生きていた女
「なんでまだ生きてるんだ!?」
水たまりから上半身をだしたローザが笑みを浮かべる。
転んだメイナードの足首を、一歩も動けないように掴んでいる。
「単にそういう対抗魔法ってだけよ。それでどうする?」
「どうするって!?」
「死にたくないでしょ?」
ローザの魔法に、なんでも溶かす水を放出するというものがあるのは、すでにメイナードも見た。
それをこの近距離で使われたら、どんなにメイナードが強くても勝ち目がない。
脳みそごと溶かされて、死ぬしかない。
「目的は?」
「あの女を含めてこっちの味方にならない? 情報共有、八百長戦闘、足止め工作をしてくれればそれでいい」
「僕の決められることじゃない」
「死にたくなかったらまず頷きなさいよ。それからあの女を説得すればいい」
みしり、とローザの掴む力が強くなった。
思わずうめき声をあげながら、メイナードは周囲を見渡す。
まだ戦闘は続いている。
山中に響く金属の音は、鎧が高速で移動する時に擦れる音か、剣が打ち合わされる時のものだろう。
まだメイナードは絶体絶命ではない。
落ち着いてメイナードは頷いた。
「とりあえず手を離してよ」
「離したら逃げるじゃない」
「掴まれてたら話ができないって」
「今できてるわよね?」
メイナードは時間を稼いで隙を伺う方向へ舵を切った。
なるべく相手に悟られないように、周りを見る。
雨でぬかるんだ地面に草木が生い茂り、手足は泥だらけだ。
じっとしていると火傷した顔に意識がむいてしまい、熱の籠もった痛みが広がる感覚に襲われる。
思わずメイナードが顔をしかめたところで、ローザが笑った。
「あなたほど強くても回復できないのね」
「これのこと?」
頬が真っ赤に染まっている火傷痕を指す。
ローザが頷いた。
「ま、街まで戻れたら回復させてくれる人がいるわよ。戻るにはわたしの仲間になるしかない、でしょ?」
「仲間というか、手駒だよね?」
「お互い情報共有するんだから仲間よ。わたしだっていつまでもこの立ち位置でいられるとは思ってないし」
「それは潜入捜査しつつ仲間を増やす流れのこと?」
「そ。使い捨てにされるとまでは思わないけど、このまま暗がりで仕事ばかりしてたらまともな出世は望めないわ」
「だから腕を広げて手数を増やそうとしてるってことかな」
そうなるわね、とローザが頷こうとした。
しかし首を振る前に、土くれが爆発するような衝撃が周囲を襲った。
激しく泥が跳ねて衝撃波に木々が揺れる。
雨に濡れた落葉が大きく吹き飛び、泥を滑るようにして何かが飛び込んできた。
「生きてたのか」
高速の移動で言葉が流され、注意しないと聞き取れない声がローザにもたらされた。
気づけばローザの手にあった足首はすでになく、跳ね散らかった泥が水たまりに溶け込んで濁るのみだった。
「あなたの甘さに救われたのよ! 教会所属が今回の件でどの程度しか情報を貰ってないかは既に知っているわ!」
ローザが生きていたということは、メイナードやペルペトゥアによって受けた尋問の内容も向こうに筒抜けということだ。
ペルペトゥアが情報をあまり持っていないということも知られており、一方的に相手が有利ということでもある。
ペルペトゥアはメイナードを脇に抱えながら森を疾走する。
ローザの周囲を高速で駆け回るのは、攻撃を避けるためだ。
「その割には仲間に勧誘するなんて余裕がないな? そっちで何かあったのか?」
「仲間になるなら教えてあげる!」
ローザはざぶざぶと水たまりの中から身体を出して、森に響き渡る大音声でペルペトゥアに応えた。
明らかに人一人が入る大きさの水たまりではない。
