イレーネ、国境を越える
河原から山道に入っていくと道が狭く、隊列は一列になった。前を走るルースとルイーザも、それぞれ並走していた馬の後ろについて従順に走っている。
ある程度慣らして大丈夫と思ったのか、先頭で指揮しているアーダルベルトの馬足が変わった。イレーネは身体を前方に傾ける。
「ホゥ」
ライが短く馬に声をかけた。ぐっと速度が上がる。去り行く樹木のスピードにイレーネは自然と口角が上がっていく。小一時間の縦走にイレーネはずっと心が踊っていた。
「楽しそうだな」
山の中腹にある開けた場所で小休止をとっていると、ライが水筒を渡してくれながら話しかけてくる。
「ええ、山道を走るのは初めてだから、とても楽しい! もっと速く走らせてもいいのにっ」
目をキラキラさせてはしゃぐイレーネに、ライは苦笑しながら首を横に振る。
「ここからは悪路が続く。あのように走らせられるのもここまでだ。標高も高くなっていくから体調が変わったらすぐに言うように」
「わかったわ」
出鼻をくじかれてイレーネは軽く唇をとがらすが、ライの忠告には素直にうなずく。
草原を走らせるのとは違い、山道は少し走らせるだけでも息が上がるのが速い。水も一口飲むぐらいで戻すと、ライにもう少し飲んでおくようにと言われた。その理由もすぐにわかった。
騎乗して馬を駆ける道は、すぐになくなってしまったのだ。
「やま、みちって、どこも、こんな、たいへん、なの?」
馬を降り、道途中にある岩を避けながら急勾配になっている坂道をゆっくりと右へ左へと歩いていく。道も完全に馬一頭、人一人分の幅しかなく、イレーネは息を切らしながら背後を振り返って問うと、ライも軽く額に汗をかいた顔でうなずいた。
「だいたいどこも同じだ。アルタスとノルダンは国交があるだけまだマシだな」
「こっこう、ない、と?」
「まずこのような道がない。先頭は枝を切りながら木の合間をくぐらなければならないから労力と時間がかかる」
イレーネは山肌にそってジグザグに整えてある山道を見上げた。先頭を行くアーダルベルトは前や時折りこちらを見ながら迷いなく先を行っている。
「それは、たいへん、ね」
「ああ、ありがたいことだ。さ、もう前を向いた方がいい。歩くのに集中するんだ」
好奇心旺盛なのはいいが、息の上がりっぱなしになるのもいけない、と諭されてイレーネはうなずいた。
息を深く吸いながら、呼吸を整えて歩く。隊列の前と後ろに開きが出ても焦ってはいけない。ゆっくりと、自分の歩みを保って無理せずに。
ライに折々で教えてもらいながら、イレーネはなんとか山の尾根に当たる所まで登ることができた。
「イレ、前を」
最後は景色を眺める余裕もなく、ひたすらに目の前の道を見ながら歩いていたイレーネに、ライから声がかかる。
「……え……なに……?」
肩で息をするイレーネの背中をぽんぽんと叩いてねぎらいながら、ライは人差し指を前方に向けた。
指につられて顔を上げたイレーネの視界いっぱいに広がるのは、豊かな緑が連なる山々とどこまでも続く青い空。
「わぁ! きれい……!」
遠くに見える薄い雲がぽつりぽつりと点在していて、この世界の広がりを肌で感じる。
傾斜から吹き上がる風も少々強いが心地よく、イレーネはゆれる前髪をおさえながら眼下に広がる景色に魅入った。
「右がアルタス、左がノルダン。いま立っているこの道が国境でもある」
しばらくして静かな声が後ろから届き、イレーネは前を向いて黙って頷く。
(両国との関係にわたしが関わっていく、のよね。……バルトウィン卿、どのような方なんだろう)
一度だけみた絵姿は父の机に置いてきてしまった。武勲を立てた時期に急いで描かれたらしく、横顔で軍服だったとしか印象になく、正直、顔すらも覚えていない。
(ライのようなしっかりした人の上に立つんだから、人格者なのだろうけれど……わたしと話、合うのかな。馬のお世話するの、ダメっていわれたら婚約も破棄したいのだけど)
イレーネは身体を捻ってライを見上げた。ライはすぐに気づいて顔を傾ける。
「どうした?」
「……ライ、むこうについたら領主さまにご挨拶ってできる?」
ライは一瞬戸惑ったように目を瞬かせると、首を軽く横に振る。
「到着の報告はこちらでするつもりだ。ネイト殿とイレはまずは旅の疲れを癒してもらおうと思っている」
「えーっと……その後も会える機会はないの?」
「ああ、そうだな、普通は」
「ふつう」
イレが首を傾げていると、イレさん、イレさん、と近くに来ていたネイトが焦ったように話に入ってきた。
「イレさんとおれは平民ですから、普通は領主さまに会える訳がないんですー」
「え! そうなの⁈ でもおじぃ……んん、ラースの領主さまはひょいひょい会ってるじゃない?」
「閣下は可能な限り本人から報告しないとド叱るタチの人ですから会っているのです!」
なるほど、と後ろのライが頷いている。
「だからただの騎士である私もすぐにお会いできたのだな」
「はは、ライさまはご立派な騎士さまでございますればー」
そうか? と片眉を上げるライに、ネイトは頬をひくつかせながら「当たり前じゃないですかー」と乾いた笑いをした。
ネイトからすると非公式ながら領主同士が会談したのだと想像するだけで背筋が伸びる話だし、イレが言っている平民が領主に話をしたいというのも目が飛び出るほどあり得ない話だ。
しかしこの人たちはお互い偽った身分で話を進めているのに、出てくる会話が全然偽ってないから冷や汗が出る。実情を知っている身からするとどちらの会話も身バレするんじゃないかとヒリヒリして気が気じゃない。
「まぁ、運が良ければ視察か遠乗りに行かれる時に会えるかもな」
「イレさん、くれぐれも先に話しかけちゃダメですからね。身分が低い私たちはお声がかかるまで顔も上げちゃいけないんですから!」
「あれ? じゃあライにも話しかけちゃいけなかった?」
「いや、わたしはいいよ。友人だろう?」
「お友だちにしてくれるの?!」
「ああ、もちろん」
ぱあぁ、とうれしそうに笑うイレーネに、ライは瞳を細めて頷く。
「ネイト! わたし、初めてお友だちができたわ!」
「ははは、ようございましたねぇ。アルタスのお友だち第一号がライさまなんて、目がくらむというかなんというか……先が思いやられますー」
はしゃぐイレーネをネイトはうまくいなしている。アルタスの厩舎にいっても、このじゃじゃ馬のフォローはネイトがやっていくのだろう。
「アルタスへようこそ。歓迎するよ」
両国をまたにかけるこの場所でライが二人に告げると、きらきらとした翠眼と、すっきりとした一重の琥珀の瞳が朗らに笑って頷く。
どこまでも続く青い空の下、アルタスへ向かう一行は高低差のある山道に気をつけながら順調に山を下っていった。