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憂いて憩う

作者: 小走煌

 最高の気分を表現するなら、どういう手段が望ましいだろう。

 夕暮れに染まるビル街の通りは自宅へ帰るサラリーマンで賑わう。クリスマスでもないのにチキンの入った袋を片手に穏やかな笑みで引き揚げる者もいれば、一体どんなミスをしたのだろうと心配になるほど青ざめた顔をしてゆっくり歩く姿もある。

 その様は正に千差万別でこの表通りの喧騒に加わるグラデーションとなっているが、道行くそれらの誰よりも自分こそが最も充足し、気力に溢れ、幸福感に満ちているという自信が藤井にはあった。

 人混みを抜け、大通りから路地裏へ入る。一歩足を踏み入れたところで立ち止まり少しだけ考え、ほどなくして閃きを得た藤井は路地を奥へと進む。この高揚感を落ち着かせながらゆっくり満足出来る場所といったら一つしかない。

 決めた途端に速度を上げた足の向かう先にはコンビニがあった。まるで裏通りを照らす街灯の役割を兼ねたようなその建物へ藤井は一目散に向かい、やがてドアの前までたどり着く。

 入口の真ん中から進もうとしたところでちょうど自動ドアが開き、あまり綺麗とは言えない身だしなみの老人が出てくる。うつろな目で足取りはおぼつかなく、刺激臭が漂っているその老人を避けながらすれ違い、自動ドアが閉まらない内に潜り抜ける。

 その背中を振り返り藤井は思う。たった一本裏に入るだけで、そこにいる人間の数や質は全然違う。ほんの少し歩けばあんなに煌びやかな世界があるというのに不思議なものだ――そんな他愛のないことを考えながらアルコールが並べられた冷蔵庫の前に立ち、品揃えの中から最も度数の高い缶チューハイを手際良く選び、それ以外には一切目もくれず店を出た。

 雑誌を立ち読みしているくたびれた中年をガラス越しにちらりと見やってから、コンビニの壁に背を向け座り込む。おもむろに缶チューハイを開け一口、また一口と含んだところでふうと一息つき、藤井は路地の様子をぼんやりと眺めた。

 道行く人々は皆てんでんばらばらの格好をしていて、年齢層もまちまち。だが、全体的になんだか薄暗いことは共通している。表通りのサラリーマンのように髪型をワックスでキッチリと固め、背筋を伸ばして歩く人間はほとんど見当たらない。

 藤井は頬を赤らめながら、ニンマリと笑みを浮かべた。この場所はこういう場所だから良い。気兼ねがない。表とは違う。あんな小綺麗に整った連中とは違うのだ。

 天を仰ぎながら藤井はまた一口アルコールを含み、今日面接に受かった会社のことを振り返った。明日から自分も『表』側の人間になるのかと思うと武者震いがする。

 大企業でボーナスあり、更には定時退社が当たり前だったりリゾートホテルの法人割引利用を行えたりと、転職サイト上では待遇と福利厚生の整った今時珍しいホワイト企業という紹介だった。しかしそんな甘い話などあるわけない、と気持ちを強引に押し込めて向かった面接では心の裏で密かに持っていた期待以上の感触を得られたのだ。

 これまで勤めていたバイト先では頭になかった定時帰宅や有給休暇の取得という願いが叶うかも知れない。定時に上がったらなにをしよう。週末にはバーに行ってゆったり飲んでみるのも洒落ているかも知れない。藤井は壁にもたれ、通行人の姿を肴にパーソナルスペースでのお祝いを心ゆくまで味わった。




 仕事を終えた藤井は悶々としている。

 どうしてこんなに悩まなければならないのか。騒々しさの止まない表通りを、藤井は眉間に皺を寄せ歩いていた。

「藤井さん」

 ぬめっとした陰気な声が藤井の脳裏を掠める。この声は上司の伊藤。一人でいたい帰宅の最中、こともあろうに見つかってしまったかと後ろを振り返ったが、そこに見知った顔は誰もいなかった。

 どうやら幻聴だったらしい。気を取り直して再び歩き出す藤井を、今日の記憶がいじめる。

「藤井さん、これ」

 こちらを見ずロボットのように紙を寄越してくる伊藤に思わず藤井は憤る。指示をする時には部下の目を見て喋る上司になりたいものだ、とその行為を即座に反面教師にしつつ紙を受け取った。

