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転生すると赤ん坊

 松山が目を覚ますと、目の前には暖かい空気が広がっていた。

 思わず大きく息をすると、身体が満足に動かないことに気づいた。

 目も上手く開かない。

 手を伸ばそうとするけれど、関節が固くなっているのか上手くいかない。

 濡れた身体はそのままだが、アスファルトに擦れて傷ついた膝下や、強かに打ち付けた頭の痛みは引いていた。

 頭に手をやろうとして、身をよじる。

 そこでようやく、身体が少しは動くということに気づいた。


 全身不随は免れたのだ、と思うと松山に安堵の気持ちが広がった。

 同時に、今の状況を把握しようという前向きな気分になる。

 音はわんわんと耳鳴りがひどく、まともに聞こえない。

 何とかほんの少しだけ目を開くと、そこには奇妙な光景が広がっていた。


 陽の光が差し込んだ部屋の中に、男が一人と女が二人いた。

 男は縫い目が見える麻の服のようなものを着て、笑顔で松山を迎えている。

 一番近い女も同じように満面の笑みを湛えているが、そこには相当な疲れが覗いていた。

 もう一人の女のほうは、二人を見ながら額から垂れる汗を拭っている。

 腕が肘の方まで濡れていて、赤茶色の液体が付着していた。


 松山は満足に動かない身体をよじりながら、辺りを見渡そうとする。

 しかし唐突に身体の自由が効かなくなった。


 そうして背すじがぶるりと震えて、頭の奥の方からひどく重たい痛みがせり上がってくる。

 さらには喉の奥が苦しくて、思わず嗚咽がもれた。

 むせて、口から水が溢れる。

 そして同時に息ができるようになって、肺が膨らんだ。

 まるで初めて肺が動いたかのように筋肉が傷んで、思わず松山はうめく。

 

 ――オギャァ、オギャァ!

 

 松山は自分が信じられないうめき声をあげていることに気づいて、目線を下に移す。

 そこには、ふっくらとした白い身体と、小さな腕が見えた。

 足のほうは膨らんだ腹が邪魔をして見えない。

 そして、松山は気づいた。

 自分が赤ん坊になっているということに。


 **


 自分が赤ん坊になっていたことに気づいてから、数週間が過ぎていた。

 松山は、自分がタイムスリップして昔の自分に戻っていたのかと思ったがそうではなかった。

 まるきり他人になっていたのだ。

 それにここは日本ではない。もしかすると地球ですらないのかもしれない。

 しかしそれを知るには赤ん坊の身体は不便すぎた。

 母乳を飲みながら、この身体の母親をじっと観察する。


 金髪碧眼、彫りの深い顔立ちに松山には理解できない言語で何かを話しかけてくる姿は、どこか落ち着く印象を与えていた。

 それは自分が赤ん坊になったからこその精神作用かもしれなかったし、死ぬ直前の痛みをまだどこかで覚えているからかもしれなかった。

 しかしどちらであろうとも、安心することに変わりはないし、気にすることではないのかもしれない。

 外国語を喋る母が何を言っているのかはあまり分からなかったが、少し理解できることもあった。

 一つは、自分の名前だ。


 この赤ん坊は松山楽人ではなく、他の名前があるのだ。

 ことあるごとに優しく呼びかけられたため、恐らくこれが名前だろうというのは何とか見当がついた。

 メイナード。

 これが松山の新しい名前だった。


 母はよくメイと呼ぶため、女の子みたいな名前だなと思っていた。

 もしかするとこの赤ん坊は女の子なのか? とすら思い始めていたが、それが勘違いであることに気づいたのは生後しばらくしてのことだった。 

 メイナードをお世話してくれる人物は主に三人いる。

 一人は母でもう一人は父だ。

 そしてもう一人、恐らく使用人である女がいた。

 名前は分からないが、その女は赤ん坊のことを決してメイと略して呼ぶことはなく、メイナードと正式な名前で呼んだ。

 それでようやく自分の名前を知ることができたのだ。


 ちなみにこの女は母と父に関して名前で呼ぶことはない。

 多分話す言葉のなかに何らかの代名詞が含まれており、ご主人だのお館様だの、奥様だのと呼んでいるのだろうが、まだメイナードにそれを理解することはできなかった。

 日本語で喋って欲しいと思っていたし、英語ならまだ何とかなりそうだと思ったが、どちらでもなかった。

 母だけでなく父も髪は金色で、麦穂のような艶があった。

 顔の彫りも深いため、日本人ではなさそうだったが、アメリカ人などの英語圏でもなさそうだった。

 それに使用人の女は普段から変な装飾をつけており、ますますメイナードを混乱させた。

 頭にぴょこんと角が生えているのである。

 シカのような尖った角で、生え際は髪に隠れて見えなかった。

 少しだけ黄ばんだ角は手のひらほどの大きさで、盆栽のように途中でねじれて、そそり立っていた。

 もしかして、とメイナードは思う。

 ここは異世界なのではないかと。


 それなら謎の言語や角の生えた女にも説明がつく。

 しかしそうしたことを確かめるすべは今のメイナードになく、ただ母乳を飲んでよく眠り、たまに泣いては糞尿を垂れ流す他にやることはなかった。

 身体のままならなさでいえば、首から下が不随になるよりかはマシだったが、自分の下の世話を他人に任せるのは少し恥ずかしかった。

 しかし赤ん坊なら当然のことで、ちょっと泣き声が小さいだけのメイナードに誰も遠慮などしてはくれない。

 使用人の女がもっぱらおむつを変える役回りで、布のおむつを洗う音が部屋越しに聞こえることもままあった。


 数時間おきにやってくる猛烈な空腹を母乳で補いながら、メイナードは何とか生き延びた。

 もちろんメイナードよりも数時間おきに起こされる母のほうが数段辛いだろうが、メイナードに空腹を抑える方法はなかった。

 そうして、赤ん坊としてメイナードはすくすくと成長していった。

 

