変な女
メイナードの傷は待機していた修道士たちの手でまたたく間に治り、痕一つ残らない丁寧さで健康な身体へと仕上げられた。
その後も講義は続いたが、メイナードは流石に疲れが残っており、グラウンドで一人座って、終わるのを待った。
そうして結局、疲れた身体のままに座学を二つ受けて、その日の終わりまで通常の日程を駆け抜けた。
今日のご飯は一層美味しく感じられた。
「ここって優しい割に、結構キツいよね」
「どっちなんだよ」
アダムが部屋着の袖をまくりあげて、暑そうに手で顔をあおぐ。
メイナードは見かねて、細い線条の細工を施した幾重もの水の束を周囲へ浮かべる。
一気に体感温度が下がった。
「逆に寒い、というかすごいな」
「それでも負けたんだけどね」
アダムは軽く唸り声をあげつつ、メイナードの方を見た。
「そりゃあ、まあ仕方ない。ニコラはお前の魔法を知ってたんだから」
「それにしたって酷かったでしょ?」
「魔法使いは基本的に情報が重要だ。対抗魔法は人によって違う能力が発現する可能性が高い以上、戦う相手の技量を見誤る可能性もあがる」
アダムは講義の受け売りのように朗々と言った。
座学は、魔法に関する話と聖典の暗唱が主だ。
前者は実践的な話も交えた講義で、後者は教会の魔法使い育成機関としての建前に近い。
メイナードは両方、なんとか理解している気でいるが、どこまできちんと把握しているのかは未知数だ。
どちらも日本にはなかった教育だから、高校生の知識を持ってしてもあまり役に立たないのだ。
「ニコラは初見相手にめっぽう強い。というか、魔法使い全体がその傾向にあるんだよ。相手が何やるか分からなかったら対応しにくいだろ?」
お前みたいにさ、とアダムは言うのでメイナードはため息をついて頷いた。
「ニコラ・”硬化”・ギルモアってのはまあその名の通りで、硬化って対抗魔法が使えるわけよ」
「硬化が僕をぶっ飛ばしたってこと?」
「まあそうなるな。たとえば最後の例が分かりやすいだろ。メイの足元の空気を硬化させて、見えないひっかけ棒で転かしたってわけよ」
ニコラの魔法である硬化は、人以外のあらゆる物体を硬化させ、固定するという能力だ。
空気も水も、食べ物もニコラの手にかかれば硬化の対象になり、ニコラですら魔法を解く以外で動かすことはできなくなるという。
「一番実戦で使いがちなのは、服の硬化だな」
「動けなくなる?」
「ああ。俺も前に一回やられた。服は人じゃないから硬化の対象になるし、そうして硬められたら、もうどうしたって動かない。魔法でぶち壊そうと思ったけどびくともしないんだよ」
「殺し合いでそれやられたら確実に死ぬね」
「いやーどうかな。メイなら動けなくても魔法使えるだろ?」
「あ、そっか」
メイナードは魔法を振るうのに何も準備は必要ない。
杖を振り上げたり、手をかざしたり、言葉を繰ったりする手順が一つもないのだ。
ただ、思うだけで魔法が発現する。
だから実戦ならニコラに負けない自信があった。
しかし、今日の模擬戦で負けたという事実は覆らない。
「まあでもあいつも本気の殺しあいなら別の手段を使ってくるだろうな。攻撃手段って対抗魔法の数だけあるし、そもそも使い方自体、人によって違うわけだし。まあある程度色んな人が使ってる魔法はパターンが決まったりしてるけどな」
「自然魔法がそれに当たるってことね」
メイナードの使う自然魔法は周囲にありふれている自然への対抗だからなのか、わざわざ自然魔法と呼ばれて区分けされるほどだ。
それだけ使い手も多いのだろう、とメイナードは思っている。
実際に自分以外に自然魔法を使ってる人を見たことがあるわけではないが。
と思っていると、アダムが手のひらを上に向けてにやりと笑った。
小さな花がアダムの手の上にぽこんと生えた。
黄色い花弁が、ろうそくで明かりを取っている部屋を彩る。
「まあ俺の木魔法はこの程度だな。使い物にはならないが、この程度なら結構使える奴が多いぜ」
「やっぱり。結構ポピュラーなんだね」
「こいつはあまり戦い向きじゃない。けど、使いみちは色々あるんだ」
そういってアダムは窓へ近づいて、そのまま外へ花を捨てた。
