2話 女神ルシーナ
二人が落下物のそばまで駆け付けると、そこには、全長十五間けん(約27m)はあろうかと思える長ひょろい生き物がのびていた。どうやら目を回しているらしく動く気配はない。
「何だこりゃ、蛇の妖異か。しかし、でけぇなぁ」
「空を飛べるということは、高位の妖異か」
妖異とは、強力な妖気を持つ異形の生き物を指す。
二人が、更に近づくと横たわる妖異の下から何かが這い出してきた。
「おいおい今度は、狸の妖異かよ」
「だ、誰が狸だっ。……はぁはぁ」
現れたのは腹の付き出た不思議な服をまとった男だった。あの落下にもかかわらず、赤い帽子はきちんと頭に載り、金地に赤の派手な衣裳は破れも汚れもない。決して趣味が良いとは言えないが。
男は、よろよろとその場に座り込んだ。
「あんたらか、さっきの弓は……。何やってくれちゃってんの、わしのミミちゃんに。すんでのところで躱したわっ」
「何だ、このおっさんは」
訝しげに腕を組んだゼグドは、腹をゆすりながら喚く男を見下ろした。
隣に立つレイが、無言のまま狸男に近づく。
「ひっ、ひーっ、ちょ、ちょっと危ないでしょうがっ」
男の首筋には、いつのまにかレイの持つ細剣が宛がわれている。
「お前は何者で、何をしていた?愛慕月の空で」
「むぅぅっ」
「おっさん、そいつは、見かけと違い物騒な奴でよ。正直に話した方が身のためだぜ」
「わ、わかった。わかったから、正直に言うから、この剣をどけてくれ」
細剣が下げられると、男は話し始めた。
「わ、わしは、ただ、……ただ綺麗な月を見ながら可愛いミミちゃんの散歩をしていただけだ」
「ミミちゃんってのは、この蛇の妖異かぁ?」
ゼグドが、のびている生き物を顎で指した。
「失敬な。蛇なんかじゃないからね。龍だから。神の使いのドラゴン」
「あんなぁ、おっさん。俺たちの知ってるドラゴンは、でっかい翼を持った奴だぜ。だいたいその神の使いに乗っかてたあんたは何もんだ、おっさん」
「さっきから、おっさん、おっさんとは、ますます失敬な。わしは、ゑびす。界を統べる神の一人、ゑ・び・す」
ふんぞり返るゑびすと名乗る男にゼグドは言い放つ。
「あぁあ、あんたが、神だと。俺らにとって、神って言えば、女神ルシーナだけだ」
「あっ、しまった」
ゑびすが、両手で口をふさぐ。
「ル、シーナ……忘れてた。や、やばいやばい」
「何が、やばいんだ?」
「ちょ、ちょっと声がでかい。ルシーナちゃんに気付かれちゃうでしょ」
ゑびすは、狼狽え慌てて辺りを見回し、ふーっと息を吐いた。
「良かった。大丈夫みたいだ。……あのね、ルシーナちゃんは、あんなに可愛い顔してんのに、不法侵入にやったらめったら厳しいんだから」
「不法侵入?」
「そ。確かに他所の界から外来種が入ると、生態系が崩れたり、文明が歪んだりするけど……。そこはさぁ、神同士のよしみでねぇ」
異界の神だという男は、同意を求めるように上目づかいで二人を見た。
「じゃぁ何か。あんた、本当は駄目なのに異界から渡って来て、ペットの散歩をしてたってことか」 「だって、ミミちゃん、今育ち盛りだから散歩が必要なんだよね。ここは、空気もいいし、今夜は、愛慕月も綺麗だから」
一旦離れていたレイの細剣が、再び短く太い首に宛がわれた。
「捨て置けぬ」
「ぎゃあぁぁ、やめてぇー」
自称神の悲鳴が、風と共に草原を渡っていった。
びびる神を他所に、レイは気配を感じ剣をそのままに空を見上げた。つられてゼグドとゑびすも顔をあげた。
「な、なんだありゃっ、空が裂けてるぜっ」
「た、大変だぁ。ルシーナちゃん怒ってるっ。……って、痛い痛い。切れたからね。ほらここ、首から血が出てる。血だからっ」
ゑびすが騒ぎだした瞬間、大地に風が巻き起こった。巨漢のゼグドも足を踏ん張らねば立っているのがやっとだ。やがて、風は、空に向かい渦を巻き始め、男たちを軽々と地面から引きはがした。
「ぐあぁああー」
「……くっ」
「ごめんなさぁーーい」
傭兵と神通師と異界の神は、なす術もなく舞いあがり、空の裂け目に吸い込まれていった。