イレーネ、伝令に立つ
すきま風が顔をなでた。イレーネはむずがってもぞもぞと近くにある温かいものに身体を寄せる。すると、ふっと額に息がふれ、前髪をやわらかくすかれた。くすぐったくて逆に頭を温かいものにくっつけてぐりぐりと横に振る。
(あったかい……きもちい……)
ふにゃりとほほえんで頬をよせ、幸せのため息をついた。
「……っ可愛すぎて辛い」
(……つらい……? だいじょ……よしよしすれば……)
イレーネは夢うつつに温かいものに腕を回す。なんだか大きい、でもつらいならよしよし、と片手でおおきな広いところをよしよしする。
「……はぁ、イレ、さすがにそれは駄目だ」
(……だめ……? ……でも……よしよしは……ルースも……ルイーザも……よろこぶ……)
「……イレ、私は馬じゃないぞ? イレ、わかっているか? 食べていいのか?」
(うま……じゃないの……? たべ……たべ?)
なにを食べるというのか、とぼんやり眼を開けると、目の前にはとろけそうな湖畔の瞳が広がっていた。
「……ラ……んぅ? んー!!!」
口を塞がれてバンバンとイレーネはライの背中を叩く。
「ライっ! なにするの!!」
「朝のあいさつ、だな」
「あいさつにならないっ」
「そうか?」
ライの腕の中にいるから、くつくつと笑う声がくぐもって聞こえる。イレーネは目を白黒させて息をのんだ。
(ちかいちかいちかいっ、なんで?!)
状況の把握ができていないイレーネに、ライは笑いながら話しかけてきた。
「相変わらず朝が弱いな。イレは昨晩、敵に急襲されたのは覚えているか?」
「あ、あ、うん。そう、そうだったね」
「イレは襲われるのが初めてだったので動揺していた。私は心配だったので側につかせてもらった。体調はどうだ?」
聞かれて、イレーネは横向きから仰向けになり両腕を天井に向けた。手を開いたり閉じたりしながら、片腕ずつ肩から腕にかけてゆっくりと回す。
「うん、大丈夫そう」
「足は?」
足は、とこちらも確かめるために上掛けを外して立ってみた。
「大丈夫」
「よし。おはようイレ」
おはようと言われておはようと返そうとして、イレーネは顔を手で覆ってしゃがみこんでしまう。
「どうした?」
「……ライがかっこ良すぎてやだ……」
顔を片腕で支えながらしなやかな体躯を簡易な寝具に横たわらせている。寝起きのしっとりとした色気を纏いながらこちらを眺めている姿は、イレーネにとって目の毒だった。見ていられない。
「また可愛いことを……襲うぞ?」
「だめっ、もう襲われたし!」
「あんなの、あいさつだっていっただろ?」
ぞくりとした笑みと共に上半身を起こす姿は獲物を捉えた雪豹のよう。
「まってまって、ほんとに、ねぇ、今、行軍の途中だよね? わたしたち襲われたから何か対策をしなきゃでしょ?! ちがう?!」
「はぁ……その通り。イレが起きてしまった。残念だ」
「ちょ、言い方!」
笑ってあぐらをかいたライはぽんぽん、と隣を手で叩いた。座れの合図に、イレはおよび腰だ。
「もう襲わない?」
「ああ。大事な話だから、側に来てほしい」
柔らかく笑いながらも真剣な目になったのを受けて、イレーネは並んで隣に座る。そんなイレーネの右手をライが取ると太ももに乗せ、やんわりと握った。
「イレ、貴女に後方支援を頼まなくてはいけなくなった」
「あ、はい」
「そんな軽く返事をしなくていい。ちゃんと考えてからで」
「でも、わたし、そのつもりでここに来ているから」
「内容も聞いていないのに」
「だってライが考えたことでしょう?」
イレーネは微笑んで上背のあるライを見上げる。
「ライが考えた作戦なら、きっと大丈夫」
信頼をもって頷くイレーネに、ライは一瞬、口を開けてこちらを見ると、頭を抱えてうなだれてしまった。
「もう耐えなくていいんじゃないか? ブーレルに戻さないのもありか? 私が抱えて戦えば……いや、駄目だ、流れ矢に当たるかもしれない。トゥーラに連れていって砦で囲っておけば……朝晩だけでもイレの笑顔が見られるのであれば……」
「ライ? ライ? ごめん、早口過ぎて聞き取れない」
時折、ライはものすごい早口でしゃべり出すことがあり、そんな時はアルタス語を遜色なく話す事ができるイレーネでもあまりにも早すぎて言葉として耳に入ってこない。
イレが呼びかけるとライは額に当てた手のすきまからちらりと流し目をよこしてくる。その色気に当てられて、イレは顔を赤くしてしまう。
(だめだめ、さっきからライがかっこ良すぎてほんとだめ……! わたしの目、どうなっちゃったの?!)
