって……」
「うん、まぁ、言ったけどね」
そのときの気持ちは今でもなにも変わっていない。
だが、改めてそのことを口にされると、なんとなく気まずい。
別に嘘はなにもないはずなのに、ちょっと格好つけすぎてしまったような、気恥ずかしさを感じる。
「そのときわたし、思ったわ。キレイだって」
「は? キレイ? なにが?」
カイルがキョトンと目を丸くした。
「なにって、……なんだろう?」
自分でも頭の中でまとまっていない考えを口に出したせいで、カイルに訊き返されると自分でもよくわからなかった。
「なんだよ、そりゃ」
「えっと、そうね。多分、カイルの望み? 冒険する目的? そういったものがキレイだなって思ったの」
大抵の冒険者の目的は、金を稼ぐことだ。たくさん稼いで、金持ちになることだ。
中には、もっと功績をあげて貴族になりたいと願う者もいるだろう。
だが、そういった欲が目的の中心にある冒険者たちに対して、カイルの望みは純粋なものだった。純粋で新鮮だった。
家族を助けるために冒険をする。そんな冒険者を見るのは初めてだった。
純粋なものを美しいと感じるのは、それがエリスの好みだからだ。
だが、そんなことを言われてもカイルは喜ぶ気分にはならない。
「やめてくれ、そんなんじゃないんだ」
カイルはただ、借りを返したいだけなのだ。あの魔物に。
母の首を掴んで吊り上げ、父の背を踏みつけて笑っていた、あの魔物に。
――それ以外にやるべきことが、カイルにはもうなにもないのだ。
だが、そんなカイルの気持ちを知らずにエリスが話を続ける。
「だから、カイルには目的を叶えて欲しいって思うの。本当よ。でも、急ぎ過ぎると危険じゃない。諺にもあるわ。『小人族の炎はパンを美味くする』って」
「んん? その諺はわかりにくいな。どういう意味?」
「パンを焼くときは弱火でじっくり焼くと美味しくなるの。だから、焦らずじっくり行えば良い結果が生まれるって意味よ」
「ああ、なるほど。そういうことか」
カイルはポンと手を叩く。
「だからね。急ぐことが近道とは限らないと思うの。カイルも、本当に今すぐ一人で迷宮に入るのが近道だと思うの? ただ意地になってるだけじゃないの?」
「意地になってるつもりはないけど……」
だがこんなことで足踏みしているようでは、妹を助けることなどできないと、そう思うのだ。
カイルの頭には、ヨナに言われたことが消し難く残っている。
絶体絶命の窮地を乗り越え、勝てるはずのない魔物を打倒する。そうすれば、カイルは強くなれるのだ。リスクを取るだけの対価があるのだ。
目的があり、それを叶える手段がある。それに挑むチャンスを、カイルは逃したくなかった。
だが、それを正直にエリスに言うわけにもいかない。無茶をしたいなどと言えば止められるだけだ。
「……とにかく、僕は早く強くならなきゃダメなんだ。そのためならなんだってやるさ」
エリスがカイルが考えを改めないのを見て取ると、諦めたようにため息をつく。
「ハァ。仕方ないわね。なら、こういうのはどう?」
「こういうの?」
エリスはできるだけなんでもないことのように、ごく平静な表情を取り繕って言う。
自分の中でさえまだ、まったく固まっていない考えを。
「え、えーと、そう! 『顔を洗うのには手が二つ要る』って言うわ!」
「…………またわかりにくいのがきたな。どういう意味さ?」
戸惑うカイルに、エリスが得意げに解説する。
「手がひとつじゃ顔も洗えない。つまり、何事も一人でやるよりも協力したほうが良いって意味」
「ああ、なるほど」
カイルはポンと手を叩く。
エリスがそんなカイルに対して、「だからね」と続ける。
「わたしが、カイルの仲間になってあげる。そうすれば、カイルが一人でやるよりもずっと目的に近づくでしょ? だから、今は焦るのを止めて」
さすがにカイルも、あまりに意外なことを言われて、思わず剣を振る手を止めた。
「エリス、それって本気?」
「……ええ、本気よ。本気だわ」
「それは、うん、びっくりだね。本当にびっくりだ」
「ええ、びっくりでしょ?」
(わたしだってびっくりだもの)
エリスは澄ました顔をしていたが、内心では冷や汗をかいていた。
その場の勢いで大事なことを決めるのは、どうやらエリスの悪い癖らしい。
だが、一度口に出したことを引っ込めるわけにはいかない。
エリスにも意地はあるのだ。
それに、まったく今初めて思いついたことでもない。一応、以前からカイルに協力することは考えてみてはいたのだ。
もちろん、想像したことがあるという程度の話ではあるが。
あまり実際の問題として本気で考慮してはいなかった。それがこの場で、思わず口から出てしまったのだ。
そんなことで自分の将来を決めてしまっていいのかと、エリスの中の冷静な部分が、「突き進むな、引き返せ」と叫んでいたが、エリスは敢えてそれを無視した。
「どう? 悪い話じゃないでしょ? わたし、結構冒険者として才能があるらしいわよ?」
それは間違いなかった。魔力量などは、エリスはカイルの倍以上もあるのだ。
