星野源はなぜアイドルマスターが好きなのか
アイドルマスターが好きか嫌いかと問われれば、間違いなく好きだと私は答える。ただ、私は所謂にわかであり、格別知識が豊富というわけではない。
765プロのアイドル達がメインの作品に関しては、ニコニコ動画でMADをそこそこ見ているだけで、ゲームをやっていたわけでもアニメを全て見たわけでもなく、ずぶの素人である。
モバマスに関しては、実際にゲームをプレイしていたことがあり、アニメもリアルタイムで見たりしていたので、多少の知識があるが、デレステに関してはリセマラ作業の途中で断念してしまい、まともにプレイできていない。ただ、デレステの曲や、アイドルが踊る活き活きとしたグラフィックは好きなので、主に田中秀和氏やササキトモコ氏、山崎真吾氏、俊龍氏、Taku Inoue氏、ミト氏などが作った曲のMVをよく見ていた。
最近、ふいにまたデレステの曲のMVが見たくなったので、色々とネットで検索していると、ラジオ番組の『星野源のオールナイトニッポン』で、星野氏がアイマスについて語っている内容をまとめたウェブページをたまたま発見した。
ネットでデレステに触れていると、星野氏がアイマスのファン(P)であるという情報は断片的に入ってくるので、氏がアイマスのファンであること自体はかなり以前から知っていた。しかし、私はそのウェブページを見るまで、星野氏のアイマスに対する熱量を完全に見誤っていた。どうせにわかじゃないのかとすら思っていたが、実態はそんなことはなく、比較するのもおこがましいほど、私のほうが遥かににわかであった。
星野氏の知名度が『逃げるは恥だが役に立つ』で爆発的に上昇する前から、私はSAKEROCKのことを知っていたので、彼がアーティストとして本物であることは理解していた。その彼が、一般層向けのラジオ番組で、アイマスについて熱く深く語っていたのである。にわかファンながら、その熱に触発され、私もなぜ自分がアイマスを好きなのか、星野氏をも虜にするアイマスの魅力とは何なのかについて考えてみたくなった。それがこの文章を書くに至った経緯である。
アニメや漫画やゲームを虚構だからという理由で馬鹿にする人間は今の時代でも少なからずいるが、『創作の極意と掟』刊行記念イベントで筒井康隆氏が言っているように、たとえ虚構であろうとも、その作者が現実を生きている以上、現実の影響を全く受けずに創作を行なうことは不可能である。それに、私はよくできた虚構であるなら、現実よりも価値があると思っている。
例えば、キリスト教やギリシャ神話や古事記は、科学の発展によって今は虚構だとバレてしまっているわけだが、それで価値がゼロになったかといえばそうでもない。
ではなぜ価値があるのかといえば、虚構ではあるのだが、虚構の完成度が高いため、それを信じる人間の心を救うことができたり、現実を超越した〝崇高なもの〟への感受性(意識の広がり)を喚起することができたり、民族の心の形や文化を知ることができるからである。
〈アニメは日本の文化〉といわれるようになって久しいが、アニメが文化たり得る理由も、単に面白いというだけではなく、これらに少なからず起因しているのではないかと私は思っている。無論程度の差は作品によってあり、その差が時代をこえる普遍性の有無にも繋がってくるわけであるが、ジブリアニメなどは普遍性の高い作品として誰もがイメージしやすいだろう。
よくできた虚構が普遍性を獲得するというのは、全ての創作物に対して同様である。アイドルマスターというコンテンツも、音楽や俳優業のプロ中のプロである、あの星野源の琴線に触れる部分があるということは、もしかすると、時代をこえる普遍性を秘めているということなのかもしれない。
『星野源のオールナイトニッポン』において、アイマスを好きな理由として星野氏が真っ先に挙げていたのが、音楽の良さである。
「キャラクターの心情とかキャラクターの中のイメージとかを膨らませるプラス、音楽的な挑戦みたいなのをかならずしている曲が多くて。なんか、音楽として感動するっていうのがまずある」と、氏は語っていた。
ここで、アイマスの音楽の良さを支える重要な土台とされているのが〈キャラクター〉である。アイドルを育ててプロデュースするという内容から考えても、この〈キャラクター〉がアイドルマスターというコンテンツの心臓であることは間違いないだろう。アイマスに時代をこえる普遍性があるとするならば、この〈キャラクター〉が虚構としてよくできているということに他ならない。
アイマスのキャラクターの虚構性について考えるにあたって、わかりやすくするために現実のアイドルと比較してみよう。
『星野源のオールナイトニッポン』での発言によると、星野氏は、現実のアイドルに関しては全く夢中になった経験がないという。私も氏と同じく、アイドルマスターは好きであるのに、これといって現実のアイドルに夢中になった経験がない。恐らくだが、原因は共通している。それは、現実のアイドルが虚構性を孕んだ存在であるにも関わらず〝虚構として不出来〟だからである。
〈アイドル〉という言葉のそもそもの意味は偶像――神や仏の存在をかたどって造られた像――であるが、偶像崇拝(神像崇拝)と日本の芸能人の〈アイドル〉を崇拝する行為は根本からして全く違う。
偶像崇拝(神像崇拝)は像を通して神や仏を崇拝する。決して像そのものを崇拝するのではない。だが、芸能人のアイドルを崇拝する行為は、アイドルそのものをまるで神や仏のように扱う。アイドルの活動を全否定するつもりはないが、どれだけ彼女(または彼)らが表舞台で頑張っていたり、事務所が手を回してイメージ操作をしたところで、しょせん我々と同じ生身の人間である。テレビの世界が茶の間とは隔離された別の世界であり、ネットも普及していなかった山口百恵や中森明菜の時代ならともかく、今の時代に生身の人間を神や仏のように崇拝したところで、必ずどこかに矛盾やほころびが生じる。ここに、虚構としての不出来さがあらわれてしまうわけである。
一方、アイドルマスターはそもそもからして、アイドル自体が虚構の存在である。〈キャラクター〉という、わかりやすく視覚化されつつも、ヴァーチャルで概念的な偶像を触媒として、作り手側は音楽の世界を効果的に広げることができるし、受け手側も、自分の中に崇高な存在をそれぞれが能動的に作り上げることができる。
「『アイドルマスター』は特に、〝みんな(ファンや声優の方も含めた)で作っている〟っていう感じがするのがすごい好きなところ」
「(声優の方がやっているアイマスのLIVEを観た後)思い出の中の映像はキャラクターになっているの。で、〝あのキャラクターを俺は見たんだ〟っていう思いで帰るっていうことができるというのがなんかね、魔法にかけられたような感じがすごくして。僕はすごくそれが、人間が作るすごく面白い文化だし、芸術なんじゃないかな?っていうのを結構真面目に考えたりします」――という、『星野源のオールナイトニッポン』での星野氏の発言から察するに、彼も比較的近いことを感じているのではないかと思われる。
アイマスのキャラクターが虚構としてよくできているのは、今の日本において、アイドルという存在を最も本質的に体現しているからであり、ここに日本のアイドル文化の一つの結実と、時代をこえる普遍性を見出すことができるのかもしれない。
――以上が星野氏の言葉に触発されて考察した、アイドルマスターというコンテンツの魅力の本質的な部分である。私自身はにわかファンではあるのだが、この文章によって、星野氏のような本物のアイマスファンの心情を、ごくごく一部でも言語化できていれば幸いである。
『星野源のオールナイトニッポン』での星野氏の言葉に関しては、星野源『アイドルマスター』が好きな理由を語る - miyearnZZ Labo
https://miyearnzzlabo.com/archives/38303
を参照させていただきました。ありがとうございます。