9 勇者リリの冒険 前編
村娘リリ視点です
あたしはリリ。
平凡をこの上なく愛しているごくごく普通な女の子です。
ここはヴァレリア公国のはずれにあるピッツ村と呼ばれる地図にないくらい小さな村。
見渡す限りのどかな田園が広がる、ザ・田舎。
地図にないので冒険者がやってくることは、ほぼありません。
外界との交流もほとんどありませんが、世界一のんびりできる素敵な場所とあたしは勝手に信じ込んでいます。
まぁ、世界とやらを冒険したことなんてありませんが。
そんな田舎に住んでいるというのに、周りの友達はお金持ちの大商人になりたいとか、世界一の冒険者になりたいとか、好き勝手なことを言っています。
だけど、平凡が一番。
そんなあたしの楽しみは、年に一度収穫を祝うお祭り。
指折りその日を待っています。
「ねぇ、リリ」
「ん?」
草むらに腰かけてボーと空をみているあたしの視界に、幼馴染のカカがぼんやり映りました。
「冒険者になるのなら、どんな職業がいい?」
「え? なに、急に、別にあたしは特になんでも……。だって平凡が一番だもん」
カカは小さく束ねた髪を指でクルクル回しながら、なにやら難しい顔をしてあたしじっと見ています。
ちゃんと答えてあげないあたしに文句でもあるのでしょうか。
仕方ないので、「じゃー勇者」と言ってあげました。
「なんでー?」
「まぁ、勇者ってわりと体力があるから仲間がピンチなときはかばってあげられるし、魔法だってちょっとは使えるから、仲間が怪我したら治してあげられるじゃん。パラメーターも突出したのがないから、平凡的なあたしにはぴったりな職業かなって」
「勇者はそんなんじゃないと思うよ! だけどみんなを守るために勇者って、やっぱボクが思うに、リリは主人公って感じがするんだよね!」
カカは女の子なのに自分のことを、ボクって呼ぶ。きっと彼女の兄弟の影響かなと勝手に納得していますが。
それにしてもカカは聞いてもいないのに、自分の壮大な夢をペラペラと雄弁に語っているよ。
「――てな訳で、ボクは冒険者になったら真っ先にシーフを目指すよ」
「は? 泥棒するの? 人の家の坪とか物色するとか?」
半分以上聞いていなかったのですが、泥棒というワードに反応してしまうあたし。
「しない、しない。さっきも言ったけど、ピッキングを覚えて洞窟内の扉や宝箱を空けたり、情報収取して冒険を優位に進める裏方に徹するよ。ボクらしいでしょ?」
「まぁ、カカは器用だしね」
「えへへ。早く大きくなって冒険者になりたいな。ヴァレリア公国随一の盗賊って呼ばれるようになるんだ」
将来の夢――盗賊……
ちょっと溜息もでましたが、まぁ、いいことにしましょう。
義賊の方だしね。
村ではちょいちょいイタズラをして叱られているカカだったけど、その底抜けな明るさやひょうきんなところからかまわりからは可愛がられていました。
特に派手さはないけど、こんな感じで平凡で平和な日常が大好きでした。
だけど、いつの日からか、その生活は崩れ去っていったのでした。
思い起こせば、公国に大きなカジノがやってきたくらいからおかしくなっていったと思います。
村中、ヴァレリア公国のカジノの噂が飛び交いました。
「おい、公国にカジノっていうテーマパークができたみてぇだぜ」
「すげぇ稼げるって噂じゃねぇか?」
「バクチすんのか? 最期は絶対に持って行かれるぞ」
「バクチなんてしねえよ。興味ねぇし。実はオーナーの梶田さんってのがかなりのやり手でありながら、気っ風も良くてね。なんでも大々的にスタッフを募集しているだ」
「月の駄賃はいくらなんだ?」
「素人でも、1万rira貰えるらしい」
「本当かよ! 1年働いたら、家建つじゃん?」
「家どころじゃないよ! こんな田舎じゃ、豪邸が建つよ。ヴァレリア公国に家だって持てると思うよ」
「こうしてはいられない! 俺、農民やめるわ」
「俺も農民やめる」
沢山のお給金に目がくらんだ大人たちが、カジノへ出稼ぎに行きました。
だけど、誰一人帰ってくることはなかったのです。
恐ろしいのはカジノだけではありませんでした。
それ以降、カジノ以外でヴァレリア公国に出稼ぎに行った者でさえ音沙汰がとれなくなっていったのです。
心配した家族、親戚、その他何人も捜索に出たみたいなのですが、まったく情報を得ることができなかったのです。
ヴァレリア公国には何かある。
とてつもない力を持った者達が、裏で何かしている。
大人たちは、そう口にするようになりました。
疑心暗鬼からか、村から出る者はいなくなりました。
そんなある日のことでした。
3人の旅人達がやってきました。
あたしは農作業の傍ら、チラチラ見ていました。
ひとりは見事な体格をした重装備の戦士風な男性。もうひとりは、黒い法衣が良く似合う魔導士風の女性。最後の一人はミステリアスな黒メガネをした職業はよくわからないけど……賢者なのかな、学者なのかな、もしかして錬金術師……?
