序章 二部
「天涙…」
神話に語られる七人目の神。
最も博愛を重んじる賢人にして「天涙」の加護を与えられた神...
そして、俺たち兄妹の今は亡き母親...
「あの頃は、とても幸せだったわ...
私とウノス、そしてマリアン...
何も無い日常が、とても尊く...愛おしかったの…」
蘭風はそう言いながら立ち上がると、おもむろに茶の間にあった茶葉を一掴みし優しく息を吹きかけた。
「さぁ、記憶よ...
過去を辿り、今を紡ぎなさい。」
その言の葉と共に茶葉は宙を舞い、途端に三人の人影を形作る。
「この一番綺麗な人があなた達のお母さん。
この一番背が高いのが私ね。
そして、この男前があなた達のお父さんよ...」
(驚いた...
風の加護っていうのはこんなことまでできるのか...
確かに風の本質は何かを運ぶことだが、それが記憶にまで作用するなんて...)
そんなことを考えながら揺らめく茶葉を眺める。
これがどんな場面なのかは分からない。
二人の少女が座ってお喋りをして、少年がそれを立って聞いているように見える。
声も無ければ風景も見えない。
なのに、ただひたすらに涙が止まらなかった。
「あれ...おかしいな...」
拭っても拭っても止まらなかった。
悲しいとか、嬉しいとか...
そんな単純な感情じゃない...
ただひたすらに、自分にもちゃんと繋がりがあったのだと感じられる...
きっとトレーネも同じなのだろう。
俺の後ろから声を殺して泣いているのが伝わる。
ニンリルの顔は見えないがきっとトレーネを慰めてくれているのだろう。
大丈夫、大丈夫とただトレーネに語りかけている。
「...さて、思い出話しはどこからはじめようかしらね...
これはそう、きっとマリアンですら覚えていない過去のこと...」
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私とマリアンはイルミンスールの郊外、緑豊かな農村に住んでいたわ。
綺麗なところだった。
夏は鳥が囀り、秋は紅葉が彩る。
冬は白銀が田畑を覆い、春は桜が野を染める。
決して豊かな村ではなかったけれど、私たちは手を取り合って助け合っていたわ。
そんなある日、この農村に一人の少年が越してきた。
名前をウノス。
後のマリアンの夫となるこの人が、私と彼女の転機になったの。
だからといって、ウノスが来てもやることは変わらないわ。
私たちは毎日、朝起きて朝食を食べ、昼は畑の様子を見て、夕方になるとお喋りをして、夜になれば星を観ながら眠りについていた。
ウノスもそう...
「毎日鍬を振っていたからかしらね。
来た頃には長身で細かった筋肉が逞しくなって...
村中の女の子がこぞってウノスに求婚しに行ってたわ。」
それでもウノスは、頑なに結婚しようともしなかった。
私たちはそのとき十と七つ...
みんないつ結婚してもいいような年齢だったけれど、今のままがいいって...
ずっとそう思ってた。
...
その次の年だったわ...
村に選定の使者が現れた。
当時は、まだ今ほど国同士の交流はなかったから、他の国でも争いは絶えなかった。
そんな争いのない時代を納め、平和の礎を築いた人...
「それが天涙の先代...
なんでも危険な術を使ったらしいわ...
平和のためには仕方なかったとはいえ、その対価として、先代は命を落とした...」
そもそも神の名は襲名制...
そう...
本来であれば、私たちには関係のない話。
顔も名前も知らない誰かが、命を投げうって平和を築いたという美談。
「...続きは...?」
トレーネが不安そうに口を開く。
分かってる。
もう終わったこと。
取り返しのつかない過去。
そう自分に言い聞かせる。
「...お告げがあったの...
私を、次代の天涙にせよ...
そういうお告げがね...」
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何故。
どうして。
そんな思考に陥らなかったわけでは無い。
ただひたすらに、今まで優しかった村の人達の眼差しが、途端に刺すような刃に変わったのを今でも覚えている。
「確か...
神の出生に立ち会った者、関わった者は、幾らか王国から寄付が降りるって話だよね。」
村の誰かがそう呟いていた。
ふざけるな。
なんで、会ったことも、見たことも、聞いたこともないような御役目とやらのために、この平穏を捨てなきゃならないんだ。
当時はずっとそう考えていた。
村は総出でお祭り騒ぎ。
今はもう顔も思い出せない父母ですら、娘の神への襲名を笑顔で喜んでいた。
死ぬよりも辛かった。
神は長命である。
実際、先代の蘭風はおよそ五百年、天類に至っては二千年近く生きていたのだとか...
自分の大切な人が、いずれ死ぬ。
死は免れない。
それは分かっている。
でも...
それでも...
「なんで、私はこの人たちと同じ時を生きられないのに、この人たちは笑っていられるんだろう...
正直そう思っていたわ。」
トレーネは、よく分かっていなそうだった。
リラは...この子はあの人と同じ...
これは罪悪感を感じている目...
ニンリルでさえ驚いて、同時に少し怒気を強めた声で言う。
「蘭風様。
いくらなんでもこの子たちの前で...」
分かってる。
本当はこんなことは言いたくない。
汚い私を知られたくないのは、私が一番思っていることだ。
この子達に...
大事な二人の大切な子達に、間違っても、大人の醜いところなど見せたくはない。
「それでもね...」
それでも。
「一つだけ...」
たった一つだけ...
「わかったこともあるの。」
トレーネもリラもよく分からないといった顔をしている。
ニンリルは...少し分かったらしい...
さっきの怒気を強めた険しい顔ではなく、穏やかで、でも少し泣き出しそうな...
