わたし、アルタスにいきます! ないしょで!
「母さま、じじさま、お話があります!」
屋敷に帰って家令に母と祖父の所在をきくと、イレーネはノックもそこそこに祖父の執務室の扉を開けた。
「イレーネ! 返事を聞いてから入りなさいといつも言っているのに!」
執務室のソファに座っていた母サーネが立ちあがって叱ると、祖父マルタンはサーネを手で制してイレーネに向き合った。
「緊急なのだろうよ、いかがした? イレーネ」
「わたし、アルタスにいきます! ないしょで!」
「はい?!」
「ほぅ、なにゆえ隠していくのだ?」
目を見開くサーネとは対照的にマルタンは面白そうに片眉を上げた。
齢六十を超えながらもラース領当主である祖父は、突拍子もないイレーネの発言に動じることもなく先をうながす。
「今日、ジダンの所に行きましたらアルタスの騎士の方々が若馬を見にきていました。そしたらルースとルイーザを見そめたのです。あの子たちの調教はクセがあるからむずかしい、といいますと、わたしに同行を求めたのです!」
エメラルドとみまがう瞳をキラキラと輝かせ、大きな執務室の机に身を乗り出して説明するイレーネにマルタンは軽く頷いている。
「アルタスの騎士はなんといって同行を求めてきたのだ?」
「馬が私のいう事しかきかないのなら、私が調教すればいいって! 仕事としてきて欲しいって! じじさま、身分を隠して行けばいいでしょ?」
「ふぅん」
マルタンは偉丈夫な身体をぎしりと椅子にもたれさせてあごひげを触った。その仕草に、イレーネはにっこりと笑みをうかべ、サーネは目を釣り上げた。
マルタンは考えごとをするときに、この仕草をする。少なくとも一考の余地ありと思っているのだ。ラース領の良き風はイレーネの方に吹いている。
「どうやっていくつもりじゃ?」
「お父さまっ」
執務机の横から口だししようとするサーネを、マルタンは片手を上げて制す。
「五日後、アルタスの方々が馬と共に帰国される時に一緒にいきます。期間は、えっと、三ヶ月ぐらい」
「なぜ三ヶ月と?」
「デビュタントの一ヶ月前には戻れますし、ルースとルイーザもそれぐらいにはあちらに慣れるんじゃないかなって」
イレーネの口からデビュタントという言葉が出たのに、サーネは安堵のため息をついた。
「デビュタントには戻ってくるのですね?」
「一応」
「いちおう?!」
かっと見開いた母の目に押されて、か、必ず一度戻りますっ、とイレーネは訂正した。
「さぁて、どうしたものか」
マルタンが指で机を叩きながら思考を巡らせ始めたとき、執務室のドアがノックされた。
「何用じゃ」
マルタン、サーネ、イレーネと三者会談の場に入り込んでくる用事はめったにない。鋭い領主の声に、ドア向こうから若い侍従が声を張り上げた。
「アルタス国騎士、ライさまという方が面会を求めていらっしゃっています。いかが致しましょうか」
おそらく家令がホールで応対し、侍従に伝令を頼んだのだろう。イレーネは、もう話にきてくれた! と身体をドアに向けた。
「ルースとイレーネの件です! じじさま、わたし、迎えにいきます!」
「まて! イレーネ!」
部屋から飛び出そうとしたイレーネをマルタンは止めた。びっくりして振り返るイレーネに、祖父と母は同じタイミングで額に手を当てている。
「じじさま? 母さま?」
「おぬし、身分を偽っているのじゃろうが……一介の見習い調教師がこの屋敷に居てはならんじゃろ」
「あ! そうでした……。ど、どうしよう、母さま」
「とりあえずカーテンの中ですわね。廊下に出てて隣の部屋に入ったとしても、イレーネのことですから聞き耳を立てたくて廊下に出てうっかり見つかると思いますわ」
「母さま、まるで見てきたかのようにいわないでっ」
「あくまで経験からの予測ですわよ、イレーネ。大人しくカーテンの影に入りなさい」
じとりとしたサーネの半眼にイレーネはむぅと唇をとがらすが、さらに細目になった母をみて、さっと祖父の椅子の後ろにあるカーテンの端に隠れた。
くっくっと笑ったマルタンは、待たせているであろうライを迎えるため侍従に取り次ぐよう声をかける。
ほどなくして、ライが執務室に入ってきた。厚みのあるカーテンで見えなくても足音だけで存在感がある。不思議な人だ、とイレーネは静かに息をひそめた。
「久しぶりじゃの、文ではやり取りしていたが」
「急な来訪に応えて頂きありがとうございます、閣下」
手を胸にあて、騎士の礼をするライにマルタンは軽く手を挙げて答える。そして脇に立つサーネを紹介した。
「サーネじゃ、孫のイレーネの母親でもある」
「サーネと申します」
「お初にお目にかかります、どうぞライとお呼び下さい」
「では私のこともサーネと。ライさま、こちらへ」
母の誘導でソファへ三人が移動していく。カーテンと壁の間からわずかに空いた隙間からソファが見え、イレーネは落ち着いた様子で出されたお茶を飲むライを見つめた。一見すると強面にみえる祖父に対して怯むことなく話している。
(ライは良いところの出なの? 所作が綺麗だし……それに、じじさまも母さまも気をつかってる?)
