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ラブレター

作者: あきよ涼

俺、立花洋介二十二歳はどこまでサエないんだ。


結局どこの会社にも内定をもらえず、とうとう卒業式を終えてしまった。

これ以上大学にいることの無意味さを感じて院にも行かなかった。

ニートになるのはごめんだから、これからはとりあえずの職探しだ。

このどうしようもなくサエない俺はどうしたらいいのか。

まず家に入ろう。

ソファーに座って、お茶でも飲んで、落ち着いたらハローワークにでも行こうか。

そんなことを思いながら鍵を回そうとすると、空いている。

一馬がいるのか。

カツッ、カツッ、カツッ、・・・

すると、左の方から足音が聞こえてきた。

いつも聞いている音だ。

と言ってもたいてい家の中からでしか聞いたこと無かった音だ。

足音は、お隣の美人のお姉さんだ。

二十代後半くらいか?

いつも朝早くと夜遅くにこの音が聞こえる。

たまに見られるその姿は、正にキャリアウーマンって感じだ。

それなのに、何でこんな安アパートに住んでいるんだ?

あぁ、そんなことより。

こんな美人で仕事もバリバリこなしそうで、人生楽しそうな人もいるのに・・・。

時計を見ると、日が変わりそうな時間だ。

楽しくもない卒業式の打ち上げに顔を出して、一次会で帰って来た。

なんだか自分がむなしくて仕方なくなってしまう。

ふと、自然に言葉が漏れた。

「あぁ、死にたい。」

カツッ、カツッ、カツッ、・・・

何だかその音が大きくなってきた気がした。

すると次の瞬間、

ボコーッ!!!

え?

何?

何が起きた?

・・・3秒くらいして、ようやく理解した。

お、お姉さんに殴られた・・・。

しかもグーで。

そんな俺の目の前には拳を握ったお姉さんが立っていた。

そしてこう言った。

「死にたいなんて、そんなこと軽々しく言うんじゃないよ!」


「何で入って来んの?」

弟の一馬が玄関を開けた。

お姉さんは、何も無かったように隣の家の鍵を開けて入った。

「兄ちゃんどうしたん?今の人は?」

うちには大学生の弟がいた。

俺たちは実家が関西で、二人とも大学で東京に来た。

弟とは一緒に住んでいる。

「とりあえず入れば?」

弟に促されてうちに入った。

お姉さんの顔が忘れられなかった。

少し涙目だった。


弟の立花一馬は、俺と違って女にウケそうなイケメンってやつで人生楽しそうだ。

俺はと言うと、本当につまらない人生だ。

顔は普通、性格はどちらかと言うと内向的で趣味は漫画とゲーム。

と言ってもオタクではない。

そこまで介入する意欲もないからだ。

今まで楽しかったと言うか嬉しかったことは、普通の大学に合格したことと自動車の免許がとれたことだった。

ちなみにファーストキスは高二の夏で、その先はまだだ。

その高二の夏も少しは楽しかったか。

それに引き替え一馬はと言うと、そこそこの大学に合格したし、女にはモテるし、たぶんその先も経験してるだろうし、顔もカッコいいし、性格も明るく社交的だし。

とにかく得なやつだ。

「さっきの人ってお隣さん?美人やん。」

俺たちは、この東京で二人で話すときだけ関西弁で話をしている。

他の人と話すときはできるだけ標準語で話している。

特に理由は無いが、俺たちの決まりにしている。

「確かに美人やけどなぁ・・・。」

お姉さんの顔を思い出そうとすると、さっきの顔になってしまう。

あの殴ったあとの顔だ。

何だか辛くなってしまう顔だった。

「兄ちゃん何で座ってたんや?」

そう聞かれて殴られたとか言えるはずもなく、

「こ、こけたんや。」

と返しておいた。

「ふーん。あっ、そんなことより帰って来るの早かったな。盛り上がらんかったんか?打ち上げ。」

「いや、一次会で抜け出して帰ってきたんや。」

「相変わらずの人嫌いやな。」

「それもあるけど、周りのヤツらは進路決まってるヤツらや。いづらいやろ。」

「まぁそうか。」

そう言って一馬はベッドに横になった。

「俺明日バイトで朝早いからもう寝るわ。あぁ、母ちゃん心配してたで。明日にでも電話してやってよ。」

「あぁ。」

そう言って一馬は布団をかぶった。

俺は風呂に入ってから寝た。

ずっとお隣さんのことが忘れられなかった。


次の日、一馬の物音で目が覚めた。

気がつくと一馬は既に玄関を出た後で、時計を見ると朝の6時だった。

俺も職探しに出かけないとな。

そんなことを思いながらぼちぼちと準備を始めた。

身なりを整えた俺は、先に母親に電話をかけた。

「はい、立花です。」

「もしもし、洋介やけど。」

「あぁ、洋介か。」

母ちゃんの声を聞いて、少し和んだ。

「ごめんな、就職できんかった。」

「それはしゃぁないことや。これから頑張って何か仕事したらええがな。」

東京の大学に行かせてもらって、このざまだ。

本当に俺は親不孝者だ。

いつかちゃんと恩返ししますので。

準備をして出かけようとしたとき、隣から音がした。

ガチャッ。

カツッ、カツッ、カツッ

あの音だ!

時計を見ると、8時前くらいだ。

俺はハローワークに行かなければならないという思いよりも、お姉さんのことが気になるという思いが手間に来ていた。

気がつくと俺も玄関を出て、お姉さんの後をつけていた。


俺は何をしているのか・・・。

そう思っても足は止まらなかった。

どうせ暇だ。

いや、職を探さなくちゃいけないから暇ではないか。

でも、ハローワークに行くのは今でなくてもいい。

今行ってもたぶんまだ開いてないだろう。

歩いて10分ほどで到着したのは病院だった。

普通の町の病院とかじゃなくて、大きな総合病院だ。

医者か?看護師か?

医療関係で働いていらっしゃるとは。

しかもこんな大きな病院で。

その時、頭で考える前に思ってしまった。

ここで働きたい・・・。

あのお姉さん・・・彼女のことを知りたい。

その足で、やはりすぐにハローワークに向かっていた。

とりあえずやりたい仕事が見つかった。


カジュアルな格好で、俺は鏡の前にいた。

あの後、すぐにハローワークに行ってあの病院の仕事を探した。

見つかったのは、派遣の清掃のパートだけだった。

おれは迷わず受付に行った。

「この仕事をしたいんですけど。」

そう言う俺の顔を見て、受付の人が少し驚いていた。

「これって清掃だけどいいの?」

受付の人がそう聞くのも無理はない。

思った通り、若い男がこういう仕事をするのは珍しいらしい。

「はい。この仕事でお願いします。」

俺がはっきりそう言うと、受付の人も納得したようで病院に連絡を取ってくれた。

その後はトントン拍子で話が進み、次の日に派遣の会社で面接をして、じゃぁ来週の月曜から来てくださいってことになった。

そして今日、俺は初出勤をした。

家を出た時彼女の姿は無かった。

それでも徒歩10分の勤務先へ向かい意気揚々と職員専用口から入った。

「おはようございます。」

俺は派遣の清掃の人の休憩所兼ロッカー室のドアを開けるなり、元気にそう言った。

そこでくつろいでいたおばさん達が一斉にこちらを見る。

俺は少し委縮したが、その人たちに話しかけた。

「今日からお世話になります、立花ですが・・・」

「あ〜こちらへどうぞ。」

脇からおじさんが声をかけた。

胸元の名札を見ると、リーダー 大谷と書いてあった。

おじさんは自分の席の横にどこからか椅子を持ってきて、そこに座るよう促した。

「話は聞いております。私はリーダーの大谷と申します。」

見た感じ60歳過ぎくらいか。

優しい感じの人だ。

「これは作業服です。洗い替えと2着貸与いたします。紛失は自己負担となりますので。それと、ロッカーは3番のものを使ってください。こちらが鍵です。それと、仕事はペアでやっていただくことになります。」

