【その8】
舞台に敷かれた砂を握り、息を途切れ途切れに吐いていく。
結局、何が幸運をもたらすかは神の差配によることを、僕は思い知らされた。通路に伏せた僕は、銃撃を受けながらも奇跡的に無傷であることに気付いたのだ。弾丸は背負い袋に当たり、そこには新聞紙に包まれたパンと……肺魚の化石があった。背中の感触だとトルムは砕けてしまったようだ。これを側に置いていた理由を思えば、物悲しい。
ヨナは拳銃を構え、今度はアルコルに狙いを定めていた。僕は倒れたままの状態で、白亜堂公司の手先を睨む。彼は今の銃撃で、僕が瀕死の重傷を負ったと思っているに違いない。だから不死身の勇者を気取るのは得策ではなかった。倒れたままでいよう、森を歩いていて灰色熊と出会ったときのように。
だが、アルコルが僕の身体を揺すった。
「エルビン! エルビン!」
半狂乱になって名前を連呼している。アルコルは僕をここまで慕っていたのだろうか。館主を身に宿す少女人形は、狂気に囚われた怪物だったが、取り乱した姿には驚いた。僕はヨナではなくアルコルに殺されるのではないかと思うほど。
慟哭が、アルコルの咽から絞り出される。
「お、お、おのれ……」
ヨナは、拳銃を構えたまま身動きできなかった。少女人形の殺意が両眼から迸っているのを直視したからだ。喪服は禍々しい悪魔の衣装、まるで地獄の魔犬みたいだと思う。
「動くな! 動けばエルビンを撃つ!」
「おのれ、白亜堂公司の下郎……!」
「生きているか、死んでいるか分からんが、とにかく撃つ。人形のお前を撃つよりも効果がありそうだからな。こんなことをするのは俺の主義に反するが、躊躇はないぞ」
崖を転がり落ちる岩のように、破局が迫った。ヨナは僕よりも白亜堂公司のほうを優先したのだろうか。質問してみたかったけれども、勘違いするなと笑われる気がした。俺はいつでも白亜堂公司を優先する、そう答えるはずだ。どちらかが危機に陥ったとき、どちらかが助ける。そういう約束もヨナは友情と一緒に捨てた目をしている。
彼の変わり様は悪夢めいていた。「母親想い」と言われていたのに母親はいなくて、銅貨五枚の日当で働く肉体労働者の正体が白亜堂公司の人間であったとしても、ヨナがとても良い奴だというのは動かしようのない事実だったからだ。
「ヨナ、痛い……痛いよ」
「すまない。君の墓は白亜堂公司に言って立派なものを造ってもらうよ。突然の死で、墓銘碑には、生年月日くらいしか記せないと思うけれども」
「ヨナ……」
「エルビン、あの男は友情を逆手にとって、あなたを利用し尽くしたのよ。あの手は鍬を握るためではなくて、銃を撃つため。舌は信頼を得るためではなくて、詐欺を働くためだわ。汚らわしい汚らわしい小悪党、騙されないで、目が覚めた? エルビンを救うのは私だけ……」
「囀るな人形が!」
激したヨナがアルコルを撃った。僕に覆い被さる身体が軋む。
「お前に……お前に何が分かる。お前に何が分かる! 大投棄によって家と家族を失い、たった一人母と生きるためなら手段を選ばなかった。毒と放射能で病に冒された母を、白亜堂公司のサナトリウムで療養させるためなら何でもしてやるさ。殺せと言われれば殺す! 奪えと言われれば奪う! 寝惚けた理屈で俺を量るな!」
母、確かに彼は母と言った。
「ヨナ……君には、母がいるのか?」
「当たり前だ。俺をそこの人形と一緒にしてくれるな」
瞼の奥から込み上げてくるものがあり、滴るのは泪だった。それは銃を握る感情が矢印のように伝わった証だ。やはり、ヨナはヨナだった。白亜堂公司のヨナではない、母親想いのヨナ。何も成すことなく死ぬ男ではない、本当の男の声を聞いたからだ。
アルコルが調律の乱れたピアノを連打するような声を荒げた。小刻みに震える拳銃の、軽すぎる引き金に指を絡めるヨナは、罪の重さと命の軽さに翻弄される小さな舟だ。陵墓の玄室が満たす死の闇は、喪服の少女人形に枝垂れる柳葉として、殺し殺される命の業を鑑賞しているのだろうか。搾り出された声にはアルコルの憎悪が澱む。
「エルビンは……」
立ち上がると、膝を折り、通路に身体を倒した。
