『上沼恵美子・「とろサーモン」久保田・「スーマラ」武智』問題にふと思う
上沼恵美子と、「とろサーモン」久保田、それから「スーパーマラドーナ」武智が揉めているというニュースがネットで頻繁に出ていた。説明すると、三人共芸人で、上沼=大御所、久保田、武智はそれに噛み付く若手芸人という立ち位置だ。
それでまあ、くだらないニュースだなあと思ったし、よくもまあそんな話で盛り上がれるなあと思っていて興味がなかったのだが、ふと立川談志の言葉を思い出して、この現象それ自体もそれなりに興味深いものではないかと感じたので、それについて簡潔に書いてみたい。
この事件は、要するにM1の審査員をしていた大御所の上沼に、若手が暴言を吐いたというので、若手二人がネットでものすごく叩かれるという事態になったらしい。おかげで、元のM1は霞んでしまった。(優勝者は「霜降り明星」で、暴言を吐いた若手ではない)
最初に書いたように自分はこれらのニュースに興味がなかった。今もないと言えばないのだが、注目できる所は、ネットで炎上だの何だの、話題にしているのはM1グランプリそれ自体よりも、若手がリアルな世界で暴言を吐き、大きな問題として取り上げられているという点だ。
立川談志の理論では、人間というのはそもそも非合理な、狂気を抱えた生物である。しかし、それをそのままのさばらせるとやっていけないので、ルールを決めて発散させる事にした。それが芸能・スポーツであり、この領域では普通とは違う事も許されている。格闘選手に「人を殴るのは良くない」と説教する人はいないし、芸人に「非常識な事を言うな」と言う人もいない。人はそもそも非合理な、狂気的な生物だが、実生活でそれが発揮されると犯罪になったり、秩序をかき乱す異様なものになってしまう。そこで人間はそれをある枠に絞って発散させる事にした。
しかし、ここには無理があって、狂気を枠内のみで発散させても、我々の情念はどこかでくすぶっている。そんな風に感じる精神というのがどこかにあって、だから、人はこの枠組を破って情念や狂気を発散させたいと願う。だが、先に言ったように、これは生のまま発露されれば犯罪になったり、異常な行為となってしまう。
芸術家は、芸能やスポーツと同じく、自分の狂気を理性と合致して世界に提出するが、誰しもがそんな技術を習得はできないし、芸術家だって「芸術」という枠組に満足できなくなって、もっと違う事をしだすかもしれない。
今言ったのは談志の理論からの引き伸ばしなのだが、要するに、今、上沼恵美子なんかが話題になっているのは、人が、もはやM1のような枠組みの決まった中での闘争では満足できず、その外の、リアルな闘争の方が面白く感じているのではないかという事だ。
現在はこのような状態にあると自分は感じている。人はもはや、枠組みの範囲内の闘争や競争に満足できない。簡単に言えば、ルール内の格闘技では満足できず、実際に殴ったり殴られたり、殺したり殺さたり、それを見てみなければ気が済まないというような心情だ。これを常識は否定するだろうが、談志の言うように、グロテスクな猟奇的犯罪が、我々の内心を密かに満足させている事は否定できない。我々はそれに憤るし、僕も憤るが、その底で密かに、自分の情念や狂気がリアルに現れた事にどこかで満足を覚える。
上沼恵美子に暴言を吐いたのがどうというのも、どうでもよいニュースだと思うが、それを本気で受け取り、彼らを糾弾し、彼らを芸能界から干す、その必要性があると感じ、そうネットで発信している人、彼らは自分の中の情念をどのような形で発散させていいかに対する自覚がないために、他人に対する糾弾や正義のような形で狂気を発散させようとする。
そういう理由があるから、些細な問題でも正義を振りかざして突進する人が無数に現れてくる。自分は人間はそもそも狂気の生物であると思う。この狂気を狂気と認めたくない時は、イデオロギーや正義の衣装を着せて吐き出そうとする。だが、これも正義が糾弾しようとしている狂気や情念とさほど異なったものではない。人が正義の名のもとにいかなる異常な行為をしてきたかを振り返れば、自分の正義が狂気を仮装したものにすぎないと気づくだろう。それにどうしても気づきたくなければ、合理性と正義の名のもとに、あらゆる狂気を流通させようと我々はもがき続ける事になる。