イレーネ、唇を噛む
「イレさん、イレさん! もう起きる時間です!」
ガンガンガンと遠慮のないノックの音に、イレーネはがばりと身を起こした。
でも目が開けられない。調教師見習いとなってから起きるために身体だけは起こせるようになったが、頭がおきない。
イレことイレーネは今、厩舎に近い宿舎で寝泊まりしている。調教師の宿舎に男女の区別はなく、ドアに鍵がかかるようになっているのでイレーネが内側から開けなければならないのだが。
「イレさん! イレさーん!」
「うぅ……いま……いく……」
うめくように返事をして手探りでベッドから起きると、手を前に出しながらふらふらとドアに向かって歩いた。
よれよれと鍵をあけると、ネイトがドアから金たらいを渡される。
「おはようございます。馬好きなのにそんなに朝が起きれないなんて知らなかったですよー」
「うう、おはよう、馬好きと朝は関係ないんじゃ……?」
「ありますよー、真の馬好きは早寝早起きです! さ、掃除にいきますよ!」
「まって、支度する……」
「大急ぎでおねがいしますよー」
「わかってる……」
とはいえ、すごくすごーく朝が弱いイレーネの身体はおそろしく鈍い。動け、動いてとムチを打ちながらもう一度鍵をかけ、備え付けの鏡の前で顔をあらった。
なんとか開くようになったまぶたを瞬きながら、ふわふわと広がっていってしまう金色の髪を一つにまとめる。頬を軽く叩いて人差し指を口角の端に合わせ、ぐいっと引き上げると、にっこりさんな口元になった。
「いーい? 嫌味を言われてもにっこりで返す。お母さま直伝のにっこり返しよ。経験が足りないのは気合いでがんばる!」
うん、と鏡の向こうの自分が頷いたのをみて、イレーネはさっと部屋を出ていった。
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「おはようございます!」
「遅いっ!」
「すみませんっ!」
ネイトの後を追って走って厩舎に入ると、ネイトとイレーネの上司にあたる厩舎長のカイルが太い腕を組んで待っていた。
「ずいぶんとゆっくりなお出ましだな。これで何回目だ」
「ごめんなさい、ここの気候にまだなれなくて」
「あんたにゃ聞いてねぇ。黙ってろ」
「申し訳ありません、僕がもっと早く声をかけるように」
「そうじゃねぇだろ」
かぶせるように告げたカイルの鋭い目がネイトに向く。生まれてからずっと侍女に起こしてもらう生活をしていたイレーネ。そんなイレーネに自ら起きろというのは無理難題な話なのだが、身分を伏せている以上、それは言えない。
イレーネは口を一文字に閉じながら批判的な視線を甘んじて受ける。同じ厩舎の同僚はもう仕事を始めている中、今までは怒鳴られたり嫌味を言われたりしながらも早く行けと言われていた。
今日は、それもない。
しんとした空気の中、カイルはゆっくりと語り出した。
「ここの奴らは、みんな馬が好きな奴らだ。ここに来た理由はさまざまだが、馬を思い、馬に合わせて生活をしている」
こくりと頷くイレーネ。カイルはイレーネを見つめながら静かに続けた。
「ここでしか出来ない仕事に誇りを持ってやっているんだ。あんたには……あんたに合った仕事があるんじゃないのか」
普段、早口で指示を出しているカイルが諭すように話してくる。イレーネは息を呑んで顔色をなくした。
(この話し方、知ってるわ。ジタンがそう話した後、厩舎からその人、いつの間にか居なくなる。……わたし、辞めさせられちゃうの? それはいやっ、いやよ!)
「朝が起きられない事を申し訳なく思っています! その分遅くまで働きます! どうか、どうかみなさんと一緒に働かせてくださいっ!」
イレーネは顔を青ざめながら、胸の前で手を組み、考えうる案を口にした。自分の中の習慣がこの短期間ではどうしても直す事ができない。ならばせめて遅くなってしまった時間を後ろに回して一日の厩務を果たしたいと、そう思ったのだ。
しかしイレーネの思いはカイルには伝わらなかった。みるみるうちにカイルの浅黒い額に青筋が浮かぶ。
「そうじゃねぇ、そうじゃねぇんだよ……。あんたは、何にもわかってねぇ!」
カイルはキッとこちらを睨んで吐き出すように叫び、唇を震わせた。隣にいるネイトがあちゃーと手で目をおおっている。
(わからない、カイルは何を怒っているの? わたしは、何を分かっていないの? 迷惑をかけているのはわかってる、でもここで帰る訳にはいかない。わたしがいないと、あの子たちが)
アルタス国産の馬は身体が大きく力強い脚を持っている馬が多い。それに比べてイレーネと共に来たルースとルイーザは細身で脚が速いのが特徴だ。当初、こちらの鞍をつけて走らせると重量のためか、かえって足が遅くなってしまった。
イレーネとネイトは何度も彼らの特徴を伝えて、過ごしやすい環境を整えている所だった。
(わたしだけ先に帰るわけにはいかない。せめてルースとルイーザのお世話のやり方を伝えて、覚えてもらってからじゃないと)
イレーネは再び、きゅうっと再び唇をかんだ。
と、その時。
