イレーネ、悪い子になる
賑やかな食事を終え、皆の器を集めて沢で洗っているとライがイレーネを呼びにきた。
「すまないな、皿洗いまでやってもらって」
「大丈夫。洗う事は慣れているの、馬のお世話でも水は使うから。……食事を作るのはちょっと難しいけれどね」
「手は切っていないか? ナイフの扱いが危なっかしかったが」
「テレサさんに芋がなくなるっ! って怒られながらやったから大丈夫よ。切れそうな持ち方してるとすぐ止めてくれるの。彼女、やさしいね」
「それならよかった」
話しながら洗って水を切った皿を布で拭いていく。ライも手伝ってくれたのであっという間に拭き終わった。
皿を重ねて持っていこうとすると、集まりがあるから、と皿洗いの途中で離れていた騎士たちが走って戻ってきてお礼と共に奪うように持って片付けにいってしまった。
「どうしたんだろう、あんなに急いで」
「イレと私にやらせていたからバツが悪かったのだろう」
「そうかな、気にしなくていいのに」
自分たちも早く戻った方がいいのかな、と思うけれどライがゆっくりと沢のほとりに沿って歩いているからイレーネも付き合って、小石に足を取られないよう気をつけながら歩く。
「イレ、今夜はテレサとテントで休む事になるが、いいか?」
「うん、今日一日いろいろ教えてもらって、少し仲良くなったと思う。平気よ」
「イレは人たらしだからな」
「なにそれ」
「いいことだ、と思う反面、少し妬ける」
「……テレサさんは女性だと思うけれど」
「そうだな、私もイレともう少し仲良くなりたいのだが」
「……ライとは仲良しだよ?」
「そうだな」
野営地から少し離れ、月明かりしかない宵闇の中では見上げてもライの表情はかすかにしか分からない。でも柔らかな空気が流れくるから、きっと微笑んでいるのだと思う。
お互いの袖が触れそうで触れ合わない距離感で歩いている事に胸の奥がざわめく。思わぬ形で昼間に受けてしまった額と目元の口付けを思い出してしまい、いけない、と思うのにもう少しだけライに触れたかった。
自分の至らない所に涙して、慰められ、気持ちを取り戻してテレサに向き合っていけた。ライはいつもイレーネに勇気をくれる。不安な時、心が折れそうな時に、いつも包み込んでくれる。
食事をしている時は感じなかったが、食べた後に騎士たちが集められた時からイレーネは肌がざわめくような感覚におちいっていた。
集められた後の騎士たちの動きが違う。就寝前のおだやかな時間だというのに、皆の動きが少しだけ速いのだ。
不安から、無意識に近づいてしまったのだろう。ライの左手の甲に右手が触れてしまった。
「あ、ごめ……っ」
ライはふっと微笑むと、力強くイレーネの手を握ってくれた。かっと顔が赤らんでしまうので、思わず俯く。そんなイレーネの様子がわかるかのように、ライの親指はイレーネの甲をゆっくり撫でるから、イレーネの顔は耳まで赤くなってしまった。
「そんな可愛い反応をすると抑えが効かないのだが」
「からかわないで」
「そう? からかっていると思う?」
「……っ」
息をのんだ。まるで幼子に問いかけるような柔らかい言葉なのに、ライの声音がとても甘い。思わず立ち止まってしまったら、ライの空いている手がゆっくりと頬を撫でた。
「私はいつも、からかうつもりでイレに触れていたと思うか?」
「ライ……」
本当は、触れてはいけなかった。
ライはおそらくルクスガルドの貴族で、自分は平民を装った王族で、辺境伯夫人としてルクスガルドに嫁ぐ事が決まっていて、この気持ちは、ずっとずっと心の奥底にしまっていなければいけなかった。
ルクスガルドに来て、何度も何度も思い直して蓋をしてきたのに。
心が動いてしまうのだ。気がつけば目で追い、食事が出来れば一番に報告したくて走り、近くに来てくれたら嬉しいと頬がゆるんでしまう。
震える手を、イレーネは頬を撫でているライの大きな手にそっと添えた。
「……イレ、その行為はイレが了承したと取ってしまう」
「……」
いいも悪いも、イレーネは答える事ができなかった。
迷いも不安もライへの想いも全てさらけ出して、そっと見上げる。
「ふっ……いい子だな、イレ」
ライがイレの全てが愛おしい、とでも言うようなとろりと甘い顔で笑うから、イレーネは泣きそうになる。
「私は悪い子だと思う」
「そんなイレもいい。悪いのは……私だ」
ライが悪いんじゃない、私が、と続けようとしてできなかった。
ライがイレの言葉を塞いでしまったから。
口唇が重なった瞬間、イレーネは目を閉じた。
何度も愛おしむように触れてくれるこの柔らかな感触を覚えていたくて、ライの袖をぎゅっと握った。
ずっとこのままでいれたらいいのに。
そんな思いに駆られた、その時。
急にライの抱きしめる腕の力が強張ったかと思うと、頭を胸に抱き込まれて地面に伏せる。
ドスドスッとすぐ側で鏃が地面に刺さる音が聞こえ、ライが指笛を甲高く鳴らした。
直ぐに野営地の火が消え、統率の取れた馬足が離れていく音が聞こえていく。やがて、対岸の方から叫び声と共に逃げ出てきた敵が沢を踏み荒らす音が聞こえた。
