英語すらまともに覚えられなかったのに
メイナードは一歳になった。
ようやくつかまり立ちができるようになり、言葉を反復できる程度には成長した。
それまでの間は本当に地獄だった。
数時間おきの空腹、連続で取ることのできない睡眠、満足できない微妙な排便・排尿。
特に排便と食事は辛かった。
腹筋に力が入らないため力むことができないのだ。
食事後にゲップはさせてもらえるため、体内にガスが溜まって不快になるということはなかったが、一度に全部出し切ることができないのはものすごい苦痛だった。
それに臭いもきつい。
臭いは食事とセットの地獄だった。
母乳やミルクといったものしか口にできないのは到底満足できることではなかったし、そのせいで便の臭いもひどく臭かった。
きちんと自我がある上での赤ん坊生活はあまりにも苦痛なのだ。
しかし一歳ともなると多少の自由が生まれる。
少しは喋れるようになって、コミュニケーションが取れるのだ。
もちろんきちんとした会話ができるわけではないが、それでも楽しいことに変わりない。
父が頬を指で触った時に、その指を手で握り返してみたときの反応といったら、格別という他なかった。
満面の笑みを浮かべて母を呼んだ彼は、メイナードには理解できない言葉で何か話をして夫婦で喜びを分かち合っていた。
思わずメイナードも嬉しくなって笑顔になると、彼らも余計に笑う。
相変わらず言葉はわからなかったが、中々面白かった。
それは、十数ヶ月もの間まともに意思疎通ができなかったからこその楽しさというのは忘れてはいけない。
どんな些細なことでも、きちんと意図が伝わるとメイナードにとっては嬉しくて仕方ないのだ。
もう少し完全な赤ん坊の期間が長かったら、メイナードは壊れていたかもしれない。
ギリギリの中で、メイナードはなんとか楽しさを見つけて生きていた。
次にやることと言えば、言語学習だった。
この世界では、日本語が通じない。
それどころか、英語やその他メイナードが聞いたことのある言語とは一切縁のない言語が使われていた。
名前は何とか覚えられたが、未だに周りの人々の名前は覚えられなかった。
そもそも父と母はメイナードに自分の名前を使うことがほとんどない。
これは、日本と同じだ。
自分のことをお父さんとかお母さんと呼んでいるのであろう。
しかしそれではメイナードは分からない。
使用人たちは違う単語で両親に話しかけていたから、どれが名前でどれが「お父さん」「お母さん」という意味を持つ単語なのか分からないのである。
それでもメイナードは何とか話を聞いたり、オウム返しに言葉を喋ったりして言語習得に努めた。
ここでは日本語は通じないから、誰かと話そうと思ったら覚えるしかない。
そうしてメイナードはひたすらにオウム返しと聞き取りを繰り返した。
**
「メイナード」
「おお、よく言えましたね。すごいです」
「おう、……言えました。すごです」
「惜しいです」
「です」
メイナードは今、使用人の角の生えた女と会話していた。
といっても、ただオウム返しをしているだけだが。
女は未だに名前が分からない。
メイナードに彼女の名前を聞く手段はないのだ。
意味もわからずに、ただひたすら話をしようと言葉を使ってみる。
「よく言えましいた」
「はい、そうですよ」
「そうですよ?」
よく言えました、というのは名前を尋ねる時に使う言葉ではないらしい、とメイナードは結論づけた。
前にも似たような雰囲気の言葉を返されたが、そのとき使われた「そうですよ」は名前を呼ぶような場面ではなかった気がするからだ。
従って彼女の名前は「そうですよ」ではないということだけが分かった。
もうメイナードはどうしようもない。
そもそも高校生として生きていた頃、中学から四年以上英語を勉強していたのに実用に耐えられるレベルには成長しなかったのだ。
それなのに転生したら急に言葉が覚えられるわけがない。