 タイトルに太文字で『稟議書』と記載されたA4用紙の上部にはいくつもの押印欄が用意されている。『起案者』の欄にはこの書類を手渡してきた張本人である伊藤の印鑑が既に押されていて、その横には該当部署の社員や所属長、社長が押す『確認』『決裁』『報告』という欄が並んでいる。

 上司の面々に書類を回す前に確認欄へ直ちに押印せよ、ということをロボットの伊藤は言いたかったらしい。

「分かりました。押したら良いんですね」

 藤井はほうきを一度だけはくようなレベルで書類を流し見し、さっさと押印して次の上司へ回した。

 ホチキスの針やボールペンなどのちょっとした物品の購入から部署の追加や人員削減といった大規模な話まで、この会社で仕事をする際には稟議書を用いる必要がある。全ての押印欄が埋まるまで仕事は始められない。

 藤井は、大企業ならではなのかこの御役所然とした書類回しに拭い切れない違和感を持った。単純に面倒ということではない。面倒さは『仕事だから』の一言で片がつく。そうではなくこの制度にはどこか、無意識に人の顔色を窺ってしまっているような感じを覚えるのだ。

 しかもこれだけ回りくどい手続きをして今回得られる成果はコピー用紙の追加購入。なんと間抜けな仕事だろうか。

「はい……ええ。方向としてはその認識で相違ありません」

 不意に訪れたその声で藤井は我に返った。夜の表通り、黒に近い紺色のスーツを清潔に着こなした風貌から藤井とは人生に天と地ほどの差があることがハッキリと分かるどこかの社員が、携帯電話越しの誰かに延々と腰を折っている。

 そういうものなのか。藤井は深く溜め息をついた。胃がむかむかするような気持ち悪さ。どうしても自分の中でそれを完結させきれず、藤井は裏通りのコンビニに寄った。

 結局、あの後は決裁者に自分が作ってもいない書類のミスを重箱の隅をつつくように指摘され、修正のサポートに追われ一日が終わった。

「また指摘が戻ってきたけど。この書類の意味ちゃんと理解して回してる、藤井さん?」

 関係のない自分に伊藤がなぜかこぼしたその言葉が、心の中で再びうるさく鳴る。

 コピー用紙の購入に意味づけなどする必要があるのか。そもそも伊藤が直接上司とやり取りしてくれればもっと効率良く仕事は終わったはずだ。ロボットのくせに指摘だけは一流、簡単な仕事を面倒にするプロめ。

 会計のレジで財布の隅に掛かった小銭をようやく取り出した藤井は、店員に苛立ちを悟られないようそそくさと外へ出た。

 無人の雑誌コーナー側の外壁にもたれ、ビニール袋から一本の発泡酒を取り出した。一緒に買った晩飯の弁当は、流石にここで食べるようなことはしない。しかしどうしてもここで一杯飲まずにはいられない。

 スーツ姿のまま藤井はその場に座り込み、発泡酒を口にした。少しずつアルコールの暖かさに体を満たされながら思う。世の中そんなに甘くない。確かにあまりにも出来すぎた話ではあった。表通りの煌びやかさに包まれるにはそれなりの苦労があるのだ。

 そしてそれが自分の肌に合うかどうかは、どうやら時間を経なければ分からない。これからその見極め作業をしていかなければならないことを考え、藤井はげんなりした気分になる。

 しかし、飲み続けている内に気は楽になっていった。アルコール依存では決してない。藤井にとってここでの酒は憩いの場にいることと同義なのだ。懐かしいあの時の気持ちが蘇り、なんとなく良い気分になることを自分で分かっている。次第に藤井は仕事のことなど忘れ、路地裏の心地良さに浸っていった。




 三ケ月後、藤井はパソコンに映し出される大量の文章と睨めっこしていた。

 新しい会社はインターネットビジネスを生業としている。顧客の紹介をする記事を大量にネットにアップし、サイトをクリックさせ広告料を取るという仕組みだ。藤井は取引先から納品される記事の中身をチェックするチームに所属していた。

 早過ぎた転職の決断だったかも知れないという後悔も少しある。しかし、今の会社は以前のような堅苦しさがないのだ。もっとも、給料はダウンしてしまったが。

 藤井の耳には今日も有線放送が届く。女性ボーカルの歌う、曲調から作曲者の賑やかな頭が背景に透けて見えるアップテンポな曲の後には、世代交代のあおりを受けて最近は見掛けなくなった男性アイドルグループの退屈なバラード。すっかり覚えてしまった曲順を今日もピタリと当て、藤井は一人で思わずほくそ笑んだ。

