影に懸想した男の話
都の雑踏は、それはもうすごいものだ。ことに、市のたつ日などは。
あまりに人が多いので、おれのような田舎者は、道を歩くたびに誰かにぶつかってしまう。都の同僚たちは、そんなおれをみて笑ったものだ。
さて、これは、そんなときに同僚からきいた話だ。
あまりにも人ごみがひどいときは、影をなくさぬよう気をつけろ。
人にもまれてそぞろ歩くうちに、影がうつらなくなった者が、何人もいる。そうなりゃ、みんなの笑いものだ。
なくすだけなら、まだいい。
いつのことだか、大市のたつ日に、おれたちのずっと先輩の役人が門前通りを歩いていた。いつにない混雑に、ぎゅうぎゅう揉まれてやっとぬけだすと、どこかおかしい。
影が、自分のものでないのだ。
女の影であった。市を歩くうちに、入れ替わってしまったらしい。
といってどうしようもなく、役人はそのまま家に帰った。気楽な一人暮らしで、影が違うからといって文句を言うものもない。
女の影は、役人の意思とは無関係に、立ち上がったり、テーブルから何かをとる動きをしたり、足先を役人の足につなげたまま歩くようなしぐさをしたりした。どうやら、離れたところにいる女の動きを、そのままなぞっているようであった。
やがて、女が寝る時間がやって来たらしく、影が着替えをはじめた。上着を脱ぎ、シルエットがあらわになったあたりで、役人はあわててあかりを消して、影から目をそらした。
それから、数日。役人は女の影とともに暮らした。
仕事から帰って、家の灯をつけると、役人は女の影が動くのをぼんやりと眺めて過ごした。そして、誰ともしれない影の主のことを想像して、満足げに笑うのだった。
ところが、ある日を境に、影の様子がおかしくなった。一日じゅう、横になった姿勢のまま、動かないのだ。どうやら、女が病かなにかに罹ったらしく、寝台でずっと寝ているようだった。
役人はたまらず、見も知らぬ女のことを心配して外をうろつきまわった。恥も外聞もなく人にききまわり、ついに、あの日におなじ雑踏のなかを歩いていて、今は病で寝ついているという女をみつけだした。
女は、門前通りからほど近いところにある商家の娘で、大市のあった翌日から、人前に出なくなったということだった。
役人は、女の知り合いのようなふりをして、見舞いの品を手に商家を訪れた。
なんと説明したものかと迷いながら、女の家族にようすを尋ねると、むこうから、影のことを口にしてきた。なんでも、男の影が娘にとりついているという。
役人が口を開くまえに、娘が起き出してこちらにやってきた。
「……恥ずかしながら、ご覧のとおりです。」
家族にそういわれて、役人が娘についている影をよく見ると、それはやはり自分の影であった。
が、様子がおかしい。
影は、役人自身の意思とかかわりなく動いていた。女の手をむりやり握るようなしぐさをして、せわしなく腕を動かしてかきくどいているようだった。何度も、ひざまづいたり立ち上がったりして、なんとかして女の身体にふれようとしているようにみえた。
しまいに、両腕をまわしてくちづけをせまる、その横顔が影にうつるに至って、役人はじっとしていられなくなった。
「この、……痴れ者が!」
そこらにあった燭台を、おもいきり振り上げて、影の頭に叩きつけた。
役人の頭にするどい痛みが走った。影に覆いかぶさって何度も叩くうち、いつしか役人は気を失っていた。
目をさますと、影はもとに戻っていたが、いまさら何か言えることもなく、役人はうつむいて家に帰った。その後、死ぬまで独身のままであったということだ。