それにローザが出た途端、水かさがぐっと減った。
彼女の対抗魔法だ。
「仲間になる気はない! もういい!」
お互いもうスタンスは開示しあった。
ペルペトゥアは今のまま仲間になったところで情報が貰える以上に、渡す情報が多すぎる。
ローザはペルペトゥアが仲間になる気がないことを知ったし、メイナードが時間稼ぎのために頷いたのも察している。
敵になるほかなかった。
高速で動くペルペトゥアが先手を取った。
ぐるぐると回りながら周囲を陣取っていたところを、一気に距離を詰めて片手に握った剣を乱暴に振り回す。
音速に近い速度で突っ込む人間の体はそれだけで暴力だ。
必死に首を抑えてなんとか耐えていたメイナードが悲鳴を上げつつ、接近するローザの笑みを見た。
剣がローザの首を捉えた。
綺麗に刎ねられた首が笑みを浮かべたまま宙へ飛ぶ。
遅れて血しぶきがあがるはずだった。
「甘い!」
首のないローザの身体がゆらりと動いて片手を伸ばす。
跳んだ頭をがっしりと掴むと、途端に頭が全て水になって地面に落ちた。
それから首の切れ目から水が溢れ、元の頭が生えてくる。
ペルペトゥアはローザから離脱しようとしていた身体を木々にぶつけ、止める。
乾いた爆発音のようなものが連続し、幾本もの大樹が折れ砕ける。
ペルペトゥアに抱えられていたメイナードは無傷だった。
「逃げろ、上から眺めつつみんなの援護を」
「は、はい」
ペルペトゥアは首が変な方向に曲がり、両腕から大量の血を溢れさせながら、足の片方が付け根から取れている。
腹に突き刺さった枝が、黒い血を滴らせていた。
しかしメイナードが離れたころには、すっかり四肢の傷が治っていた。
乾いた血が枝についている。
腹から突き出た枝を引き抜くと、穴の空いた修道服から覗く白いへそは綺麗になっていた。
倒れた木の横に立つメイナードへ、鋭い目つきで頷く。
メイナードもうなずき返して、風魔法で上を取った。
「準備は良いの?」
「わざわざ待ってくれたのか」
「まさか。あなたたちが速すぎて追いつけなかっただけよ」
水の滴る女、ローザがペルペトゥアに両手を向けた。
**
宙へ浮かんだメイナードはまず自分が今どこにいるかを把握すべく、辺りを見渡した。
右手に山の斜面が見え、それに沿った形で道が見える。
立ち止まった一行の姿が見え、まだ黒煙がいくつも吹き上がっているのが確認できた。
恐らく<まだら雲>の仕業だろう。
メイナードは逆の方向にも目を向ける。
そこではまだ大きな音が響きつつ、止む様子はない。
空から近づきつつ、敵がどこにいるかを確認する。
「近づくな!」
メイナードはふわふわと浮いていたのを止めて、声のするほうを見た。
<ワイド・フェード>のレックスだ。
「どうしてです?」
「いいから!」
しかしそのやり取りが敵に見つからないわけがない。
木々のさらに上にいたメイナードを的確に狙った攻撃が飛び込んできた。
人だ。
鎧を着て、剣を握り締めている。
兜もすっぽり被っており、相当の重装備だ。
メイナードが見つけたときには既にかなりの距離まで近づいていることからも、相当の実力を備えていることが伺える。
さらにその男は、高速で動いていた。
尋常ならざる速度はペルペトゥアにも迫るほどだ。
これがメイナード対策ということだろうというのは一発で分かった。
あまりにも速すぎて、メイナードの速度では対処できない。
いま水壁を張っても、内側に入り込まれて終わりだ。
剣がまさに眼前に迫り、鎧の擦れる硬質な響きが耳を打った。
メイナードは辛うじて風魔法を切って、自然落下に身を任せて軌道をずらす。