説明が淡々とされる中で、おばさん達の視線が痛い。

「あの青木さんって人と一緒にやってください。話は終わりです。青木さ〜ん。彼よろしくね。」

「わ、わかりました・・・」

俺はおばさん達の方を見るが、全員こっちを見ていてどの人が青木さんかわからない。

ピピピピピ・・・

アラームが鳴って、おばさん達は一斉に立ち上がってゾロゾロと出て行った。

「立花くん、よろしくね。」

一人残った、おばさんとゆうよりはお姉さんっぽい若い人が俺に話しかけた。

胸元を見ると、名札に青木の文字。

この人が青木さんか。

「よろしくお願いします。」

俺は深々と礼をして、カーテンで区切られたロッカーの方へ向かった。

「あ、男は外で着替えるんだよ。」

青木さんに言われて、俺はその場で作業着に着替えた。

「私は二十七歳の息子がいるし、あんまり気にしないで。」

青木さんは笑いながら椅子に座った。

急いで着替えを済ませて、青木さんと外に出た。

仕事は場所をローテーションする。

初めての担当はエントランスだった。

「フリーターってやつかい?」

青木さんに聞かれた。

「今はそんな感じです。」

「なんでこんなところを?あんたくらいならこんな仕事避けるだろうに。」

青木さんは話し好きみたいだ。

おばさんとゆう生き物はこんなものかな。

「家から近いので・・・。」

「一人暮らしかい?」

「はい・・・。」

怒涛の質問攻撃が続く。

愛想悪くして嫌われたらやりにくいし。

まずは病院の入り口の外側から始まり、続いて内側へと移る。

「じゃぁ大学でこっちに?」

青木さんに大学名まで聞かれて、終わらない質問攻撃に参ってしまった。

まだ初日だぞ?

ふと受付に目をやった。

外来の患者さんが支払いをしている。

「ちょっと待ってて。」

青木さんが受付に行った。

とりあえず質問攻撃は休憩みたいだ。

青木さんは受付の人とも長話をしている。

とにかく人と話すことが大好きなんだな、この人は。

俺とは真逆だ。

俺は人と話すのが嫌いだ。

それはきっとトラブルのきっかけになるからだ。

今までのバイトも、短期の工場のバイトばかりを選んできた。

こんなんだから内定もらえなかったのかな・・・。

とことんサエない自分を恨んでいたら、青木さんに呼ばれた。

「立花くーん!ちょっとちょっと。」

受付で青木さんが手招きをしている。

俺は受付に行った。

すると、そこには。

彼女が座っていた。

2人いる女性の右の方だ。

間違いなく、俺を殴った彼女だ。

ここの受付をしていたのか・・・。

「何?美人で固まっちゃってるの?」

青木さんに言われて我に返った。

「い、いや・・・」

「今日から清掃で入った、立花くんよ。よろしくね。」

青木さんに背中を叩かれてビクっとなりながら、俺も挨拶した。

「よろしくお願いします!」

すると、受付の女性たちは微笑んで会釈してくれた。

もちろん彼女もだ。

俺のことなんて忘れてしまっているのかもしれない。

「右側が並木さんで、左側が川野さんよ。」

並木さんか・・・。

胸元の名札で確認する。

受付の人はフルネームのバッヂだった。

並木静・・・。

「じゃぁ仕事に戻るよ。」

そう言って強引に連れ戻されてしまった。

これからはこの周辺の掃除が待ち遠しいな。

俺は彼女のことが気になって仕方なかった。

何より、この間のことを謝りたかった。

なぜ殴られたかはわからないけど。


午前中の仕事が終わって、休憩室に戻った。

午前中だけ組の人たちが帰ろうとしていた。

俺も青木さんもフルタイム組だった。

フルタイム組は全体の3分の1程度だった。

みんなさすがは主婦でお弁当を作って持って来ていた。

俺はコンビニのおにぎりとパンだった。

食べ終わって、動く仕事でさすがにまだお腹がすいていた。

おにぎりをもうひとつ追加しようと、病院の売店に向かった。

売店に行く途中、受付をのぞいてみた。

午前中の外来の時間は終わっていて、患者さんの姿は無く、そこには彼女一人だった。

俺はこの間のことを謝りたくて、震える足で受付に歩いて行った。

受付の前で立ち止まって声をかけた。

「あの・・・」

すると彼女は顔を上げ、こちらを見た。

「俺のこと覚えてませんか?」

思い切って聞いてみた。

「わかります。お隣さんですね。」

彼女は朝の微笑みとは打って変わってそっけなく答えた。

「良かった、覚えていてくれて。」

何とか話を続けたかった俺は、話題を探していた。

すると、彼女が話し始めた。

「あなた、どこか体でも悪い?」

いきなりのことで戸惑ったが、正直に答えた。

「いえ、どこも悪くなく、健康体です。それだけが取り柄なので。」

「あ、そう。年はいくつ?」

「今年二十二歳になります。」

「ふ〜ん。」

そう話す彼女は、まだ仕事が残っているのかパソコンに向かっていた。

そして、急にパソコンを閉めて俺にこう言った。

「私、この前のこと、悪いと思ってませんから。」

そう言って彼女はその場を立ち去ろうとした。

「ちょ、ちょっと・・・」

彼女が何を言いたいのか理解できなかった俺は、彼女を呼び止めようとした。

「健康な人間が死にたいなんて口にするんじゃないわよ!」

彼女の目は真剣だった。

そう言って、彼女は奥の方へと消えて行った。

ポツンと取り残された俺は、おにぎりを買うのをやめて休憩室へ戻った。

食欲が無くなってしまった。


「あれ?何しに行ってたの?」

青木さんに聞かれた俺は、元気を出して、

「トイレです。」

と笑顔で答えた。

ヘコんだ。

彼女にいきなり怒られた。

この間はいきなり殴られた。

とりあえず、俺は彼女に嫌われているだろうということがわかった。

「毎日コンビニで買ってくるの?」

青木さんは容赦なく俺に話しかけてきた。

「えぇ、まぁ。料理苦手なんですよ。」

一人暮らしを始めて、家で作ったのはラーメンと白飯くらいか。

「じゃぁ明日から立花くんのお弁当も作ってきてあげようか?」

「い、いや、そんな。申し訳ないですから!」

そんな気を遣うことを言わないでくれ。

「別に遠慮しなくていいんだよ。ね、作ってきてあげようか?」

「ほんとに申し訳ないですから・・・。」

「そうかい?じゃぁ、頼みたくなったらいつでも言って。」

ハァ。

疲れる・・・。

家族でもないのに、何で弁当作るとか言うんだよ。

俺は本当にこの人と仕事するのが心配になってきた。

午後は病棟のトイレの掃除だった。

チラっと青木さんを見た。

今は話をせずに黙々と仕事をしている。

彼女のことを、青木さんなら少しは知っているかもしれない。

でも、話し出したら止まらなくなるし、彼女に俺のこと告げ口されても嫌だし。

「立花くんくらいの子はどんなところに遊びに行くの?」

青木さんは相変わらずどうでもいい質問ばかりしてくるし。

でも、ここを辞めたら彼女を見られなくなるかもしれない。

家の前で待っていたりしたら、ストーカーだとか言われて通報されかねないし。

てゆーか、彼女なら間違いなく通報するな。

あ。

少し彼女のことがわかってきたぞ。

とりあえず、強い性格っぽいってことがわかった。

それだけでも進歩じゃないか。

今までは足音を聞くだけだったのに。

と言っても、それを聞いていた頃は今ほど彼女のことを気にしていなかったけど。

「何ボーっとしてるの?」

青木さんだ。

「女の子のことでも考えてたんじゃないの〜?」

「そ、そんなことないですよ。」

その通りです。

やっぱり彼女のことを聞いてみようか。

どうしよう・・・。

でも気になる・・・。

「立花くんは彼女いるの?」

「長いこといません・・・。」

よし!聞いちゃえ!!

「あの!受付の並木さんのことなんですけど!」

聞いてしまった!