「エルビンは私が殺すのよ……エルビンと一緒に死ぬことだけを夢見てた。この世界は落ち穂拾いも終わった北風の季節、何も栄えるものがない白黒テレビだわ。もうどうでもいい、エルビンと一緒に人の基礎詩も書き終えよう……でも、でも……でも! エルビンは私が殺す! エルビンを殺して、エルビンを殺して私も死ぬ、みんな、みんな死んで死んで死んで……エルビンは私が殺すのよ!」
アルコルがヨナに襲いかかった。
弾丸が少女人形の腹部と頭に命中する。館主の赤い鮮血が飛び散ったが、黒いレース編みの手袋をした右腕がヨナの首に伸びた。雄叫びを上げてアルコルを引き剥がそうとするが、十二条の革ベルトが外れて絡みつく。二人は通路に横転して、拳銃が穴へと落下していった。
お前も喰えばエルビンは私を愛するようになるかも、と囁きかけている。
「ヨナ!」
僕は立ち上がった。
もう瀕死の真似事をしている状況ではない。アルコルの手がヨナの口と喉に押し当てられている。恋人同士のじゃれあいなら問題ないが、今の少女人形は蟷螂を踏み潰すように人を殺してしまうだろう。アルコルの名を叫んだが、殺し合いは止まりそうになかったので、舌打ちをして僕は走った。
そしてアルコルを止めるために、背中から黒水晶を抜く。僕がこれを発見したのは間違いだったかもしれない。殺人衝動に突き動かされていた人形の背後を取るのは簡単だった。アルコルの笑顔、下手くそな料理、ようやく飲めるようになった簡易珈琲のことを思いながら、ごめん、と呟く。
黒水晶を抜いた瞬間、振り返ったアルコルが左腕で僕の頭を殴った。
「あ、ああ……どう、して」
驚きと、悲しみ。その時、初めて少女人形は本来のアルコルに戻ったようだ。
「ごめん、アルコル」
「こちらこそ……申し訳、ありません、御主人、様……」
僕は御主人様ではない、と言おうとしたが、意志の事切れたアルコルの身体を抱き止める場面に言葉は不必要だった。僕は失ってばかりだ、と僕はヨナに微笑みかける。彼は首をさすりながら大きく呼吸を繰り返していた。
よかった。大丈夫なようだ。
「れ、礼を言うとでも思っているのか?」
「別に。僕は約束を果たしただけだ」
「約束? そんなもののために俺を助けたのか? 俺は君を裏切ったんだぞ!」
「だからって、君を見殺しにすることはできない」
僕は今でもヨナを親友だと思っている。そう伝えると、彼は疑いと信頼に揺れて後退していった。アルコルの黒水晶を抜いたときに心を埋め尽くした過去の出来事が、パズルになり剥落して、今度は彼の心臓を握る透明な手へと変じていた。暗いと心が歪みがちになるけれども、晴れた空の下に出れば、きっと上手くいくはずだ。
理想的すぎる。ヨナは鼻で笑った。そうとも思わない。僕は答えた。背負い袋の中に手を伸ばし、トルムが完全に砕けているのを確かめる。ヨナは袖の中から刃物を取り出して、助けてもらわなくても自分の命は自分で守ることができたと豪語した。僕は首を横に振ると、肺魚の石の中から包み紙を取り出して、独立独歩を気取るのは相手との力の差を考えてからにするべきだと言い返す。
包み紙の中に入っていたのは、サラゴサの蚤の市で買った拳銃。
「それは!」
「もう使うこともないだろうと思って、石膏で塗り固めていたんだ。誰が見ても化石だと思うように、借りてきた図鑑を元に肺魚に似せた。大投棄時代でも、使ったことはなかった。こんなもの、買ってどうすると思っていたよ。それが、まさか友情に句読点を付けるために持つことになるとは……」
「ピリオドって言いたいのか? エルビン、お前は史家じゃなくて作家を目指すべきだったな」
「ヨナ……ナイフを捨ててくれ」
僕は撃鉄を降ろした。
撃てばどこに弾丸が行くか分からない、と僕は正直に話した。放っておけば夜海にまで飛んでいきそうな、ピストル界のアルコルだ。それはつまり、例えば手や足に当てる自信がないと白状しているも同然だった。弾は床を跳ねるかもしれないし、眉間に命中するかもしれない。
偶然という武器は、時に最も威圧的になる。
「仕方ない」
ヨナはナイフを通路の外へと投げ捨てた。母親がサナトリウムで療養中なのに、俺がいなくなったら誰が面倒をみるんだ。運命を呪う奴隷の言葉を呟くヨナは、顰め面から母親想いの好青年に相応しい表情になった。敵役は二度殺すチャンスが与えられたが、二度ともミスを犯した。彼は自嘲的になっていたけれども、いつもの口調に戻っていた。
