ブルーウィッチ(虹色幻想25)
「おい帰るぞ、幸子」
いつもの教室で幸子は彼を待っていた。
ここは私立和泉高等学校。
幸子は今、二年生で彼の浩も同級生。
ただクラスが違った。
だから彼はいつも幸子を迎えに来た。
今日も教室の入り口から幸子を呼んでいた。
「うん」
幸子は返事をして教室を出る。
クラスメイトのほとんどはもう帰宅したか、部活へ行ったしまったため、教室は静かだった。
二人は並んで廊下を歩いた。
いつもと同じ風景。
いつもと同じ放課後だった。
「幸子、お前に言わなきゃいけないことがある」
浩は遠くを見ながら言った。
「何?」
急にどうしたのだろう?
幸子は不安に思いながら浩を見上げた。
ふと浩が立ち止まる。
そうして俯いて言った。
「俺、好きな子が出来た。だから、別れよう」
幸子は驚き、浩を見つめた。
顔を上げた浩と目があった。
「ごめん」
真剣な目つきに、心が痛んだ。
この目つきが好きだった。
じっと見つめられるのが好きだったのだ。
幸子は世界が壊れるのを感じた。
いつもと同じだと思っていた風景が、違って見えた。
浩が遠い存在になってしまった。
幸子は何も言えなかった。
浩もそれ以上何も言わなかった。
遠くでチャイムが聞こえた。
別れを告げられた日、二人は黙って帰った。
そうして、次の日から浩は迎えに来なくなった。
クラスも違うから、自然と会う機会が無くなっていった。
廊下や体育館などですれ違うこともなかった。
幸子の世界から浩が消えただけで、他は何も変わらなかった。
それが少し悲しかった。
「お前の望みを叶えてやろうか?」
放課後、教室にいた幸子に声が聞こえた。
どこから聞こえたのか分からず、幸子は教室を見渡した。
しかし、教室には誰もいない。
教室の後ろに水槽が一つあるだけだ。
「お前は何を望む?」
声はもう一度聞こえた。
それは胸に心地よい声だった。
幸子は目を閉じて考えた。
私が望むこと。
それは…
浩を取り戻すこと。
浩が好きになった女など、消えてしまえばいい!
「承知した」
笑みを含んだ声が聞こえた。
そうして幸子は目を開けた。
そこには、血まみれになった知らない女がいた。
浩は腰を抜かして座り込み、青い顔で幸子を見ていた。
幸子は驚き、後ずさった。
そのとき、手から包丁が落ちた。
それは冷たい音を立てて教室の床に転がった。
幸子の手は血まみれだった。
恐ろしさに幸子は絶叫した。
まさか、こんなことになるなんて!
私が願ったのは、こんなことではない。
ただ、前みたいに浩と一緒にいたかっただけなのに…!
血まみれの手を見て、幸子は泣いた。
生暖かい血の感触に恐怖した。
「新藤?」
肩を叩かれて幸子は目を覚ました。
心配そうな顔をしたクラスメイトの一ノ瀬健太がいた。
幸子は一瞬、訳が分からなかった。
呆然とした幸子を見て、健太は微笑んだ。
「怖い夢でも見たの?」
そう言うと優しく涙をぬぐってくれた。
教室には、夕日が差し込んでいた。
幸子はゆっくりと自分の手を眺めた。
何もない、普通の手だった。
ホッとしてまた涙が溢れた。
幸子は静かに手で顔を覆った。
堪えきれない嗚咽がこぼれた。
夢で良かった。
幸子はただそれだけを思った。
健太の手が躊躇うように幸子の頭に触れた。
暖かく大きな手が優しく頭を撫でる。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。怖い夢は消えた」
優しい声だった。
まるで小さな子供をあやすかの様に。
幸子は小さく笑った。
そうして顔を上げた。
目の前にはホッとした顔の健太がいた。
「もう大丈夫?」
「うん、ありがとう。とても怖い夢を見たの。あまりにもリアルで本当に怖かった」
健太はふと教室にある水槽を見つめた。
「青い魔女の幻を見たんだね」
「青い魔女の幻?」
幸子は首をかしげた。
健太は水槽から目をそらし、指差した。
「ブルー・ウィッチ。あの魚は人に幻覚を見せるというよ。新藤はあの水槽を見ていなかった?」
見ていた。
頷いた幸子を見て、満足そうに健太は笑った。
「だろ?だからその夢は、魔女の見せた幻なんだよ」
そうだったのか。
幸子は水槽を見た。
青い魔女は静かに泳いでいる。
「帰ろうか。もうすぐ暗くなる」
「うん」
健太は教室の入り口で幸子を待っている。
その姿が浩と重なって見えた。
少し胸が痛んだ。
幸子は一瞬立ち止まったが、想いを振り切るようにして足を踏み出した。
背後で魔女が跳ねる音がしたが、幸子は振り返らなかった。