そんな少女の顔をしている。
味方はいない。
一番身近にいた両親でさえ私の孤独を喜んだ。
そんな中でも...
「マリアンとウノス...
この二人だけは、私の孤独を埋めようとしてくれたわ...」
大丈夫とか、寂しいよとか、そんな言葉じゃない。
いつだってあの二人は、馬鹿な私に言葉ではなく行動で色々教えてくれた。
「変わらない日常がね。
そこにはあったの。」
たとえ離れたとしても、私たちは変わらない。
悠久の時を生きたとしても、私が忘れなければあの二人はずっと一緒...
「そこに孤独があったとしても、私はその瞬間一人ではない...
ウノスとマリアンは、私にそれを教えてくれたの...」
そう。
だから私は、御役目だって受け入れられた。
はずだった...
...
「私が故郷を経つ一週間ほど前ね。
また、使者が訪れたわ。
私を天涙に選んだ使者の首をもって...」
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当時の私は分からなかったけれど、世界樹の選定は大々的に行うものではないの。
極小数の限られた人員と神だけを通して行われ、その年に宿った世界樹の新芽に新たな神の真名が記される。
そして、神官を通して伝令を下し、使者が直接次代の神のもとへ派遣される。
「ちょうど同時期に蘭風...
私の先代も亡くなられて、言伝を行うのに加護を使えなかったの...」
人と人との間では、どうしてもミスが発生する。
ヒューマンエラーは、一人の人生を狂わせるにはあまりにも大きく、一人の命を扱うにはあまりにも軽かった...
「一人の生涯として、あまりにも残酷で...美しかった...」
「そして、次の天涙として母が選ばれた…」
リラの呟き。
ウノスの日記に書かれていたのかと尋ねたがそうではないらしい。
まぁ、順当に考えればわかる事だ。
そうでなければ、マリアンが天涙という事実とは結びつかないだろう。
「マリアンはね、笑ってたの。
私は、怖くて、泣きそうで...
ずっと震えてたのに…
あの子は優しい声で言ったの。」
あぁ、これなら貴方たちを護れる...
そこに居たのは、私の知っているマリアンではなかった。
一人の神として、私たちの全てを背負おうとする人。
強く、優しい...
そして気高い人だった...
でも、だからこそなのだろう。
私は、それが堪らなく怖かったのだ。
...
「じゃあ、行ってくる。」
そう言って彼女は、王都への馬車に乗った。
神は、神騎と同様に襲名後は王都で教養から学問まで幅広く学ばなければならない。
「お兄ちゃんも勉強してくるの?」
トレーネの視線に笑顔で応えるリラ。
「少なくともニンリルよりはずっと賢くなってくるよ。」
直後ニンリルの鉄拳がリラの頭に落ちるところまでを見届けてから話を進める。
「神は、ここで主に外交や国学について...
神騎は、主に神の護衛のための体術訓練なんかもやるそうよ...」
ちなみに、ニンリルは七神の神騎の中でもかなり腕が立つほうだ。
今なんて、一部の連中からは「翡翠色の竜」なんて呼ばれている。
しかも...
「何も殴ることないだろうが。」
「売るだけ売っといて買われない喧嘩があると思わないことだね。」
悪態をついているリラだが、恐らく王都で神騎のアカデミーに入るともれなくニンリルが臨時教官だ。
(末恐ろしいものね)
もちろんリラには内緒なのだが。
「それで蘭風様はどうしたの。」
トレーネの問いに少し困りながら答える。
「うーん...
付いて行っちゃった。」
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「貴方は天涙の候補から外れたはずですよね。」
王都の検問。
荷台に乗っておけばバレないだろうという浅はかな考えは軽々と見破られ、私は今まさに窮地に陥っていた。
「えーと。
この子はですね...その...なんというか...」
今だけはマリアンの優しさが痛い。
猛烈に痛い。
具体的に言うとタンスの角に小指ぶつけた時に一分くらいして少し傷みが引いてきた時くらい痛い...
「おい、もう一人いたぞ。」
兵士の声にギョッとし、私とマリアンは顔を見合わせる。
この場に居ないはずの人間で...
私たちを追ってきそうな人間は...
「ウノス...
マリアン嬢の神騎として参上した次第です。」
ウノスぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。
私の言い訳をおおおおおおおおおおおおおおお。
「流石にあの時は終わったと思ったわ。
その場で首が飛ぶんじゃないかって...」
蘭風様の遠い目に、俺とニンリルは笑うしかなく...
トレーネは...よく分かっていなさそうだった...
「...」
無言で私を見るウノスの顔は、お前も何か言えと物語っていた。
まあ、お前が私の言い訳を取ったんだけど。
「ハァ...」
あ。
ため息吐きやがったこいつ。
「兵士様。
こちらは、次期蘭風候補様ではないのですか。
一度使者様がお間違えになられた程の神威をお持ちの方です。
調べられた方がよろしいかと。」
周囲がザワつく。
そうか、その手があった。
本来、使者も何も手がかりもなしに神候補と接触をしない。
きちんとその人の持つ神威を、世界樹の葉と天秤にかけ最終判断を下す。
つまり、私に天涙としての素質はなくとも、「蘭風」としての素質は可能性としてゼロではないということだ。
(実際、私がはじめに選ばれたのも、マリアンより先に神威を測ったっていうだけだし)
そこからは大慌てだった。
急遽近場の神官を呼び、その場で適性を観る。
そして、何とか適性ありと見なされた私は、マリアンと(何故か神騎で通ったウノスも)共に、王都へと...
神の候補として出向くのだった。
次回更新は5月4日13時を予定しています




