8話 黄泉色
甲斐斗高校の校舎に備えられた時計が4時を回っていた。
ホームルームが終わると、生徒たちは、ガタガタと椅子から立ち上がり、帰りの準備を始めた。
冬野俊樹も教科書を鞄に詰めていたが、そこへ担任の瀬戸が寄って来た。
「冬野、後で相談室に来るように」
「はい。あの職員室ではなく相談室ですか」
「そうだ」
「わかりました」
俊樹は、少し疑問に思ったが頷いた。
俊樹は、都内でも名門と名高い甲斐斗高校の三年生で生徒会長だ。行事などの打ち合わせのために教師から職員室に呼び出されるのも珍しくない。しかし、今日は相談室へ来いと言う。相談室は、文字通り様々な困り事や相談をするために使う部屋だ。
俊樹は、とりあえず教室の出口へ向かったが、途中に目に入ったクラスメートの波木に声を掛けた。
「波木、この前教えてもらった漫画、面白かったよ。サンキュな」
「い、いや、そ、そんな大したことじゃ……」
生徒会長に声を掛けられた波木は、しどろもどろに答えた。丸い顔に分厚い黒縁の眼鏡をかけた、いわゆるオタクと言う存在だ。人と交わるのが苦手で友だちも少ないが、俊樹は、分け隔てなく声を掛けていた。
廊下に出ると、今度は、ヤンキーとまではいかないが落ちこぼれ組が待っていた。名門と言われる高校でもそれなりに落ちこぼれはいる。中学の時は、そこそこ上位の成績をとっていても、上位の者だけが集まれば、上位に入るのが難しくなる。やがて勉強について行けず、自然と落ちこぼれ組が出来る。
「おい俊樹、カラオケ行こうぜ」
「何言ってんだ。瀬戸先生から呼び出しされてんだ。聞いてただろ。それに俺達は受験生だ」
「瀬戸なんて、すっぽかせ。それに俊樹は、勉強しなくてもT大だって楽に入れんだろ」
「そんなことないよ」
俊樹は生徒会長を務めるだけあり成績も常にトップクラスだ。その上、スポーツも万能だったが、それを鼻に掛けることもなく、落ちこぼれ組からも気安く声を掛けられる存在だった。
眼鏡を掛けているが、緩やかな曲線の細いシルバーの眼鏡は、やわらかさも醸し出している。それは、そのまま俊樹の人当たりの良さを表しているようだった。
「俊樹、知ってっか? 瀬戸の奴、お前みたいな優秀な奴には声掛けるけど、俺らには、見向きもしねんだぜ」
「まあ、先生も色々と忙しいだろうし」
「そんなこと言ってんの、お前くらいだから。オタクの波木にも優しく声掛けるし。まったく、俊樹は良い生徒会長さんだよ」
「お前に褒められても嬉しかねえよ」
ひとしきり話しこんだ俊樹は、落ちこぼれ組とわかれ、相談室へ向かった。
担任の瀬戸の用件はなんだろう。先日、高校総体を終えたばかりだ。生徒会長として最後の大きな行事をこなし、程良い充実感も味わった。
これからは、受験生として勉強に勤しむ日々になるだろう。今日は、この後塾にも行かなければない。
俊樹は、いつも訪れる職員室ドアではなく、隣にある小部屋のドアをノックした。ドアの上には相談室と書かれたプレートがあった。
「入りなさい」
声に従い、部屋に入るとテーブルの向う側に担任の瀬戸がいた。いつもは、鬱陶しいくらい持ち上げてくる担任の表情は、どこか冷たい。
俊樹は、促されるように向かいの椅子に腰かけた。
毎日、見慣れている顔だが、今は、何故か別人に感じる。俊樹は、言い知れない緊張感につばを飲み込んだ。
瀬戸は言った。
「冬野、単刀直入に言おう」
瀬戸は、三年生になった今年から担任になり、まだ一月の付き合いだが、それなりに敬意も持っていた。その瀬戸が続けた。
「君は、今月、五月いっぱいで退学だ」
「……、……、えっ」
瀬戸の言葉が、理解できるまで時間がかかった。
「た、退学って。先生、俺、何かしましたか」
「いや。君の行動が原因ではない。授業料が、昨年から納められていない」
「そ、そんな、まさか」
俊樹の父親は、大手の証券会社に勤めている。それなりの収入もあるはずだ。今、住んでいる所も都内の高級マンションだ。母は専業主婦で仕事をしていないが、生活には余裕があった。姉も有名私立大学に行っている。
それなのになぜ授業料が。
「君は、何も聞いてないようだね。私も、先日聞いたばかりだ。どうやら、学校の理事会が、優秀な君の事を想い、考慮していたらしい。しかし、限度があるからね。先月、振り込みがない事で君の退学が決まった」
「ま、待って下さい。俺、バイトでも何でもしますから」
担任の瀬戸は、これまで俊樹に見せたことのない冷めた視線を向けた。
「冬野、我が校は、名門で名高いが、授業料が高い事でも名高い。君は、100万を超える額を用意できるのか」
「……」
「それに、学校に通ってる場合じゃないんじゃないか」
「……」
窓の外は、黄昏色に染まっていた。