地図にもないこんな辺境な村に何の用だろう?
とにかくわざわざやってこられた旅の人をねぎらおうと、村人のひとりが話しかけました。
彼の名前はエディタ。
温厚で優しく、そして強く、みんなが尊敬する村のお父さん的存在。
「ようこそ、旅のお方」
と両手を広げたと同時に――
あたしは大きな悲鳴を上げました。
エディタが、大男に一刀両断されたのですから。
続けざま、大男は叫びました。
「我らは転生者。お前らNPCなんぞ簡単にひねり殺す能力を持っている。これよりこの村を支配する。逆らえば両腕を落とす。逃げれば斬り殺す!」
エヌピーシ―?
テンセイシャ?
謎の言葉が羅列した。
それよりもあたしたちの感情を支配したのは、絶望感と恐怖だった。
体がガクガク震えて、身動きすらできなかった。
大男はぐるりと辺りを見渡しました。
「なかなかの農地だな。おい、村人共、これよりお前らに『年貢』を課す。摂れた穀物の10割を差し出せ」
そ、そんな。
「何を勝手なことを!」
村の青年団団長、カールが鎌を高く掲げて大男に突撃しました。
カールなら……
みんなそう思ったに違いありません。
ですが、魔法使い風の女が人差し指を小さく前に出した同時に――カールの胸に大きな穴が開いていたのです。
カールが、たった一発で……
「あらあら、おバカさん。ちゃんと聞いていなかったの? 逆らったら……、あ、逆らったら腕でしたね。あらあら、ごめんなさいね。殺しちゃったわ」
なんてことを……
女は大男に顔を向ける。
「猪田先生。さすがに10割はなくてよ。それじゃぁ、村人たちが生活できませんわ。2年目以降、面白くないじゃない?」
「そう言われたらそうだな。小田先生は頭がいいな」
「あんたがバカなのよ。脳みそまで筋肉でできているのかしら」
「はは。それ、俺にとって誉め言葉だから」
「斎藤教授。どれくらい徴収するのが妥当かしら」
サイトウと呼ばれた初老の男が懐から板のような物を取り出して何やら叩いています。計算しているのでしょうか。
「ざっと70キロ平米に、家の数が……一世帯平均4人計算で……ごにょごにょ……うん」
「で、年貢の適正量はどれくらいだ」
「ズバリ、9割じゃ! そこまで吸い上げても絶滅はせん。飢餓と病気で1割ずつ減るが」
「おい、人口が減ったら生産量が減ってしまうんじゃねぇのか?」
「だからお前は筋肉バカと呼ばれとるんじゃ! いいか、こいつらを監視するのにも、こっちも労力がいるじゃろ? 1割ずつ減る程度痛めつけておくあたりが、こっちの労力とつりあう一番ベストな数字なのじゃ」
あまりの恐怖に、こんな無慈悲な会話を止めることは誰一人できませんでした。
年貢9割……
あたしの唯一の楽しみだったお祭り……
もう二度とできなくなるの……
それからも、村人たちは必死に抵抗しました。
寝込みを襲ったり、奇襲をかけてみたり。
でもやつらには歯が立ちません。
「お前らNPCに、人権なんてねぇんだよ!」と咆哮を上げ、次々と剣や魔法で殺されていったのです。
まただ。
えぬぴーしーってなに?