「藤井さーん」

 ふと、自分を呼ぶ声に気づいた。これは恐らくチームリーダーである源田のものだ。

「はい!」

 有線放送に負けない程度に大声を出し振り返る。島型レイアウト二つ分離れたデスクにいる源田が手招きしていた。藤井は呼ばれるままに源田の席まで向かった。

「これ、どうする?」

 源田が指差したパソコンの画面には、得意先からの製品入荷のメールが映し出されていた。

「急に大量の記事を入荷してくるから困るよねえ、このクライアントさん」

 軽い喋り口で、かつ結論を言わない。この男の人間性がなんとなく分かってきた。

「そうですね。本当、どうしたものか……」

「でも大事な取引先だからね。やるしかないんだよねえ」

 どうにか事を回避しようとする藤井を逃がすまいとしているかのような言葉のチョイス。この男は『やって』と言わず『やります』とこちらが宣言するのを待つ。藤井にとってはそれが歯ぎしりしたくなるほど耐え難い。

「そうですね。ただ、こんなに大量だと、納期に間に合うかどうか……」

「うーん。間に合うかどうか厳しいところだよねえ。でもまあ、クライアントのためになんとかチェックしてあげたいよねえ」

 藤井は仕事をするうえで、上司が指示を出すのは当然と思っている。指示がなければスタートとゴールが曖昧になるからだ。

 しかし、この男は絶対にそれをしない。なによりもまず指示を欲しい藤井は、源田の煮え切らない態度に目の前が赤くなるのを感じた。

「そうですね、分かりました。すぐにでも取り掛かりましょう」

「さすが藤井さん。デキる男は違うねえ」

 源田は陽気なジャマイカンのように両の人差し指で藤井を差す。急いでいる振りでそれを無視しつつ、自分の取れる範囲内で最大級の乱暴な座り方で席に戻った。

「皆さん、記事の納品が入りました。今日中にチェック完了させましょう」

「ええ、めっちゃ多いじゃないですかあ」

「これ今日中って、無理ですよ!」

 藤井の指示を聞いたパートのメンバー達は、パソコンを通して記事数を知るや否や反発の声を上げる。それを聞いて藤井は少し震えた。源田の席を一睨みして、軽く深呼吸をする。

「しょうがないです。今回はチェック甘めで良いんで、飛ばしていきましょう!」

 自らに言い聞かせるようにそう言って、藤井は仕事を開始した。ひたすらチェックを行い、メンバーから尋ねられる記事の内容に関する質問にも細かく答える。時折確認する時計の針は少しずつ、しかし確実に進んでいった。

 それからどれほどの時間が経過したか分からない。気づけば藤井は肩を叩かれていた。

「藤井さん。この記事チェック通せないんじゃない?」

 見れば、源田がノートパソコンをわざわざ持ち運んでこちらの席までやってきていた。

 忙しいのになにを――渋々画面を覗き込んだ藤井は愕然とした。一目で承認出来ないと分かる記事が、チェックを通っていたのだ。

「藤井さん、チェック目線の指示がおかしかったんじゃない?」

 源田は状況に似つかわしくない不気味な笑みを浮かべ、まるで待っていたかのようにゆっくりと語り掛ける。

藤井は思わず眉間に皺を作った。確かにチェックを甘めにするようメンバーに伝えたが、それは時間との兼ね合いがあったからだ。しかし、それが誤った形で伝わってしまったのだ。

「……そうです。すみません」

 じっと見てくる源田の圧に耐えられず、藤井は今起こった出来事を受け入れていた。納得がいかなくても、引き受けた以上は自分のミスだ。残念ながら、そういうことなのだ。

「……該当記事は、もう一度自分の方でチェックします」

 藤井はそう言うしかなかった。よろしくね、といつもの軽さで言って席に戻る源田の目は、いじめられっ子が足を引っ掛けて転ぶ様を見る観衆のように笑っていた。




 いつも以上に人のいない裏通り。藤井は缶ビールをかき込むように飲む。夜も遅いからか、いや、遅い時間こそこの通りには人気を感じるものではなかったか。

 走り去る車がこの姿を見たら驚くだろう、仮にもスーツ姿のサラリーマンがコンビニで飲んだくれているのだから。しかし藤井は構わずアルコールを体に入れ続けた。

 三本を空にし、顔と同じように紅潮した指ですかさず四本目を開ける。なにもかもを忘れるように飲み続けるが、藤井の頭からいつまでも離れないものがあった。

 この会社に入ってからしょっちゅう利用している、その日最後の退社となる人間が通る裏口。そのドアには『賞罰規程』なるものが貼られている。会社に多大な利益をもたらす特別なことを行った場合に表彰される規程のこと、そして、著しく業務を滞らせ顧客の信頼失墜に繋がる事態を引き起こした際に重い罰則を適用する規程のことが記載されている。

