イレーネ、少しだけ涙ぐむ。
林を抜け、丘陵が広がったと思ってもすぐまた山道に入っていく。以前、ノルダンからアルタスに入る国境の山を抜ける時には楽しめた山の走りと、遠征の行軍は全然ちがった。
前へ、一丸となって移動していく。列は乱れない。ルースもルイーザも足並みが揃うよう周りを固められ、問答無用に走らされていく。
イレーネは歯を食いしばりながら手綱を握っていた。時折り太陽の位置を確かめながら、頭の中の地図と照らし合わせている。
紙面の地図は大まかなことしか書いていない。地図上ではもうすぐ沢のある箇所に行き当たるはずなのだが、見る影もなく不安になる。馬足が速いのもあって、この不安を軽々に尋ねることもできなかった。
(自分を信じて走るしかないのね……慣れた道ならいいけれど、初めての道はつらい)
汗がこめかみを伝っていくのを感じながら再び山の中へと入っていくと、ようやく先頭の速度がゆるんできた。早駆けから速歩ほどにゆるんでくると沢の水音が聞こえてくる。
「地図通りですね、イレさん」
隣で走っていたネイトが安堵したように話しかけてきたので、イレーネも頷いた。
「ええ、でも自分の感覚だともっと近い距離で見えてくると思っていたから、ちょっと考えないと」
「わかります。地図で思っていた感覚と実際走ってみた距離感覚がちがうから、修正が必要ですねー」
ネイトも同じ感覚だとわかってほっとする。岩と岩に挟まれた小さな岸辺を見つけた一行は、馬に水を飲ませ始めた。
ライに地図からの誤差をどうとらえていけばいいのか聞こうと探すと、アーダルベルトと共に地図をみて話している姿が見えた。
「ラ……」
「ライさま! みてっ! 今夜のスープは美味しくなるよっ」
イレーネが声をかけようとした所で、テレサが満面の笑顔でライに寄り添った。テレサがライに見せているのは三匹のウサギ。
「この短い間によく仕留めたな。さすがだ」
「ふふっ、英気を養わないとね! さばいてくる!」
あっという間に騎士たちの輪の中に入り、調理好きの者と一緒に持ち運びやすいように下処理を始めた。
(すごい、食べものを自分で取ってくるなんて)
弓に長けていることもそうだが、この行軍の中で隊を外れ、狩りをしてそれを成し遂げて戻ってきていることがすごい、とイレーネは思った。
(生きる力があるってこういう事だわ。日々の暮らしを生き抜く力……)
イレーネは以前、刺繍のレッスンもダンスのレッスンも、社交、国の歴史、近隣諸国の歴史を学ぶ事の意味がわからず、避けて逃げて今に至る。
(彼女はきっと、逃げずに幼い頃から弓も狩りも馬術も学んできたんだわ……)
イレーネはきゅっと唇を噛むと、くるりと身体を反転して馬たちの元へ戻っていった。
ルース、ルイーザ、数十頭いる騎士たちの馬も水を飲んだ馬から脚を痛めていないか確認していく。どの馬も変わりなく問題はない。ライの愛馬であるフォルクスの脚を入念にみていると、ぽん、と頭に手がのった。
「ライ、わたし、仕事中」
「ああ、昼食の準備が整ったから呼びにきた」
「あっ、ごめんなさい、もしかしてわたし、手伝わなければならなかった?」
イレーネの仕事は後方支援だ。戦いに身を投じない以上、ほかの雑務をこなさなければと思っていた。気が回らない。またしてもきゅっと唇をかむと、ライの人差し指がそっと頬をなでた。
「イレは仕事中だ。行軍では手が空いた者が協力して全てをこなす」
「ごめんなさい、もっと素早く馬を見ればよかった」
「馬の調子を見るのは調教師としての立派な仕事だ。他事に目移りして怪我を見過ごすよりも集中して丁寧にみてくれた方が誰がみても良いというと思うが?」
イレーネははっとして顔を上げた。ライは微苦笑をしてこちらを見ている。