「なんだ。静ちゃんが気に入ったの?美人だもんね〜。」

青木さんは楽しそうに話した。

「並木さんってどんな方なんですか?」

青木さんならいろいろと知ってそうだ。

そんな予想通り、彼女の情報がどんどん湧いてきた。

「静ちゃんはねぇ、2年くらいここで働いてるの。出身は関西の方で、年は確か27歳だったかしら。彼女に癒されてる患者さんは多いだろうね〜。何と言っても、美人だからね〜。あ、でもね。あの子はかなりの苦労人だよ。」

関西出身!

いい武器があるじゃないか!

でも・・・苦労人?

何に苦労しているんだ?

あの美貌で。

「この病院に息子さんが入院してるんだよ。」

え?

息子?

子供いるの??

結婚してるの??

「だ、旦那さんはどういう人なんですか?」

俺はドキドキしながら聞いてみた。

「いや、旦那はいないよ。離婚したんだ。」

そうか、独身か。

少しホっとした自分がいた。

「息子さん、ご病気なんですか?」

「病気って言うか・・・遷延性意識障害。」

「え?せん・・・えん?」

「いわゆる植物状態なんだよ。事故でね・・・。」

青木さんは何か事情を知っていそうだったが、それ以上は語らなかった。

そうか・・・。

おれの頭の中は真っ白になった。

その中で、あの日の彼女の言葉が響いた。

「死にたいなんて、そんなこと軽々言うんじゃないよ!」


彼女が怒っていた意味がわかった。

人生楽しそうなんて思った俺は、本当にバカだな。

「息子さんのお名前は何て言うんですか?」

「正斗くんって言うんだよ。」

「正斗くん・・・」

「さぁ、おしゃべりばっかりしてたら駄目だね。仕事仕事。」

そう言って、青木さんは仕事に戻ってしまった。

青木さんは何でこんなに情報通なんだろう。

病院の職員のデータは全員の分が頭に入っているんじゃないのか?

すごい・・・。

この人には逆らわないようにしよう・・・。


初日の仕事が終わって、青木さんは驚くほど速く着替えてそそくさと帰ってしまった。

リーダーが声をかけてくれた。

「今日はどうだった?」

「はい。青木さんが丁寧に教えてくれたので、手際よくできました。」

「そうか。それは良かった。あの人、おしゃべりは好きだけど口は堅いから何でも相談してみるといいよ。」

口が堅い?

彼女の情報をものすごく話してくれたけど。

まぁいいか。

俺には知られて困る過去も無いからな。

「お疲れ様でした。」

俺はリーダーにそう言って、休憩室を後にした。

また受付をのぞいてみる。

すると、また彼女が一人でいた。

俺は何とか悪いイメージを良くしようと、彼女の方へ近づこうとした。

が、彼女は受付を離れてどこかへ行くようだ。

気がつくと俺は後をつけていた。

俺っていつも彼女の後をつけてないか?

何をやっているんだ、俺は。

こんなことが知れたら余計に嫌われるぞ。

そう思いながらも彼女を追いかける。

彼女は階段を上って3階まで来て、一番奥の部屋に入った。

俺は恐る恐るその部屋に近づく。

部屋は個室の病室のようだった。

病室のネームプレートを見た。

『並木正斗』

彼女の子供だ。

そうか。

彼女が朝早くに家を出て、夜遅くに帰って来る意味がわかった。

全部息子さんの為だったんだ。

俺はその病室の前でうつむいていた。

あの日の自分を思い出す。

今までの自分を思い出す。

俺は・・・。

「ここに何か御用ですか?」

急に話しかけられて、驚いて声の主を見た。

女医さんだった。

「いえ、ま、間違えました!」

そう言って俺は足早にその病室を去り、そのまま帰った。


自分が本当にムカつく。

こうやって健康に生きていて、家族はみんな元気で、じいちゃんとばあちゃんまで元気で。

それがこの世の中で一番幸せなことだったんだ。

それなのに、俺はちょっとサエてないだけなのに『死にたい』なんて彼女の前で言ってしまって、本当に大バカ者だ。

家に着くと、また鍵が開いている。

一馬だ。

「おかえり〜。」

こうやって元気に迎えてくれる人がいることも幸せなことなんだな。

あー、何もかもが幸せに思えてきた。

「どうやった?初日は。」

「いろいろ勉強になったわ。」

そう言って俺はベッドで枕を抱きしめてごろごろしていた。

「どうしたん?」

一馬が不思議そうに見ている。

「別に〜。ただ、俺はほんまに幸せ者なんやなぁって噛みしめてたんや。」

「はぁ?」

一馬には理解不能みたいだ。

お前にもいつかわかる時が来る。

「それより夜ごはんまだやろ?一緒に食べようって思って。ファミレスでも行かへん?」

そう言えばお腹すいたな。

「そやな。行くか。」

俺たちは家を出て、歩いて5分のファミレスに行った。

病院とは反対方向だ。

彼女はたぶん今日も夜遅くまで息子さんのところかな。

大変だな・・・。

すごく切なくなった。

同情とか、そんなんじゃない。

純粋に俺は辛いって思ったんだ。


「お隣さんには会えた?」

ファミレスでハンバーグをほおばりながら一馬は言った。

「会えたには会えたけど・・・。」

そう言えば、彼女の子供のことが衝撃で忘れていたけど、俺って今嫌われてるままなんだっけ。

それを思い出してヘコんでしまった。

「何者やったん?医者?看護師?」

「受付・・・」

「受付か!それは競争率高そうやなぁ。」

確かに競争率も高そうだ。

あぁ・・・とんでもない人を追いかけてるなぁ、俺。

「彼女、子供おったみたいやねん。」

一馬に相談してみることにした。

「え?結婚してたん?」

「いや、離婚したみたいやねんけど、その息子が病院に入院してて、しかも植物状態ってやつみたいや。」

「え〜!めっちゃ大変やん、その人。」

「実はこの前のあの時、俺彼女に殴られてん。」

「え?何で?」

「いろいろうまく行かんかったから、ついポロっと『死にたい』って言うてもて、それで・・。」

「あぁ・・・それはお隣さんにとっては腹立つことやな。」

「どうにかして信用を回復したいねんけど、どうしたらええんやろ・・・。」

「そうやなぁ。」

いつの間にか二人とも食べ終わって、二人で腕組みして考えてみた。

「あ、こんなんどうやろ?」

さすがは一馬。

頭の回転が速いな。

「とりあえず、お隣さんの友達から攻めてみたらいいんちゃう?」

「友達・・・。」

彼女の交友関係なんて知る由もなく。

あ!

いい人がいるじゃないか!

青木さん!

