1話 『愛慕月』
東京のゑびす町ゑびすビル3Fにある(有)ゑびす商会にバシッと音が響き渡った。
「いつになったら、まともに仕事ができるのよ。このコスプレ外人」
事務員鮫島女子が怒りの形相で仁王立ちになり、ひっぱたかれた巨漢の新入社員ゼグドは、うっとりと噛みしめる様に自分の頬をなでた。同じく新人社員でゼグドのイケメン相棒レイは呆れたように髪をかき上げ、社長のゑびすはおろおろし、秘書の鬼頭は相変わらず爽やかな笑みを浮かべた。ゑびす商会で最近馴染となった光景である。
新入社員の彼らは、故あって現在ここで働いている。
生まれ育った故郷、月が二つ浮かぶ異世界では、名の通った凄腕の傭兵と神通師だった。
男たちの足元からは、二つの影が重なるように出ている。光源である月が、空に二つあるからだ。
「なあ、レイ。いい加減に機嫌直せや。俺が悪かったって謝ってるじゃねえか」
「……」
前を歩く男は、応える気もないらしく、そのまま歩みを進めている。細身の長身に腰まである銀色の長い髪が、月明かりに煌めき揺れている。
足元には、丈の短い草原がただ広がり、周りには街道も人家もない。
ご機嫌を伺いながら後ろを歩く男の背には、長大な大剣が背負われている。この巨漢の男が一振りすれば、敵を骨ごと打ち砕くことは間違いないだろう。
男は、大きな体を幾分萎えさせ、ぼさぼさに伸びた頭をボリボリとかいた。その髪の毛の色も瞳の色も赤だ。
赤毛の男は続ける。
「俺だって、悪気があったわけじゃねえよ。手元の金を少しでも増やして、たまにはマシな宿に泊まって、良い思いしようとしただけだぜ。今夜は、たまたま運が悪かったんだ。並んだ愛慕月のせいかも知れねえな」
「……」
空に浮かぶ二つの月。
彼らは、人々から愛慕月と呼ばれる。
本当は、夫婦月と呼ばれたいだろうが、二つの月の軌道が違う為、夜空に仲良く並ぶことは少なく、離ればなれに姿を現すことが多い。
だから、逢いたくても逢えず、お互いを恋い慕う愛慕月と人は言う。今夜は、二つの月が寄り添う数少ない夜だ。
風が、草原をどこまでも渡っていく。行く宛てのない二人のように。
昼には、遠慮のない陽ざしが降り注ぐが、夜には、めっきり気温が下がる。
「まあ確かに、おめえの金まで勝手に持ち出したのは悪かったよ。だから、謝るからよ」
詫びの言葉を受け入れた訳では無いだろうが、先を行くレイが、ふと立ち止まり空を見上げた。つられて後ろの男も見上げると、二つの月の前を何者かが横切っている。
「なんだ、ありゃ。でっかい蛇にしちゃ脚があるな。角みたいなものもあるぜ」
「……」
「頭は、ワニ見てぇだ。それに、何かが乗っかってるようにもみえるぜ。人か、狸か。とにかく今まで見たこともねえ。いったい何者だ?」
「……」
誰に向けたとも言えない巨漢の男の問いに、レイは答える代わりに肩に掛けていた弓矢を取り出し、矢に軽く唇を触れ神気を宿した。呪文も唱えず神気を扱うのは、神力、技術とも相当レベルが高くなければ出来ない。
神気の力を得た矢は放物線を描くことなく、空に浮かぶ『愛慕月』を目指し真っすぐに飛んだ。
「おっ、おいおい、無暗に弓なんか放つもんじゃねぇ。人が落っこちたらどうすんだ」
がなり立てる男に、レイは振り返ると秀麗な眉をひそめた。髪と同じ銀の瞳は、心外だと告げている。
「ゼグド、お前が問うから矢を放ったのだ。落ちてくれば何者かわかるだろう」
「そう言う問題じゃねえだろがっ」
地上の喧騒をよそに、矢は目標にしっかりと到達したようだ。狙われた獲物は、長い体をくねらせながら平原の彼方に落下した。