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化石漁  作者: 浅丼健一
9/9

【その9】

 季節は春だが、まだ夜海は冷たくて、櫂を漕ぐ手が凍えてしまう。月光が小波の水面に透き通り、乱反射して、小舟で沖に出たときに最も美しいと感じる光景だった。夜の海はとても硬質な印象があって、これは流動的な金属が揺れているのだと思考したくなる自分がいた。確かめるために、指先で海水の冷たさを感じる。

 夜明けまでは時間があり、天体が従える闇は色濃い。季節は春だが、毛布を羽織っていなければ冷気で始終震えていなければならないだろう。化石漁の醍醐味は、人知れず行う背徳感と、幻想的な水の夜景にあるようだ。日中との温度差が激しい季節になると、海底から珍しい化石が浮かびやすくなる。アンモナイト礁に仕掛けた駕籠網に珍しい魚が入っているかも、と僕は言った。

「エルビンがそう言うなら」

 と、潮風に目を細めてヨナが微笑む。

 もう何度も彼と化石漁をしているから、お互い何も言葉を交わさなくても舟を進めることができる。ヨナは舟から塩の丘を眺めていた。塩の丘に巨人が帰ってくるという出来事から、もう一年近くが経とうとしていたが、集落や博物館の復興はあまり進んでいなかった。海から丘まで巨人が歩いた足跡は舗装されることなく放置して、時々訪れる観光客がコインを投げ入れる池になっていた。

 長閑な気質だから、二年後辺りに本格化するかもしれない、と僕らは予想しているのだが、それすら食料品店での賭けの対象になりそうだった。ジュークボックスを動かして、流れる曲をヨナは歌う。迷信深い人々は、海に棲む乙女を誘ってしまうから、なるべく声も出さないほうがいいと言うが、史家と白亜堂公司の人間という組み合わせの前では、どのようなジンクスも効果が薄いみたいだ。

「そういえば、以前、離宮魚を獲ったときがあったよね」

「白パンを買いに行ったときだ」

「あの時、海と月に感謝を捧げたのは、本心からじゃなかっただろ?」

「もう忘れたけれど」

「本当は、何に感謝したんだ?」

「さあ、俺が感謝するのは公司からの給与明細だけだ」

 月と海に感謝を捧げるヨナを見て、感謝なら僕に捧げるべきだと思っていたけれども、彼の本当はもっと即物的なようだ。あの出来事の後、ヨナには白亜堂公司から正式に広域支配人の内示が下された。任務を果たしたわけでもなく、手配した飛行船を墜落させてしまうという失点も犯したが、「館主のいない今、博物館を最も詳しく知る男」と振舞うことで上層部からの信頼を得たらしい。その時に彼の笑顔がどれだけの働きをしたのか、僕は知っているけれども言及するのは控えておこう。

 アンモナイト礁に到着して、僕らは海中に仕掛けた駕籠網を引き寄せていった。海に直接手を入れる作業が漁の中でも最も痛く、辛いけれども、楽しみでもある。化石魚は潮の流れによって泳ぎ、遠くは大西洋に生息していた種や、深海の不思議な種が網にかかることもある。離宮魚の化石ように稀少種がかかる可能性は低いけれども、海が作る石の彫刻はどれも美しい輝きを宿していた。

 でも、引き上げた駕籠網の中身を見ていくと、どうも化石よりも普通の魚のほうが多く入っているようだ。化石魚よりもイワシのほうが多いことに気づいて、ヨナは舌打ちしたけれども、僕はそれほどでもなかった。

「本来の意味で大漁だな」

「いいじゃないか。パロ・トロームに持っていけば、ただで魚料理を作ってもらえるし、最近、昔の缶詰の製法を掴みつつあるっていうから、感謝されると思うよ」

「俺は金になるほうがいいね。でも、オイルサーディンは食べてみたいな」

「だろ?」

「じゃあ、酒はエルビンのおごりだ」

 ジンなら酒樽でも飲ませてやるよ、僕は微笑んだ。

 結局、化石漁の成果はイワシが十匹と平魚の化石が一匹だけだった。今日の夜海は見た目以上に機嫌が悪く、それはたぶん舟で金銭の話をしたからだろう。ヨナの心は信仰と現実主義の天使が殴り合いの喧嘩をしているみたいだ。結果が良ければ俺の手柄、結果が悪ければ妖精の悪戯。そうでも考えていないと白亜堂公司の仕事などしていられない、と彼は真面目な顔で講釈した。

 収穫は乏しかったけれども、現金収入になる平魚の化石はヨナに、イワシは僕が貰うことになった。夜明け近くになり、舟を茂みに隠す。夜海製のオイルサーディンは、塩の丘の岩塩とオリーブで作られるが、製法も工場も失われてしまった。白亜堂公司は料理関係の復元には熱心ではないのかとヨナに尋ねる。

「男の職場だから、そっち方面も手薄でね。でも、今度史料を探してみるよ」

「あ、それと菜園公社製のバジル瓶を買ってきてほしい。これから都市に行く機会も増えるんだろ?」

「はいはい。お安い御用ですよって、広域支配人は使用人じゃないんだぜ」

「見飽きたよ。そのカフスボタン。親友だろ、ヨナ」

「そうだなエルビン」

 僕らは男同士の会釈を交わすと、別々の道へと歩いていった。起源種博物館から昇る朝日に、僕は目を細めると、午前六時くらいの空気を吸うことが一番健康にいいのでは、という気持ちになった。でも、パロ・トロームの水煙草は魅力的すぎる。イワシを手土産にして、一日夜海を見ながら入り浸ることはできないだろうか。邪険に扱われるかもしれないが、思考を煙で燻したいという衝動に駆られた。

 白羊歯の集合住宅に帰り着く。階段を上がりながら、僕は幸せだと考えた。架空の海を漂いながら、部屋の海底で息を殺すエルビンはもういない。今、自分の心臓を動かしているのは、墓銘碑に数多くの事柄を記さなければならないエルビンだ。

「ただいま」

 ドアを開けた。

「おかえりなさい、エルビン」

 窓際の椅子に腰掛けていた少女が僕を抱擁する。イワシを入れた駕籠網が床に落ちて、後片付けが大変だと思ったけれど、僕らは笑みを交わすことで夢中だった。

 それでアルコル、何をするつもりなんだ?

 ……甘い接吻。


(了)

これで終了です。

良かった点:この規模で一作書き上げた。

悪かった点:ラストあたりに不満だらけ。

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