「イレの案だと貴女は夜が遅くなり、ますます朝が起きられなくなる。カイルはそれを見越して分かっていないといっているんだ」
苦笑した低い声が後ろからかけられた。
「ライ……」
「旦那」
いつの間に側に来ていたのか、ぼすんっとイレーネの頭に大きな手が乗った。カイルは苦虫を潰したように眉間を寄せていた顔をゆるませ、ほっとしたように息をつく。
「君が早朝に起きるのには無理がある。ここまで頑張っても出来ないならむずかしいだろう。イレはラースから来た人間だ、そして時期がくればまたラースに帰る。一から十までルクスガルドのやり方にそわなくてもいい、と、そういう話をしたいのだと思うよ、カイルは」
「え?」
頭にのったの手の重みを言い訳にしてうつむいていたイレーネは、ラインハルトの言葉にはっとして顔を上げる。
するとカイルはバツが悪そうに口をへの字に結んでいたが、開き直ったのか、ふんっと鼻を鳴らした。
「嬢ちゃんがふらふらしながらも必死に働いているのはここにいる誰しも分かっちゃいるさ」
翠色の瞳を大きく見開いたイレーネを横に見ながら腕を組むカイルは、ふんぞりかえりながらつらつらと語る。
「馬への接し方も的確だし、馬房の掃除もラースの馬だけでなく他の馬の分や通路にまで目を配ってやってる。朝が弱いのは致命的だが、その他はここの奴らと変わりねぇ。むしろ馬の扱いはあんたの方が丁寧なぐらいだ。だから俺が言いたいのは……適した場所で働いたらどうなんだと言いたいんだ」
「てきした場所……?」
こてんと小首を傾けるイレーネに、ライが応じる。
「助言をする側になったらどうか、という事だ。基本的な馬の世話はここの者に任せて、調教や馬房の管理をする。まぁ、簡単にいうとカイルの補佐だ」
「そんな、一番下のわたしがそんなの、ここにいるみんなが許しては」
「「「いんや嬢ちゃんはそれがええ!」」」
異口同音の声が揃って後ろからかかる。驚いて振り返ると帽子を胸に握りしめた厩務員たちが首をそろえて縮こまりながらこちらに来た。
もじもじと肘を付き合いながらも、発言していいかとライに伺ってくる。もちろんだ、と頷くライにほっとしたのか、厩務員たちは大きな声でイレーネのことを話し出した。
「嬢ちゃんはこーんな小さい手でわしらと同じ仕事を文句なくやるだ、旦那さま。ちぃとばかし朝が弱いぐれぇ、なんてことねぇ」
「くさいだ、汚いだとこちらに来もしねぇ貴婦人方と違って、厩舎の掃除も一番綺麗に掃き清めてくださるだよ」
「自分ちの馬だけじゃなくてこっちの馬の世話もしてくれるし、やり方だってよくよく聞いてくれる。ちんまいお顔が近くに寄りすぎておらぁ、ち、ちょっとばかしはずかしいぐれぇだ」
「みんな……」
そんな風に思ってくれていたなんて知らなかった。話しかけても必要なことしか応えてくれないから、まだ信頼されていないんだな、なんて思っていたのに。
「ありがとう……とても、うれしい」
手を胸に当て、軽く膝を曲げてお礼をいうイレーネ。騎乗服姿とはいえ、そのふわりとたおやかな礼を受けた厩務員たちはおののいて一斉に頭を下げる。
身分も何も告げていない者同士だが、そこにはそれぞれお互いを思い敬う関係性がきちんと出来ていた。イレーネが気づいていないだけで、厩務員たちはその仕事ぶりからちゃんと認めていてくれたのだ。
ライはカイルとネイトにも目線を送ると、深い礼をしたので頷く。
「では、問題ないな。イレーネは私との仕事が終わって戻ってきたら、カイルの補佐として働いてくれ」
「仕事? ライ、どういうこと?」
ほっと息をする間もなく、新たな仕事があるという。イレーネがライを見上げると、ふっと笑う口元が見えたが、すぐに口元が引き締まる。
「カイル、一個隊分を準備してくれ、ブーレルへ向かう。イレーネの馬はどちらが向いていると思う?」
「ルイーザだ。ルースはこちらで調整したい」
「わかった。ネイトも行くだろう? ネイトの馬はこちらのでいいか?」
「問題ありません、ご配慮に感謝いたします」
ネイトのかしこまった言い方に、イレーネは大事だと背筋がのびた。
「ライ、説明を。……きっ、聞きたいわ」
思わず命令口調になりそうになり、あわてて平民のような言葉を付け足す。そんなイレーネに構わず、ライは少しかさつきが目立つようになったイレーネの手を取った。
「もちろんだ、マイ・レディ」
「レディじゃないし!」
「そうだった」
くつくつと笑いながらライはさりげなく手を腕にかけてエスコートする。
(あ! しまった、飼葉の時間!)
イレーネは焦って振り向くが厩務員たちが大きく頷いて行けといってくれているし、カイルは肩をすくめて、ネイトはバチンのウインクまでしている。イレーネはお願いしますと目で礼をいい、こちらの足幅でゆったりと歩いてくれている人を見上げた。
(ライは何者なんだろう)
アーダルベルトのような屈強の騎士たちを率いているし、カイルたちとも顔見知りだ。
(騎士隊長なのかな、と思っていたけれど、もう少し上なのかもしれない)
もしかしたらイレーネの婚約者であるルクスガルド辺境伯とも話ができるぐらいの身分かもしれない。それぐらいの人との仕事だ、と身を引き締めた。