「何に使えるの?」
「メイにはまだ分からねえか。これは外で使えるんだよ」
「外?」
都市の外、ということだろうか。
花で獣をおびき寄せるといった類のことができるのだろうか、と思案するメイナード。
しかしアダムの答えは想像を超えるくだらなさだった。
「女だよ。女の子にあげるんだ。デートして最後にこれをやれば、だいたい好きになってくれる……はず」
そういってアダムはにたにたと顔を歪ませた。
メイナードは真剣に考えた自分がバカらしくなりつつも、アダムの話の一点に興味を持った。
「そういえば、僕たちって外へ出られるの?」
「そりゃあまあ最終的にはそうだが……あ、外出日のことか」
「外に出られる日があるの?」
メイナードは驚いた。
院長であるロイドの機密保持への執着は異常だ。
外へ魔法を使える子どもたちを出すということを許可するとは思えなかった。
「以前、俺らの前の前の世代くらいの連中が結構強気で交渉したらしいんだよな。それこそ全員で自分の身体を人質にとって、自由をてにいれようと喚きまくったわけよ」
「自分の身体……わざと傷つけ合ったり、断食したり?」
「そうそう。ここはかなり丁寧に俺らを育てようとしてる。だから、傷がつかないように修道士の傷病手当体制がやけに整ってるし、健康診断もむちゃくちゃ多い。そこまでして丁寧に育てた魔法使いの卵たちが壊れるとしたら? 結構打撃だよな。ってことで先代は自分たちで自分たちを人質にするって手段を思いつき、実行したわけよ」
「結構ハングリーだね」
メイナードなら思いついてもやらないだろう、と思った。
日本では理不尽なルールというのは少なかったし、命に関わるようなおかしいルールというのも、高校生だったメイナードには経験がなかった。
とりあえず既存のルールを守ってさえ入れば、安全だったのだ。
だからルールの側へ介入し、変更するという考えがメイナードのなかにはあまり根付いていなかった。
しかしこの世界は違う。
まだ日本よりもずっと未熟な文明が、魔法という危うい存在を腹に抱えて綱渡りをしている。
そんな中で生きるためにルールを変えるというのは、生存するための一つの手立てであった。
だから、こうした些細なルール変更も、彼らにとっては手段のひとつとして容易に選びうるものだ。
「ま、そうやって得た外出日だから、こっちもしっかり楽しまなきゃ先輩へ顔向けできないってわけよ」
「それが花作戦につながるってことね」
「次こそ必ず成功させる!」
「まだ成功したことないんだ……」
それは言うなよ、とアダムはしょげてしまう。
メイナードはその反応が年相応に見えて、歳上とはいえ前世の自分よりずっと歳下のアダムに親近感が湧いたのだった。
**
研修生たちの非難の声が食堂に響いたのは、翌日の朝のことだった。
「少し問題が起きて、外へ出ることが許可できないんだ」
「じゃあその問題ってのを教えてくれよ!」
アダムと同じくらいの背格好をした男の子が、腕を突き上げて扇動を始めた。
そうだそうだ、という声が大きくなっていき、前へ立つロイドへの圧力が高まる。
しかしそんなことを何一つ気にしていないどころか、そもそも子どもたちが見えてすらいないのではないかと思うほどの無表情を浮かべたロイドは、申し訳無さそうな声をつくる。
「代わりに今日は自由日にするよ。講義なし、食堂も外も自由に使っていい。ただ、遊歩道から職員棟にくるのだけはなしだ。いいね?」
有無を言わせない調子で話すロイドに、年長組とメイナードはわずかに事情を察する。
なにか大きな揉め事が起きていて、何とか研修生たちを遠ざけた上で内々に処理をしたいのだ。
職員棟は門から一番近い場所で、おそらく来客対応などは主にあそこで行われている。
そこに誰かが来ている、もしくは来る予定があり、研究生たちと顔を合わせるのは避けさせたいのだ。
さらに、なるべく今は手許に研修生たちをおいて管理したい事情があるということでもある。
研修生たちを管理したい事情というのはつまり、誰かが研修生たちを狙う可能性が存在するということでもある。
メイナードは自分がここへ来る前に襲われたことを思い出し、今の事態と結びつけた。