隣国の騎士だからか、マルタンも言葉は普段通りなのだが、父と話している時のような対応をしているように見える。
「何も用意がなくてすまぬな」
「いえ、私もこのような格好ですし。今回は急を要したので」
「さもあらん。用向きは『馬』かの」
「ええ、厩舎の方からお話がいきましたか」
「うむ」
カップを置いたライは頷くと、右手を左胸に当てた。
「アルタスの剣に誓って決して無茶な事はさせません。若馬たちが慣れるまで二ヶ月ほど、そちらの厩務員をお借りできないでしょうか」
「報告では三ヶ月と聞いているが?」
「そうでしたか。では本人たちに聞いて、希望に沿うようにしましょう」
アルタス側が決めるのではないのか? と片眉を上げたマルタンに、ライは口元を少し綻ばせる。
「動物相手ですので、人が思うように事は運ばぬと思いますゆえ。早ければ二ヶ月、調教が長引けば三ヶ月とすることにします」
「ほ、賢明な見立てよの」
「おそれ入ります」
マルタンがソファに深く座り出したのをみて、イレーネは軽く拳を握った。
(見えないけれど、じじさまはきっと髭をいじってるわ。うん、と言ってじじさま!)
イレーネが固唾をのんでマルタンの返事を待っていた所に、サーネが軽く手を上げた。
「お父さま、一つライさまにお聞きしたいことが」
今まで祖父の隣で黙って成り行きを見てきた母が発言を求めたのだ。イレーネは思わず悲鳴を上げそうになった。
(母さま、なにいうの、やめてっ! 母さまが入ってくるとまとまりかけた話が変な方向にいっちゃう!)
マルタンの肩がわずかにひょいっと上がった。
(あ! まずいっ、じじさま絶対ニヤニヤしてる! ああっ!)
「発言を許す。申してみよ」
「ありがとうございます。ではライさま、厩務員の生活場所は何処になりましょうか」
「厩舎近くの寄宿舎になります。とはいえ、辺境伯閣下の屋敷の敷地内ですので安全は確保いたします」
「きっ、寄宿舎ですか! それはその、個室でしょうか、それとも相部屋?」
「そうですね。生活様式など、特に問題なければ個室も用意できますが……慣れるまでは相部屋の方がよろしいかと」
「といいますと?」
「起床、着替え、食事は食堂で食べるからいいとして、風呂やベッドメイキングなど、全てお一人でやって頂きますので。アルタスの生活をわかっている者と一緒に居た方が都合が良いかと思います」
「すっ、全て一人で!」
(全部一人で?! む……!)
悲鳴のような母の声と共にイレーネがカーテンの中で首を横に振ろうしたとき、マルタンがいや、と一声上げた。
「個室の方がええじゃろ、なんでもやれるようになった方がええ」
「お父さまっ!」
「なるほど」
ライは微笑みながら祖父の方を向いた。
まるで祖父を飛び越えてイレーネに語りかけるように。
「そうですね、見習いとはいえ、調教師の方ですので。それぐらいは問題ない、という事ですね」
うぐぐっとうなりそうな声をなんとかこらえてイレーネは口をつむる。
(やるわよっ、やればいいんでしょう? それぐらい、できるもんっ!)
カーテンごしに大きく頷いたイレーネと同時に、マルタンが楽しそうに肩をゆらした。
「ああ、できるだろうさ! 馬の世話の前に自分の世話が出来なければなんともならん。自立もしていない者に大事な馬は預けとうないからなぁ。まぁ、足りない所はそちらで学べばいい。そうじゃな?」
「はい」
ライは口元を綻ばせると、サーネの方を向いた。
「ご家族も心配でしょうから文のやり取りが出来るよう定期的に早馬を出します。いかがでしょうか」
呆然としていたサーネは、はっと自分を取り戻すと背筋を伸ばして会釈した。
「ご配慮いただき、うれしく思います。同行する者に伝えますわ。そちら様にご迷惑をかけない事と、入り用な物があったら文を通して伝えるようにと」
決意に満ちた母の声に、イレーネは家を出るまでに身支度を仕込まれるのだろうとため息をつきそうになるが、こればかりは必要な事だと気持ちをひきしめる。
ライとマルタンが固い握手をしているのを見ながら、出国するまでルースとルイーザの世話も含め、ジタンの厩舎になるべく行こうと心に決めるのだった。
本日の投稿はここまでになります。
第四話は次の週末に。
それではまた!