「カルラ、部屋の掃除が終わったらこっちに手伝いに来てくれ!」
「はーい!」
廊下の向こうで彼女を呼ぶ声があがった。
他の使用人だ。
彼女は大声でそれに応えると、瞬く間に去ってしまった。
柵付きの小さなベッドに、メイナードは取り残される。
いつ何があってもいいように、メイナードが一人になったときは扉が開けっ放しになるのがこの家の規則だった。
廊下側に開く扉は外から見る一目瞭然で、たいてい一分もしないうちに他の使用人か母が顔を出す。
そうしてまた、会話にならない会話を繰り広げるのが常だった。
しかし、この時メイナードはあまりに当たり前のことに気づいて、戦慄した。
気づいたのである。
遠くから誰かへ呼びかける時、名前を呼ぶのではないだろうか、ということに。
**
それからのメイナードは注意深く耳を済ませることに熱心になった。
誰かが遠くで声をあげて、それに追随するように他の誰かが声を出したり移動した時のことを覚えるようにしたのだ。
そうしていると、段々家にいる使用人や両親の名前が分かってきた。
答え合わせは呼びかけで行う。
最初にやったのは、角の生えた一番見覚えのある使用人だった。
「カルラ?」
「!? 今なんと?」
「カルラ、です?」
「うわ! そうです、カルラです」
カルラは腕まくりしたまま布のおむつを取り替えているところだった。
黄色い尿が染み込んだおむつを取り替えながら、彼女は驚きに目を見開いた。
褐色の顔に喜色が現れて、メイナードの頭を撫でた。
その反応でメイナードは彼女の名前がカルラであることに確信を抱いた。
それからはひたすらに躍進の時だった。
「ジュリア?」
「はい! すごい、名前言えるようになったんですね!」
「ナタリー?」
「おお、上手。わたしがナタリーです」
「ジェフリー?」
「何でしょうか、メイナード様。如何にもわたしはジェフリーでございます」
「クライド?」
「名前が言えるようになったって本当だったんですね! さすがお坊ちゃま!」
そうしてメイナードは使用人の名前を一通り覚えた。
ただ、両親の名前を言うことは叶わなかった。
それは別にメイナードが両親に対して薄情だからとか、覚える気がないからというわけではない。
単に、みんな呼び方が違うせいで名前部分がわからないのだ。
おそらく父のことは「お館様」「ご主人様」あたりで母のことは「奥様」とかで呼んでいるのだろう。
しかしそれでは名前はわからない。
父と母は顔を突き合わせるたびに何か言っているのだが、それをオウム返しにしてもあまり納得した様子は見せなかった。
たぶん、覚えているとは到底言えない状態だからだろう。
「パパ」「ママ」などと呼ばせたがっているのかもしれないが、それを屋敷で徹底して呼び名として通しているわけではない。
そのせいで覚えにくいのだ。
「パパと言ってみようか」
「パパと言ってみよか」
「パ、パ、だぞ?」
「パ?」
「違う違う。パーパ、だ」
父は「パ」を強調して口に出した。
母は脇で眉尻を下げて、優しそう笑みを浮かべて座っている。
メイナードとしてもこの思いには応えたいところだった。
何とか意味を汲み取ろうと、試行錯誤する。
「パァパ」
りんごのことを「アッポゥ」と極端にネイティブっぽく発音するみたいに、真剣に父の言葉を反芻した。
「そうだ、いいぞ。もう一回、パパだよ」
「プゥアパ」
「もっとゆったりでいい」
「パァウパ」
「パ、パ」
「パパ」
「いい感じだ! そうそう! それだよ!」
相変わらず父が何を言っているのかはさっぱり分からない。
しかし喜んでいるかどうかくらいは分かる。
相手の反応が良かったバージョンで繰り返すのが、おそらく正解だろう。
メイナードは最後の発音が正しいと見て、もう一度繰り返す。
「パパ!」
「おお、それだそれだ! やっと言えたな~」
父は満面の笑みで、メイナードの頭を抱きすくめた。
そんなこんなで、少しずつではあるがメイナードは言葉を覚えていった。