魔法ってなに!?
「パパ!」
メイナードが教会中央の通路をバタバタいわせながら駆ける。
その向こうには、仕事中の父の姿があった。
名前を、ティモシー・アシュベリーという。
「そんなに走るんじゃない。迷惑だろう」
「走るは迷惑?」
メイナードはすでに五歳になっていた。
父と母の名前も無事覚え、他の言葉に関しても何となくではあるが文意を掴めるようになった。
しかしまだ、文法や敬語などは上達しない。
そもそも前世の記憶があるというのが、言語習得については阻害要因にしかならないのだ。
言葉の一切を知らない状態で生きていると、初めて覚えた言葉を使って考えることになる。
脳内で使う言葉も、その言葉になるのだ。
しかしメイナードは違った。
最初からずっと日本語で思考しているし、赤ん坊の時はとくにそうだった。
考える以外にやることがないから、一人で日本語に触れる機会があまりに多すぎた。
そのせいもあって、中々言葉を覚えるには時間がかかっている。
今回の「走る」と「迷惑」もそうだ。
両方の意味をある程度理解はしているのだが、それがどういう繋がりをもって何を意味しているのか、咄嗟に把握することができない。
ただ、父の少し怒ったような顔を見て、意味を理解することができた。
きっと教会内で走ってはいけないのだろう、とメイナードは察する。
足を止めて、父を見上げる。
「ごめんなさい、走ったの」
「分かればいいんだ。これからは気をつけるんだよ」
父ががしがしとメイナードの頭を撫でる。
この世界の人は共通なのかもしれないが、父の手は傷だらけで硬い。
使い込まれた道具のようにゴツゴツした肌触りは、教会で仕事をしている人間とは思えないほどだ。
しかしそれも当然かも知れなかった。
ここには家電どころか、電気やガス、石油燃料を使う類の道具が存在しないのだ。
つかまり立ちを卒業したメイナードは家のあらゆる場所を探索した。
キッチン、水周り、ダイニング、庭、使用人用の部屋、客間、夫婦の部屋、父の書斎。
あらゆる場所を確認してみたが、そこに産業革命以後の文明を感じさせるものはなかった。
教会と家の間に見える街の様子をみても、それは分かる。
父が歩いて百歩ほど先にある教会は、街の割りと静かなところに位置していた。
遠くからときたま喧騒が聞こえるのを考えると、比較的に静かな地区であると推測できる。
家も同じ通りに面しており、周りも民家ばかりだ。
石で舗装された道路に、レンガと木で作られた家。
どこを見ても異世界っぽい。
そう、ここは恐らく異世界なのだ。
根拠の一つに、カルラの角がある。
彼女は頭に捻れた角を生やしている。
ファッションの類ではなく、身体の一部だ。
あまりに気になりすぎて、メイナードは聞いてみたことがあるのだ。
もしかすると失礼に当たる行為なのかもしれないとも思ったが、まだ子供だし許されるだろうという打算が勝った。
「角は最初に生えるか?」
その角は生まれた頃から生えているものですか? の意である。
「これは魔の証ですよ。触ってみますか?」
「いいの?」
「あまり先の方は触らないでくださいね。万が一怪我でもしたら大変ですから」
カルラは目線の高さを合わせて腰を落とすと、家のカーペットへ膝立ちになってメイナードに角を突き出した。
近くで見ると、迫力があった。
捻れた角は形こそいびつだが、カルラの整った顔と見事に調和し、何もわからないメイナードにも体の一部であるということが感覚で理解できた。
まずは匂いを嗅いでみるが、強い香水の匂いに散らされて分からなかった。
家には風呂がないから、身体を濡れた布で拭いたら香水で体臭を消すのが一般的なのだ。
他の家も同じなのか、宗教上の理由によるこの家の特殊な事情なのかは分からなかったが、少なくともアシュベリー家ではそうだった。
「どうです?」
メイナードはそっと角を触る。
指で角を包むように握ると、硬い感触が返ってきた。
中までぎっしりと何かが詰まっているような触り心地で、撫でただけでずっしりとした重量感が感じられた。
間近で見ると僅かに黄ばんだような白であり、陽に当たると一層艶のある色味を帯びた。
褐色の肌とのコントラストも色っぽい。
「角は重いないか?」
――角は重くないの?