 今せっかく飲んでいる酒が全く美味しくない。罰則を受ければ給料だけでなく今後の契約にも関わるだろう。それよりなにより、怒られたくない。藤井の体は震えた。

 嫌なら辞めてしまえば良い。しかし、単に問題はそれだけではない気もするのだ。勢いに任せ天を仰ごうとして、もたれ掛かっているガラス張りの壁に頭を打ちつけてしまった。

 後頭部を押さえ、思わず舌打ちする。痛みよりも、せっかくの憩いの場が居心地良いものでなくなっていることに心が濁る。藤井は缶ビールの残りを一気に飲み干した。大量に買ったはずの酒はあっさりと尽きてしまった。

 空になった缶を見て思い出す。あの時、仲間と飲んだビールもちょうど同じ銘柄ではなかったか。




「就職って、どんな感じなんだろうな」

 藤井の問いに、柏原はビールを一気に飲んで答える。

「まあなんとなく仕事してなんとなく余生になるっしょ!」

 まだ酒に慣れていないだろうに、一気飲みなんてするから呂律が回っていない。

「いいや。絶対嫌なことばっかり起こる。ゼミの先輩達も大変そうだったぞ」

 井口はずれてもいない眼鏡の位置を直して冷静に話す。眼鏡を直すのは癖なだけで、酔ってなどいないことは藤井はすぐに分かった。

「就職したらそこで仕事を覚えなきゃならないだろう。その内容ってのが多種多彩なんだ。今までやったことないようなことを平気でさせられるらしいぞ」

 シラフの時となんら変わらない口調で井口が畳み掛ける。同じタイミングで酒を覚えたはずなのにどうしてこんなに強いのかと藤井は感心する。

「やめろって。せっかく良い気分なんだからさあ!」

 対照的に、既に泥酔の気配を感じる柏原が藤井は心配になった。自分のアパート内で吐かれでもしたらかなわない。

「ちょっと落ち着いて、トイレにでも行ってきたらどうだ」

「だいじょぶだって! それより酒がなくなっちゃったんじゃないの」

 柏原はのそりと立ち上がり、冷蔵庫を勝手に漁る。彼の言う通り、確かに酒は尽きていた。そもそも成人してまだ二年も経っておらず、酒の味など覚えていない。絶対数の少ないストックはすぐに尽きて当然だ。

「しょうがない。調達に行くか」

 ふと、井口が意外なことを言い出した。

「ええ、まだ飲むのかよ?」

 藤井はこの狭いアパートの隣人に聞こえてしまわなかったか気になるほど、つい声が大きくなってしまった。強い割に酒を飲みたがらないあの井口がすすんで酒を買いに行こうとするとは。

「おっ、良いねえ。行こう。ぜひ行こう!」

 案の定、柏原は乗り気だった。こうなったらしょうがない。藤井は二人の後に続いて部屋を出て、鍵をしっかり閉め歩き出した。

「しかし、もう大学四年生か」

 街灯の明かりと大学生ばかりが住んでいるであろうアパートの部屋の明かりを浴びながら、井口が夜空を見上げて言った。

「そうだな。大学生活もなんだかんだあっという間だったなあ」

 藤井はそう返し、これまでのことを振り返った。

 比喩や大袈裟ではなく、楽しいことしかなかった大学時代。こんな時間がいつまでも続けば良いのにと心から思う。

「俺らは、大学出ても一緒だろう?」

「一緒ではないぞ。就職先はバラバラだ。まあ、連絡を取り合って会うことくらいは出来るかも知れんが」

 歩くことによって、少しずつだが酔いが醒めてきたらしい柏原に対して井口は現実的な返答をする。藤井はそんなやり取りを横目で見て、さっきの井口のように空を見上げた。

 夜空には月が出ている。あの月は今の自分達も未来の自分達も既に知っているのだろうか。もし知っていたら教えて欲しい。未来の自分はどうなのか。社会とは、どういうところなのか。