しかしそれにすら男は対処した。
高速の振り抜きが今まさにメイナードを断とうとしている。
「危ない!」
しかしそれに対抗する魔法がすんでのところで放たれた。
高速の氷弾が男を撃つ。
全身に寒気がほとばしり、動きすら氷に止められ、絶叫すら冷気に呑まれる。
兜で顔の見えない男が、メイナードの目の前で氷漬けになって止まった。
木々を踏み越え、あらゆるものを飛び抜けながら動いた男が眼前で動きを止めて死ぬ。
その背後から、鬼気迫る顔つきでメイナードを睨む女――アーリンがいた。
「敵の狙いはあなたよ。わたしたちもあなたがいなくなったら崩れると思って動いているの。うまいことやりなさい」
アーリンはメイナードが戦闘訓練を一ヶ月も受けてない素人だとは知らない。
だから特に指示を出すこともなくそのまま森の中へ視線を戻してしまった。
「あの、あれって後何人いるんです?」
高速で動く兵士たちを、戦闘の最初で三人見た。
そのうち一人はすぐにアーリンに殺され、今も一人やられた。
三人見たから、もしかするともう後一人かもしれない。
「確認しただけで八人! あと六人よ」
鋭い声音でアーリンは返し、そのままじっと山の中を睨んだ。
高速で動く兵士たちの音だけが森に響く。
彼らはメイナードを狙っているのだ。
「ちょっといい?」
アーリンはちらりとメイナードのほうを伺うと、すぐに視線を森へ戻す。
一瞬の隙をみせれば兵士たちが殺しに来る。
まともに会話をするのさえ難しかった。
なんとか降り立ったメイナードをアーリンが抱き寄せる。
急な動きにメイナードはうわ、と声をあげた。
静かにしなさい、とアーリンは目顔でいう。
「合図したら耳を塞ぎなさい。思いっきりよ。耳に水でもなんでもいいから詰めて、何も聞こえないようにしなさい」
「ど、どうして?」
「レックスが範囲攻撃をする。相手の隙を作るから、どうにかそこを攻めるわよ」
「あ、はい」
しどろもどろになりながらメイナードは頷いた。
大人ということもあり、アーリンはメイナードより頭三つ分ほど背がある。
他の<ワイド・フェード>やペルペトゥアと比べればそれほど大きくもないが、大人であることは間違いなかった。
柔らかい胸の感触と泥の生臭い匂いが混じり合った感覚にどぎまぎしながら、メイナードは死の感覚をも得ていた。
下手すれば死ぬかもしれない状況なのに、こんなことで感情を揺さぶられる自分にメイナードは恐ろしさすら感じる。
だが、それも本当に死の危機が迫れば、吹き飛んでしまう。
「おらっ!」
掛け声が遅れてくるほどの高速移動で、男が三人連なって迫ってきた。
三方からの同時攻撃だ。
アーリンは正面の相手へ氷弾を叩き込みながら、すぐに地面へ転がって攻撃を避けた。
メイナードも半ば突き飛ばされる勢いで逆方向に避けて、すぐさま風魔法で上へ逃げた。
足場のない上にいれば、少なくとも単調な攻撃しか襲ってこない。
しかし敵はそこまで甘くなかった。
高速で動く男たちはすぐさま反転し、剣を構え直して二人へ迫る。
アーリンの氷弾を警戒する男は回り込みつつ迫るが、あまりにも速度が速いので回り込んでも尚、彼女より早く後ろへ着いた。
メイナードを狙う男も足を絡め取られるのを警戒して高速でステップを踏みつつ迫りくる。
でたらめに木魔法で蔓を生やすが、それをすべて見切って男はメイナードへ迫った。
速度に身体の認識が追いついているのだ。
ペルペトゥアは彼らよりもさらに速く動くが、体の動きが激しすぎて身体自体も認識も追いついていない。