おそらく、メイナードが狙いの人間がこの街に潜伏しているのだ。
そして、今のロイドたちはそれの対応に追われている。
メイナードがどうすることもできない場所で、何かが着々と動いていた。
まだ六歳のメイナードは、関わる権利すら与えられない。
歯噛みしたくなるような、どうしようもない焦燥が胸をついた。
ぎゅっと呼吸ができなくなるような、締め付けられる感覚。
自分が力になれれば――少しでもこの莫大な魔法を役に立てる術をもっていれば――と悔いる。
だが、そんなことをこの世界の誰も気に留めてはくれない。
メイナードがただの六歳児ではない、前世の記憶を持っている人間だと知るものは、自身以外存在しないからだ。
強い力を持っているだけの、ただの子供だと思われている。
情緒が力に伴っていない、ただのガキだ。
「食堂は夜になったらちゃんとテーブルを戻してね。食事の時間にはちゃんと外からも戻ってくるように」
ロイドはメイナードのほうを一瞥するが、なにも言わなかった。
踵を返す白い服の裾を掴みたい衝動にかられる。
メイナードが手を伸ばし、一歩踏み出す。
しかしそんな彼の両肩を後ろから鷲掴みする手が伸びてきた。
「昨日は大丈夫だった?」
ニコラだ。
白い顔は病的と言うほどではなく、むしろ豊かな表情が健康的な印象すら感じさせる。
薄い唇から覗く鮮やかな色の舌がちろりと動いた。
「……大丈夫。うん、次は負けないよ」
「そう? わたしは次も頑張っちゃうから、どうかなー」
そう言って、ニコラは軽くステップを踏んだ。
動きやすい服がめくれて、ふくらはぎが露わになる。
血色の良い健康的な脚が不可視の土台にかけられた。
「ほらほら、どう? 結構動けるんだよ。これでも勝てる?」
さらに彼女は踊る。
取り巻きたちが一緒になって床で踊るなか、彼女だけは高く高く、足を運ぶ。
唐突な踊りは彼女の魔法の特性を活かした特技なのか、誰も疑問には思わずみんな平然としていた。
外へいく連中はさっさと食堂を出ていたし、自室に戻ってゆっくりしようと画策している子達は早々に部屋へ引っ込んでいる。
ニコラの取り巻きとその他一部だけが、彼女の踊りを中心とした勢いに呑まれていた。
「上がってみて」
ニコラは挑戦的な笑みを浮かべたまま、メイナードへ手を差し伸べる。
もう彼女はメイナードの腰くらいの高さまで上がっていた。
見えない階段へ、おそるおそる脚を伸ばした。
「大丈夫かな?」
「信じて。ほら、手をはなしちゃダメだからね」
軽やかに脚を組みかえ、くるくると回りながら、上へあがる。
メイナードも手をつないでいる以上、ともに上へあがるしか道はなかった。
「この魔法の特性は、硬化よりも固定のほうが大事かもね」
「硬めても固定しなきゃ落ちるから?」
「固定されたものの上をわたしだけが自由に駆け登れる。全部、上へ行くための踏み台なの」
ニコラはメイナードの質問に答えない。
独り言のように、言いたいことだけをメイナードへ告げていく。
軽やかな足運びで上へと進んでいく彼女が、メイナードを勝手に引っ張り上げるのと同じで、彼女自身の言葉もメイナードを無視して、勝手に進んでいく。
「見えないものを硬めてる可能性は常に想定すべきだよ。相手は、常に自分に何かを仕掛けてきてる可能性があると考えたほうがいい」
「今も?」
「相手の攻撃から身を守る時は、常に次の攻撃を仕掛けるつもりで動いたほうがいいの。魔法使い同士の戦いは、剣や槍を使った戦いよりも一度の攻撃の威力が高いんだもん。守ることばかり考えていたら、相手を殺すタイミングを見失いかねない」
「じゃあこっちからも仕掛けたほうがいい?」
メイナードが枝を伸ばして、自分の足場を組み上げる。
しかし登ろうと足をあげた膝頭に、透明な壁が立ちはだかる。
見上げると、ニコラが首を横へ振っていた。
「相手の意図を考慮して動くのはとても大事だけど、相手に自分の意思を押し付ける覚悟も必要なんだよね。常に攻撃し続けられる身勝手さが、戦いにおいてはとても有効なの。もちろん身を護ることもある程度は考えてないと、不意打ちでやられるけどね」
「こんな感じ?」
もう一度枝を伸ばして、再び足をあげる。