ヨナは僕に安心するように言った。一度や二度の失敗で解雇されるほど、白亜堂公司は成果主義でも信賞必罰でもない。それに起源種博物館という宝の山はまだ失われていないのだから、いつでもリベンジが可能だと笑う。君たち白亜堂公司はその傍若無人さで世界を築いていくんだろうね、僕は降ろした右手の拳銃に視線を落とした。
それから、左手の黒水晶に視線を移す。
「ヨナ……博物館の正体を知りたいと思わないか?」
「ああ、それを知れば白亜堂公司での地位は保証されるだろうな」
「アルコルは、あそこにある四柱が『人の基礎詩』だと言った。では基礎詩とは何なのか。公司は遺伝子情報と考え、僕もそういうものだと思っていた。でも、実際には違うんだ。起源種博物館は、命が産まれる過程よりも、命が尽きる過程にこそ詳しい」
「墓と墓銘碑……」
ヨナの言葉に頷くと、僕は少女人形のほうへと歩いた。起源種博物館の役割について、あと一歩のとこで妨害が入ってしまったが、本来通り彼女の口から聞くのが筋だろう。制止しようとしたヨナに大丈夫だと言って、僕はアルコルの背中に黒水晶を戻した。
眼を醒まして、僕に話を聴かせてほしい。喪服の少女人形は呼び掛けに瞼を反応させて、瞳孔が開いたままの両目の焦点を合わせていく。上半身を起き上がらせたアルコルに微笑みかけ、僕が誰だか分かるかと質問した。
エルビン、どうして。
まだ、何も終わっていないじゃないか。
瞳の動きだけで、僕とアルコルはお互いの考えを知った。四柱の回転碑文板に『人の基礎詩』の韻歌を刻んだ館主は、首を吊る前に温めていた計画を、僕に披露するため機械の座へと導いた。理由もなく来たわけではない。一から百までの理由が一本の糸で通されるような答え、それは僕にとって「起源種博物館とは何か」という問いへの答えだった。
アルコルが袖に口を当てて微笑む。
「もうそろそろ、教えてくれてもいいと思うが」
「御主人様はどこまで聡明なのでしょう。敵を味方にし、味方を敵にする術を心得ている。万智を備えた館主様が、価値のない化石の欠片一つを大切にしていた理由も解ります。でも、心得ていないのは女の扱いだけかしら」
「アルコル……」
「戯れですわ」
少女人形は韻の歌を呟きながらステージの石櫃に歩み寄った。小さな足から四方に投影された漆黒が、回転碑文板まで届いている。そして「a」とも「i」とも「n」ともつかない発音を咽から出すと、石櫃に腰掛ける。声は韻の鍵になって回転碑文板の基礎詩を光り輝かせた。
薬効が染む白と、微毒を含んだ青。
夜の葬列を睥睨する女司祭、そういう言葉がイメージに連なるほど、石櫃のアルコルは乱神の威に充ちていた。屍の記録を集めるのは、命が孕むだけでは望むべき世を選択できないから。アルコルはそう言った。起源種博物館の自動制御システムは、海を支配した多国籍複合企業体が、未来予測のため組んだ位相幾何学機構だった。気候変動や社会経済を高い確率で的中させた機械は、やがて人の輝かしい未来そのものを創ることが期待された。そのために、まだ『人の基礎詩』という名を持たなかったそれは、単純な要求をした。
「人の全てを知りたい」
起源種博物館が起源種博物館になったのは、こうした理由があったからだ。西暦が終わり大投棄時代が始まると、理由と目的を知る者はいなくなり、それでもなお知識を集め続けた。
現在政府の一員として、身体の多くを捨てた女が塩の丘に赴任してくるまで。彼女は機械の座にあるものを知り、『人の基礎詩』と名付けた。博物館の地下深くで、西暦の科学技術の残滓を手足とし、墓銘碑の文言を記憶し続ける。四柱四十二段の回転碑文板は智王の求めを遂行しようとしていた。
答えを。あらゆるものの答えを、と。
「後は廻すだけですわ。右へ廻せば滅び、左へ廻せば始まりへ。零か一かを選択するだけでいいのです」
「で、どうなるんだ?」
「皆死にます」
こともなげに、アルコルは囁いた。
できると思うのか、そのようなことが。大投棄時代にも核兵器が使用されたが、それでもしぶとく人類は生きてきた。白亜堂公司は文化文明を守るし、訳の分からない巨人にも負けるはずがない。ヨナは笑ってみせたが、僕はとても笑う気にはなれない。少女人形は無知な者を愚弄したいのか、また謎掛けを楽しもうと考えたようだ。
質問一、大投機時代に文明のほとんどが破壊されたのに、なぜジュークボックスが動くのか?
