イレーネは切なく唇を噛んだ
朝食を済ませ、連れてきた馬だけでなく、砦に居る馬達の様子を見ながら世話をしていると、イレさま、いらっしゃいますか? と野太い声が聞こえた。
「はい、こちらに居ます」
丁度、砦の馬のブラッシングをしていた所で、馬の首を軽く叩いてこれで終わりね、と声をかけながら馬房から出ると、縦にも横にも身体が大きい騎士が遠慮がちに手を胸に当てて控えていた。
「お仕事中失礼します、手が開いたら少しお話をしたいのですが。あ、申し遅れました、私はこの砦を守っております、バルドルと申します」
「調教師のイレです。えっと……わたし、そんなに身分が高くないので普通に話してくださると嬉しいです」
「さよう、ですか……わかりました、ではイレさんとお呼びしても?」
面白そうにたずねる声の調子がライに似ていて、イレーネはくすっと笑った。
「ライと同じこと言うのね、どうぞそれでいいわ」
その物言いがすでに高位貴族のそれなのだが、イレーネは気付かない。
バルドルもさして気にすることもなく、ありがとうございます、と声をかけながら厩舎から砦の居住区に向かう。
途中、訓練場も兼ねた中庭でライが複数で向かってくる騎士達をいなす様に倒していた。
その姿を見て、先を歩くバルドルの肩がため息とともに落ちる。
「あぁ、ライさまにはほどほどにといっておいたのに」
「訓練をつけているんじゃないの?」
「あれは、訓練というよりも実体験を経験させているようなものですね」
「どういうこと?」
「複数でかかっても叶わない敵がいるかもということです……普通いないんですけどね」
肩を落としていたバルドルは、仕方ないと無理矢理姿勢を直すと、にかっとイレに笑った。
「全力で挑んでも叶わない敵に当たった時の対処が学べるのです。良い経験をさせて頂いているとして目をつむりしょう。ささ、イレさん、こちらです」
回廊を抜け、階段を上がっていくと一番奥の角部屋に案内された。
「機密を話しますのでドアは閉めさせてくださいね、でもドアの前に配置した騎士には大きな音がしたら命令なくともすぐ入ってきなさいといってあるのでご安心ください」
「えっと、はい。大丈夫です」
このがたいは良いがとても紳士的な騎士に無体なことをされる気配などないのだけれど、と首をかしげながら頷くと、バルドルがこほんと咳払いをした。
「ええ、わたしがイレさまと二人でお話すると申しますとこのようにせよときつく厳命された方がいまして、ハイ。あ、どうぞお気になさず、こちらへおかけください」
目を丸くするイレーネを二人がけのソファに座らせ、自身は執務机から地図を持ってくるとローテーブルに広げて向かいの椅子に座った。
「昨晩、大まかな作戦が決まりましたので、イレさんにも承知して頂きたくこちらにお呼びしました」
「はい、後方支援ですよね」
「そうです。軍を二手に分けて配置する予定でして、イレさんはライさまの隊の後方支援になります」
「分かりました。具体的には何をすればいいのでしょう」
「基本的には隊に随行して雑務を行うことになります。戦闘が始まったらライさまの伝令を受け、こちらに戻ってきてください。伝令が無い場合でも、同様に戻ります」
「伝令が無い場合とは?」
「急襲を受けた場合、隊が混乱し、伝令なく戻る事がある、ということです。分かりやすく言いますと、指示がなくても、戦闘になったらこちらに戻ってください」
「仲間が戦っていても?」
「そうです」
「見捨てるということ?」
「いえ。貴女は戦えないからです。貴女を守りながら戦うのは、実に厳しい」
にこやかに事実を述べられ、首をかしげていたイレーネははっと、姿勢を正す。
「わたしを守らなければと、剣が鈍るという事ね。騎士達が存分に腕をふるうことができなければ、皆が危険になってしまう」
自然とイレーネは公女としての言葉が出た。バルドルもまたそのように受ける。
「左様にございます。イレさんは飲み込みが早いですね」
「そんなこともないけれど……」
奥まった温かい目に褒められて、イレーネは照れくさく、はにかんだ。その無垢な笑顔にバルドルはバチンと自分の両目を片手で隠す。
「ど、どうしたの? バルドルさん」
「いえ! 本日は朝日が眩しいのと前方からの殺気に自己防衛しました。脳筋なので!」
「の、のう? あと、もうすぐお昼だから日はさしていないけれど」
こてんと首をかしげるイレーネの頭にぽんと置かれる手。
「ライ」
もう後ろを見なくても分かる手に、イレーネはぷるぷるぷると首を振る。
「いま、大事なお話をしているの! 邪魔しないで」
「もう終わりました! もう終わりましたから!」
「バルドルさんっ」
もう少し詳細な事柄があるはず、と頬をふくらませてバルドルをにらむと、バルドルは身体に似合わない素早さで地図を片付けると直立不動になった。
「後ほどイレさんには簡易な地図を渡しますねっ、ネイトさんと共に熟読してください。詳細な行程はライさまにお聞きして頂いて、ハイ! では私は失礼します!」
ライに向けて拳を厚い胸に当てて敬礼をするとドアをきっちりと閉めて出ていった。ドア前にいるであろう騎士たちにもライさまが来たから行くぞ、と声をかけて足音が遠ざかっていく。
「イレ?」
「なに」
「バルドルに愛想をよくしてもあまり意味はない。あいつには王都に幼馴染みの婚約者がいるからな」
「はい……?」
目を丸くして振り向こうとするが、大きな腕が後ろから両肩の隣に伸ばされ、囲われて動けない。
「砦の者たちと交流をもつのも好感がもてる。良いことだと思う。だがイレの愛想は、私に向けてくれると嬉しいのだか」
最後は耳元で囁かれて、イレの顔は真っ赤に染まった。
「わ、わたしの顔が、むずかしくなっちゃうのは、ライがいけないと思うのっ」
膝頭をきゅっと掴んでなんとか言葉を紡ぐと、ぐぅ……とライが頭上でうめいた。
「イレにいけないと言われると、なんとも言えない気持ちになるな……」
「なんのこと? わたしは怒っているの」
「何を怒っているんだ?」
柔らかくあたたかい声にイレーネの唇がきゅっと結ばれる。今、顔を上げれば愛おしそうに見つめてくる湖畔色の瞳と目が合ってしまう。
(そうしたら、わたしは自分の気持ちを隠すためにますます変な顔をしなきゃいけないのよ、わかって!)