「人では首が凝るかもしれませんが、どうということはありませんよ」
「カルラが人じゃない?」
「魔は人とは違いますからね。筋力も寿命も、肉体に関するものは人と全然違います」
見た目は似てるのに不思議ですよね、とカルラは笑っていた。
彼女は立ち上がると、スカートをはためかせて仕事に戻っていった。
スカートがはためいた拍子に注視したふくらはぎは靭やかで、その内側に無尽蔵の力を蓄えているように艶を帯びていた。
メイナードはこの時、この世界が日本でもなければ、地球でもないことを確信した。
ここは人以外の種族もいるような、異世界なのだ。
**
この世界には、地球にあるような技術がない代わりに魔法というものがある。
正直、これを知ったときのメイナードはめちゃくちゃ興奮した。
メイナードが言葉を理解できるようになった頃から、両親や使用人たちは読み聞かせのようなことをしてくれた。
といっても読むべき本はない。
かわりに、口伝で広まったおとぎ話のようなものをしてくれるのだ。
本がないのは、この世界に活版印刷術が存在しないからである。
これを知った時、メイナードはそれを作ったら売れそうだなと思ったのだが、どういう手法で活版印刷が可能なのか知らなかったので再現できなかった。
前世で地球に住んでいたからといって、色んな技術を知っているわけではない。
テレビを見れるからモニターやアンテナを作れるわけではないのだ。
そうして、メイナードはおとぎ話に耳を傾けた。
カルラや両親が話してくれる物語にはよく「魔法」や「魔」、「龍」など諸々が紛れ込んでいた。
地球ならばそれは嘘だと一蹴できたが、ここでそうはいかない。
カルラが「魔」と名乗った以上、「魔法」や「龍」がいてもおかしくはなかった。
「魔法はどう使う?」
――魔法ってどうすれば使えるようになる?
読み聞かせてくれていた母、マーシー・アシュベリーは柔らかな笑みを浮かべて、膝に乗ったメイナードの髪を撫でた。
「使える人は、何も考えずにただ使おう、と思えば使えるみたい。ママは使えないんだけど、パパは少し使えるのよ」
今の読み聞かせで出てきた魔法の使用者は「天行の使い手」という肩書を持つ騎士で、街にやってきた龍の群を追い払うために「魔法」を使っていた。
ここで使った魔法は水を山のように出すというものだ。
「天行の使い手」が剣を地に刺すと、どこからともなく水が溢れて、街のほうには注がれず、ただ龍を追い払うために吹き上がったということらしい。
まるで海を現出させるかのような所業である。
「パパもやる?」
メイナードは腕を振って水が流れる仕草を表した。
こうした仕草で何かを伝えるのは、言葉が使いこなせないメイナードにとって重要だ。
それにこうした仕草は、地球の知識で十分扱えるのだ。
「ううん、流石にそこまで大規模な力はママも見たことないわねえ。パパも使えないわ」
「大きい魔法は使う人少ない?」
「そうね。人にはほとんどいないんじゃないかしら。でも夜更かししてたらメイのとこに来るかもしれないわよ~」
メイナードは母の脅し文句におどけて見せて、ひとしきり笑った。
魔法は使える人が少ない技術ということが分かったが、実在するだけで十分興奮ものだ。
その日から、メイナードは魔法についての知識を集めることにし始めた。
まずは魔法が使えるという父に話を聞くことからだ。
教会から帰ってきた時の疲れた顔を見るに、仕事終わりに聞くのはよそうとメイナードは思った。
父のタイムスケジュールはタイトだ。
朝は日が出るころに起きて、使用人とともに食事を取る。
使用人は普通、主人たちと食事を取ることはない。
しかし父との朝食は例外だ。