あの人はあれだけ知ってるんだ。

きっと仲がいいに決まってる。

「清掃の人で仲よさそうな人がおったわ。」

「じゃぁ、その人に間をとりもってもらったらええやん。」

一馬に相談して良かった。

一馬は深夜のバイトだとか言って、俺は一人家に帰った。

マンションのエレベーターを降りたら、そこに予想しない光景が飛び込んできた。

彼女がいた。

鍵を開けようとしている。

時計を見ると、23時を回ったくらいだ。

俺は何としても俺のことを悪く思わないでほしくて、彼女に駆け寄った。

「並木さん!」

彼女を呼ぶと、彼女は驚いてこっちを見た。

俺は彼女の前に立つと、必死で彼女に気持ちを伝えた。

「この間は、本当に無責任にあんなことを言ってしまってすみませんでした。俺、あの時あなたに言われて、自分は何て幸せ者なんだって痛感したんです。」

俺は何を言いたいのかよくわからない発言をしていたが、彼女は逆に俺に頭を下げた。

「私の方こそいきなり殴ったりしてごめんなさい!」

俺は焦った。

俺が悪いのに、彼女に何をさせているんだ。

「あ、頭上げてください。悪いのは俺なんですから。」

「急にあんなことして、意味わかんないよね。私、あの時いろいろあって、ちょっとキツかったからあなたに当たっちゃったのかも。ほんとにごめんね。」

「こっちこそ・・・」

そう言うと、俺たちは目が合って彼女はにっこり微笑んでくれた。

「仲よくしましょうか。」

そして、彼女は俺に右手を差し出した。

俺は手汗のかいた掌を服で拭って、その手を握った。

「仕事、頑張ってね。」

そう言って彼女は家に入っていった。

俺はドキドキが止まらなかった。

その日はなかなか眠れず、次の日の朝を迎えた。

朝早くから彼女の足音が聞こえた。


次の日、出勤すると昨日のようにおばさんたちが既にくつろいでいた。

「おはようございます。」

そう言うと、みなさん返事をしてくれた。

「おはよう。」

「おはよう、仕事大丈夫だった?」

「あんまり無理しないで、マイペースでやりなよ。」

昨日よりも少し打ち解けた。

俺の気持ちの持ち方が変わったのかもしれない。

「おはよう、今日もよろしくね。」

そう言ってくれたのは青木さんだ。

「おはようございます。よろしくお願いします。」

そう言って俺はおばさん達の前で作業服に着替えた。

心なしかあまり恥ずかしくなかった。

「おはよう、立花くん」

リーダーだ。

「おはようございます。」

「どう、この先続けられそう?」

どうやらリーダーは、若者はすぐに辞めるってイメージがあるようだな。

「はい。続けようと思っています。」

俺は笑顔で返して、着替えを完了させた。

ピピピピピ・・・

昨日のように目覚ましのアラームが鳴って全員休憩室を出ていく。

俺も後に続いた。

今日の担当は、まずは駐車場の掃除だ。

こうやって掃除するって、気持ちいいかもしれない。

ちょっと仕事が楽しかった。

もちろん汚いものを処分することもある。

でも、それをきれいにするのがちょっと快感だったりする。

この調子で部屋もきれいを保ってみるか。

「立花くん、この美容院知ってる?」

青木さんが急に話しかけられた。

その手には美容院のカードがある。

「青木さんってそんなおしゃれな美容院行ってるんですか?」

それは若者が行くような洒落た美容院のやつだ。

ここの近くだからよく知っている。

「私がここに行ったら悪いの?」

「いえ!そんなわけじゃ・・・。」

「いいよ、別に。ここでうちの息子が働いてるのよ。」

「息子さん、美容師なんですか。」

「そうなのよ。もし良かったら今度行ってみて。」

そう言って紹介カードを渡された。

給料が入ったら行ってみるか。

そう思いながらカードをポケットに入れた。


昼休みになって、俺はまたコンビニのおにぎりとパンを食べていた。

「立花くーん。こっちで一緒に食べな〜い?」

青木さんが俺を呼んだ。

「はい。」

俺は素直に応じた。

昨日よりも素直な気分になれていた。

「立花くんは、なんでこの仕事にしたの?」

他のおばさんから質問される。

「学生時代に一つも内定もらえなくて・・・この仕事は何となく選びました。」

正直に答えた。

すると、みんなが俺について話し始めた。

「そうかぁ。まだまだ就職難しい時代なのかしらねぇ。」

「いやぁ、今は良くなったってテレビで言ってたわよ。」

「じゃぁ会社の人は立花くんの良さを見抜いてくれなかったのかしらねぇ。」

「そうよね、こんなに真面目な若者、そんなにいないわよね。」

「きっといい大学の子しかとらないのよ、今の会社って。」

「でもそのお陰で、ここで働いてくれてるんだもんね。」

「そうよ。何となくでも真面目だからいいわよね。」

「ね、青木さん。」

1日だけなのに、俺の頑張りを青木さんは見ていてくれて、それをみんなに伝えてくれていたみたいだ。

青木さんは笑いながら言った。

「そんなこと言っても、立花くんとのペアは代わらないからね。」

居心地がいい職場だ、と思った。

きっと青木さんのお陰だと思う。

すごい人だ。


午後の仕事の時に、青木さんに相談してみることにした。

たぶん彼女と交友があると思うし、いい戦力になってくれそうな気がした。

担当は病棟の廊下だった。

「青木さん、あの、相談があるんですけど。」

そう言うと、青木さんはすごく嬉しそうに答えてくれた。

「え?どうしたの?私で良かったら何でも言って。」

俺たちは廊下をモップで掃除しながら話をした。

「実は、並木さんのことが気になるんです。それで・・・」

「やっぱり?そうじゃないかと思ってたよ。」

「それで、彼女ともう少し仲良くなりたいんですけど、仲を取り持ってくれませんか?」

「あぁ、いいよ。私はあなたなら静ちゃんのことわかってもらえるって信じてるから。」

そう言って背中をパンと叩かれた。

「頑張ってね。応援してるから。」

そう言ってくれた。

心強い味方ができた。

「青木さ〜ん、お疲れさま〜。」

そう言いながら女医さんが近づいてきた。

やばい!

昨日の人だ!

「先生、お疲れ様。」

やっぱり青木さんは仲よさ気に話をしている。

「あら?新人?」

女医さんがこちらを見る。

「あなた、どこかで・・・。」

「昨日入った、立花くんよ。よろしくしてやってね。」

俺は女医さんを見て頭を下げながら挨拶をした。

「立花です。よろしくお願いします。」

すると女医さんも挨拶をしてくれた。

「いえいえ、こちらこそよろしく。私は外科の本田朋美と言います。」

そう言って微笑んで、カッコ良く立ち去った。

「あの人、静ちゃんの親友だから仲良くしておいた方がいいわよ。」

青木さんが教えてくれた。

いきなりのナイスアドバイス。


1か月程して、初めての給料が振り込まれた。

今日は休みだ。

青木さんの息子さんが働いている美容院へ向かった。

先週予約しておいた。

「いらっしゃいませ。」

案内されるがままに席についた。

「こんにちは。」

鏡越しに俺の後ろから挨拶をしてくれたのは、おしゃれでカッコイイ男の人だった。

「母がいつもお世話になってます。」

そう言って微笑んだその人は、青木さんの息子さんだった。

「いえ、こちらの方がお世話になってます。」

俺は慌ててそう答えた。

「今日はどんな感じにします?」

「えっと・・・。」

「まぁとりあえずシャンプーしましょうか。」

そう言われてシャンプー台に座らされた。

言われてみて初めて気付いたが、どんな感じにしようか決めてなかった。

いつもなら、

「適当にそろえて下さい。」

とか言ってあんまり変化しなかったからな。

彼女と並んでも恥ずかしくない髪型にしてもらおう。

「年上の女の人にウケそうな髪型にしてください。」

「え?」

恥ずかしさ覚悟で言ってみた。

一瞬戸惑った息子さんは、笑いながら答えてくれた。

「ほんとに真面目な人だね。いいですよ!任せてください!」

息子さんのはさみが俺の髪に入った。

「うちの母、めちゃめちゃ話すでしょ?」

はさみを動かしながら俺と話をしてくれた。

「いや、まぁ・・・。」

「おしゃべりが大好きなんですよ。迷惑ですか?」

「全然!楽しいですよ。」

正直初めはちょっとうざかったけど、なぜか今は本当に楽しい。

「そうですか。良かったです。母が『若い男の子の友達ができた』っていつもすごく楽しそうに話してるんですよ。」

「俺の話されるんですか?」

「あぁ、立花くんって言うとっても真面目な子とだけ聞いていますよ。母は基本的には噂話とかしない人ですから。」

「そっか。良かった〜。」

彼女の話とかしてたらちょっと恥ずかしいし。

「物事がいい方向に行くようにいつもいろんな人に助言するくらいで、ほんとに人の話はしない人です。おしゃべりなのに、不思議ですよね。」

「そうですね。」

俺の頭がみるみる今風になっていく。

さすが!