「おい、あんまり殺すな。小作人が減ると収穫量に響くぞ」
「あ、そうだったな。すまん、すまん。こいつらいくら殺しても経験値上がんねぇしな。ガハハハ」
もう悪夢のような日々でした……
あたしの村が……
あたしの居場所が……
毎年、恐ろしいほどの年貢を要求されます。
もしその要求に応えることができなければ、何をされるか分かりません。
とにかく毎日、田畑を耕すしか生き延びる手はなかったのです。
考えることすら放棄した村人たちが、死んだ目をして田畑に向かってクワを下ろす日々が続きました。
たった数年で、村のみんなはガリガリにやつれてしまいました。
服はボロボロ。
病気になった者だって少なくありません。
それでも逃げる事すら許されないこの地獄を、あたしたちは受け入れる事しかできなかったのです。
そう……
思えばこの悪魔達が、互いに先生と呼び合っていることに、もっと疑念を抱いていたなら、また違った未来があったのかもしれません……
* * *
それから数年が経ったある日の事でした。
巨躯で乱暴なイノダ様と冷血無慈悲なオダ様が、村の畑を巡回して回っている時でした。
いつもは配下の者達に任せてあまり来ないのですが、年貢が近いから気になるのでしょうか? ここ最近は良く顔を出しています。
彼らはいつも恐ろしい形相であたしたちが仕事をさぼっていないかどうかチェックをしています。もしさぼる、いえ、さぼらなくても仕事の段取りが少しでも悪いと判断されただけで、ムチで叩かれてしまいます。
しかし、この日はどうも、あたしたちに視線が向いていないようです。
チラリと彼らを見やると、どうもうわの空のようでした。
何やら考え事をしているようで、イノダ様は一緒に馬で巡回しているオダ様に向かって頭をかきながら口早に話しています。
「おい、聞いたか? 梶田、やられたみてぇだぞ?」
「聞いたわ……。あれだけ手広くやっていたのに。彼、組織の中でもまぁまぁ上位ランクじゃなかった?」
「あぁ、残念ながら俺じゃ、奴に勝てんな」
「そりゃそうよ。うちの理事長と拮抗しているくらいなんだから、あんたなんて足元に及ばないわよ」
「まぁ、そうなんだが。で、あのカジノどうなるんだ?」
「競売にかけられるって話よ。理事長が分校として購入を考えていたみたいなんだどさ……」
「おいおい、ヴァレリア公国でも商売やるのか? あっこはでけぇ国だが、その分競争率もデタラメに高ぇだろ? うちらでも参入できるのか?」
「だから組織に多額の上納金を納めて来たんでしょ? 何かあったら、組織に頼れるように」
「オルドヌングスピア様様だな」
「てか、猪田先生、話は最後まで聞きなさいよ。何でも先にカジノ跡地、おさえられたみたいよ?」
「誰に?」
「知らないわ。あたくしが思うに、梶田さんをやっつけた人じゃないの?」
「どうしてそう思うんだ?」
「カジノ跡地が欲しいからよ。理事長もいつも言っているじゃない。欲しい土地があったら殺してぶんどれって」
「なるほどなぁー。理に適ってら。つーか、おい、そこの小娘!」
え? あたし?