それに加えて、レアな治癒スキルが確定しているのだ。才能という点では疑いようがない。
だが、カイルはあまり喜んでいるようには見えない。
それがエリスには不満だった。せっかくエリスがものすごく思い切って口に出したのに。
大喜びで、エリスの手を取って踊りだせとまでは言わないが、それにしても反応が鈍すぎる。
「……なによ。わたしじゃ不満だって言うの?」
「いや、そんなことは言わないよ。もし本当にエリスが仲間になってくれるなら、とても嬉しいし、助かると思う」
「その割になんか嬉しそうじゃないわね」
「嬉しいことは嬉しいよ。エリスが僕のためにそんなふうに言ってくれたことには感謝してる……」
「はいはい。どうせ、でも、って続けるんでしょ?」
「うん。……でも、エリスは今まで全然訓練とかしてないだろ? 冒険者にもあまり興味なさそうだったし」
「ま、まぁね」
正確に言えば、エリスは冒険者に興味がないわけではなかった。
ただ、なし崩しに冒険者になるしかなくなるのが嫌だったのだ。自分の希望が定まるまで、他の道も残しておきたかった。だから敢えて、少しばかり迷宮とか冒険者というものから距離を取ったのだ。
それがカイルなどからは、やる気がないように見えたのだろう。それはエリスも理解できる。
「でも、やっぱり結局わたしは冒険者になることになると思うのよね。どうしても。治癒士の才能を無駄にするのは、多分許されないんだと思う」
一応、建前としては冒険者になるかどうかは個々の判断に委ねられている。
だがどうしても、魔力があり、冒険者になれる者はなるべきだという圧力は当然かかってくる。
まして、エリスにはレアな治癒士の才能があるのだから、それは通常の者の比ではない。
十二歳になり、迷宮に入れる歳になったエリスは、周囲からのプレッシャーにさらされていた。
――いつ、冒険者になるの?
――訓練はしているの?
――やっぱりお父さんのクランに入るんだろ?
――わたしも魔力があれば、冒険者になるのにな。
周囲から聞こえるそんな声が、日に日に大きくなって来れば、エリスにも自分に何が望まれているか嫌でも理解できた。
だが、カイルはそんなエリスに対して良い顔をしない。
「そんな理由で冒険者になるのは止めたほうがいいんじゃないか?」
生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、そんな殺伐とした冒険者としての生活。
生半可な覚悟では務まらない。カイルはそう思うのだ。
「カイルにできるなら、わたしにもできるわよ」
わたしのほうがずっと才能があるんだから。
エリスは得意げに言うが、カイルに言わせればなにもわかっていない。
多分口で言ってもわからないんだろうな、とカイルは思う。
「悪いけど、僕にはエリスが冒険者に向いているとは思えない」
カイルは木剣をスッと持ち上げて、エリスの顔に向けた。
別に勢いよく突きつけたわけでもない。
だが、それでも目の前に切っ先を向けられて、エリスは鼓動が早まるのを感じた。
「な、なによ、いきなり……」
どういうつもりかと問うエリスに、カイルは黙って突きつけた切っ先をさらにエリスの鼻先に近づける。
「……ゴクッ」
唾を飲み込み、エリスは一歩下がる。
「キャッ」
踵が石に躓いて、エリスは尻もちをつく。
カイルは木剣を下ろして、エリスに手を貸して立ち上がらせる。
「やっぱり、エリスに戦闘は似合わないと思うなぁ」
「なによ、ちょっと転んじゃっただけじゃない!」
エリスは赤い顔をして、それでも強がる。
「い、今ので冒険者としてやっていけるかどうか、判断できるって言うの?」
「別にそうは言わないけど。でも、エリスは魔物相手に殺しあったりできるの? 僕には正直、エリスが迷宮で魔物相手に戦うなんて想像できない」
エリスは自分には才能があるからと言うが、――そしてそれは間違いないのだが――だからといって冒険者に向いているとは限らないのだ。
まず、命懸けで迷宮に潜り、魔物と戦うということ自体がとてつもなく高いハードルなのだ。
いくら魔力があっても、素晴らしいスキルを持っていても、それを生かせるだけの強い動機と覚悟が必要なのだ。
カイルは自分に冒険者としての才能があるなどとは欠片も思ってはいない。
だが、少なくともカイルは目的がはっきりしていて迷うことはない。魔物を殺すことに躊躇いもない。
才能が乏しいとしても、その乏しい才能を全て発揮することはできるはずだ。
それに対してエリスはどうか。
カイルには、エリスが躊躇いなく魔物に立ち向かえるとは思えない。
いくら才能を持っていても、その才能を使えないのでは意味がないのだ。
だが、今カイルがそう言ったところでエリスは納得しないだろう。
だから、カイルは「これからエリスが訓練を積んで、思い付きじゃなくて本当に冒険者になると決めたなら、そのときは僕のほうから、どうか仲間になってくれって頼むよ」とだけ言う。
「ふん、言ったわね。絶対にその台詞言わせてあげるんだから!」
◇◆◇
(わたしがっ、せっかくっ、仲間になってあげるって言ったのにっ!)