「うち、母子家庭なんですよ。」

「え?」

「俺が中学に上がる時に、父は女を作って出て行きました。」

意外だった。

明るい感じの人だったから、家庭に問題とか無いと思っていた。

「俺が美容師の学校を卒業するまでは生活きりつめてかなり苦労させました。今は俺が養うから働かなくていいって言ってるんですけどねぇ、外に出ていろんな人に会って話をするのが好きだって言って辞めないんですよ。」

「そうなんですか・・・。」

「あっ、そう言えば、お弁当作ってあげるって言われませんでした?」

「言われました。初日に。」

「俺が昼飯とかろくに食えない仕事だから、弁当とか作ってもらってなくて、てゆーか、この年になって母親からお弁当なんて恥ずかしいんですけどね。そうゆうの好きなんですよ。『立花くんにお弁当作ってあげたい』って言ってました。なので、もし良かったら弁当もらってやってくれませんか?」

「そんな、申し訳ないですよ。」

「いいんですよ、弁当作ってあげるのが大好きなんですから。特に問題なければもらってやってください。」

「そうですか?それなら・・・。」

すごく嬉しかった。

実家を離れて家庭の味ってやつに飢えていたから。

「ありがとうございます!じゃぁ、俺が言ったってのは内緒ってことで、いいですか?」

「わかりました。こちらこそ申し訳ないんですけど・・・」

「ほんとに気にしないでくださいよ〜。」

息子さんも嬉しそうだった。

俺も嬉しかった。

こんな温かい人たちと出会ったことが無かった。

それからカラーを入れてもらったりして、俺の頭は生まれ変わった。

「どうですか?いい感じでしょう?」

鏡を見ると別人がいた。

ちょっと茶色い髪で、長めの前髪。

全体的には長くもなく短くもなく。

「これで年上の女はキューンとくること間違いなしです。」

そう言って息子さんは笑ってくれた。

会員カードをもらって店を出る時、息子さんに伝えた。

「青木さんに、明日からお弁当お願いします、って言っておいてもらっていいですか?」

すると息子さんは笑って言ってくれた。

「わかりました!必ず伝えます。母も喜びますよ。」

今日も晴れだ。

気持ちいい天気の下で気分一新、歩いて帰った。


「おはようございます。」

次の日、出勤するとおばさん達がこぞって俺の髪型に突っ込んできた。

「あれ?何か雰囲気違うね。」

「カッコよくなったよ!」

「前よりいいわ〜。」

青木さんも言ってくれた。

「良くなったじゃない。息子のところ行ってくれたんだって?ありがとうね。」

俺はあのことを青木さんに言ってみた。

「あの・・・お弁当のことなんですけど・・・。」

すると青木さんはすごく嬉しそうに、

「もちろん!その言葉を待ってたんだよ。

はい、どうぞ。」

と巾着に入った弁当箱をくれた。

今日は久しぶりにエントランスと玄関ロビーの担当だった。

俺は一人で玄関の外を掃除していると、受付で青木さんが彼女と何やら話をしている。

「ちょっと〜、立花く〜ん。」

青木さんに手まねきされて、俺も受付に向かった。

「静ちゃんが、立花くんに話があるって。」

そう言われて俺は顔が赤くなってしまった。

すると彼女が言った。

「今日の帰り、ちょっと時間ある?」

「はい!いつでも暇ですから!」

「じゃぁ、受付に来てもらっていいかな?」

「わかりました!行きます!」

青木さんが何を言ってくれていたのかはわからないけど、とりあえず彼女と二人で話せるみたいだ。

俺は気がつくとニヤニヤしていた。

「良かったね〜。何かあったら何でも相談してね。」

そう言って青木さんは掃除していた。

お昼休みの時、俺は青木さんにもらったお弁当を開けた。

するとそこにはすごくおいしそうなおかずが待っていた。

「いただきます!」

まずは一口。

おいしい!

俺は次々に口に運んで、あっと言う間にお弁当は空になった。

「あらまぁ、ちょっと少なかったかしら。」

あまりの速さに青木さんも驚いている。

「いえ、すごくおいしくて速く食べちゃいました。ご馳走様でした。」

そう言って俺は流しで弁当箱を洗って青木さんに返した。

「おいしく食べてもらって良かったよ、ほんとに。」

青木さんは本当に嬉しそうだった。


その日の帰り、俺は走って受付に行った。

「お待たせしました。」

そう言うと彼女は帰る準備をして、

「ちょっと一緒に来てもらっていい?」

と言って受付から出てきた。

彼女は思った通りあの病室に向かった。

「青木さんが、あなたになら話しても問題ないって言ってくれた。」

「え?」

「私のことを知っている人が少なすぎるって言われたの。そんなんじゃ悪い気持ちが体の中に溜まっちゃうって。」

何か、子供のことで事情があるみたいだ。

俺はどんな話でも聞く覚悟をしていた。

病室に入ると、鼻からチューブを通された少年が寝ていた。

「この子、私の子供なの。名前は正斗って言うわ。」

彼女が話し始めた。

この子の運命を変えた日のことを。


その日、私と正斗は街に出て買い物をしていた。

正斗は四歳。

もうすぐ誕生日の正斗のために、何かプレゼントを買おうとしていた。

私たちが歩いていると、正斗が急に立ち止まってこう言った。

「あ、パパだ!」

大通りの向こう側を見ると、旦那が歩いていた。

私が呼ぼうとしたら、隣に知らない人がいた。

それは女だった。

その女と手をつないでいた。

すぐに不倫だとわかった。

私はショックだった。

今まで育児に追われて女を捨ててきた私を、旦那は裏切った。

すぐに涙があふれてきた。

すると正斗が言った。

「ママ、どうして泣いてるの?」

正斗が不思議そうにこちらを見ている。

「パパがあの人と仲よさそうにしてるから?」

正斗の問いかけに答えることができなかった。

すると、突然正斗がつないでいた私の手を離して、こう言った。

「ボクがパパをつれてきてあげる。」

「正斗、何言ってるの?」

「そしたら、ママわらってくれるよねぇ?」

そう言って正斗は走り出した。

「正斗!」

正斗は歩道橋の方に向かった。

私も後を追ったが、人とぶつかってしまって遅れをとってしまった。

正斗は歩道橋を上って、向こう側の旦那のところに行くようだった。

悪い予感がした。

急いで後を追ったら、向こう側の階段の下に正斗が倒れていた。

「正斗ー!」

私の叫び声に旦那が気づいた。

すぐに救急車を呼んだけど、正斗は頭やら胸やら背中やらを打っていてとても危険な状態だった。

親友の医者がいる病院に搬送してもらった。

手術は成功したけど、正斗は目を覚まさなかった。

旦那とは離婚した。

たっぷり慰謝料をもらった。

そのお金は正斗の治療費にまわした。


俺は彼女から昔の話をしてもらった。

びっくりしたけど、事実だ。

「やっぱりこうやって話を聞いてもらうっていいね。」

彼女は優しい顔で正斗くんの手を握った。

「もう1年くらいこのままなの。呼吸は自分でできるみたいなんだけどね。」

俺は黙って聞いた。

泣きそうだったけど、こらえた。

泣きたいのは彼女の方だと思った。

トントン

ノックの後に本田先生が入ってきた。

「あれ?清掃の子ね。お客さんがいるなんて、青木さん以来じゃない?」

「そうね。彼は新しい友達なの。」

嬉しかった。

彼女にそう言ってもらえて。

「そう、それは良かったわ。今日も問題無いわね。体壊す前に帰りなよ。」

そう言って本田先生は出て行った。

「彼女、私の幼馴染でね、ここの病院の院長のご令嬢なのよ。」

「そうなんですか?」

「そう。私が朝早くから夜遅くまでここにいるのを許してもらってるの。時期院長だからそのくらいの権限あるみたいね。」

本田先生ってそんなエラい人だったのか。

あんなに気さくでいい人なのに。

あ、でも彼女は関西の出身って聞いてたけど、ここの院長の娘とどうして幼馴染なんだろうか。

「て言っても院長の愛人の子供なの。彼女も私も関西の方にいたのよ。あんまりそのことを本人に言わないようにしてね。」

「あ、そうだったんですか。わかりました。心にとめておきます。」

そう言うと彼女は微笑んだ。

俺の周りの人はみんな辛い思いを経験した人たちだ。

だから心が温かいんだ。

人の痛みがわかるんだ。

俺にはわかるのか?

