イレーネ、負傷する。
コンコンコン、と軽い音が聞こえる。ぱっと目を開けると、見知らぬ木の天井、一瞬イレーネはどこにいるか混乱して身体が固まるが、やがて飛び起きる。
「イレさん、お時間ですが、起きていますか」
ドアの外から遠慮がちの低めの声が聞こえる。聴い慣れないこの声は……バルドルだ。
(そう、今私はブーレル砦にいて、それから……)
「……はい、ありがとうございます、今、起きました」
掠れながらもドアの向こうまで届けと声を上げる。
寝起きは弱いイレーネ、ひと時の休息でもやはり思考が明瞭になるまで時間がかかった。
「ドアを開けてもよろしいでしょうか、お茶のお代わりをお持ちしました」
「少し……待ってもらえますか、今、開けます」
のろのろと髪を一つにまとめ、ブーツを履くと苦心して身体を動かしドアを開ける。
扉の向こうにいたバルドルがイレーネの顔を見てわずかに眉をひそめる。
「寝入りで起こしてしまいましたか? 体調は……」
「いえ……いつもこんな感じなんです、起きるのが苦手で……ぼんやりしている間にライが髪をまとめてしまうぐらい……にがてで……はっ!」
こめかみに手を当てながらいらぬ言い訳をしてしまった事に気づく。
ぱっと顔を赤らめて「ちがう、まちがえました」と口走るのだが、バルドルのほりの深いまなじりが生温かい色を見せて口元はぴくぴくと震えている。
「いえ……ライさまと仲がよろしいようで、とても嬉しく思います」
「ちがうんです、私が朝が弱いからっ」
「はい、はい、お二人を想像するだけで眼福に存じます。生きててよかった」
「そこまで?!」
バルドルはにこにこしながらお茶のお代わりを注いでくれる。遠征に行く前からも思っていたが、このバルドルという人はライをそうとう気にかけている様に見える。イレーネに対してもとても丁寧に対応してくれているが、その行動の念頭には常にライを想っている様に感じた。
「バルドルさんは、ライと親しいの?」
「ええ、ライ様が幼い頃、お側でお守りするよう近くにおりました」
「護衛騎士さまということ?」
「いえいえ! 私が側仕えした時、自分も幼かったものですから、遊び相手をさせて頂いたようなもので」
幼少期から騎士団に入るまで一緒にいたという。幼馴染みみたいなものかな、とイレーネはうらやましく思いながら頷いた。
「このような時なのでゆっくり話せないのですが、ライ様はイレさんといる時によく笑っていらっしゃるので、とても嬉しく思います」
「そう? ライは出会った時からよく笑っているけれど」
「そうですか、それはそれは」
ほっとしたようにバルドルが微笑むので、小さい頃はそんなに笑う子ではなかったのかな、とイレーネは首を傾げる。今のライにそんなイメージはない。
「お二人とも無事に戻られた際にはぜひ祝宴を共にしたいですね。その時にライ様のお小さい頃のあれこれをお伝えします」
ライ様には内緒ですよ? とばちっと片目を瞑ったので、イレーネは笑顔で頷いた。
「わかったわ、それを楽しみにルクスガルドまで走るわね!」
「ぜひ! 再訪をおまちしております」
そうして、バルドルは懐から小さな小袋を取り出し、簡易な食料と銀の札、手紙を差し出した。
「ルクスガルドの門兵にはこの銀の札を見せてください。伝令の札なのですぐに通してくれるはずです。主館につきましたら札と共に手紙を渡したいといえば城を守るものに案内してくれるでしょう。滞った場合はブーレルよりバルドルの使いで来たと申してください」
「分かりました。何か他にご伝言は」
「いえ、全て手紙に認めましたので、大丈夫です」
頷きあい、バルドルの入れてくれたお茶を大事に飲む。
「美味しい。バルドルさんは器用ね、こんな状況でなければもっと味わって飲みたいぐらい」
「またお会いする時には、ぜひご賞味ください。いつでもお待ちしています」
「ええ、ぜひ頂きます。それまでどうか無事で」
「はい、イレさんも」
中庭に出るとすでにルイーザが用意されていた。声をかけながら後ろ脚を触ると充分な張り持っていて、走り通せるだろうと確信を持てた。
「私の体力が保つよう、頼むね、ルイーザ」
急ぐ道だが、急ぎすぎないよう、ルイーザに声をかけながら自制する。騎乗し、バルドルとブーレルの騎士たちに挨拶をして駆け出した。門番からも「ご武運を!」と声をかけられ、貴方も! と返礼をした。
この砦を戦場にさせない、その想いを強くして手綱を握った。