「と、砦に来てから距離が近いと思うの! ライとは友だちだけど、ちょっと近すぎて……」
「近すぎて?」
「ど、どきどきしちゃうから、離れてほしいというか……」
「それは上々」
ライの嬉しそうな声が頭上から響く。それにイレーネはぴくっと眉をひそめた。
「よくないっ」
「イレ?」
イレーネが吐き出すように言ったので、ライが隣に座ってきた。イレーネは、未だ震えている指先を握りしめて、意を決する。
「よくないってば……ライ、あなた、貴族でしょう? わたしとは……仲良くなっちゃ、いけないでしょう?」
わたしは平民だから、という言葉は出せなかった。
本当は王族だから。
それだけでなく、ルクスガルドに嫁ぐ予定で、婚約者が居る。
(側にいていけないのは、わたしの方)
心臓がずきんと音を立てて、胸が苦しくなった。
「策士、策に溺れるとは、この事だな」
ぼそりと落ちてきた聴いたことのない暗い声にイレーネが顔を上げると、隣に座っていたライが額に手を当ててうなだれていた。
「せっかくこちらを向いたと思ったのに、拷問か? 今手を出したら私は間男になってしまうのか? 私自身の? 最悪だ……」
ものすごい早口でぶつぶつと呟いている。あまりに早くてイレーネには聞き取れなかった。
「ラ、ライ、大丈夫? なに言ってるのか全然わからないけど」
「ああ、問題ない。過去に面白そうだといった自分をぶん殴りたくなっただけだよ」
膝に肘を置いてうなだれていたライが、大きなため息をついて残念そうにこちらを見てくる。
「イレ、難しいとは思うが、今は身分は関係なく、ただのライと思って接してくれないか? 私たちは友達だろう?」
「うん……そうね、こちらにきて初めてできた友だち」
胸に手を当てそっと微笑むイレーネを、ライは愛おしそうに見つめて目を細めた。
「そうだ。ここに居る間はあまり難しく考え過ぎないで欲しい。……悪いようにはしないから、いつものイレに戻って」
そっと人差し指で頬を撫でられ、その大きな手に寄り添いたくなる気持ちをぐっと堪えた。
(そう、これはここに居る間だけの魔法のような時間。わたしがルクスガルドに居られる、あと半月だけの)
一度目を伏せて心を決めると、頬に添えられたライの手を両手で外し、ぎゅっと握った。
「ごめんなさい、友だちなのに仲良くなっちゃいけない、なんて思ってしまって……わたしらしくないよね。えっと、これからもよろしく! 友だちとして」
「……ああ、友だちとして」
またしてもガクッとうつむいたライだったが、気を取り直したように顔を上げた。
「さ、明日の行程について話さねば。昼はもう食べたか?」
「ううん、まだ」
「一緒に食べよう。仕事の話はその後に。地図を持っていくから先に食堂に行っていてくれ」
「そうね、食事は楽しく食べたいものね! あっ、ネイトも連れてきていい? バルドルさんがネイトも地図を熟読してといっていたから」
「ああ、そうだな。それがいいだろう」
じゃあ後でね、と手を振るイレーネを送り出しドアを閉めると、ラインハルトはそのままゴツリと固い扉に額を当てた。
「辺境伯に操を立てる、か。婚約者として相応しい対応だが」
彼女の中で調教師イレではなく、王女イレーネとしての立場が勝ったのだろう。辺境伯の婚約者として正しい判断をした。しかしラインハルトは自分自身を否定されたように思ってしまう。
ただのライでは、彼女に相応しくないのか、と。
「こうも悔しく感じるとはな」
自分に嫉妬してどうする、と何度も思うのだが、芽生えたこの感情は忘れられそうにない。
「身分も何もないただの人であっても、私を選んでもらえるよう攻めたくもなるが、だめだ」
先ほどの切なく唇を噛んだイレーネの表情が忘れられない。
「愛する者に苦しんでほしくはないからな。貴女の笑顔を守るために、我慢しよう。……はぁ、元はといえば、自分が悪い」
側近たちの間では戦略家と名高いラインハルトがめったにない後悔のため息をつく。こつり、と一つ、拳を扉に当てると、地図を掴んで執務室を後にした。