俺はここに居ていいんだろうか。

すると彼女がこう言ってくれた。

「今までこの部屋に入る人はほとんどいなかったわ。この子の父親ですら入ったことが無いの。青木さんと朋美と、あとは看護師さんくらい。でもそれは私がこの病室にバリアを張っていたのね、きっと。」

彼女の心の闇が見える。

その闇の中に俺を招き入れてくれたのか。

「なんで俺をこの部屋に入れてくれたんですか?」

俺は彼女に聞いてみた。

「青木さんが、立花くんに話したら心がスッキリするよって言ってたの。それで、思い切って話してみたんだけど・・・。」

「少しはすっきりしてくれました?」

「スッキリって言うか、なんか気持ちが楽になった。」

良かった。

俺でも少しは役に立てたみたいだ。

「あとね。」

彼女は正斗くんを見ながら言った。

「正斗が目を覚ました時に、友達になってもらおうと思ったの。」

俺は驚いた。

彼女の心の中は闇だけじゃなかった。

闇の中に光があるんだ。

闇の中に俺を招き入れたんじゃない。

その光の中に俺を招いてくれたんだ。

すごく嬉しかった。

でも悲しかった。

俺は正斗くんが目を覚ますと信じられなかった。

「こうやって腕をマッサージするのよ。」

彼女は正斗くんの手やら足やらを優しくもんでいる。

俺はどうしていいのかわからなかった。

でも、彼女のことを思った。

「俺もマッサージしてもいいですか?」

大きなお世話かもしれないけど。

話はしたけど、そうゆうことはされたくない、とか思ったかもしれないけど。

「ありがとう。」

彼女はそう言ってくれた。

彼女のことを思うと、正斗くんのことも大事に思えた。

何と言うか、彼女の分身に見えた。

彼女に何かをしてあげるってことは正斗くんにしてあげるってことと同じ。

そう思えた。

正斗くんは本当に眠っているようだった。

一緒にマッサージしていると、俺も正斗くんが目を覚ましそうな気がした。

この先いつまでも彼女と正斗くんのために自分のできることをするって決めた。

今、決めた。


「じゃぁそろそろ帰ろうか。」

時計は23時を回っていた。

いつもこんな時間に帰るのか。

いくら近いからと言ってもやっぱり危ない。

「あの、これから毎日付き合わせてもらってもいいですか?」

それがいいと思った。

帰り道が危ないってのもあるけど、彼女と一緒にいたいってのもあるけど、何よりも正斗くんが心配だった。

「それは申し訳ないよ。どこにも行けないいし。」

「俺はどこにも行きません。」

「どこにも行かないって・・・。」

「お願いします!」

そう言って頭を下げた。

「でも、立花くんは関係ないし・・・。」

「関係あります!」

俺は、彼女と無関係と思いたくなかった。

「お隣さんじゃないですか!」

接点はそこだけだが。

すると彼女は少し驚いて、そして笑った。

「じゃぁ・・・私の出勤日だけお願いしていいかな?」

何を言ってもムダと思ったんだろう。

気がつくと俺たちはマンションの前にいた。

一緒にエレベーターを上がって家の前に来た。

「本当にありがとう。おやすみなさい。」

そして彼女は家に入って行った。

俺も家に入った。

その日は一馬は居なかった。

俺は正斗くんを思うと、眠れなかった。


それから、俺は毎日仕事が終わると正斗くんの病室にいた。

彼女が来る前からいる時もあった。

俺は本田先生にお願いをして、周りの病室に聞こえないくらい小さな音で音楽をかけた。

DVDを持ってきて、漫才をかけたこともあった。

常に何かの音楽をかけたりテレビをつけたり、とにかく正斗くんに音を聞かせてあげた。

「人間の耳ってすごいらしいんだ。弟がそうゆう勉強しててさ。」

そう言うと彼女は喜んでくれた。

「今まで音楽とかは聞かせたこともあったけど、テレビはつけたことが無かったわ。」

「笑い声とか聞くといいらしいよ。だからお笑いのDVDとか持って来てるんだ。」

病室のテレビをDVDが見れるやつにしてもらって、毎日のように楽しいDVDをかけた。

気がつくと、俺がこの病室に来るようになってから半年過ぎていた。

「今日は息子が帰って来ないから、私も付き合わせてよ。」

ある日青木さんも病室に来てくれた。

俺たちは3人で世間話をしたり、正斗くんの将来の予想をしたりした。

話をしているとき楽しかったが、俺は気を許すと辛かった。

正斗くんが目を覚ますと信じている。

でも、心のどこかで不安の闇が身を潜める。

気を抜くとその闇が心を覆い尽くす。

そんな時、彼女の笑顔を見たら癒される。

彼女の心の中も同じだと思う。

だから、俺がいることで彼女が心の中を闇で覆い尽くされることの無ければいいのに。

そううまくはいかないかもしれないけど。

青木さんは俺にその役目を果たしてもらうために、彼女との間に立ったのかもしれない。

それは俺の思い込みだ。

でも人の気持ちを思うのは自由だろう。

思い込みだろうが、何だろうが、それで心が強くなれるのならそれでいいのではないか。

そう思えるようになった。

俺の心を闇で覆い尽くすことの無いように、彼女のそばに居させてもらおう。

そう思った。


帰りは青木さんに車で送ってもらった。

いつものように彼女は家の中に入っていった。

俺も家に入ると、一馬がいた。

「おかえり。」

一馬はいつものように座っていた。

急に涙が出てきた。

「ど、どうしたん?」

一馬が驚いておどおどいている。

俺は正斗くんと話をしたことがない。

半年彼と過ごした。

気がつくと季節は秋だ。

そして、俺は正斗くんのことが大切で仕方なくなっていたんだ。

一馬くらいの年になる正斗くんはいるのだろうか。

そんなことが俺の中をふっと横切った。

俺はどうしようもなく涙が溢れて来た。

一馬は黙ってタオルを差し出して、家を出て行った。

俺は声を出して泣いた。


3か月がたった。

季節は冬になった。

俺は時々家で泣いた。

でも、家の外では絶対泣かなかった。

人の為に泣いたとこなんて無かったのに。

俺はこの9か月で変わった。

いや、彼女に会って、青木さんに会って、本田先生に会って、正斗くんに会って。

俺は変わった。

強くなれたんだ。

前を向いて歩けるようになったんだ。

今日はすごく寒い日だ。

俺はいつものように正斗くんの病室に行った。

彼女はまだいなかった。

いつものようにテレビをつけて手をマッサージした。

すると彼女が来た。

「こっそり持ってきちゃった。」

その手には肉まんが袋いっぱいに詰め込まれていた。

「ちょっと買いすぎちゃったね。」

そう言いながら座って一つ食べた。

部屋じゅうに肉まんの匂いが充満した。

俺も一つ食べた。

すると本田先生が来た。

「あー!こんな匂いのきついやつ持ってきて!」

とか言いながら先生も食べた。

体がほかほかしてきて、一枚上着を脱いでハンガーにかけようとした。

その時、正斗くんの手が動いたような気がした。

「えっ?」

俺は凝視した。

すると、やはり正斗くんの指がピクっと動いた。

「い、今指が!」

俺は周りの病室に聞こえるくらいの声で叫んだ。

「はぁ?」

彼女は突然のことで信じられないようだ。

「本当?」

本田先生は冷静だった。

俺たち3人が注目した。

テレビの音だけが響く。

俺がテレビを止めようとすると、本田先生に注意された。

「待って。そのままで。」

そのまま1分程経った。

その時、正斗くんの掌が静かに動いた。

「やっぱり動いてるよ!並木さん!」

俺は興奮して大声で言った。

しかし彼女は固まっている。

「正斗くん。聞こえてる?」

本田先生の問いかけに、瞼が動き出した。

「ほら、ちゃんと問いかけてやってよ!」

先生の言葉で我に返った彼女が懸命に正斗くんに問いかけた。

「正斗!正斗ぉー・・・。聞こえたら・・・返事・・・。」

彼女は振り絞った声で正斗くんに問いかけた。

俺も正斗くんに話しかける。

「正斗くん!正斗くん!」

すると、正斗くんの目が開いた。

そしてこう言った。

「ママ・・・いい匂いがするね・・・」

肉まんの匂いだった。

「おなかすいた・・・」