「着いたぞ。さあ、酒だ酒だ!」

 急に柏原が足早になった。アパートからほど近いコンビニが姿を現したからだ。

「まあ、今日は飲むのも良いかもな」

 井口はそう言って、柏原の後を追った。なんとなく遅れを取りたくなかった藤井は二人に置いて行かれないようついていった。

 コンビニに入ると柏原が既にアルコール類を物色していた。深夜だからか、三人の他に客は誰もいない。閑散とした店内に柏原の大声が響き渡る。

「おい。皆でこの強い酒飲もうぜ!」

「バカ、静かにしろ!」

 即座に井口が鋭い小声で注意した。こんなしっかりした井口なら荒波のような社会人生活も乗り切れるのだろう。藤井は勝手にそんなことを思いながら、陳列棚の前に立った。

「強い酒は止めておこう。ビールにしよう」

 そう言って、三人分のビールを取り出した。三人とも同じ銘柄、お揃いのビールだ。

「おっ、ビール良いね。ビール好きよ」

 恐らく酒ならなんでも良いのだろう。柏原から乗り気な返事が返ってきた。井口も無言で頷く。二人の了承を得た藤井は手際良くレジで会計を済ませ、コンビニを出た。

「ちょうだい。酒ちょーだい!」

 自動ドアを潜った直後、柏原がビールを要求してきた。

「ここで飲むのかよ……」

 藤井は呆れてしまった。酔いが醒めていると思ったのは見当違いだったのか。

「まあ、せっかくだし良いだろう。ここで飲もう」

 どういうわけか、井口までも同調してきた。藤井は抗うことが出来ず、三人でコンビニ前のビールを味わうことにした。缶を開け、一口。また一口。麦の苦みが口を汚し、喉へと洗い流されていく。

「就職がなんだー!」

 突如、柏原が叫んだ。

「ちょ、止めろって――」

 藤井がついさっきの井口のように柏原を制して静かにさせようとした、その時。

「仕事がなんだー!」

 あの井口が叫んだ。

「えっ……」

 藤井はあっけにとられてしまった。柏原が叫ぶのは分かる。しかしまさか、井口までもこんな奇行に出るとは。

「ははっ、ちょっとヘンだな」

 相変わらずシラフのような井口が少し照れたように笑った。

 それを見た藤井は、なんだかおかしくなってしまった。

「来いよ! 来いよ社会! お前らなんか、ぜんっぜん怖くねえよ!」

 思わず叫んでいた。井口と柏原も藤井に同調してまた叫ぶ。ひとしきり言いたいことを言ったら、後は走って逃げるだけだった。

 ふざけたこと、馬鹿げたこと。周囲から見たらただの迷惑行為。そんなことは分かっているが、強制的にやってくる社会人生活から気持ちだけでも離れられるなら良い。藤井は走りながら、自分が満たされるのが分かった。




 不意に昔のことを思い出してしまった。

 昔といってもそれほど遠くない。しかし今の藤井には、まるでもう数十年も前かのように感じる。手を伸ばしても届かないあの日。 それなのに一度思い出が頭をよぎれば、あの味が、あの汗が、あの心地良さが、まるで今体験したかのように思い出された。そう、藤井はあの強引な前向きの気持ちを忘れられず、こうして今もコンビニで酒を飲んでいるのだ。

 しかし、懐かしい思い出の後にやってくるのは虚無感だった。藤井は自らを憐れに思う。あれほど恐怖した社会に、今まさに打ち砕かれているのだから。

 代わりのビールを買ってこよう――少しだけ出掛かった涙を払いのけ、藤井はゆっくりと立ち上がった。

 タイミング良く、コンビニのドアが開く。まるで藤井を待っていたかのように、中から一人の老人が出てきた。

 しわがれた、小汚い服装。足取りは覚束ない。少なくとも一メートル以上の距離があるのに臭いがここまで届く。どうしてこんな格好で外に出られるのか。他人への配慮はないのか。藤井は出来るだけ老人と離れてすれ違い、今まで飲んでいたビールと同じものを買った。

 店を出て定位置に戻る。汚れたガラス壁にもたれ、缶が一本しか入っていないビニールを漁る。水滴で濡れて引っ掛かってしまい両手がイライラに包まれながらもやがて取り出すことに成功した藤井はなにかに急かされるように缶を開けた。