「キサマ、何をさぼっているんだ! もしかして俺達の話を盗み聞きしやがったのか!」
イノダ様は腰の剣を抜き、恐ろしい形相であたしを睨んでいます。
「い、いえ……。あたし、何も聞いていません。何も分かりません」
「猪田先生、やめてあげなさいよ。年貢前なんですよ? もっと上納金を納めて組織での地位を上げて、もっと幅を利かせれるようになろうって今朝会議で話し合ったばかりじゃない!? あんたが何も考えずにいっぱい殺すから、生産性随分落ちているんですよ」
「す、すまねぇ」
オダ様は半眼であたしに視線を落とした。
「お嬢ちゃん、お仕事さぼっちゃだめだからね」
「小田先生よぉ。おめぇ、それにしてもなんかえらく嬉しそうじゃねぇか?」
「そんなことありませんわ。梶田ちゃんがお亡くなりなったのですよ。それはもう悲しみ極みですわ。うふふふ。あはははははははっはははぁ」
オダ様の機嫌が良かったみたいで助かった……
あたしは胸を撫でおろすと、再び腰を下ろしてポテトの栽培へと戻った。
その日の夜。
あたしは奴らの目を盗んで、カカの家におしかけました。
小さな個室に入ると、鍵をして小声でカカに、今日やつらから聞いた話をしました。
カカは突然、目を大きく見開いて、あたしの手を握りました。
「リリ! ボク達、助かるかも!」
「え? それはどういうこと?」
「だってさっきの話だと、イノダとオダのいる組織と、カジノの支配者であるカジタのいる組織は同じなんでしょ?」
「う、うん。そういうことになるかな。仲は悪そうだったけど」
「ライバル的な関係なのかな?」
「よく分かんない」
「でもなんにしても、やつらの組織を倒した者がいるってことになるよ!」
「う、うん。そうだね」
「ボク、その人に会ってくる! そして助けてくれるようにお願いしようと思う」
「ま、待って! 組織と喧嘩しているだけで、良い人って決めつけるのは危険だよ。とんでもなく悪い人かもしれないよ」
「確かに……。でも会ってみないと分からないじゃない?」
「そ、そうだけど、でも、どうやって良い人か悪い人かを見分けるの? あなたは悪人ですか? と聞いて、はいそうですなんて言いそうにないし……」
「うーん。確かにすぐにこちらの情報を言うのは危険だね。とりあえず近づいて観察するのがベストかもしれないね」
「ちょ、その前に、この村からどうやって逃げるの? それに逃げたことがバレたら、みんなにも迷惑かけちゃうよ」
「それは大丈夫。病気で死んじゃったことにしてもらうから」
「え。そんな、簡単に言うけど、説得にも時間がかかりそうだよ?」
「大丈夫。事件以降、常日頃、ボクは家族と、誰にもばれないように、密かに、だけとなんどもなんども密に話し合っていたんだ。もしこの苦境から脱出できる糸口が見つかったら、家族で協力して希望にかけると。何年もかけて、いろいろな構想をしてきたよ。だから誰かを脱出させる計画だってあるんだ」
「……すごい……。諦めてなかったんだ……」
「当たり前じゃん! なんでエヌピーシとか聞いたことのない呼び方で勝手に人を蔑むようなヤツに、ずっと負け続けなくちゃならないんだよ!」
カカはカチっと部屋の鍵を空けた。
同時にカカの家族全員がなだれ込んできた。
お兄さんと弟、お父さん、お母さんまでいる。
お兄さんが親指を立ててみせた。
「カカ、作戦ができたみたいだな。今夜、行くか?」
あまりの出来事にあたしが固まっていると、カカは「もちろん!」と即答。
確実に成功するなんて約束はまったくないんだよ!?
でもこのままこんな生活を続けていたら、みんな死んでしまう。
確かにすぐにでも行動に移すべきなのかもしれない。
「あたしもお父さんとお母さんに……」
するとカカのお兄さんが、
「もし引き留められたらどうすんだ? 諦めちまうのか?」
「そ、そんなことは……」
「行くのなら、このまま行く方がいいと思う。残酷かもしれないが、あらかじめ覚悟ってのがないと、判断が鈍る。人の口ってのは恐ろしい。どこから情報が洩れて、それが奴らに悟られるかもわからねぇ」
カカのお母さんが心配そうに、
「でもねぇ……」と漏らした。
カカは、「ママ。この作戦は、絶対に二人いるの! 信頼できるパートナーとじゃないと成功しない」
あたしは首を縦に振りました。
そう、もうやるしかないのです。
もう何人も殺されました。
それでも毎年、多額の年貢を取られてしまいます。
これ以上ヤツらに、好きにさせる訳にはいかないのです。
カカのお父さんが、
「行くのなら、後の事は任せてくれ。密にリリちゃんのご両親に俺が責任をもって状況を伝えるから。死んだってことにしらもらうように伝えとくよ。まぁ、俺の妹だから、絶対に理解してくれるさ」
