イレーネは水色の瞳に優しく見つめられる
翌朝、からりと晴れた空の下、イレーネはルイーザの手綱をネイトにあずけ、ライの黒馬の元へと近づいた。主人に似て落ち着いた成馬でルースやルイーザよりも全てが一回り大きい。
「しっかりした脚ね。身体もとても艶があって素敵。今日はわたしも一緒に乗るの。よろしくね」
首筋をやわらかく叩きながら話しかけると、耳をぴくりと動かして首を振ってくれる。
「おはよう、よく眠れたか?」
艶のある低い声が背後から聞こえて振り返ると、グローブを手に嵌めながらライがこちらに来るところだった。
「おはよう。ぐっすり眠れたわ」
「それはよかった」
黒馬の鞍の具合を確かめ、手綱をわたすとライは頷いて騎乗する。上から手を差し出されたので、首をかしげた。
「一人で乗れるわよ?」
「後ろではなく前に来てもらいたい」
それならわたしを先に乗らせた方がよかったのに、とまた首をかしげたが、待たせるのもいけないと鎧に足をかけ、手を預けた。
勢いをつけて身体をあげると、腰をぐいっと掴まれた。馬上に上がったが勢いあまってライの身体に背中が密着してしまったようだ。
「わっ、っとと、ごめんなさい。やっぱりわたしが先に乗る方が良かったんじゃない?」
「いや、フォルクスは神経質な所があるから私が先だ」
「そう? さっき挨拶したときは大人しかったけれど」
「ふっ、では次はイレから先に乗らせてみるか」
周りをみて全員が騎乗したのをみると、ライは昨日しんがりを勤めていた騎士、アーダルベルトに合図をした。アーダルベルトは軽く頷くと先頭に立ち隊列を率いていく。
「今日は彼が先頭なのね」
「ああ、私が中にいるからな。とはいえ、その時々によって配置は変わるが」
「ふぅん」
なんとなく馬術に長けている人が先頭としんがり努めているんだろうとイレーネでもわかった。
今回、ライは二人乗りだから真ん中なのだろう。町を抜けるとライとイレーネの馬を中心に細長い菱形の隊列となって草原走っていく。
二人乗りとなっても馬足が遅くなる事はない。イレーネはライの手綱さばきをすごいと思ったし、ライはイレーネが馬の負担にならないよう動きに合わせて乗る姿に感心した。
しばらくすると山の麓につき、少し入った所の小川で休憩することになった。
馬に水をやりながら各々、携帯食を食べる。町で入れていた水をすて、新鮮な水を小川でくんでいるとライが手招きをした。
近づいていくと小ぶりのナイフを器用にあやつってオレンジをむいている。
「いつの間に買ってたの?」
「町に着いた時に。かぶりつけるか?」
「う、うん。こう?」
綺麗にむかれた果物しか食べたことがないイレーネは、固い皮ごと口に含もうとした。
「いや、皮の両端を両手でも持って。そう、外側に引くと身が食べやすく上がってくるだろう?」
「あー、うん、こう、ね」
もたもたとしながらもかがみながら身を口に近づけて、イレーネは小さな口を大きく開いてかぷりと食べた。
「んー! おいひー!」
ほどよい酸味が口に広がり、イレーネはにっこりと笑う。とても幸せな気分になった。
手元にオレンジの一片がなくなるとこちらにのせてくるライは器用に皮を剥いて一口で食べている。その所作がやけに上品に見えた。
「ね、ライは貴族の出なの?」
「ああ」
こちらをちらりと見ながら頷くライに、イレーネは少しだけ迷いながら知りたかったことをそっと聞く。
「じゃあ、バルトウィン卿はお会いしたことがある?」
ライは食べようとしていたオレンジを戻して、瞬きをした。
「まぁ、あるが……なにか気になることでもあるのか?」
「あ、ううん。お世話になる領主さまだから、どんな人かなぁって」
売り言葉に買い言葉で父には認めないと言ったけれど、王族の、ましてや隣国に絡む婚約がそうそう無かったことにできる筈がないことぐらい、イレーネでもわかっていた。
自分は王女らしくなく淑女教育もままなっていない、貴族としては半端な人間だ。なにより馬が好きで、馬と共に生きていきたいという気持ちを聞いてくれる人物なのか、知っておきたい。
