イレーネは気付き、震える。
大きな手が頭を撫でてくれている。もう時間です、という声が遠くから聞こえてきて、ああ、と低い声が近くであった。
「本当に起きないのだな」
笑いまじりの吐息は深くて心地よい。自分もうれしくなって口元がゆるんでしまう。やがて、頬に柔らかなものが触れた。
「もう行かなければ……イレ、起きるんだ」
「んん……」
首の下に手を入れられてゆっくりと上半身が起こされるが、目が開かない。
「イレ、起きろ」
「んー……んぅ……」
寝ぼけて芯のない身体を誰が支えてくれている。その安心できる大きな身体に寄りかかって、イレーネはまた夢の中へと落ちようとしていた時、顔に冷たい幅広のなにかがくっついた。
「んにゃあっっ!! なに?! なにかついた!!!」
「ははっ、起きたな」
あわてて顔についたものを取ると、それは顔を拭うための薄い布。しかもぴっとりと手につくほどぬれている。
「ライ! ひどいっ!」
「ドアをノックしてもなかなか起きないからな、仕方ない」
「しかたなくないっ、うぅ……最悪な目覚め……」
「そうでもなさそうだったが……まぁ、今は時間がないからな。髪の手入れは自分でできるか?」
「もう! 子どもじゃないんだからっ、ライは早く出ていって!」
「残念。ではまた昼にな」
くしゃりと頭を撫で、ライはベッドから離れていく。続きの間のドアがしまった所で、イレーネは頭から掛布につっぷしてしまった。
「……っなんでなでていくの……! 息、とまっちゃうし、やめてぇ……というか、なんで起きれないのわたしっ」
イレーネはノックの音で起きれない自分の寝起きの悪さを呪った。
砦についてからイレーネが寝泊まりしているのは、客間にあたる部屋だ。隣はライの部屋にあてがわれていて、内側のドアで行き来できるようになっている。
砦についた当初、イレーネは馬の近くの部屋で寝泊まりするといったのにその話を聞いた近くの人、全員に首を横に振られた。
「イレさんのお部屋はライさまが指示なさっていました。むさ苦しい男どもと同じ宿舎で寝泊まりさせるわけがありません」
「で、ですよねー、アーダルベルトさま。よかったぁ」
「別に、ルクスガルドの時と同じじゃない? 大丈夫なのに」
いやいやいやいや、とネイトは首を小刻みにふる。
「厩舎の人たちは全員既婚者なんですよー、私はお世話係だったから仕方なく許して頂いていたのでしょうけれどー」
「通りで……。ベテランばかり集めてきたなと思っていたんだ」
「ですよね、最初からご配慮があって私としてはほっとしていてー」
「うん? それがどうしたの?」
きょとんとアーダルベルトとネイトを見上げるイレーネに、二人はうんうんと頷いている。
「姫……イレさんは、こう、ね、男という生き物についてうとくていらっしゃるからー」
「ライさまも含め我々がしっかりしないとなぁ」
「ええ」
そんな風にしてあれよあれよという間にこの部屋に連れてこられたのだ。普段使っている厩舎のベッドと比べるとふかふかで寝心地が良く、イレーネの眠りは深い。
ライがくる前に起きようとするのだが、この二日間、連敗をしている。
「ライの起こし方もどうかと思う……! 婦女子のベッドには上がらないんじゃないの?」
今朝はまだ怒ったりしてごまかせたが、昨日なんて、気がつけば抱き起こされて膝の上で掛布にくるまっていた。
「どこまで移動したら起きるのか確かめてみたかったからとか、おかしくない?! ひ、膝の上とか、は、はずかしくないのかな……え、はずかしいよね?」
寝ぼけまなこで見上げると目の前に薄い口元が微笑んでいて、あれ……だれ……?と思って湖畔色の瞳が見つめていたら、薄い唇が近づいてきたのだ、額に。
「いやーーーーーー!!!!」
顔を真っ赤にしてさらに掛布に顔を突っ込むと、廊下側のドアが叩かれた。
「イレさん?! どうしました、大丈夫です?!」
「ネイト、入らないで!!! なんでもないっ!!! 寝ぼけただけだから!!!」
イレーネは思わず叫ぶと、なんだー、驚かさないでくださいよー、と気の抜けた声がした。
「支度するからもう少しまっててっ!」
「承知しましたー」
思い出すだけで耳まで熱い。イレーネは顔を両手でおおって観念するしかなかった。
「うぅ……ライってばライってば……! 冗談にしてもほどがある……って、ちがうか……」
からかうことが好きなライだが、こればかりは冗談だとは思えなかった。
(だって、瞳がちがう。手がちがう。優しいだけじゃなくて)
あんなごつごつしている手がそっと撫でるのだ。頭の形に添うように、強くなりすぎないように、大切に、ゆっくりと。
イレーネは、知っていた。その優しさの先に行き着く感情を。
イレーネもルースやルイーザにしているのだ、いつも心の中で、時には言葉にして唱えながら。
「わたしも……どうしよう、逃げ出したい、だけど……」
この早鐘のように鳴り響く胸の動悸はごまかせない。
「どうしよう……わたし……」
ぽとりと掛布に落ちた手の指先が小刻みに震えている。
「ライを、好きになってしまったわ……」
イレーネは途方に暮れたように、眉をハの字に歪ませ、声にならない声を上げた。
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衝撃の事実に打ちひしがれながらも、ネイトの催促の声にのろのろと身支度をし、ネイトと共に一階の食堂へ降りて朝食の席についた。
元気のないイレーネを気遣いつつも、ネイトは遠慮がちに今日の予定を告げる。
「午前は馬房で馬を見ます。お昼の後は砦の責任者であるバルドルさんから面会の希望がきているのですが……明日にしてもらいましょうか」
「え? ううん、大丈夫。話を聞くわ」
「そうです? お疲れなら横になった方がいいと思いますけれどー……」
「ううん、平気。バルドルさんにもご挨拶したいし」
にこりと無理やり笑みをつくると、イレーネはこれで話は終わったとばかりに目の前のスクランブルエッグを食べ始める。
「それならそれでいいですけれどー……無理なさらないで下さいね」
「わかってる」
無心に食べながら卵に返事をするイレーネ。ネイトはしばらく黙っていたが、やがて自分もパンをスープに浸して食べ始めた。