今度はニコラも邪魔はしなかった。
もう床より天井のほうが近い。
天井には精緻な宗教画が描かれ、天使と竜が螺旋のように踊り跳んでいる。
そのすぐそばで、二人は両手をつないで踊った。
下のほうでも同じようにみなが歌いながら、思い思いに身体を動かしている。
修道院の外へ出なくても、十分に楽しい休日だった。
**
踊り疲れて地面へ降りたメイナードは食堂の椅子に座って、水を飲んだ。
他にも飲みたそうにしている数人に水を出した
メイナード自身は追加で顔も水で拭く。
少し冷たい水が、踊り疲れて火照った身体に心地よかった。
六歳児の身体は高校生の時よりも熱くなりやすい。
動くとすぐに熱がこもるのだ。
「どう、少しは次に活かせそう?」
「頑張ってみるよ」
「頑張らないなんて選択肢はないと思うけど?」
不思議そうな表情を浮かべたニコラが、メイナードを見つめた。
ダンスが終わってからのニコラは、普通の態度へ戻って会話もまともにつながる。
しかし、まだ認識の相違が二人の間に横たわっているようだった。
「だって、別に戦うことなんてそんなにないでしょ?」
メイナードは気楽な調子でそう言った。
しかしニコラは顔をしかめて、冗談でも笑えないというふうに首を横に振る。
「みんなここを出れば戦うでしょ? なに言ってるの」
「僕はそのつもりはないけど……ニコラは騎士とかの家系だったりするの?」
「いや、そんなわけないじゃない。農村生まれよ」
「じゃあ戦う必要ないじゃん」
「いやいや、ここに集まってるのは次の円征行のためでしょ? もしかして……」
聞いたことないの? と彼女は声をひそめた。
メイナードもつられて声を抑える。
「うん。なにそれ?」
ニコラの顔が青ざめる。手で顔を覆った。うめき声を小さく漏らした。
彼女はとても今までにこやかにしていたとは思えないほどに表情を歪め、それを隠すためにうつむいた。
手のすき間から覗く瞳が、かすかに血走って痛々しい。
メイナードは思わず手を貸そうと、下を向いた彼女の肩に手を置こうとする。
しかし、思いがけず力のこもった腕に、メイナードの小さな手が振り払われる。
「やめて。なんで、なんで知らないの?」
「いや……なんのこと」
「円征行よ。わたしたちはこれから戦い方を学んで、戦場に出るんだよ」
メイナードは完全に初耳だった。
思わず、アルセムからの道中に遭遇した敵を思い出す。
カルラの放った矢が頭に突き刺さり、黄色い脳みそを弾けさせて、目玉をこぼしていた死体。
黒々とした血が草に染み付いて、冷たくなった死体は関節が固まって動かなかった。
それらが無数にならんでいる光景を想像したメイナードは、思わず口元を抑える。
酸っぱいような、鼻の奥を刺激する死体の臭いを思い出して吐き気を催した。
ここの研修生たちも、その中の一員になるのかもしれない。
逆に、死体の群れを作る側にまわる可能性もある。
そんなのを覚悟して、彼らは訓練をしていたのだ。
六歳児のメイナードだけが、何も知らないままスポーツ感覚で遊んでいた。
「円征行ってのは、何なの?」
「南のジェーフィード海へ向けた進出のための戦争よ。今も第七次円征行が組まれて、向かってる」
北は山脈に蓋をされ、南は海まで向かうことさえ困難、というのが今の人類の状況だった。
南の肥沃な土地は獣人たちが支配しており、人類の住む場所はない。
この大陸でもっとも過酷で、不毛な土地に住んでいるのが今の人類だ。
その状況を改善するために教会主導で軍を編成し、侵攻をすすめているのが円征行と呼ばれる行軍だ。
それをニコラから聞いたメイナードは、状況の深刻さがあまりつかめず、悲しんでいいのか笑えばいいのか分からなかった。
ただ、それを知りもせずに軍事訓練をつんでいた自分のバカさを嘆く必要があるのは確かなようだった。
無知なまま戦う術を学ぼうとしていたメイナードに、ニコラは同情してくれている。
しかし、それをそのまま受け取るには危機感が足りなかった。
戦争がどういうものなのか、全く知らないのだ。
ただ、目の前で見たことのある死だけが彼にとっての現実だった。
それに付け加えることがあるとするなら、前世での死だけだ。