 **


 赤ん坊でいると辛いことがある。

 泣く以外の行動が取れないのだ。

 頭が痒いとき、普通の人間ならどうするだろうか?

 頭をかくか、誰かにかいてもらうか、我慢するだろう。

 それらは状況に対する反応だ。

 そうした反応のバリエーションが、普通の人間には数多くある。

 様々な状況に応じて、自分の意志を伝えたり、何か行動を起こすといった対応があるのだ。

 しかし赤ん坊にはそれがない。

 泣くことしかできないのだ。


 おしっこが漏れそうな時にどうするか?

 泣くのだ。

 眠いときにはどうするか?

 泣くのだ。

 お腹が空いたときにはどうするか?

 泣くのだ。

 ちょっと衣擦れを感じてくすぐったいときは?

 泣くのだ。

 もう何がなんでも泣く。

 泣くったら泣く。どんなことに対しても泣く。


 泣くことしかできない状況に、メイナードは泣きそうだった。

 なんといっても彼は前世で高校生だったのだ。

 まだ家族によって養われていたとはいえ、赤ん坊ほど何もできなかったわけではない。

 不満があれば誰かに言葉で伝えたし、腹が空いたら飯を食えたし、眠たいなら寝ていた。

 しかし赤ん坊の身体はそういう風にはできていなかった。

 メイナードが何かしようとしても、全部泣くことに繋がるのだ。

 意図して心臓の動きを止められないのと同じで、泣くこともまた止められない。

 そのたびに種々の対応を代わりにこなしてくれる、使用人の女には大変世話になった。


 両親もかなり世話を焼いてくれた。

 ただ、父親には仕事があるみたいで日中はほとんど見かけなかった。

 どうやら父は、何らかの宗教の神父らしい。

 神父というのはメイナードの言葉の綾でしかなく、正式名称は分からない。

 ただ、神に仕えて何かする仕事というのは確かだ。

 メイナードも母や使用人の女に抱きかかえられて何度か仕事場に連れて行ってもらったことがある。

 レンガと木、それに美しいガラス細工で設えられた天井の広い建物には、大勢の人が座れる長椅子がいくつも並べられていた。

 入って真正面には大きな絵画があり、そこには誰かわからないが、美しい少年と雄々しい男が描かれていた。

 メイナードにはそれが何かさっぱり分からなかった。


 しかし母と使用人の女はその絵の目の前で膝をつき、なにやら唱えてじっとうずくまっていた。

 これはもしや宗教か何かでは? とメイナードが思った時、絵画のある壁の横にあるドアが開いて一人の男が顔を出した。

 父だった。

 絵と同様に見慣れない服装をした父は、恭しく頭を垂れる二人とメイナードに向かって何事かを唱えると、手を突き出した。

 ものすごく宗教っぽかった。


 メイナードは全く状況が分からないままに一連の所作を眺めながら、黙ってあたりを見渡した。

 他にも長椅子にはぽつりぽつりと人が座っており、その誰もが神妙な顔つきだった。

 メイナードは生前、特別に何かの宗教へ熱心に入れ込んでいたわけではなかったから、少し怖かった。

 地球の日本で生まれ育ったメイナードにとって、宗教はただただよく分からないものだ。

 しかしこの世界では違うのかもしれない。

 ただそれを詳しく知るには、メイナードの身体は幼すぎた。

 動かない身体をぶるぶる震わせて泣き始めると、使用人の女は慌てて建物からメイナードを抱えて飛び出した。

 そうして、メイナードは父の職業を知った。


 他にもいろんなことを目にした。

 生まれてすぐは分からなかったが、使用人は女以外もいた。

 メイナードのお世話担当が彼女なだけであって、料理や洗濯、掃除などの家事を行う使用人たちがもう数人いるのだ。

 ただ住み込みでは働いているのは最初に見かけた角の生えた女だけらしく、他は角も生えていない普通の人だった。

 メイナードはだんだんと家庭の事情を把握していった。


 家族は父と母、そして自分だけ。

 そしてそれらを補助する役目としての使用人たちが五人ほど。

 父は日中は教会(と言っていいか分からないが)で働いており、母は読書や庭いじりに耽っている。

 角の生えた使用人は家のどこかで間借りしており、それ以外は通いで働いている。

 部屋は余っているのに住まないには何か理由があるのかもしれないが、メイナードには分からなかった。

 メイナードの新しい家族は、相当裕福だということが理解できて、安堵した。

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