質問二、なぜラジオが放送され、白亜堂公司と通信が可能なのか?
質問三、そもそも電力はどこから供給されているのか?
文明を破壊し尽くした大投棄時代は収束しようとしていたが、復興が思うより上手く進んだのは電力が供給されていたからだ。世界は広く、石器時代以前の状態に戻った土地もあれば、白亜堂公司の拠点域のように新都市を形成し社会経済を立て直そうとしている土地もある。発電所の多くは投棄されたが、新秩序の動力として今なお稼働しているものが少数ながら存在していた。
夜海の沿岸部も電力は供給されている。電球が光り、音楽を聴くことができるというのは当然のこととして享受していたけれども。僕とヨナは通路の外、巨大な穴の奥深くを見ようとした。四柱の回転碑文板はどこまでも下へ、地獄の底から立ち上がっていると想像してしまいそうだ。しかし、僕はもっと不吉な考えに身震いした。博物館を循環する水が、最終的に行き着くところを。
質問への回答、起源種博物館の最下層には原子炉がある。
「正解です。正解者には世界の命運をプレゼントしましょう」
「アルコル! これは遊びじゃない」
僕は声を荒げた。
「当たり前でしょう。皆殺すのだから」
虚空を睨む瞳は命を否定していた。
アルコルは御主人様と一緒に死ぬことしか考えていません。石櫃の少女人形は暗い微笑みを浮かべながら囁いた。君に全てを託そうと思う、と館主の声色を真似する。人の基礎詩は完成したから、全ての人間は用意された墓穴に入ればいい。
そのための選択肢を二つ。
一つは回転碑文板を左に廻し、原子炉の炉心を溶融させる選択。溶融した原子炉は核分裂の暴走によって太陽のようになり、その熱量は地球の裏側まで達するという。そうなれば、どうなるか、人類は幸運なことに核熱が地球を貫通するような大事故を未だ経験していないが、投棄主義が完遂される可能性は非常に高かった。撒き散らされた放射能は「地球」の名を「冥王星」に変えてしまうかも、とアルコルは言う。
もう一つは回転碑文板を右に廻し、起源種博物館以外の全てを破壊する選択だ。西暦の超大国が構築した軍事防衛網を利用し、核兵器のドミノ現象を起こす。起源種博物館に収蔵されたミサイルと、位相幾何学機構の予測によって、旧ソ連のミサイル基地を攻撃、世界規模の花火大会の始まりを博物館の核シェルターで楽しむというのが、右回転の未来だった。
「それじゃあ、核ミサイルもあるというのは」
「嘘とでも思っていたのですか?」
アルコルの言葉に咽を詰まらせる。
「投棄主義者たちは馬鹿だから、効率というものを知らないようですね。もっと知恵を絞れば、館主様やエルビンが思い悩むこともなかったのに。でも、こうなることは運命だったかもしれません。世界と共に滅ぶのも、世界を最初からやりなおすのも、まどろみに安住する者には任せられませんから」
「……どちらにしても、終わりのような気がするが」
「男と女がいて、間違えない未来があれば問題ないです」
アルコルは恍惚に頬を赤らめ、スカートを捲った。
「それが、お前の女だというのか?」
「はい。繰り返しますわ。何度でも」
少女人形の下腹部に埋め込まれているのは、膜と血管に包まれた館主の子宮。何を言いたいのか、何を欲望しているのか、それは正常な判断ができない人形の腐った未来予想図だ。溜息を吐いた僕に、ヨナが小声で言った。今ならまだ間に合う、壊してしまおう、と。
「ああ、選択肢はもう一つありました。何もせず、巨人が博物館に辿り着くのを待つという選択。導かれる結果は、回転碑文板を右に廻したときと同じですけれども、伝説が逆さに実現して、丘が海に帰るというのも……」