こうしてカカの家族に協力してもらい、深夜、月が隠れたと同時に、暗闇に紛れてあたしとカカは村を脱出することになった。
* * *
裸足で何日も走り、ヴァレリア公国までやってきました。
あまりの壮大な建物にびっくりするあたし達。
高い建物をキョロキョロ見上げながら、カジノと呼ばれていた場所を探しました。
こんな大きな街は初めて。
もしあたし達がこんな過酷な状況下でなければ、もっと楽しめたかもしれません。
でも今は感傷に浸っている場合ではないのです。
通り過ぎり人々は、
「なんだ、汚ねぇな」「臭ぇ、なんだお前ら」と、突き刺さるような言葉を投げかけてきます。そんなの無視。
とにかくあたし達は、カジノという場所を探しました。
半日以上、走り回り、とうとう見つけたのです。
カジノ――それは村の大人たちが戻ってこなくなった悪の巣窟です。
しかしあたしたちの目の前にあったのは、それを彷彿させないような清潔感ある立派な建物でした。
「リリ。行ってくるね」
思わずあたしはカカの手を取りました。
ダメ、あたしも行くと口から出そうになりました。
カカはあたしが彼女を掴んだ拳に、そっと手を添えました。
「約束を忘れたの? もしここが悪の巣窟だったらどうするの? これはもうボク達だけの問題じゃないんだよ。村のみんなの命を懸けた戦いなんだ!」
「うん。分かっているけど……。でも、危ないよ……」
だってここは凶悪なカジノ組織を倒したヤツが支配している魔窟なのかもしれないのです。
「だから役割分担するって計画だったじゃない。リリは勇者なんだから、おいそれ突っ込んではダメだ。ボクはシーフ。要領がいい。適当に仲良くなって油断させるのが得意。危ないと判断したら、すぐに逃げるよ」
作戦――
先にカカが先陣を切って調査をする。
カジタを倒した人が、もし想像通り正義の味方なら、そのまま相談してミッションコンプリート。
だけど、もしカカが戻ってこなかったら、あたしが敵の隙をみて救出に向かう。
救出が難しそうなら、他に相談に乗ってくれそうな正しい心を持った強い冒険者を探す。
とにかく二人が同時に捕まるのだけは、避けなければならない。
そう……
分かってる……
でも……
カカは大切な友達……
涙が零れ落ちた……
だから。
「絶対に生きて帰ってきて! あたしはあたしで、別のルートからも糸口を探すから!」
カカは笑っていた。
まるで遊びに行くように軽やかに。
笑顔のままカジノ跡地の魔窟に入っていった。
あの笑顔の意味、それは私を心配させないように……
死ぬ程怖い恐怖を乗り越えて……
あたしはじっとしていられなかった。
だけど、どこから始めて良いのか思いつきもしなかった。
しばらくの間、呆然と立ち尽くしていました。
するとなんと街中だというのに、モンスターが現れたのです。
いえ、モンスターのような――まるで怪獣オークの着ぐるみを身に付けているような風貌のおじさん。
そんな恐怖の存在と、目が合ってしまいました。
「あのー? もしかして、ここに興味があるのかな?」
「まったくありません!」
あたしは一目散に駆けだしました。
やっぱりここは魔窟だった!
あんな化け物が、昼間だというのに堂々と歩いているなんて!
ここはマジでヤバイ!
カカ、早く逃げて!
あたしは走りながら、悩みました。
今すぐ、助けに入るべきどうか、と。
散々迷ったけど、下手にあたしが飛び込んでいって状況が悪化することだって考えられる。だってカカは器用だから、危ないと判断したら適当にごまかして逃げるハズだ。
あたしが中途半端に乱入すると、逃げられるものの逃げられなくなってしまう。
とにかく今はカカを信じて、しばらく待とう。
少し離れた公園のベンチに腰掛け、破裂しそうな心臓を両手で抑えてじっと待った。
あと10分待って戻ってこなかったら、救出に行こう!
いや、ダメだ。
もうちょっと待つべきだろうか。
いや、もう待てない。
そんな葛藤をしている時だった。
「もしかして、お腹空いているのではないですか?」
ふと顔を上げると、そこには優しそうなおじさんの顔がありました。
おじさんは私にパンを差し出して、ニッコリと笑っています。
不覚にも、私のお腹がぐーと悲鳴を上げてしまいます。
「遠慮しないで、お食べ」
「……カカにもあげたい……」
「それは友達かな? 君は優しんだね? 友達の分もちゃんとあるよ。だから遠慮なくお食べ」
あたしは呆然と立ち尽くしていました。
おじさんは、あたしにパンを差し出しています。
お腹だけは正直です。大演奏は鳴りやみません。
恐る恐るパンを受け取りました。
焼きたてなのでしょうか?
