3話 社
傭兵の生業をしていれば、意識を失うということは即刻死につながる。寝ている間に首をとられていることだってあるのだ。周りに異変があれば、鍛えられた体が、勝手に反応する。
空の裂け目に吸い込まれた凄腕傭兵ゼグドが気が付くと、どうも足元が落ち着かない。
「ぐっ、ゼグド、貴様、少しは痩せろっ」
声のする上を見れば、レイが、決して逞しいとは言えない腕でゼグドの首根っこを掴んでいる。更にその上を見ると、レイのもう片方の腕はゑびすの足を掴んでいる。
「は、離してーー。落ちるぅーー。袴が、脱げるぅーー」
喚くゑびすの頭上には、さっきまであった愛慕月はなく、雲一つない澄みきった青空が広がっている。おそるおそる下を見れば、地上は遥か遠く、その地上には、巨大な箱が立ち並び、その間を忙しく何かがうごめいている。とにかく見たこともない景色だ。
「どこだ?いったいここは?」
「に、日本一高い東京タワーーーー。それも、天辺だからぁーー。ぎゃぁーーーー」
三人の男たちは、なすすべもなく落ちて行った。
「ねえねえママ、富士山も見えるよ」
「本当ね。やっぱり東京タワーの展望台ってすごいわね」
「うん。ママ、後でノッポン買ってね」
「はいはい」
「やったー。……あれ?……ママ、何か空を飛んでる。……あれって、龍だよね。絵本で見たことあるよ」
「何言ってるの。何もいないわよ」
「だってほら、……狸とキツネと熊も乗ってるよ」
時として、大人には見えない物が、子どもには見えることがある。
「ミミちゃん、ありがとね」
三人の男たちを乗せた龍は、周りの建物より小ぢんまりした建物の上に来ると男たちを降ろした。
降り立ったゼグドとレイの二人は、言葉を交わすことなく直ぐに背中合わせに立ち剣に手を掛けた。長年戦場に身を置いていた者の習慣だ。
ゼグドが、手を掛けたのは背中の大剣ではなく腰のバスタードソードだ。あらゆる状況に即応できるようにするためだ。
大剣は、陣営を組み大勢の敵を相手にする時には優位だが機動性に欠ける。バスタードソードも一般の兵士にとっては、けっして扱いやすい剣ではないが、ゼグドにとっては、然もないことだった。
異界の傭兵と神通師は、周囲に神経を張り巡らす。
幸いなことに、突然引きずり込まれた見知らぬ場所は、とりあえず殺意も敵意も感じられない。
張り詰めた息を吐きだし隣を見れば、ゑびすは、姿を小さく変え(タツノオトシゴというものだと後で知る)小瓶におさまったペットをなでていた。その胸ぐらを傭兵ゼグドが掴みあげた。
「ゑびすとか言ったな。説明しろ。ここは、どこだ」
「……こ、ここは、東京。……わ、わしが統べる界」
「なんだと。ってことは、俺たちは、異界に来ちまったってことか」
「……そう、なんだろうね」
「だろうね、だとっ」
ゼグドは、怒りにまかせゑびすを放り投げた。
傍らの神通師レイが、空を見上げた。
「双子がない」
自分たちの世界には、月と同様に『双子』と呼ばれる二つの太陽がある。しかし、この空には一つしかない。
ゼグドもあのとてつもなく高く赤い塔から見た景色を思い出す。ひたすら大小の石の建物が続き、その隙間に申し訳程度に緑があった。それは、長年いろんな国を旅してきたが見たこともない景色だった。
なにしろ、ここに来るのに空の裂け目に吸い込まれてやって来たのだ。強力な神通力を持ってしても空を裂くなど不可能だろう。
ゑびすを信じるわけではないが、間違いない。俺たちは、異世界にきたのだ。
転がったゑびすの腹に、レイの剣が向けられた。
「なぜ俺達までここにいる?」