屋敷全体が目を覚ますのは、母が起きてくる時間だからだ。
それよりもずっと早く起きる父は、使用人の食事時に合わせて一緒に朝を済ませる。
そうして母やメイナードが起きる前に、教会へと向かう。
朝から教会には何人も集まっていて、彼らは父を待っているのだ。
何かしらの祈りを行う人や、父と話がある人。
教会で働く他の人も父の命に従って動くから、父の出勤は早ければ早いほど良い。
父は教会のなかで一番偉いのだろう。
しかしその父が率先して、朝の掃除を行う。
宗教という性質上、上の人間が威張るばかりではダメなのだろうとメイナードは推測している。
朝の掃除を終えたら教会に来て父と話したがっている色んな人と話をしたり、手紙の返事を書いたりしている。
それが、主な父の仕事であるようだ。
父と話したがるのは主に街の人だったが、たまに旅の途上にあるような粗野な格好をした人物も現れる。
そうした者たちはみな、一様に父へ頭を垂れて、じっと膝を立てた状態でうずくまる。
旅人たちがその体勢を取るたびに、父は彼らの頭上に手を掲げた。
メイナードにはそれが何を表すのかさっぱり分からなかった。
たぶん宗教関連のことだろう。
そうした来客の対応で一日を終え、日が暮れるとともに数人の当直担当に仕事を預けて父は家へと帰る。
それをほとんど休みなく、毎日やっている。
ほとんど毎日だ。
朝は早く、夜は疲れた顔をしている父に話しかける隙は少なかった。
しかしメイナードの魔法に関する好奇心はそうしたハードルをものともしないほど、膨れ上がっていた。
いつもは母かカルラのおとぎ話を聴きながら寝るメイナードだったが、その日はそれよりも早く床についた。
この世界には目覚まし時計などの便利な機械はない。
だから早く起きるなら早く寝る以外に、方法はなかった。
ぱちくりと目を覚ますと、計画が上手く行ったことを悟る。
まだ寝室が薄暗いのは、日が出ていないからだ。
横でまだ寝ている母の腕からそっと抜けると、ベッドから降りて、廊下に出る。
使用人たちはもう仕事を始めていた。
「あら、お坊ちゃま。今日はお早いんですね」
「おはよう」
使用人の中で一番の歳上であるナタリーだ。
服の袖をまくりあげて、廊下を掃いていた。
毎日快適に屋敷で過ごせているのは、彼らがいつも家事を休まないからであるというのを実感する。
メイナードは感謝の気持ちを忘れないようにしよう、と思いながら父の元へ駆けていく。
いつも食事を取る場所ではなく、使用人の休憩所と化しているキッチン脇の物置を覗いた。
そこには案の定、すでに服を着替えた父が食事を摂っていた。
「おはよう」
「おはよう、今日は早いんだな。眠れなかったのか?」
「早く寝た」
「おお、いいことだな。あんまり遅くまで起きてたらママが怒るから気をつけるんだよ」
父はテーブルの窪みに載った野菜の酢漬けを豪快に食べていた。
普段は食器を使うが、使用人のテーブルではそうはいかない。
上下水道が整っているわけではないから、水は街の井戸から汲み出さなければいけない。
だから水は貴重なので、使用人はテーブルにクロスをかけて食事を盛るのだ。
そうすればテーブルを片付けるのと食器を片付けるのは一本化できる、というわけだ。
それに食器が壊れる心配もない。
日本と違って百均で売っている大量生産品が出回ってるわけではないのだ。
メイナードの食器も割れにくい木製のものだ。
両親だけが陶器でできた食器と金属製のスプーン、フォークを使っている。
メイナードが虐げられているというわけではなく、単に子供は物を壊しやすいからという単純な理由である。