ほんのりと甘いパンの香りが鼻腔を指し、続いてとろけたバターの甘さ香りがやさしくあたしを包みました。それは今までろくに食事を摂っていない、そして数日間走りっぱなしの、更には殺されるかもしれないという重圧感に押し潰されそうになっていたたあたしの思考を一瞬でマヒさせるには十分過ぎました。
手に取った同時に、夢中でパンにかぶりついきました。
何なの……これ……
今まであたしが食べたパンは、カチコチに固まっていた。シチューで溶かさない噛むことすらままならない固形粒でした。
おじさんがくれたパンは、あたしの知るそれと遥かに凌駕していました。
あたしの手は止まることを知りませんでした。
一口噛めば、目が回るような甘さ。それが口いっぱいに広がるのです。
無我夢中で、口の中に押しやります。
目からはボロボロと涙まで零れ落ちます。
「……お、おいしい……」
「そうかい。それは良かった。でもそんなに慌てるとむせ込むよ」
ごほごほっ
「ほーら、言わんこっちゃない。お水もあるから」
あたしはおじさんから、水筒を受け取ると、おもむろに口を付けた。
なにこれ。
こんなおいしい水、初めて飲んだ。
あたしがいつも飲んでいた水は、ヤツらの目を盗んでわずかに口にできる泥水。
そんなのと比べ物にならないくらい、まろやかで柔らかく、そして火照った体を癒すようにほんのり冷たい。
またしても涙が止まらなくなった。
「大丈夫だよ。たくさんあるからゆっくりお食べ」
すっかりお腹いっぱいになったあたしは、とりあえずお礼を言いました。
「ありがとうございます。こんなに親切にして頂いたことは初めてです」
よく考えたら、初めてではなかったと思う。
やつらが来る前には、村中笑いが絶えなかったと思う。
しかしやつらに支配されたたった数年で、そのぬくもりをすっかり忘れてしまっていた。
あの幸せで平凡だった日々は、自分とは異なる遠い幻のようにすら感じていた。
「君、名前は?」
「リリです」
「もしかして特記事項で失敗したのかな?」
「とっきじこー?」
「心配しなくても、おじさんは君の特記事項をみんなにばらさないから。あ、私は困っている人達に対してこのような慈善事業をしているんだけど……」
おじさんは一枚のパンフレットを手渡してくれました。
「……えーと、聖・勇者学園……」
「そう、ここは、特記事項が失敗した人が再びやり直せるように、あらゆる分野の最先端スキルをプロの講師陣で徹底指導して、最速で最強に育成するすごい学園です」
え?? 最速で最強!?
「卒業後はみんなが羨む最強の冒険者を目指してもいいし、一流企業に就職してもいい。その後、独立して自分のお店や会社を作ることだって自由自在にできるよ」
え?? 最強の冒険者……、一流企業……、自分のお店……
「すごい人になりたいです! で、でも、あたし、今はゆっくり勉強する時間がないのです。早くしないと……」
「大丈夫ですよ。さっきも言いましたが、最速をお約束します」
「あたし、そんなに頭、良くないし、運動能力だって平凡的だし……」
「ふふふ、それはね。リリさんが正しい勉強方法を知らないからです」
「正しい勉強方法……ですか?」
「はい。効率よく知識を身に付けるには正しい勉強方法があります。無駄なく肉体を鍛えるには、そういった鍛錬方法があるのです。それを我々プロが徹底指導することで、それは叶います」
「本当ですか……」
「私がリリさんを騙して、何か得がありますか?」
た、確かに……
「ふふ。でも不思議がるのも無理はありません。多くの人は強くなる為にたくさんの時間をつぎ込みますが、ほとんどは中途半端なところで挫折してしまいます。ですが、それは皆、人体のメカニズムを理解できていないからなのです」
「人体のめかにずむ……??」
「何時にどういったごはんを食べたらどんな筋肉に変わるとか、筋肉にどういう刺激を与えたら速く発育するとか……」
「えーと、敵を倒したら経験値が手に入って、レベルが上がるので、それをステータスに割り振ると、人はスキルや魔法を覚えて強化されていくのではなかったのですか?」
「ふふふ。まだそんな迷信を信じていたのですか?」
「迷信……なんですか!?」
「そうです。その理屈は過去の常識なのです。それを証拠に……」
「証拠に……?」
「リリさんの周りで、ちゃんとレベル上げをして強くなった人がいますか?」
あたしはハッとしました。
確かに! そうです。
レベル上げをしたら強くなるって言われてきましたが、村のみんなは誰一人そんなに強くありません。だからこそ、ヤツらがやってきた時あがらう事すらできなかったのです。
「もうレベル上げという、根拠のない呪縛から解き放たれませんか?」
「ど、どうしたら……?」
「このようなところで話すのもなんですから、あちらの喫茶店にでも行きませんか? チョコレートケーキがとっても美味しいと有名ですよ」
「あ、あたし……」
「どうされたのですか?」
「あ……あの……」
「ん?」
親切なおじさんは首を傾げています。
どうやって、あたしに置かれた状況を説明したら良いのでしょうか?