あまりに鈍かったカイルの反応に、エリスは苛立つ。
腹が立って思わず床を踏みしめる足音が大きくなってしまう。
「おい、どうしたよ?」
何事かと廊下に顔を出したレイクに尋ねられたが、エリスは「なんでもないっ!」と、まったくなんでもなくはなさそうな声で怒鳴り返した。
そのままドスドスと階段を上り、物置から訓練用の木剣を引っ張り出す。
一番短いものでもエリスにとっては重すぎたが、我慢することにした。
「見てなさいよ」
今まで冒険者になるかどうか、どうしても踏ん切りがつかなかったのだ。
けれど、カイルのためにと思って、エリスなりに本当に思い切って言ったのだ。わたしが仲間になってあげると。
せめて喜ぶのが礼儀というものではないだろうか?
だが、カイルの態度は、気持ちは嬉しいけど期待はしてないというものだった。
失礼にもほどがある。
エリスはカイルなどにはもったいないのだということを、わからせる必要がある。心の底から。
あのときエリスをすぐに仲間として迎えなかったのを後悔させなくてはならない。
そして、カイルはエリスと知り合えたことがどれほど幸運なことなのか、思い知るべきなのだ。
(それはちょっと言い過ぎだけど……)
ヒートアップしすぎて、少し調子に乗ってしまったとエリスは反省する。
でも、そうなのだ。少しばかり大袈裟なことを考えてしまったが、でも方向性は間違えてない。
治癒士は希少で貴重なのだ。
そしてパーティに治癒士がいるのといないのとでは大違いだと聞く。生存率が、だ。
ならカイルはもう少し喜んでくれてもいいはずなのだ。
木剣を持って外に出ると、エリスはカイルから少し離れた場所で、剣を振り始める。いつもカイルがそうしていたように。
「……ふんっ、ふんっ」
一生懸命に剣を振るが、上手くいかない。ともすれば、振った剣の勢いに身体が振り回されそうになる。
「案外、難しいのねっ。……ふんっ」
「あのさ、エリス?」
カイルが、困ったような顔で話しかけて来た。
「……なによ?」
「やる気になったのは良いんだけどさ、その掛け声、どうにかならないか? 力が抜けるんだけど」
「うるさいわね!」
エリスがキッと睨みつけると、カイルは両手を上げて降参する。
だが少しして、またカイルが口を開く。
「…………ねぇ、エリス?」
「だからなによ!」
「冒険者ってさ、遠征中は迷宮の中に何日か過ごしたりするんだよ」
「そんなの知ってるわよ。わたしの父さんが誰だか忘れたの?」
「そういうとき、トイレとかどうすると思う?」
エリスは思わず手を止めて首を捻る。
「……そういえば知らないわね。父さんにも聞いたことないわ。迷宮にトイレってないわよね?」
「ないね」
「え、どうするの? まさか……」
「そう。その辺でするんだよ。適当に。岩の陰とかで」
「う、嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。しかも、危険だからあまり仲間と離れた場所にも行けない。だから丁度いい岩陰がなければ、本当にすぐそこで……」
「止めて止めて止めて!! 嘘でしょ!? 嘘だと言いなさいよ!」
涙目になってカイルを睨みつけるエリスに、カイルは非情にも真実を告げる。
「いいや、これは本当。ちなみに、迷宮には結構、泉とかはあるから水浴びはできるんだけど、それもリスクはあるから、いちいちパーティの仲間から身体を隠してなんかいられない。裸を見られたくないとか、迷宮の中じゃ言ってられないんだよ」
「ぎゃあああっ。なによそれ! 冗談じゃないわよっ。だから冒険者なんて嫌い! 野蛮過ぎるわ! 文明的じゃないっ。信じられないっ!」
「その通り。冒険者なんて野蛮な人種だよ。まぁ、家で水浴びするのにもドアにあんな札を掛けるエリスじゃ、無理だと思うなぁ」
クランハウスの中を裸みたいな恰好でうろつく、ヨナくらい無神経じゃなくちゃと、カイルはケラケラと笑い、腹を立てたエリスが木剣を振り回しながらカイルを追いかける。
「なにをしているんだカ……」
カイルに、明日は自分がつき添って迷宮に潜ると告げるために外に出て来たヨナが、騒ぐ二人を見て呆れる。
それから半刻ほど、二人はなんだかんだと言い合いながら、並んで剣を振り続けた。