キッチンにいたカルラはメイナードの姿を認めると、父に目配せした。
「メイのも頼む」
「分かりました、ご主人様」
カルラは酢漬けのおかわりを両手で持ってテーブルの中にべちゃりと入れた。
日本じゃ考えられない行為だ。
それに普段の食事でも滅多にこんなことはない。
皿に盛られない料理というのが珍しくて、メイナードは椅子に座るとすぐに手を付けようとした。
それを父が止める。
「今日はいつもと違うが、それでもお祈りはしなさい」
「あ、ごめんなさい」
「謝らなくていい。ほら、きちんと座って」
父にいわれて、メイナードは身を乗り出した身体を引っ込めて、足の届かない椅子に行儀よく座る。
そうして目を閉じ、指を絡ませるようにぎゅっと両手を握った。
「万物を見つめし神よ、今日の恵みを感謝いたします、我らを認め、我らをお許しください。我らを惑乱から遠ざけください。我らもまた信じ続けます」
これが食事前の祈りだ。
日本での「いただきます」と比べるとあまりにも長過ぎる。
しかも実のところ、まだメイナードは意味を理解していないのだ。
間違えると父の目線が厳しくなるから、とりあえずこの発音だけはきっちりとできるようにしたというわけだ。
「よし、食べてもいいよ」
目を開けて、メイナードは手で野菜を掴んで食べた。
夜ならこれを肉と一緒に食べるのだろうが、朝はあまり食べない。
パンもあればいいのにと思うが、贅沢は言えない。
それに毎日献立がほとんど同じで、新鮮味はない。
それでもメイナードにとって、一年以上に渡るミルク生活に比べればずっとマシだ。
水気が飛んで、てらてらと光る野菜を指で摘みながら、彼はようやく本題に入った。
「パパは魔法が使える?」
「ああ、ママから聞いたのか?」
「うん。どう魔法が使える?」
――どんな魔法を使うことができるの?
父は少しの間食事の手を止めて、メイナードの方をじっと見つめた。
それから、曖昧な笑みを浮かべて頷く。
「仕事で使ってるのは、回復の魔法さ。体力や気力が満ちるような魔法が使えるんだ」
まさに教会の神父らしい仕事だ。
いつも旅人が来ていたのも納得できる。
メイナードは手を前に突き出して、父のような神妙な顔つきをして見せながら、話を続ける。
「これって魔法?」
神妙な顔を一層強めて、やたら大げさな物真似芸人のように手を前へ突き出した。
たまに父が仕事中にやっているポーズだ。
あれはただの宗教的な儀式かなにかと思っていたが、魔法がある世界ならば事情が違うだろう。
父は笑いながら、野菜を飲み込んだ。
「そうそう。よく見てるじゃないか。ああすれば色んな身体の不具合が治るんだよ」
ものすごい魔法っぽい話である。
メイナードは否が応にも興奮してきた。
「僕も使う?」
「うーん、どうだろう。魔法は色んな知識ありきだからな。どんな魔法がどんな効果をもたらすのかを知っていれば、何となくで使えるんだよ」
「唱えるない?」
――何か唱えたりはしないの?
「そういうのもあるけど、言葉と魔法に直接の繋がりはあまりないかな」
「どう使う?」
メイナードとしては、ぜひ使ってみたかった。
異世界で魔法を使うなんて、すごく楽しそうではないか。
「魔法はまずどんなものか知らないと使えないからなー。そうだ、今日帰ったら色々魔法の話をしてやろう。もしかしたら魔法が使えるかもしれないぞ」
そう言って父は指も拭かずに荒々しくメイナードの髪の毛を撫でた。
メイナードは汚いから首を振って逃げようとしたが、くすぐったいと勘違いされて一層強く撫でられた。
ともあれ、魔法についての詳しい説明を確約されたのだ。
父が出ていってから一人で野菜を食べつつも、興奮はますます増していた。