うつむきまた顔を覆っていやいやと首を振っている可愛い人をみて、ライは天井を見上げて目を瞑り、大きなため息をついた。
「いや、すまない、話を戻そう。そう、後方支援だ。イレに頼みたいのは、伝令をしてもらいたいのだ」
「伝令……」
はっと顔を上げ、イレは居住まいを正す。それを受けてライは、しっかりとこの若草色の瞳を覚えていようと心に刻み、告げる。
「ああ、この行軍の長の言葉としてイレに頼みたい。
ブーレル砦に来るであろう貴きお方に『西のトルソ村、北のトゥーラ砦にそれぞれ増援を求む』と」
「貴き……まさか」
イレはさっと顔を青くした。
(……ルクスガルド卿がいらっしゃるの……?)
冷や水を浴びせられたように、身体がぶるりと震えた。ライと共にいるこの地に、婚約者がやってくる。
どうすれば、という思いと共に、でも必要だという思いが同時に上がってくる。
(武勲のある方だから、絶対ライたちの助けになる。ライたちの危険を避けるためにも、行かなきゃ)
「大丈夫だ〝常勝の槍使い〟はすぐに来てくださる。貴女の事も安全に守ってくださるだろう」
「……ライは?」
「私はこの戦いが収まったらすぐに戻る。そうしたらまた話そう、これからの事を」
「これからのこと……」
顔が曇っていくイレーネに、ライはぐしゃぐしゃ、とやわらかな金の髪を撫でた。
「悪いようにはしない。こんな所にまで貴女を連れてきてしまって、その事で彼の方に叱られるのであれば私も一緒に頭を下げるから」
「だめ……ライの首が飛んじゃうかも……」
「……っさすがにそこまでは……私も攻められるばかりではないだろうし。いや、でもお身体の事を考えれば敢えて受けるべきか……いや、それも失礼か……」
「ライが職を追われちゃったらどうしよう……」
「いや、それはない。内政干渉になる」
「そうかな……」
「ああ」
揺るぎないライの言葉に、イレーネは勇気をもらって頷く。
「わかったわ。ライの伝令、承りました」
「よし、頼む」
そうと決まれば急がねば、と立ち上がるイレーネに「イレの髪は私が結う」とライがイレーネの後を追う。イレーネの髪結に並々ならぬ思いをもっているライが整えてくれて、二人はテントを片付けていった。
簡易な朝食を取り、ここにいる全ての隊員と軽く打ち合わせをした。イレーネがみんなと分かれて一人で伝令に走る事もここで知る。打ち合わせ後、ネイトとテレサがイレーネの元に来た。
「イレさん、くれぐれも無茶しないように」
「わかってる、ネイト。ルイーザの様子をみながら走るから」
「迷わないでよ? あんたの伝令があたしたちの命を繋げているんだから」
「ええ、テレサさん。なるべく早く届けるわ。二人とも、無事で」
「イレさんも」
「そう、あんたもよ」
お互いの肩を叩き合い、お互いの健闘を祈る。
にこっと笑い合ってそれぞれ馬上の人となった。
全員の準備が出来た所で、先頭にいるライが号令を上げる。
「これより二手に分かれるが、増援はイレが連れてきてくれるだろう。苦しくとも信じて待て! 一人も欠けること、許さぬ! ルクスガルドでまた会おう!」
「「「「おぅ!」」」」
力強い声に頷くと、ライたちは北へと走っていった。テレサ、ネイトも先頭に立って西へ、その後をアーダルベルトたちが走り去る。イレーネも身を翻して南へと走り出した。
イレーネはルクスガルド卿がいると思っているブーレル砦へ。
ライはブーレルに来るであろうイレーネの祖父、マンセルにイレーネを託し、憂なく腕を振るうためにトゥーラ砦へ。
この微妙にすれ違った意思の疎通が後を引き、イレーネはライの思惑を超えて離れていってしまうのだが、それを二人が知るのは全てが終わってからの事。
運命の歯車は、少しズレたまま動き出したのだった。