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駆け出してしばらくすると、日が暮れてきた。やがてとっぷりとした夜の帳の中に入る馬足を少し緩めながら月光の明かりを頼りに走っていく。草原を走っている時はまだいい。遠くに見える山影と月、星の位置を頼りに迷いなく走っていけた。
草原と草原の合間にある林や森を抜けるのが気を使った。月光が木々の葉で遮られていくのと、木の根が張り出していて昼間とは雲泥の悪路になる。
手綱を操りながら少しの傾斜でも足元を気にせねばならず、気力を削がれていった。
普通の行軍であれば夜営をし身体や気を休める所だが、イレーネはあえて夜通し走る選択をした。夜営の仕方が分からないのと、やはり気が急いていたからだ。
今までに二つの森をくぐってきた。この三つ目の森を抜けてしばらく走るとルクスガルドの城壁が見えてくるはず。その焦りが仇となる。
「あっ!!」
気をつけていた木の根にルイーザの脚が取られた。と同時に身体が浮き上がる。ルイーザが身をかがめて急停止した反動をいなすことができず、気がつけば身体が投げ出されて地面に落ちていた。
「っっいっ……たぁ……!!」
暗闇で受け身が取れず、全身に痛みが疾る。が、イレーネは震えながら目を開け、できる限り周りを見回す。
「ル……ィ……ザ……」
転倒はしていないはず、でもルイーザが怪我をしていたらと痛みを堪えながら上体を起こそうとする。
「うっ……つぅ……!」
肘をつこうとして痛みが肩まで貫きぐしゃりとまた地面に顔からついてしまった。
「うで……まずいわ……」
利き腕でないものの左腕を強打したらしく痛みが激しい。
仰向けになって浅い息を吐いていると、ふっふっと鼻息と共に顔をぺろりと舐められる。ルイーザだ。
「ルイーザ……よかった……無事ね?」
無事な右手で鼻頭を撫でてやると、ぶるるっと応えてあとはずっと鼻をイレーネの顔につけてそっと舐めてくる。
「ん、大丈夫、よ。もうちょっと……まってて……起きるから……」
左を動かさないようにして身体を横に傾け、なんとか右腕だけで起き上がるがすんなりと立てそうにない。産まれたての仔馬のように震える足でふらふらと立ち上がろうとするイレーネ。見かねたルイーザが鼻先で背中や太腿を押してくれた。
「ありがとう、ルイーザ……びっくりしたよね、ごめん」
立ち上がったものの、痛みで上体が起こせないイレーネが心配なのか、ルイーザがすんすんと鼻をつけてくる。
「うん、大丈夫。ちょっと痛いだけ。ルイーザの身体も見るね。じっと、していて……」
自分を落としただけなので大丈夫だと思うが、習慣でゆっくりと一通り身体、脚、馬蹄と見ていく。
「よかった、問題ないわ。後はわたしが乗れれば」
左腕と肩は少しでも動かすと激痛がはしる。イレーネは慎重にあぶみに足をかけながら騎乗する為に体重のかけ方を探った。
「……何しても痛い。うん、わかってる」
イレーネだってわかっている。小さい頃から馬が好きで、貴族の嗜みとしてでなく好きで乗馬をしていたから落馬は何度も経験している。でもこれほど激しい落ち方は初めてで、騎乗した後の痛みを思うと気合いを入れる時間がいった。
「ライ、ライ、力を貸して。がんばるから、ふんばるから、どうか向こう側に落ちませんように」
鞍に額をつけて祈ると、勢いをつけて騎乗した。
「っっつぅぅ……っっ!!」
耳元で叫んだらルイーザが動揺する。イレーネは上体を前に倒してなんとか悲鳴を堪えるが、しばらくの間その状態から動く事が叶わなかった。
ぶるる、ぶるるとルイーザが心配そうに鼻をならすが、イレーネは声をかける事もできない。今、一声でも出してしまったら、それは全て苦痛に唸る声になってしまう。
震える腕をなんとか動かし、ルイーザの首筋をぽん、と撫でる。
大丈夫、大丈夫、いける、わたしは、いける。
何度も、心に語りかけた。
やがて、上体を起こせないままだが、そっとルイーザの腹に足で合図を送る。
ルイーザは戸惑うような仕草をみせるが、指示通りに歩き出す。馬上の主人は前屈みではあるが、手綱や足での指示は明確に伝えてくる。ルイーザは少しずつ意識を前に向けた。
薄暗闇の中、最後の森を抜け、時折ぎりっという歯を食いしばる音を立てながらではあるが、イレーネたちは少しずつ少しずつ足を速めていった。