「公司の飛行船が巨人など寄せ付けない」
自信に満ちたヨナの言葉を、首を横に振って否定する。
「公司の飛行船はもうありません」
頭上の暗黒を見上げてアルコルは微笑んだ。その発音が、四柱の回転碑文板が構える玄室に、小さな灰を降らせる。ヨナの額に汗が浮かんでいた。天に翳した右手の先に、舞い降りていく薄汚れた布があった。白の布地に黒の模様、布は焦げていたが、アルコルを優しく包み込む。
黒の模様は鬼神の顔。
「そ、そんな……」
空と地上での白亜堂公司の目論見が崩れ、絶句したヨナは拠るべき大樹を失った男のようだった。それが飛行船饕餮号の外骨格を覆う布地であるのは、誰の目から見ても明らかだからだ。最初から公司には期待していなかったけれども、その姿には同情を禁じ得ない。饕餮号の布地を羽織ったアルコルは、蟷螂を踏む人の顔をして、国で兵馬俑でも掘っていれば屈辱にまみれたまま死ぬこともなかったのに、と嘲笑した。
邪悪が形と場所を得ればどうなるか、そのようなものを僕らは目の当たりにしている。外の巨人と、内の少女人形によって。親友を侮辱されることは我慢できないが、僕には感情を実行に移し、達成させるだけのものが何もない。無力さを嘲笑されているのは僕でもあるのだ。
館主は望んでいたのだろうか。
塩の丘と集落が巨人に蹂躙され、死と滅びの選択を迫られる。館主がアルコルの言うように人の基礎詩を作り、僕が今そこに立っていても、この愚かな計画を信じられない自分がいた。世の中は裏切りと悪意で出来上がっている、とヨナは言うが、僕は否定する。
「僕は誰も裏切らないし、誰にも悪意を持たない」
「エルビン」
「僕はヨナを守る。約束だからじゃないよ。嫌いなものばかりの世界だけれど、守るに値するから守るんだ。集落も、博物館も、アルコルだって守る」
博物館が災禍をもたらす箱で、館主やアルコルがそれを開ける女だとしても。僕は石櫃の少女人形と対峙した。
「さあ、御主人様、選択を」
手がないと知っているようだ。アルコルのくせに。僕がお前の望むように動くと思っているのか。そう問い掛けたが、澱んだ眼差しが返される。石櫃の上に寝そべると、音を伝えるように話しだした。
「岐路に立たされれば、鼠でも行き先を決めるものでしょう。迷路の中を右に、左に、罪の意識が耐えられないのなら選択しなくても構いません。簡単ですわ。息のようなもの。アルコルは御主人様と一緒に生きたい。アルコルは御主人様と一緒に死にたい。アルコルは、御主人様のために歌い続けたいのです」
僕はアルコルを激しく睨んだ。
命が持つ不確かさを韻の形とし、基礎詩は種の情報を蓄積し、歌を形成する。韻が歌になれば命がどのように生まれ、どのように尽きるかを読み響かせ、未来をも物語るのか。碑文回廊の基礎詩は進化から淘汰までの道程を辿る雛形としてあり、だから絶滅した生物ばかりが記されていた。その目的、人の基礎詩による完全な未来創世のために。
史家が心を砕き夢見たことを、機械が成就する。
気に食わない。
「アルコル」
僕は言った。どういう選択をするか、人の基礎詩に訊けばいい、と。
「それでは意味がありません。私は、エルビンの言葉で選択を知りたいから」
少女人形はあくまで僕に選択を強いる構えだ。
そして、僕の選択を嬉々として受け入れるだろう。しかし、受け入れることのできない選択を僕がしたら? 鼠の比喩を少女人形が使うのなら、僕も東洋の諺をもって答えよう。窮鼠猫を噛む。非力な鼠でも追い詰められたら反撃にでるものだ。
「僕の心は決まった」
人形には、決して思考が及ばない閃き。
皆を守る唯一の方法を、僕は思いついた。