自分の言葉では届かないとみて、他者からの視点も加えて擁護してくれた。
(そんな気遣い、させるつもりなかったのに……)
行軍に慣れていない自分にできることを探して、その行為がもしかしたらみんなの手を煩わしているかもしれない、と思い至ったイレーネに声をかけてくれたのに。
(ちがう、そうじゃない……。わたしが……意地になってたから)
最初のライの言葉に素直に頷けなかったのは、うっすらとテレサに対抗意識があったから。隊のために、ライの為になることを次々とこなしていく彼女に嫉妬したのだ。
イレーネは恥ずかしさと悔しさで涙目になって俯いた。
その様子に、ライは黙ってイレーネを腕の中に入れた。いつの間にか髪紐が解かれ、視界にふわふわといつも手を焼いている金の髪が降りている。
そしてライの無骨な手が優しく頭を撫でてくるのだ。
すごくすごく我慢しているのに、なんて事をしてくれるの、とイレーネは心の中でライに八つ当たりした。
「正直にいうと状況をよく分かっていない。だから、憶測で語ることを許してほしい」
額を硬い胸板につけているので、ライの声は胸の中から響いてきた。その落ち着いた声音が、イレーネのささくれだった心に染み込んでくる。
「イレは初めての事に気を張っている。その中でも自分に出来ることを探して動いている。褒められはしても誰からも責められる事はない。イレだけではない。それぞれ、自分がやれることをやっている。皆、同じ方向を向いて走っている。イレもだ」
淡々と語られる言葉が、ぽとり、ぽとりとイレーネの中に落ちてきた。
「三十頭近くいる馬をイレとネイトが手分けして見てくれるおかげで、調理する者は安心して火をたくことができるし、下拵えをすることもできるし、用のない者は腰を下ろし身体を休める事ができる。充分に役に立っていると思わないか?」
声にならない気持ちを、かろうじて頷くことで伝えるとライの手がいっそう優しくなった。
「無理をさせているのは私だ。怒るのもなじるのも、全て私が受け賜る。なんでも言っていい」
「……っそ、んなこと……しない……」
「イレはえらいなぁ」
「……っらく、……ないっ……」
「そうか」
ふー、ふー、と息を吐いて袖でこぼれてしまった涙を拭う。
(まだ始まったばっかり、泣いてたって何にもならない。水辺で顔洗って、みんなといっしょにご飯食べる)
一つ一つやることを頭に浮かべて、うん、と頷いた。
「ありがとう、ライ。……もう、大丈夫」
「次は私に涙を拭わせて欲しいな」
「も! もう、泣かないしっ」
見上げて頬をふくらますと、愛おしそうに微笑む湖畔の瞳と目があった。あっと息をのんでいる間に顔が近づき、額と目元にキスをされる。
「ラ、ライ!」
「イレの心を守った騎士に褒美を。髪を結うのもな」
「も、もう……友だちの距離が近すぎるよ……」
「友でもこれぐらいやるさ、仲が良ければな」
「そうなの?」
「そうだ」
そんな事を言いながら、ライはイレの背後に周り、手早く髪をまとめて一つにしばってくれる。
ありがと、といって水辺に走っていくイレーネの後ろ姿をゆっくりと追いかけながら、ライは少し強めに自分の首の後ろを叩く。
「あまり二人きりにならん方がいいな……耐える気になれない。……拷問だな」
行軍中はイレを涙目にしない、させない、誰にも見せないと心に誓い、水で濡れた前髪を払っている彼女の元へと急ぐ。
いつもは見えない肌白い額に口付けたくなる気持ちを抑えて指で前髪を横に払ってやる。すると彼女は少し照れ、はにかみながら礼をいうのだ。耐えろというのが無理な話だ。
「早く行き、荒事もさっさと済ませて早く帰ろう」
「うん、無事に行って、無事に帰ろうね」
全く違う意味合いだが頷き合い、二人、肩を並べながら昼食の場へと足早に戻っていった。