自壊する身体を回復させ、剣を振り回しながら戦うペルペトゥアとは根本的に速度認識が違うのだ。
泥を跳ねながらメイナードは飛び込む男に、とっさに水壁を張る。
悠々と回り込みながら近づき、男は剣を振りかぶった。
しかしそれは背後で起きたことで、メイナードは全く見えていない。
彼が見ていたのは、正面で同じように殺されかけているアーリンだ。
アーリンは指で耳を指していた。
メイナードは最後の力を振り絞って水を耳の中へ入れる。
そして剣が後ろから振られ――
「ああああああああぁぁぁぁぁぁああああああああああああ!!!!」
枝葉が吹き飛び、泥が跳ねちらかり、水たまりに幾重もの波紋が浮かぶ。
木々が揺れて大音声に全てが呑まれた。
水で栓をしていてもメイナードのなかにわんわんと音が響く。
兵士たちが身体を痙攣させて、動きを止めた。
アーリンが頷く。
メイナードは水を抜いた。
「いまよ!」
メイナードはアーリンを殺そうとした男を木魔法で雁字搦めに拘束した。
アーリンはメイナードの背後にいる男を氷漬けにした。
レックスが木々の中から現れて、拘束されている男を斬り殺した。
「どうだった?」
落ち着いた声音で二人を見やる。
アーリンとメイナードは頷いて、彼らの死体を見た。
まだ三人に残っているはずだが、ひとまず喫緊の問題は乗り越えた。
レックスの範囲攻撃は音による聴覚への攻撃だった。
平衡感覚が崩壊し、立っていることすら困難になる音の攻撃は森中に響き渡った。
死ぬことはないが、アーリンは耳を塞いだにも関わらず片耳から血が垂れていた。
「大丈夫?」
「ゲッテンスに着けば大丈夫よ。こっちが聞こえないくらいなら何とかなる。それより一旦ルフィナさんのところに戻りましょう」
今の攻撃を警戒しているのか、金属音が聞こえなくなっていた。
今のうちに一度ルフィナたちのところへ戻り、状況を確認するのは被害状況から見ても妥当だった。
こちら側は怪我こそしているが、死人は出ていない。
高速で動く兵士たちの半数以上を殺害し、かなりの戦力を削いだ。
ルフィナに今後の指示を仰ぎつつ、彼女が死んでいないことも確認する。
もしこれが陽動で、既に<まだら雲>による攻撃でルフィナが殺されていたらフィルもすでにこの世にいないだろう。
それならそれで別の作戦を立てて早急にゲッテンスへ向かわなければならない。
今しか戻るチャンスはなかった。
「風魔法で送ってちょうだい」
「俺も」
「分かった」
メイナードは二人も風魔法に乗せて道へ戻る。
爆発の跡が残る荷車が転がるなか、ルフィナの駕籠は無事で護衛たちが見張っていた。
「まだ大丈夫?」
「問題ない。そっちは?」
護衛の真ん中で睨みを利かせていたフィルが一歩前に出て、耳から血を流すアーリンを慈しむように見た。
「かなり倒した。ルフィナさんは何て?」
「なにも。敵を殺して旅路を整えようって」
「その通りですわ」
全員が視線を駕籠へ集中させた。
ルフィナが駕籠から顔を出し、神妙な顔つきで森を睨む。
今の状況で外へ姿を晒せるのはあまりにも度胸がありすぎた。
「護衛を何人か街へ行かせなさい。乾獣を出します。それでゲッテンスに応援を要請しつつ、わたしたちもゲッテンスへ向かいますわ」
「この状況で前へ進むんですか!?」
フィルは口をあんぐり開けている。
ルフィナは力強く頷いた。
「わたしたちは相手に乗って足止めを食らうような弱虫じゃないってところを見せつけるのですわ。絶対ひるまず、必ず相手を潰す。今までもそうしてきました」
そしてこれからも、とルフィナは屹然とした態度で表明した。
戦闘はまだ終わっていない。
しかしこれから前へ進む。