「エルビン」
「ごめん、ヨナ。こんな馬鹿な解決策しかなくて」
「いいさ、それで。きっと正解だ」
ヨナが紙巻き煙草に火を点けた。僕もパロ・トロームの水煙草を蒸かしたかったけれども、どうやら不可能なことになりそうだ。蝙蝠印の紫煙は僕には強すぎるので、大きく息を吸い込んだほうが楽になる。ヨナとの会話の中でも、一番どうでもいい事柄を思い出してしまい苦笑した。
どうせなら、化石漁でも回顧すべきだった。
夜海の星々が輝くアンモナイト礁と、駕籠網を手繰り寄せるときの手の冷たさを。でも、そういう機微によって僕らは生を謳歌しているのだろう。
選択を、とアルコルが強いる。
僕は前にと一歩踏み出した。
「巨人と」
少女人形は何を言っているのか理解できなかったようだ。僕はもう一度言った。
「僕は巨人と戦う」
その言葉を残して、僕は鳥籠式昇降機に乗ろうとした。操作盤に手を置き、智王の座の最上階を選ぶ。事態の把握が一歩遅れたことが、僕と少女人形の明暗を反転させた。跳躍し手を伸ばしたアルコルをヨナが全身で押し倒したのだ。横転し掴み合う二人の目の前で昇降機の鉄柵が閉まり、滑車が回りだす。
アルコルの細腕がヨナの身体を起重機のように捻ろうとした。
「何をしているんだ、君も一緒に!」
「さっさと行け!」
昇降機を止めようとした僕に、血を吐きながらヨナが怒鳴る。
「白亜堂公司の人間は道義も筋も無視するが、これは約束だ! エルビン、ここは俺に任せて上に行くんだ!」
「ヨナ!」
「畜生……昔の偉い人は言った。『人は例え全世界を得ても、本当の魂を損じれば、何を手にしたといえるのか』と。忌々しいが俺も、今そういう気分なんだ。そういう気分を邪魔しないでくれ」
上昇が始まる。
ヨナは渾身の力でアルコルを押し留めている。だが、それは命と引き換えの行為だ。鳥籠式昇降機から、僕はヨナの名を叫び続けた。彼の明るい笑い声が耳に届いたけれども、姿は涙で見ることができなかった。
ヨナ、ごめん。
何度謝ったところで、僕は許されないだろうが。
巨人と戦うために智王の座へと昇る。回転碑文板を右にも左にも廻さず、僕が好きなものも嫌いなものも守るために、選ぶべき最上の道。それは巨人を打ち倒すことだった。巨人を倒せば、人の基礎詩の発動を促すそもそもの余裕のなさが打破できる。
と、思わせるところにあった。
本当の目的は、死ぬことだ。
「ごめん、ヨナ」
死ぬために、ヨナの命を犠牲にし、僕を乗せた鳥籠式昇降機は上昇していった。
大型動物の骨格化石が四肢を強ばらせている姿が、上から下へ、叫びのように通過していく。速く、速く、速く、僕は文字盤を見詰めながら焦りで呟いた。機械の座から智王の座へと繋がる道は、今いる昇降機だけではないはずだし、巨人がどれだけ接近しているかも気になった。
真鍮の掲示板はセフィロト理論の諸階層を示している。王国から遡り、基盤、栄光、勝利、美、力、慈悲、理解、知恵、王冠へと続く樹としてセフィロト理論は表された。僕は真鍮の掲示板の「勝利」の文字に見入った。勝算はあるのか、そのようなことを考えては打ち消し、賽はもう投げられたのだから覚悟を決めるべきだと結論する。
躊躇なく望みを託したヨナのためにも。
「ヒロイックじゃないか」
僕は自分が置かれた立場を鼻で笑った。
託されたり、強いられたり。それは自業自得だ、と僕の中の史家が呟いた。あのときにああしていれば、それは史家の禁句だったが、胸が苦しくなる。何かが解決されるわけでもないが、大声を出した。二足歩行の肉食恐竜の化石と通過する一瞬だけ視線が合わさる。あのトカゲもままならないことがあって叫んでいたのだろうか?