その声はか細いながらもはっきりとしていた。

本田先生が正斗くんの状態を確認する。

「奇跡だわ・・・。」

そう言って鼻から栄養チューブを抜いた。

「まだどんな状態か分からないから、少し検査するけど・・・」

「正斗はもう大丈夫なの!?」

彼女は冷静な本田先生の説明を止めて結論を求めた。

「医者としてこんなことは言っちゃいけないかもしれないけど・・・。たぶん大丈夫だと思う。」

そう言って本田先生は正斗くんの頭に手をやった。

「たぶんなんて言ってごめんね。私も初めてで戸惑ってるの。」

本田先生はハンカチを目にあてて出て行ってしまった。

「正斗・・・」

彼女は泣きそうな顔だったが、涙を見せなかった。

俺がいたら泣けないのか、と思った。

俺は青木さんに電話をしようと部屋を出た。

その間に泣いてくれたらいいのに、と思った。

病院の公衆電話から青木さんの携帯に電話をした

「夜分すみません、立花です。」

「あぁ、どうした?静ちゃんとケンカでもした?」

「正斗くんが・・・目を覚ましました・・・。」

そう口に出すと、俺の目から涙が流れた。

口に出して実感が湧いた。

「そうなの!?私も今から病院に行くわ!」

青木さんはそのまま電話を切ってしまった。

俺は少しの間その場で涙を流したままだった。

そう言えば正斗くんが目を覚ましてから彼と話をしていない。

すぐに涙を拭って、洗面所に行って顔を洗って病室に戻った。

彼女は正斗くんと話をしていた。

「だれ?」

正斗くんが俺を見て言った。

「この人はね・・・」

「俺はね。」

彼女が俺のことを話そうとしたが、俺は話をさえぎった。

「正斗くんと友達になってほしいんだけど、いい?名前は洋介って言うんだ。」

正斗くんは少し考えてうなずいた。

「うん。いいよ!ともだちね。」

俺は正斗くんと笑った。

彼女も笑っていた。

少したってから青木さんが来た。

「静ちゃん!」

「青木さん・・・。」

彼女は泣きそうな顔をしたが、こらえていた。

そうか。

何で気付かなかったんだ。

彼女は、俺がいたから泣かなかったんじゃない。

正斗くんの目の前で泣けなかったんだ。

「青木さん、並木さんと外に・・・。」

青木さんは彼女を連れて外に出た。

「ママ、どこに行くの?」

「えっとね・・・あぁ。トイレだよ。」

「そっか。じゃぁ待ってる。」

「うん。そうしよう。」

大人になってからこんな小さい子と話をしたことなんて無かったけど、正斗くんとは普通に話ができる。

「ぼく、どのくらい寝てたの?」

「1年と9か月くらいかな。わかる?」

「う〜ん・・・。」

「長い間だよ。」

「そっか!わかった!じゃぁ、明日からママといっぱいいっしょにいてあげないとね。」

「うん?なんで?」

「だって、ながいあいだ、ママを一人ぼっちにしていたから、さみしかっただろうなって思ったの。」

「そっか・・・そうだね。」

正斗くんはとてもいい子だ。

もう俺は必要無いような気がした。

俺は、前に進むべきなんじゃないかな。

前に進む・・・。

「ただいま。」

彼女と青木さんが帰って来た。

「こんばんは。」

青木さんが正斗くんに話しかけていた。

「じゃぁ、俺は帰ります!」

「え・・・帰る?」

彼女が驚いて俺を見た。

「帰りは青木さんがいるから大丈夫ですよね。じゃぁ。」

俺は足早に病室を出た。

俺はここで甘えすぎていた。

青木さんに。

本田先生に。

そして・・・彼女に・・・。

俺は彼女を支えようとした。

でも、逆に彼女に力をもらっていた。

彼女の強さを見て、正斗くんを思う姿を見て。

彼女は前に進める。

でも、そこに俺は必要ないのかもしれない。

彼女の心は光で満ち溢れたものになったんだ。

もちろん、俺の心も・・・。

「立花くん。」

彼女が病室から出てきた。

「正斗くんは・・・。」

「青木さんと話をしてる。」

さすがは青木さんだな。

相手が子供でもすぐに仲よくなれる。

「立花くん、ほんとにありがとね。」

「そんな。俺は何にも・・・。」

「この9か月間、すごく心強かった。正斗が目を覚ますって最後まで信じていられたのはあなたがいたからだよ。ほんとにありがとう・・・。」

彼女は涙目になった。

「い、いや、マジで俺なんか。」

俺はかばんの中からハンカチを探そうとしたが、見つからなかったから代わりに街でもらったティッシュを差し出そうとした。

すると、彼女の頭が俺の肩に乗った。

「少しの間、ここで泣かせてくれるかなぁ。」

そう言って彼女の震えが俺に伝わってきた。

俺は彼女の肩に手をやろうとしたが、どうしても勇気が出なかった。

逆に俺の心臓の音が彼女に伝わるんじゃないかってくらい俺はドキドキしていた。

しばらくの間、彼女は俺の肩で泣いた。

彼女は顔を起こして、俺の持っていたティッシュを持ってトイレに行った。

俺はそのまま家に帰った。

とても、胸が苦しかった。

俺は・・・。

俺は彼女のことが、好きだ。


「目ぇ、覚ましたん!?」

家に帰った俺を出迎えた一馬に報告をした。

「よかったなぁ!奇跡や、マジで!」

一馬の喜ぶ姿を見ても、俺の心は曇っていた。

「じゃぁこれで何の迷いも無く彼女に告白できるってわけやな。」

「こ、こくはく!?」

俺は飲もうとしたお茶を吹きそうになった。

「お前、こんな時に何言うてんねん!」

「こんな時って。めっちゃめでたいやん。今彼女に告白せんと、いつ告白するねん。」

俺は、今のままで彼女に告白なんて・・・。

彼女には正斗くんがいる。

彼女と生きて行くとゆうことは、正斗くんも一緒に生きていくってことだ。

正斗くんが嫌いなわけじゃない。

むしろ、正斗くんが大好きだ。

でも、俺は今の自分が恥ずかしい。

ただのフリーターだ。

なにもやりたいことが無い。

いや、やりたいこと・・・。

青木さんに教えてもらった。

青木さんみたいに、いろんな人と接して、話をして、力になりたい。

俺はここにいてもこれ以上成長なんてできない。

「俺、地元帰るわ。」

「え?兄ちゃん急にどうしたんや?」

俺はそのまま布団に入って、風呂にも入らずに寝てしまった。


次の日、リーダーに退職したいと伝えた。

「地元に帰って、ちゃんとやってみようと思います。」

そう言うと、今までほとんど話をしたことが無いリーダーが、

「そうか。わかった。頑張っておいで。今週いっぱいでいいかい?」

と言った。

その言葉に、俺のことを思ってくれた気持が詰まっている気がした。

青木さんにも伝えた。

「何で急に!静ちゃんはどうするの?」

青木さんもさすがに驚いている。

「今の自分じゃ、ダメなんです。」

「そんな・・・。」

青木さんはさみしそうだった。

「今週いっぱいなんで、お弁当、よろしくお願いします。」

「わかってるよ!」

青木さんはそう言うと見えないところに行ってしまった。

やっぱり別れるのは辛いな。

でも、俺は前に進みたいんだ。

進まなきゃいけないんだ。

「辞めちゃうって?」

すぐに本田先生が来た。

青木さん・・・ほんとに速いな。

「はい。地元に帰って就職します。」

「そっか。で、静のことは?」

「静さんは・・・。」

俺は何て答えていいのか分からなかった。

もちろん彼女のことが好きだ。

でも、彼女と正斗くんを守る自信が無い。

「自分に自信が持てなくて・・・。」

はっきりとしない口調でそう言うと、本田先生はため息をつきながら言った。

「やっと静にも相手が見つかったと思ったんだけどなぁ。」

「俺じゃ無理だと思います!」

たまらなかった俺は、つい大声で言ってしまった。

俺だってここにいて、彼女と正斗くんのそばにいたいのに。

今の俺じゃダメなんだよ・・・。

「これだけは言うけど。」

本田先生は俺に耳打ちした。

「静に気持ちは伝えておいた方がいいと思う。」

本田先生はそう言ってどこかへ行ってしまった。

ここで告白したって彼女は困るんじゃないか。

こればっかりは思い込みじゃどうにも・・・。

正斗くんのことだってあるし。

どうしたらいいんだよ・・・。


その日の帰り、受付に行った。