「……ル、ルシーナちゃんが、あんたらもわしの仲間だと思ったんじゃないの」
「馬鹿な。狸、今直ぐ、俺たちを戻せ。『愛慕月』の下へ」
「……今直ぐって、……ちょっとそれは無理なんじゃ。ルシーナちゃん、かなり怒ってるみたいだし……」
しどろもどろに答えるゑびすの服に横一文字の線が引かれ、服の裂け目から突き出た腹が現れた。
「ままま待って、ね。少し落ちつこうか。……こんな屋上じゃなんだから……。わしの家でよく話し合ってさ。なんかいい方法があるかもしれないし。なんてったって、ここは、わしの世界だから」
仕方なく降ろされた剣に、この世界を統べるという神は安堵すると、よろよろと歩きだした。
その後ろを、二人の異界の男が、慎重に歩みを進めた。
赤い眼と銀の眼を曝し、聴覚嗅覚そして皮膚の感覚も研ぎ澄ます。
男たちは、これまで傭兵と神通師として常に戦いの中に生きてきた。警戒を怠らない事も重要だが、それと同じくらいに情報を得ることも重要なことだと知っている。正確な情報を逸早く得ることにより、自分の置かれた状況を確認し次の行動を的確に判断することができるのだ。
何と言っても、ここは見たことも聞いたこともない異世界だ。一つでも多く情報を得る必要がある。
改めて、視線を回した。今、立つ場所は建物の屋上で、周りから推測すると五階建てくらいだ。周囲に比べると、けして高くはないが、自分たちの世界からすると十分立派なものだ。しかし、それをはるかに凌駕するように空を突き刺す巨大な建物が立っている。
下を見れば、見たこともない服装の人間が、歩いている。馬が牽いているわけでもないのにものすごい速さで、道を走る箱がある。その道も石ころ一つなく平らだ。おまけにゴミもない。これだけ建物が建っていれば人もそれなりにいるはずで、それに伴う食べ物や汚物の臭いもあるはずだがそれもない。
目を凝らすと、やたらと色んな色の光が、チカチカと光っていた。
ただ、どうやら直ぐに危険な状況にはならにようだ。
もしなったにしても、あらゆる手段を使い抜けだす自信はあるが。これまでがそうだったように。
「空が足りないな」
神通師レイが、銀の髪をかきあげた。
傭兵ゼグドも頷いた。確かに殺伐とした緊迫感はないが、空だけでなく自分を包む空気も足りない。どこか窮屈だ。こんな世界には、一時でも長くはいたくない。
こことは違い、煩雑で生臭く混沌としている自分たちの世界に帰るのだ。『愛慕月』の下へ。
ゑびすについて屋上の端に来るとそこには、膝丈ほどの赤い棒を横に二本渡した小さな門らしきものがあり、その奥には腰丈のやはり小さな家があった。
「おっさん、こんなガキのおもちゃにどうやって入れって言うんだ。ああぁあっ」
ゼグドが、赤い門を蹴りつけようと足を振り上げた。
「こら、よさんかっ」
「うわっ」
振り上げた足は、見えない何かに弾かれ巨体が吹っ飛んだ。
「っつぅ。いってぇなぁ。なんだこりゃ。ゑびす、貴様何しやがったっ」
「罰あたりな。わしは何もしとらんよ。鳥居に足を向けるなど、昔から神を粗末にすると罰が当たると言われておるんじゃ。この社に入るには、こうするんじゃ。はい、二拝二拍手一拝」
そう言うと、ゑびすは二回頭を下げ、右手を少し下にずらして二度手を叩き、もう一頭を下げた。応えるように社と呼ばれた小さな家の扉が、音もなく開いた。ゑびすは、どうだと得意げな顔を見せるが、ゼグドは、当てつけるように大きなため息をついて見せた。
「……だから、扉が開いたからって入れるわけが……」
ゼグドの文句が全て言い終わる前に、三人の男は、今度は空ではなく手の平ほどの扉に吸い込まれた。