鳥籠式昇降機が樫の木の中庭に到着した。
「あなたのおかげで、大変なことになっていますよ」
木陰に横たわる館主の死体に話しかける。
安らかな表情が、夕刻の斜陽に合っているのか、見ていると心が締めつけられる。引き金を引いて、自らは絶対的な領域で僕らの狼狽振りを楽しんでいるだろうか。眠っているのなら肩を揺すってでも目覚めさせたいが、彼女はもう死んでいた。
「そちらに行ったら、恨み言を聞いてもらいますよ」
ボタンの賭け違いが広がった結果だと思いたいが、もう確かめる術はない。僕は館主と暫しの別れを告げると、壁に取り付けられた梯子を伝って屋上に出た。
考えられないような熱風が首筋を嘗め、それが炎上している饕餮号からの息吹であると気付く。焦げ臭さは人が焼けているからなのか、僕はその光景に息を呑んだ。墜落した大型飛行船から放たれた鋼鉄のワイアーが、壺型甲冑の巨人を縦横に縛り付けていたが、それよりも巨人に蹂躙された塩の丘の惨状に心を痛めた。
オイルサーディンの缶詰工場、枯れた噴水の広場、破砕タイルの家々が巨人に踏み潰されている。パロ・トロームの主人や屋台式カフェが心配だが、確かめることはできなかった。政府軍の攻撃や見物客の混乱ぶりなどで、集落の他のところにも累が及んでいなければいいが。青銅色の壺型甲冑を睨んだ。大丈夫だとは思いたいけれど。
一方、起源種博物館の惨状もかなりなものだった。白亜堂公司の作戦は、饕餮号で巨人を吊り上げることだったようだ。しかし作戦は、巨人の重量と、おそらくは抵抗によって失敗した。大型飛行船は博物館の真上に墜落して、歌花の座の碑文回廊あたりが外骨格の下敷きになっている。巨人は、もう目の前だ。
「海で見たときよりも大きい。近いからなのか」
エルビンは墓銘碑に生年月日しか記されない男。それが僕は何をしているのだろう。
受け入れるしかない。
拳銃をサラゴサの蚤の市で買っていて良かった。石膏で塗り固めて肺魚の化石に見せかけ、博物館に持ってきたことも。誰かを傷つけるのではなく、巨人の注意を惹くために使う。そのことを感謝したい。誰に、ヨナは化石漁の成果を神に感謝したけれど、それが一番しっくりくるかもしれない。
感謝するなら自分の先見の明に。
それはそうだが、最後の審判を前にして、史家くずれの人間が神に感謝とは面白い。
面白いから、僕は巨人のほうへ歩きながら神に感謝した。
「神様、ありがとう」
熱風が、肺を詰まらせる。
巨人は天を衝くほどの高さ、質感も迫力も相当なものだった。視線を下にすると、蟻のような群衆が阿鼻叫喚の様相を呈していて、まるで地獄。子供の残酷な遊びを見るようだ。投棄主義者らが巨人に踏まれるため、塩の丘に押し寄せているとヨナから聞いていたが。
唖然として憤慨する。お前たち巨人と投棄主義者は性根の底で同じだ。塩の丘と世界を血で汚すだけ汚そうとして、責任を取らないところなどそっくりだった。
まどろみの風を巨人が邪魔しているから、刺々しい感情ばかりが表に出てしまう。
ロープを使い、物見塔のテラスに攀じ登った。巨人の鼻息が感じられるくらい近付くためだ。青銅色の壺型甲冑で巨人の表情は伺えないが、目立つ場所に行く必要はある。物見塔は墜落した饕餮号を左に、巨人を正面に見ることのできる位置にあった。ロープを握る手にも自然と力が入り、ダビデも戦うことを躊躇うほど巨大な影に、好戦的な微笑を浮かべてしまう。
物見塔の内部は、おそらく立方ラタだ。この世紀の一戦が、テレビに映されているかもしれないという思いが頭を過ぎった。
塩の丘は、もう巨人のものではない。
噴き上がる火炎と黒煙が僕の視野を奪い、巨人の壺型甲冑が迫る。地震のような揺れが物見塔を襲い、もう少しで足を踏み外しそうになった。手を伸ばし、柱にしがみつく。
苦しい状況だが、守るために力を振り絞る。犬死にだけは絶対に避けたかった。
