影のごとき魚の話
なんでも、かつて都があった西方のキルゲーというところに伝わる話だということだ。
市のたつ日の夕刻、人もまばらとなった表通りに、一人の男が、ござをしいて座っていた。ござの上には、大瓶がひとつ。通りかかった者が、「そのかめを売るのか、」と声をかけるが、首をふるばかり。ついには、
「市場にものを持ってきておいて、何も売らぬという法があるか。」
酔った男が、そう絡みだす。
「知らぬ。おれは、ここで待っているだけだ。」
「なにを待つというのか。」
「迎えをさ。」
「待つなら、端で待っていろ。ここは市ではないか。」
「知らぬ。」
そんな問答を繰り返すうち、だんだん酔っ払いが顔を赤くしていく。
ついに、大声をあげて、瓶を蹴倒してしまった。
ござの上の男は、わっ、とあわてた声をあげて、倒れた瓶をのぞき込んだ。が、そうする間もなく、瓶から何かがあふれ出てきた。
それは、黒いものの群れのように見えた。
しかし、目をこらすと、何もそこには無い。あるのは影ばかり。
影しかないので、色はわからぬ。かたちは、魚のように見えた。
大量の、魚の群れの影が、瓶からあふれ出て、地面を泳いでいくのだった。
酔っ払いは腰を抜かして、その場にへたり込んだ。
ござに座っていた男は、すっと立って、
「……こうなっては、仕方がない。おれの手にはおえぬ。」
そう、つぶやいて、去ったという。
さて、影のような魚は、すぐに街じゅうに散らばっていった。
何をするわけでもないが、地面といわず、壁といわず、屋根の上といわず、影が這い回るのだから、気味が悪くて仕方がない。
街のものたちは、日が暮れて影が見えなくなるのを待つばかりだった。
もっとも、夜になったところで、それが消えるという保証はどこにもない。
さて、その日は月夜であった。
夜中になっても、怪異がおさまらぬので、人々はあかりを消して、家にこもっていた。
外に出れば、月あかりのなかを、影の魚が泳ぐのが見える。夜半になると、月の光はいっそう強くなり、まるで昼間のように明るくなってしまった。
そうして、どこからともなく、
〽エイ、ヤハ、エイ、ヤハ
この網引けば、魚が千ト、また網引けば、魚が満ト
海とも言わず、川とも言わず
竜のとこからとって来いやァ
そんな歌が、一晩中響いて、次の日には影の魚はどこにもいなくなっていた。
キルゲーでは、今でも祭りの時期になるとその歌をうたって、影の魚を追う真似をするという。
ところで、その月夜に、ひとりだけ、外に出て魚を見ていた子供がいた。
街じゅうの高い建物の屋根のうえに、影のように黒い男たちが立って、歌いながら網を投げては影の魚をとり、瓶に戻しているのが見えた。
網はやはり影のようで、壁といわず地面といわず、投げるはしから遠くへ広がって、逃げる魚をとらえたという。
そのうち、一匹の魚が、地面から這い上がって、子供の体にはりついた。子供はなんとなく不憫におもって、魚をくっつけたまま家に入って隠れていた。
魚の影は、その後も子供の体に残り、時たま動いて、人々を珍しがらせたという。