いつものように彼女が一人いた。

「あの・・・」

俺は、初出勤の時のように彼女に話しかけた。

「あぁ、立花くん。」

彼女はあの時と違って、俺に微笑んでくれる。

その笑顔は今までとは違って心からの笑顔なような気がした。

「今日から早めに帰るから、もう夜中まで付き合ってもらわなくてもいいよ。安心してね。」

「そうですか・・・。」

彼女のことを見ると、ここにいたくなる。

でもそれじゃぁいつまでもこの距離は縮まらないと思う。

「正斗のところに行くけど、一緒に行く?」

「はい、行きます。」

彼女と階段を上る時、彼女に言った。

「俺、ここ辞めて地元に帰ります。」

「え・・・?」

彼女は驚いてこちらを見た。

でも、俺は彼女を見ることができなかった。

「そっか・・・。」

彼女はうつむいているようだった。

俺は正斗くんの病室に顔を出して、すぐに帰った。


気がつくと、明日が最後の出勤か。

仕事を終えて、少し正斗くんの病室に顔を出して、彼女とはあまり話をせずに家に帰る、そんな日が続いた。

「ただいま。」

家に帰ると、いつものように一馬がいる。

「ほんまに地元帰るん?」

「あぁ。仕事見つかるまでは実家に世話になって、見つかったら家出ようと思う。」

「それやったら。ここで探せばええやん。」

「でもな、関西に戻ってやり直してみたいねん・・・。」

一馬もさみしそうだったが、もう決めたことだ。

「彼女はどうするねん。」

「このままバイバイかな・・・。」

「それでええんかよ!」

一馬は持っていたマンガを投げつけた。

「兄ちゃんが想ってきた気持ち、伝えてから行ってもええんと違うか?」

「彼女が困るやろ。」

「そんなん、兄ちゃんの思い込みやろ!」

一馬の言葉にハッとした。

「彼女がどう思おうと、それは彼女にしかわからんことや。にいちゃんの気持ち伝えたからって、彼女はほんまに困るか?逆に伝えんかったら、俺とか青木さんとかも悲しむんと違うか?今まで応援してきたんやろ!もう1回考えてみぃ!」

一馬は家を出て行った。

俺は彼女のことを考えた。

彼女のことを思うと、胸がつらくなる。

それは彼女のことが好きだからだ。

好きだから、今目の前にいないことを悲しんで辛くなるんだ。

これからずっと彼女に会えなくなる。

やっぱり気持ちを伝えたい。

俺はコンビニに向かった。

便せんと封筒を買いに。

生まれて初めてのラブレターを書くための・・・。


最後の仕事の日が来た。

「今日で最後だね。」

「今までありがとね。」

おばさん達が声をかけてくれた。

「立花くん、今日1日頑張って。」

リーダーも声をかけてくれた。

青木さんは、そそくさと出て行ってしまった。

俺は急いで追いかけた。

「青木さん・・・。」

青木さんは顔を見せてくれなかった。

「あの、今日まで本当にありがとうございました。」

青木さんは背を向けたままだった。

「青木さんがいてくれて、本当に楽しかったです。これからもずっと友達でいてくれますか?」

すると、青木さんは振り返っていつものように言った。

「あたりまえだろ!やっぱり泣いちゃうよ。だって立花くんは、大切な友達だからね。」

青木さんの目が赤かった。

「あと、並木さんに気持ち伝えようと思ってます。」

俺の予想外の発言に青木さんはびっくりしていた。

「ほ、ほんと!?よし!!頑張ってよ!応援してるからさ!」

いつもの元気な青木さんに戻っていた。

俺は最後の仕事を、いつにも増して頑張った。


仕事が終わって、作業服と名札を返して、最後にロッカーの鍵を返した。

「今までありがとう。」

リーダーがそう言ってくれた。

「じゃぁ、また連絡するよ。」

そう言って青木さんは帰って行った。

俺は正斗くんの病室に向かった。

「あ、洋介兄ちゃん。」

いつものように正斗くんが迎えてくれた。

「ぼくね、来週くらいにたいいん出来るんだよ。」

「そうか!ママも喜ぶね。」

「うん!」

正斗くんは元気だった。

俺はかばんから手紙を取り出した。

「正斗くん、これをママに渡しておいてもらえるかな?」

「え?いいよ!これ、なに?」

「これはね、ラブレターだよ。」

「らぶれた?」

「じゃぁ、俺は帰るね。」

「帰るの?またね!」

「うん。またね。」

彼女が来る前に病室を出た。

そのまま家に帰った。


病室に入ると、正斗がいる。

普通にいる。

目が開いている。

本を読んでいる。

「あ、ママ!あのね、来週たいいんだよ!」

「うん、ママも聞いたよ。」

話をする。

そんな普通のことがすごく幸せ。

生きていることがすごく幸せ。

私は幸せだ。

本当にそう思う。

「ママ、これ。」

正斗が手紙を差し出した。

「これ、どうしたの?」

「洋介にいちゃんがママに渡してって。」

「え?」

「らぶれた、だって。」

「ラブレター!?」

私は急いで中を見た。

『並木さんへ

最近、あまり話をしなくなってしまいましたね。でも、それは俺のせいですね。俺が急に地元に帰るとか言ったから、正斗くんと遊べなくなってしまうから、そうですよね。俺は、今のままではいけないと思ったんです。ここでみんなに甘えていても、俺は成長できない、そう思ったんです。俺はもっと並木さんにつりあう男になりたいんです。

俺はあなたが好きです。大好きです。

もちろん、正斗くんのことを含めてです。

でも、今のままじゃ並木さんといても、俺が並木さんを助けるんじゃなくて、俺の方が並木さんに助けられてばかりです。これからは正斗くんの育児で今よりも忙しくなると思います。正斗くんと元気に暮らしてください。もちろん、周りの青木さんとか本田先生とかに助けてもらってください。

そして、俺も並木さんを助けられるような男になります。並木さんが安心して俺を頼れると思えるようになったら、またそばにいさせてください。

もしそれが無理なら、俺なんか忘れてください。並木さんならいい人見つかると思うし、正斗くんはとてもいい子だから、新しい家族ができても仲良くやっていけると思います。

今までありがとうございました。

並木さんと正斗くんのおかげで今までの人生で一番充実した日々を送ることができました。

並木さんもお元気で。

正斗くんによろしく伝えてください。


本当にあなたのことを愛しています。


            立花洋介』

「ママ!どこ行くの?」

私は気がつくと走っていた。

彼の姿はどこにも無かった。

マンションまで走って、彼の家の前まで行った。

インターホンを押そうとしたが、ためらった。

そして、そのまま何もせず、病院に戻った。

病室に戻ると朋美がいた。

「彼と話した?」

私は首を横に振った。

そして、病室の窓から外を見た。

私も前を見ようと思った。



「いらっしゃいませ!」

今日、俺はファミレスの店長になった。

地元に戻って、やっぱ接客業かなと思ってバイトで入ったファミレスでの仕事が認められて、正社員になって、店長にまでなれた。

あれから1年半。

季節は夏だ。

ここのバイトの子の相談はしょっちゅう聞いた。

店の中も常にきれいにした。

「いらっしゃいませ!」

そう言って入口をみると、懐かしい顔があった。

「久しぶり〜!1年半くらいかしら。」

青木さんが親子で来てくれるってメールをくれた。

そしたら本当に来た。

「あれ?息子さんは?」

青木さん一人しかいない。

「それがさぁ。仕事が忙しいとかで来られないって言うんだよ。」

「わかりました。1名様ですね?」

「いいや。代わりに連れて来たよ。」

青木さんが入口の方を見た。

カツッ、カツッ、カツッ

この足音。

まさか・・・。

そこには、彼女がいた。

「洋介兄ちゃん!」

少し大きくなった正斗くんが俺のところにかけよってきた。

「あ・・・。」

俺は言葉が出なかった。


『並木さんが安心して俺を頼れると思えるようになったら、またそばにいさせてください。』


彼女はこちらを見て、そしてあの日のように微笑んだ。


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