しかし、僕は考える。守る、というのも理不尽だ。破壊もそうだが、守るために、守りたくないものまで守らなければならない。投棄主義者を憎み、白亜堂公司を嫌い、現在政府とも関わりあいたくない。僕は自分自身についても否定的だが、守ると決めた心をテコでも動かさないのは大きな矛盾だった。
世は理不尽で、矛盾だらけ。
その究極と戦う。相手にとって不足はなかった。
テラスに手を掛けて、身を翻す。距離はほとんどない。視界の全てが標的。
「決闘だ!」
僕は拳銃を構えると、巨人を撃った。
弾丸は青銅の甲冑を虚しく掠めただけだ。サラゴサの蚤の市で買っただけあって、真っ直ぐに飛ぼうとしてくれない。二発目は巨人の頭の辺りに命中したが、身動きも身震いもしなかった。当たり前だろう、水際作戦での政府軍の砲撃でも動かせなかったのだから。比較すれば僕は蚊か蝿以下、それでもいいから僕は撃ち続けた。
「やめて!」
その時、悲痛な叫び声が足元が耳に届いた。
血に濡れた手、呪われた瞳、ヨナに撃たれたときに全ての答えが示されていたのだ。屋上の、僕が切り離したロープのところにアルコルが立っている。
「アルコル」
僕は怒鳴った。
「今度は僕がお前に選択を強いる番だ!」
「やめてください!」
「愛があるなら僕の話を聞くんだ」
巨人を夜海に帰すか、このまま僕が巨人に押し潰されるのを傍観するか。巨人を夜海に帰せば、アルコルは塩の丘で僕と一緒の時間を過ごすことができる。白羊歯の集合住宅での生活や、パロ・トロームなどが軒を連ねる波止場を散歩。化石漁にも連れて行こう。逆に、僕が巨人に殺されるのを選べば、アルコルは一人だ。
それが耐えられるのか?
僕は問い掛けた。
エルビンがいない世界に存在することを、一秒でも耐えることができるのか?
日の光を遮る巨人が、その影を大きく歪めた。僕にとっての最後の一歩を、今まさに踏み出そうとしている。このまま行けば衝突は免れそうもない。でも、後には引くつもりは毛頭もなかった。
「今すぐ、今すぐ降りてください!」
僕は首を横に振った。
「降りるつもりはない。お前の選択が全てだ」
「非道です!」
「ああ、たぶん。僕はお前も、ここから見える全ても好きだから、こうせざるを得ないんだ」
「そんな、そんな……そんな!」
アルコルの叫びが、大気をも震わせた。
僕はかつて「Quo Vadis Domine」と問い掛けられ、「星降る海へ」と答えた。今でも、そう繰り返すだろう。正しくはないけれども、美しい答えに世界の音が停止した。投棄主義者たちは昏睡状態から目覚めたように頭上を仰いでいる。白亜堂公司の大型飛行船から立ち上る煙は、塩の丘では見られない雨雲のようだった。黄昏が塩の丘と夜海を小麦畑のように輝かせている。僕はアルコルを見た。
頬を伝う煌きを。
時間よ止まれ、今この一瞬のため。
かつて、知覚の全てを失った少女が「water」の意味を知り、朝靄の世界で輝く理性を得た奇跡を、僕は目の当たりにしているのだろうか。樫の木陰で眠る館主は、身体以上に己を見失っていた。世界の敵になる力はあっても、一言を声にする勇気を持てなかったのだ。彼女は死ぬことで自分の限界に見切りをつけた。それは誤っている。生きていれば、どのような障害も越えることができたはずなのに。
そう、僕らは自分の気持ちに素直になるだけでよかった。
このように。
「愛しているよ」
少女人形の、館主の目から涙が零れ落ちた。
癒しの雨をありがとう。僕は満面の笑みを浮かべた。巨人の体躯が轟音を立てて物見塔を押し潰す、その間際まで、僕はアルコルに愛だけを叫び続けた。
叫びが途切れたとき、一輪の花が咲き、声を響かせた。
塩の丘の、誰もがそれを聴いたという。
静寂に染み通るのは、ささやかな歌。因果を定める韻と歌。やがて韻歌に包まれた塩の丘に夜が来た。夜は朝になり、昼は夕になる。夏は秋に移り変わり、寒くない冬が西風の恵みによってもたらされた。時間が全てを水に流そうとしているかのように、夜海は月日を受け入れていく。
そして、春が訪れた。