聞き慣れない叫び声にイレーネはライの胸元に顔をうずめ、歯を食いしばる。ライが力強く抱いてくれていたから悲鳴を上げずにすんだが、物音がしなくなるまでイレーネは目を開ける事も叶わなかった。
やがて、そっと頭を撫でられている感触に気づく。
「……今のは……」
「斥候だ。こんな所で射かけてくるとは、随分と無鉄砲な奴だな」
平時と変わらず柔らかな口調で説明してくれるが、イレーネは頷く事しかできない。ライが伏せていた身体を起こしてくれたが、膝が笑って立つ事ができなかった。
片手でイレーネを抱き、頭をぽんぽんとやさしく叩いてくれたライは、イレーネの正面に回って子どもをあやすように抱き上げてくれる。
「ごめん、わたし……」
「初めて襲撃を受けた者はみな腰を抜かすものだ、私もそうだった」
「でも……」
「いいから。イレ、できれば腕を首に回して欲しい。安定するから」
「わ、わかった」
力が入らない腕をかろうじて回すと、ゆっくりと頭を撫で、ライの首元に額がつくよう固定してくれる。
人、一人抱えても揺るぎない歩調でライが野営地に戻っていくと、向こうからもアーダルベルトと数名の騎士が走って迎えに来た。
「イレ殿はご無事ですか?」
「当たり前だ、私がついているのだから。それよりも私の心配はしなくていいのか」
「あんなひよっこにやられる貴方ではないでしょう。ああ、イレ殿、脚が萎えましたか。大丈夫です。ライ様も初めての時は全く同じでしたよ」
「ライも……?」
今だ顔を上げられず、くぐもった声しか出ないイレーネに、アーダルベルトは大きく頷く。
「ええ、イレ殿のように私が抱きかかえて差し上げましたから。その頃のライ様は子鹿のように震えて可愛かったですよ」
「おい、余計な事は言わなくていい」
「ライが、子鹿」
「今は狼のように大きくなってしまって可愛げがないですがね。また落ち着いたらお小さい頃のライ様をお話しましょうかね」
「いらん」
「ライ様には聞いておりません」
ぽんぽんと声を掛け合う主従の様子に、イレーネはふっと肩の力が抜けた。くったりと身体を寄せるイレーネの背中を撫で、もう一度抱え直したライはアーダルベルトと共にテントへと向かう。
「テレサ、少しの間ここを貸してくれ」
「こんな非常時になんですかっ、二人きりになりたいとでも……っ」
振り向きざま文句を言ってきたテレサはこちらの様子をみて、言葉を止めた。さっとイレーネの顔を覗き込み、額と首元に手を当てる。
「これだから平和ボケしている人はっ! こんな年になるまで襲撃された事がなかったなんて……どんな箱入りよ」
ぶつぶつ言いながらも懐から出した手拭いで流れている冷や汗を拭いてくれて、テントの中に迎え入れてくれる。
ライがすでに整えられていた簡易寝具にイレを横たえらせている間に、テレサはテキパキと水が入った桶と手拭い、吐きたくなったときの空桶、ライ用の幅広の毛布を持ってきてくれた。
「ライ様、わかってると思うけどここはあたしのテントだからね。変な匂いつけたらただじゃおかないよ」
「するか、馬鹿者。さすがに不敬罪でしょっぴくぞ」
「ライ……テレサにひどいことしないで……テレサ……変な匂いって……?」
「あんたって子は……」
がっくりと肩を落としたテレサを尻目に、ライはイレーネの頭を撫で「大丈夫だ、ただそばにいるだけだ、テレサの言うことは気にしなくていい」と矢継ぎ早に言葉を紡いでいる。
「まぁ、イレ殿がこんな調子なのでずっと手をこまねいているのですよ。大丈夫だからライ様に任せましょう。テレサ、後ほどネイトと共に私の所へ」
「わかったわ」
哀れな、とでも言うような目線をライに向けてからテレサはテントから離れていく。
「ライ様もちゃんと寝てくださいよ。我慢出来ずに襲わないように」
「だからお前は私を何だと思っているのだ」
「昔は子鹿、今は狼になったライ様です」
「うるさい、もう戻れ」
「はいはい」
笑いながらテントを出ていくアーダルベルトに、ライは少年の様に悪態をついていた。そんなライを見て、イレーネはそっと微笑む。
「すまん、うるさかったな」
「ううん、ライの知らない顔が見れて嬉しい」
「……っ、そういう所だぞ、イレ。無自覚に煽ってくれるな」
「なに……あお……?」
「いや、いい。こちらの話だ。私が我慢すればいいだけの話だ。至極簡単な事だろ? 今までだって耐えてきたんだ、耐えろ。耐えてみせる」
目を伏せ、形の良い眉間を崩すようにぐりぐりと指でつまんでいる姿も初めて見る。非日常の中であまり垣間見れないライの日常に触れて、イレーネの心がほぐれてきた。深いため息を吐き、目を瞑る。
ライの大きな手が頭に触れてきた。額から後ろへ、流れるように撫でられて身体に残っていた力も緩んでいく。
「おやすみ、イレ。何も、心配するな」
額に触れた柔らかい感触に応えようと思っても指一本すらも動かない。繰り返させれるライの撫でる手に導かれて、イレーネは意識をすぅと眠りに預けた。