今回、ライの誘いを受けてルースとルイーザの調教に同行したのも、会えなくてもいいから婚約者がどんな人柄なのか分かっておこうと思ったからだ。
「……利益になることを重視するな。何かで迷う時があれば、小石を投げて相手の出方を見るタイプというか」
「小心者なの?」
「まぁ、近い。必要な時以外に力を出したくない、と思っている……のではないかな」
「めんどくさがり屋さん?」
イレーネが小首を傾げて問うのに、ライは口元に拳を当てて吹いた。
「ふっ! そうだな、おそらくそちらの方だ」
ツボに入ったのか肩を揺らして笑っているライを、近寄ってきたアーダルベルトが目を見開いて口をあんぐり開けている。
「あの、ねぇ、部下の方が来たわよ」
「ああ、すまない。どうした?」
「いえ、そんなに笑われている姿を初めて見たものですから……」
近くの流木に座りながらライとイレーネを交互に見て、ほー、と呟きうなずいている。
「え? でもライってけっこう笑うけど」
「そうか?」
「うん、フッて、よく笑ってる」
こんな風に、と目線を逸らしてふっと息をつくように笑うライのマネをすると、アーダルベルトはにんまりと笑った。
「ほうほう、良きことを聞きました。これは報告ですな」
「誰に報告するんだ、だれに」
「同僚に報告します。ライさまはフッと笑われると」
「やめろ」
鋭い目を半眼にして睨むライに、アーダルベルトは肩をすくめてかわすと改めてライとイレーネに向き合った。
「これから山岳地帯に入っていきます。細い山道になりますと馬から降りて歩いて頂く箇所もありますが、よろしいですか?」
ライは承知の道なのだろう、イレーネの顔を見てたずねる。
「身体がつらいようならば馬から降りなくてもかまわない。どうする?」
「もちろん歩くわ。馬にとってはそちらの方が負担が少ないのでしょう?」
「ああ。だが、貴女の負担は増える」
「大丈夫。体力はある方なの」
毎日とはいわないが週の半分は馬に乗る生活をしていた。慣れない旅ではあるが弱音は吐かないと心に決めている。
「では通常通りの行程で。イレ、この者はアーダルベルトという。アルタスについてからも何か心配事があったらこの者にいうといい」
「アーダルベルト・ラムダンです。お見知りおきを」
「イレと申します。よろしくお願いします」
軽く頭を下げるイレに、アーダルベルトはまた目を見開き、手を胸に当て騎士の礼をとった。
「ではそろそろ参りましょう。日が暮れる前に尾根を越えてアルタス側へ行きます」
「無理せずな」
「承知」
アーダルベルトは会釈をして立ち上がると他の者に声をかけていく。イレーネもゆるんだ身体をほぐそうと両腕を組んで伸びをしていると、ライが手を出して立ち上がらせてくれた。
「ありがとう」
「いや……貴女は、温かいな」
「え?」
ふいの言葉にイレーネが顔を上げると、水色の瞳が優しくこちらを見つめていた。
「いつでも感謝の心を忘れない」
「え……でも、手を貸してもらったら感謝するのは普通のことでしょう?」
「そうだな、そう思ってきちんと口に出せるのがいい。良いご両親に育てられたのだな」
ライの言葉にイレーネは少し首をかしげて、お父さまとはあんまり会っていないから……と呟くとにこっと笑った。
「両親……ではないかも。でも、えーっと、祖父と母には褒められたって自慢するわ。ありがとう、ライ!」
目尻がふわっとゆるみ、明るい日差しの中で花ひらくように笑うイレーネに、ライも笑みを浮かべながらうなずくと馬へと導く。
「今度はわたしが先に乗るからっ」
「わかった、手綱は持っていよう」
「大丈夫なのに」
「いいから」
まるで遠乗りのデートにでもいくようなやり取りに側近たちも遠目にそわそわとしている。
「え、イレさま、もういい感じなんですかー」
「いや、まだみたいなんですがね、仏頂面のライさまが笑うんですよね、いい感じです」
「ほほー、ほほーですね、アーダルベルト殿ー」
「ええ、ネイト殿、ほうほう、です」
お互いにんまりと笑い合い、それぞれの馬に合図して両国をまたがる山道へと入っていった。