淵の底にあるものの話
さきほどの話で、おれも思い出した。
泉ではないが、やはり水のあるところの話だ。
昔、ジェリバーの北にある小さな村の、そのまた北にある山のふもとに、山肌を流れる水が落ちる、大きな淵があった。
その淵はとても深く、近隣の若衆が度胸試しに潜っても、底までたどり着く者はほとんどいなかった。
さて、ある年の夏、泳ぎ自慢の兄弟が、この淵に潜った。
弟は、底まで息が続かず、すぐに戻ってしまったが、兄はなかなか浮かんでこない。心配になった頃、ようやく、興奮した目で兄が顔をだした。
「妙なものがある、」と言うのだ。
聞けば、淵の底に、奇妙な形をした、大きな石があるという。
円筒形、つまりちょうど、酒瓶に押し込む木栓みたいな形で。大きさは、両腕で抱えて余るほど。色は白。触ってみたが、つるつるして、そのくせ柔らかい。
それこそ、地面の穴に栓するように、水底に刺さっていた。
その表面に、文字のようなものが、びっしり彫ってあるのだという。
文字のよう、とは言ったが、これまで見たことのあるどんな文字ともちがう。まっすぐな線だけをいくつも組み合わせたような。
短い、同じ文章が、いくつも重ねて書いてあるようだった。
兄は、その文を、足元にまねて書いてみせた。
「なんと書いてあると思う?」
わかるわけがない。
ふたりは、村の老人たちにきいてまわったが、誰もその文字を知らなかった。
けれども、兄は諦めなかった。都に出て、手当たりしだいに文字の写しを見せて、聞いてまわった。最終的に、ひとりの占い師が、こういった。
「これは、上下が逆さまだな。」
「逆さま?……なら、この文字を知っているということか。」
「これは、人のつかう文字ではない。」
「ならば、何と。鬼の文字か。」
「いや、……ずっと、古い文字だ。意味は、知らぬ。しかし、これと同じものを、何度か見たことがある。塚とか、山頂とか……。どうも、何かを封じるときに、使うものであるらしい」
「何かを、とは。悪いものか。」
「よいものも、悪いものも。」
さて、兄は村に帰り、もとの生活に戻った。しかし、野良仕事のあいまをみては、淵に潜っていた。弟も、そんな兄がなんとなく心配になって、なるべく一緒についていくことにしていた。
数年がすぎたころ、淵からあがった兄が、深刻な顔をして弟にいった。
「近ごろ、あの石が沈んでいるような気がする。」
最初に見たころより、地面から突き出している部分が小さくなったという。
「別に、よいではないか。」
「いや、このままでは、……」
兄は首をふった。
その次の日、兄はいつものように淵に潜ってから、あがって来た。
「だめだ、もう、ほとんど……へこんだようになっている。今にも……、」
そう言って、兄はもう一度潜った。そして、長いことあがってこなかった。
弟が、自分も潜ろうと決心しかけたとき、轟音がした。突然、水面にはげしい渦ができて、あたりに強烈な風が吹いた。竜巻のようだった。それから、渦の流れにそって水面がどんどん下がっていった。
気がついたとき、淵はすっかり空になって、底には両腕で抱えて余るほどの大穴があいていた。兄の姿は、どこにもなかった。
穴の奥から、ヒュウウ、とぶきみな音が聞こえてきた。
弟はすぐに逃げてしまった。また戻ったのは、数日たってから。そのときには、もう淵はもとのとおり水にあふれていた。
それから、そこに潜る者は誰もいなくなったということだ。