第百十六話 望月千代と高坂昌信
歩き巫女の筆頭である望月千代と、逃げ弾正や武田四天王で知られる高坂昌信の登場です。
俺と望月千代と名乗った女性以外、周囲には誰もいない。
「もしかして俺を殺しに?」
俺の質問に望月さんは首を横に振った。
「いえ、もしそうであれば今頃貴方は物言わぬ骸となっているでしょう」
そりゃそうか。諜報部隊である"歩き巫女"だが、その筆頭である望月千代女は元は忍の家の出だったらしいからな。
「なら、態々姿を見せて何のつもりかな···"歩き巫女筆頭"」
今までただ笑みを浮かべていた顔がようやく崩れる。
「···私のこと分かっていらしたのですね。流石は越後の伏嗅衆」
俺はそれに肩を竦める。伏嗅からの情報ではなく、あっちで得た情報なのだが、それを教える必要はない。
「それで、目的は?」
「上杉輝政様に取り次ぎをお願いしたく。輝政様に、海津城へと武器となるものを持たずに単身来ていただきたい。それが海津城代の願いにございます」
はぁ? 海津の城主は、家の総大将と一対一で話がしたいってことか?
「それは出来ない。例え書状の件があったとしても元は敵同士。人質として取られるような事は総大将自身が行くと言っても周囲がそれをゆるさないだろう。分かる···よな?」
「はい。それは承知の上です。しかし、上杉の御当主と直接話をされたいと」
「それじゃなぜ武器を持たず、単身なんだ?」
「それはこちらの身を守るために。我等は無勢です。武器を持った多勢に囲まれては"約束を反故にされ、根切りにされる"ようなことがあってはどうしようもありませんから」
「こっちは保護する側。そっちはある意味降るんだ。こっちの指示に従うべきでは?」
「おっしゃる通りではございます。なれど私達も菊様の身の保証のため、例え常識と外れていようと行動するのみにございます。勿論、こちらも武器を一切持たず、保証された暁には上杉の軍門に降り、命を尽くす所存」
命を尽くす所存ね···俺はつい思ったことを口にしてしまう。
「死ねと言ったら、死ぬのか?」
「いえ、命あるかぎりその命に従うということでございます」
どうやら引く気はなさそうだな。やれやれ···
「なら、俺が行こう」
「松尾様が、ですか?」
きょとんとする望月さん。
「あぁ、上杉輝政が女であることは知っているか?」
「はい。当然知っております」
はっきりと答えた。なら俺の立場が役に立つ、な。
「俺は上杉輝政の側付きにして輝政と近衛絶が夫、松尾景亮···これじゃ不満か?」
俺の言葉に目を見開いて驚いた顔をするが、直ぐに冷静な顔に戻った。
「不満など···それではこちらに」
「ちょっと待って。出ることだけ、誰かに伝えてくるよ」
「はい。私はここでお待ちしておりますので、伝え終えましたら再びこちらに」
「はいよ」
俺は一度望月さんと別れ、見張りの兵に周囲を見てくるから、もし輝政に聞かれたらそう答えておいてと言伝てを頼み、再度望月さんと合流。海津城へと向かった。
案内された部屋には男性が一人、座っていた。
「越後国主殿···ではありませんな。どなたか?」
「上杉輝政が夫兼側付き、松尾景亮です」
「ーっ!? これはこれは、某は海津城城代、高坂弾正忠昌信にございます。御足労いただき感謝致します」
"逃げ弾正"こと高坂昌信が深く頭を下げた。
「···まずはどうして上杉に書状を送ったのかから話していただけますか?」
「分かり申した···事の始まりは御館様、信玄様が病に倒れられてからです。床に伏せた御館様は勝頼様と信廉様、家臣一同を集めこうおっしゃられたのです。"もし儂がこのまま死ねば、織田は必ず攻めてくるだろう。そしてもし敗北したのならば、他家を頼れ。縁あるものはその家へ、縁の無いものは上杉へ向かえ"と」
「信玄公がそう言ったのですか?」
「はい···松尾殿の前で失礼なことではありますが、私を含め多くの者が反対しました。なぜ逃げるのか、なぜ上杉なのか、上杉は攻めてくるから備えましょうと」
それ当然のことだ。よりにもよって、これまで争っていた上杉を頼れと言われて驚かない方がおかしい。
「されど御館様は一蹴し、こうおっしゃったのです。"越後の龍は生真面目で義に厚い英雄。弱体化したと見れば滅ぼそうとはしないはずだ。勝頼に昌信、よいか···もしもの際は菊を上杉に"と。勝頼様はそれに従い、上杉に書状を出した次第にございます」
高坂さんの声は徐々に震えていった。
「そして御館様が亡くなられた後、それを聞き付けた織田方は兵を向けてきました。されど昌景殿、典厩様、道鬼斎殿は既に亡く。信春殿や昌豊殿など御館様に重宝された将は皆、勝頼様に疎まれ、現在は長坂光堅殿、跡部勝資殿が代わりに軍の采配を任されておりますが、織田を侮っている節があり···あれでは勝てる戦も勝てるとは言えませぬ」
悔しそうに音が出るほど拳を握りしめる。
「高坂さんは織田との戦に参戦されないのですか?」
俺の質問に、高坂さんは一層怒気を強めて叫ぶ。
「某も! 主家が滅ぼうというのに指を咥えて見ているだけなど···! されど、私は御館様より菊様を上杉まで送り届けるという命がありまする···それさえなければ、いの一番に織田と構えるつもりでありました!」
「その菊姫は今どちらに?」
その質問に怒りを孕んだが一気に沈んだ。
「それが···菊様を乗せた馬車の行方が知れぬのです。真田と歩き巫女の衆が護衛として付き従っているはずなのですが···未だに姿は見えず。我が子が探しに向かっておりますがいつまでかかるかも」
「そうですか···」
状況はそれなりに悪い方に向かっているようだった。