どこから話せばいいの……
とにかくあたしは言葉にしてみようと努力しました。
「……え……えーとですね……、カジノ跡地にできた新しい組織。あそこ、ご存知ですか?」
「あぁ、あそこですか? どうも最近できた新興宗教のようです。我々のマネをして特記事項で失敗した人を助けるとか言って人を集めているようですが実際、何をしているのかは定かではありません。以前、社長と幹部を一度見たことがありますが、確か、カイヨシオ氏とカトウなんたら氏でしたか……そんな名前の小汚い親父と頼りないチャラ男が運営していおりました。あまりにもゴミ過ぎて興味すらなかったのですが……それがなにか?」
「あ、あの……友達が……。カカがそこに入って行ったんです」
「あらあら、釣られたんですか?」
「い、いえ。良い人がいると思って……、その人たちに助けてもらおうと……」
「ふふふ。特記事項を餌に人を集めている集団にまともなところなんてありませんよ? おっと、我が学園を除いては、ね」
やっぱり、悪の巣窟だったんだ!?
どうしよう……
でも、とにかくカカが心配です。
そんな感じであたふたしているあたしに、おじさんは、
「そのお友達も特記事項で失敗した口ですか?」
またトッキジコー……、それって一体なに?
よく分からずに黙っていると、
「お友達が心配なのはよく分かりました。そして特記事項を公開したくないのもよく分かります。
いいでしょう。分かりました。
確か、あの会社、ヴィスなんたらという名前だったと記憶しております。割と近い分野で仕事をしているようなので後であいさつに行こうと思っておりました。その時にでもあなたのお友達のことを尋ねてみますよ。もし酷いことをされているようでしたら、私が責任をもってその組織から解放いたしますから」
やった!
「ありがとうございます! その子、カカって言います。カルナ・カーティレ。あ、名前、長いので、書きますね」
あたしは袖を破ると、ポケットに入れておいたススで彼女の名前を書いて、おじさんに手渡しました。
一瞬、おじさんは顔をしかめたように感じました。
さすがにいくら紳士でも、このずうずうしいお願いにムッとされたのでしょうか?
ですが、すぐにニッコリ笑って、「安心して任せておいて」と布を受け取ってくれました。
よっかったです。
これでカカは助かる。
そしてあたしは、ヤツらを倒すことができる力を手に入れることができる!!
あたしはおじさんが天使様の使いに思えて仕方ありませんでした。
「さぁ、行こう」
とおじさんが、あたしの手を行きました。
ふと、カカがいるカジノ跡へ視線を向けてしました。
あれ?
すぐ後ろに、くるくる丸めた布が落ちるではありませんか。
あたしの袖とそっくりな……
だけど、それをただの偶然に思ってしまいました。
いえ、強引にそう思うことにより、自我を保ちたかったといった方が正しいのかもしれません。この素敵な紳士が、あたしの心を無下にする訳がないのですから。
しかし……
この時……
ちょっと立ち止まる勇気さえあれば……
それを拾う勇気さえあれば……
別におかしいことではありません……
目の前に転がっている布を拾う事なんて……
捨てるなんてありえない。
もしかしたら、もしかしたらです……。仮にあたしの袖だったとしても、たまたまおじさんのポケットから零れ落ちただけかもしれないのですから。
だから、ほんのちょっとの勇気……
立ち止まる勇気さえあばれ……
そうすれば、この後に起きる壮絶なる悲劇を回避できたのかもしれなかった。