 吐きそうになる酒の匂い。しかしそれでも口にせずにはいられない。早速一口含むと、あの老人が視界に入った。まだそこにいたことに驚きつつ、藤井はその姿を見やる。

 震える手足に曲がった背中。ゆっくりとした歩みはなぜか藤井の気を引いた。時間を忘れじっと見ていると、そんな老人に藤井は見覚えがあることに気づいた。

 それは、もう辞めてしまったあのホワイト企業に就職が決まり、嬉しくなってコンビニを訪れた日のこと。

 就職の決まった友人達に乗り遅れ仕方なく送っていたアルバイト生活から抜け出したあの時、自分の気持ちはこれほど沈み込んではいなかった。それどころか、希望に満ち、目の前のものが全て、この薄暗い路地裏すら輝いて見えてはいなかったか。

 今はそうではない。逃げ出したい、終わりにしたい、そんな感情が心を支配している。真っ暗な海に泳げないのに投げ出されているような、延々と続く圧迫。そんな状態で、今目にしているのはあの時と同じ老人。藤井は思わず目を見開いた。

 変わっていないのだ。このいつ倒れるかも分からない見た目の老人は、よろよろとした不確かな歩みで、あの時と変わらず生きている。これだけ落ち込み、仕事を嘆き、人のせいにして生きている自分とは裏腹に、老人はなにも変わらず歩き続けている。藤井はいつしか酒を止め、手を震わせながら老人の拙い歩みをいつまでも見ていた。




「お疲れ様です。注文していたノートパソコンが届きました!」

 台車を押しながら、新卒らしく太陽のようなフレッシュさを前面に押し出した新入社員の鈴木がフロアにやってきた。活発な声とは裏腹に慎重に運ばれる台車には大量の段ボール箱が載っていた。

 これからパソコンの老朽化による入れ替え作業が始まる。単純に見えて罠だらけの、この会社では下っ端がやらなければならない作業。セットアップが面倒なだけではなく、大量の段ボールゴミや発泡スチロールゴミが出る点もこの作業が敬遠される理由だ。

 しかし、これは新入社員である藤井の初仕事。転職を二回も繰り返した藤井を拾ってくれた会社に対して出来ることはやらねばならない。

 ふと、辺りを見回す。上司の山本は作業指示を出さない。藤井は思った。それは出してくれないのではなく、出せないほどに忙しいのだ。

 ならば答えは一つ。

「ありがとうございます。僕が設定します」

 藤井は反射的に、指示を待たずに自分でも驚くほどスムーズに作業に向かった。パソコンに向かい続ける山本に軽く頭を下げ、台車から段ボールを降ろして開ける。

 段ボールは藤井に厳しく、少し油断すると指に傷を負わせた。普段であればこれで落ち込むはずの気持ちはしかし揺れず、黙々と作業に取り掛かることが出来た。

「一人じゃ大変でしょ」

 ふと、穏やかな声が聞こえた。次の瞬間山本が段ボールをむんずと掴み、慣れた手つきでどんどん封を切っていった。

「自分もやります!」

 パソコンを運んできた鈴木が素早い足運びで段ボール箱を手に取る。今ここに、不思議な組み合わせでのパソコンセットアップ作業が始まった。

「発砲スチロールも入ってるな。面倒臭い」

「そのままだと捨てられないから細かく刻んで燃えるゴミに出しましょう」

「そうするか。しかしその作業も大変だな」

「残業代つきますかね、コレ」

 山本と鈴木の心地良い会話のキャッチボール。社員同士の仲がこんなに良い場合もあることを藤井は知らなかった。ふと、かつての会社では多くあった他人に対する敵対心を、今この瞬間は感じていないことに気づいた。

 この感覚は離したくない。藤井の心に今までなかったなにかが点いた。




 また来てしまった裏通り。藤井はいつものコンビニでアルコール度数の薄い缶チューハイを一本だけ買って、定位置にもたれ込んだ。

 かつての友人は今頃どうしているだろう。もしかしたら、あの時のようにこうして酒を飲んでいるのかも知れない。最初の一口を飲みながらそんなことを考えていたら、不意に入口の自動ドアが開く。昨日の老人だった。

 藤井は心の中で密かに会釈をした。老人の存在と、今日仕事が上手くいったことは無関係ではないような気がしたからだ。

 見方を変えれば、人の悩みというものは案外大したことではないのかも知れない。どこか立ち行かない鬱々とした気持ちは、少し動き方を変えれば感じ方も、結果も変わってくれるのかも知れない。なんとなく、藤井は昨夜の老人を見てそう思ったのだ。

 まあ、今日は上手くいっても今後どうなるかは分からない。引き続き生きてみて、かつての友人達に会ったら状況を聞いてみよう――藤井が顔を上げると、裏通りの街灯は表にはない暖かみのある光で辺りを照らしていた。

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