【その7】
二杯目の紅茶をヨナが注ぎ、僕は爽やかな湯気を吸った。紅茶は白亜堂公司の支給品らしい。茶葉は発酵の具合によらず東洋のものが一番だ、とヨナは言う。それも一理あるだろう、僕は熱い紅茶を啜ると、溜息を吐いた。白亜堂公司の代理人は、原則的に身分を偽らなければならない。それが良心に反しているとヨナは苦しんでいたらしい。
白亜堂公司と起源種博物館の反目もそうだ。彼は博物館に対する働きかけをする立場ではなかったが、理よりも威を示したがる公司の上層部と、嫌悪感を露わにする館主や僕の板挟みになっていた。それも全てが明らかになって、重荷ではなくなかった。
もっと早く話せばよかったよ、と口にしたヨナは恥ずかしげに俯く。
白亜堂公司は巨人の存在に興味を示していて、ヨナに詳しい報告を求めていた。白亜堂公司も現在政府も、起源種博物館が巨人に破壊されてしまうことを望んでいない。公司には、自然科学的な知識の宝庫である博物館を奪われたくないという思惑があるし、現在政府も巨人は不確定な状況を招くと認識しているのだ。僕は館主を助けたい、公司は博物館を守りたい、そこで両者の利害が一致した。
「対策を考えよう。エルビンには、何かあるんだろ?」
「……起源種博物館に行こうと思う」
「しかし博物館の門は閉じられている」
「ところが、ゴマの呪文が僕らにはあるのさ」
部屋に白亜堂公司のカフスボタンが置かれていたことを話した。留め金のないボタンは、トークンと同じ形をしている。シリンダー式の認証機に入れれば博物館の門は開くはず、というのが僕の考えだった。
ヨナは上手くことが運ぶか疑わしい、という表情だったが、招待されたのだから行けば何かがあるのは自明の理だ。巨人の針路に博物館があり、そこに館主がいる以上、事態を打破する可能性があるのではないかと説明した。
「名案だな」
ヨナは提案を受け入れてくれた。
集落の外れでも地響きは感じられる。実際、僕らができることは、可能性という不確かなものに賭けるしかなかった。まだ塩の丘までの距離はあるし、巨人が走るでも飛ぶでもしない限り時間的な猶予はかなりあるはずだ。帽子を被ったヨナと家を出ると、起源種博物館へと向かった。
「列車に揺られて、投棄主義者も塩の丘に集まりつつあるらしい」
「投棄主義者が?」
「巨人に踏まれたがっているんだと。笑えるだろ?」
それは笑えるかもしれないが、黒いことこの上ない。
ローマ時代の哲学者セネカは自殺を自由人の最後の行為と言ったが、巨人に踏み潰されることに意義があるとは思えない。投棄主義は愚かだが、このような愚かさを賛美する風潮に、長らく世界は踊らされていた。これが終われば、何かを作ることに情熱を燃やしたい。
将来のことを語った僕に、ヨナが紙巻き煙草を僕に手渡した。それを蒸かす。紙巻き煙草は東洋のものではなく、食料品店で売られている駱駝印のものだった。
僕には強すぎて、少し噎せ返る。
「ヨナ、これはきついよ」
「思いっきり吸い込んで、大きく吐くんだ。そうしたら楽になる」
そういう話をしながら、起源種博物館の前まで来た。
シリンダー式の認証機に蚩尤のカフスボタンを入れる。僕とヨナは顔を見合わせたが、シリンダーが正確に動く音を耳にした。定められた仕組みが作動して錆鉄の格子扉が開く。
「やったな」
「ああ、後はもう成り行き任せだ」
強く握手をした僕とヨナに、壺形甲冑の巨人が視線を注いでいた。
知識上のどの塔よりも高く、内面を垣間見せない甲冑には不気味さが漂う。気にするな、と格子扉を潜ったヨナが言い、僕は胸の靄を払うように頷いた。アルコルの歌が海から異形の巨人を呼び寄せ、それは塩の丘を目差している。何が目的なのか、どこにいるのか、今すぐでも問い詰めたい。
でも、アルコルのことは後回しだ。起源種博物館に入った僕らを常設展示物が出迎えた。空気がいつもと違うことに、ヨナも気付いたようだ。海からの風が巨人に遮られているためか、蒸し暑い。彼は拳銃を手にしたまま、率先して僕の前を歩こうとした。
「そんなもの必要ないよ」
「分からないだろ。いや、気休めだ」
ヨナは草食恐竜の肋骨アーチを見上げながら、呟いた。僕らは竜の巣に忍び込んで財宝を盗んだ小人と変わりがない。武器は必要ないし、武器がいるような事態になっても、拳銃では役に立たないだろう。塩の丘の住人は博物館に入る機会が多いけれども、具体的にどういう建物かを知る人間はいない。彼も本質的には同じだったから、知る限りでの説明をした。
「博物館は大きい。その特徴は三つの区画に別れているということだ。僕らがいるのは『歌花の座』で、上層には『智王の座』が、地下の陵墓部分には『機械の座』がある。館主はこの内のどこかにいて、僕らを待っていると思う」
「つまり、入場料金を払って見学できたのは、博物館の一部分でしかないということか」
「頼りにしているよ、ヨナ」
彼は苦笑した。
白亜堂公司は起源種博物館について、どれだけ把握しているのだろうか。実際には無知に近い、というのがヨナの答えだった。現在政府を経由して、西暦の末期に博物館が建てられた理由や資料、それに設計図などを集めようとしたが、有益なものは見付からなかったらしい。
謎、と彼は博物館を表現した。
「どうも現在政府も起源種博物館の扱いには苦慮しているらしい。特に、今の館主が着任してからは、統制からも外れている。博物館は博物館だから、大局的な視野からしてみれば端の存在でしかないけれども、今はラジオ放送でさえ現在政府の傘下にあるのに変だと思わないか?」
「館主の性格を思えば、変でもないさ」
「君は彼女に近いからな。白亜堂公司は起源種博物館が建てられた目的に、とても強い関心を寄せいている。公司は博物館を、西暦の一大事業だった遺伝子解析の情報集積地と見立ててもいる。もしくは遺伝子工学の工場とも。どうかな、俺には不思議なことが多すぎるように感じられて、上の思惑とは距離を置きたいよ。例えば碑文回廊とか」
肋骨アーチの終着点に立ち、問題の場所に視線を送る。
朝は四本、昼は二本、夜は三本で歩く動物は何か。博物館は謎掛けをする怪獣スフィンクスと同じだ。今はもう砂と化したエジプトのそれを思いつつ、回廊に足を踏み入れる。木漏れ日と反射光のモザイク、石版と韻の道が神秘の煌めきを見せていた。ヨナが手で触れると、韻が波紋のように伝わる。
生命の不確かさを内包させるために、先人は四十二の韻を創造した。
「遺伝子は専門ではないけれど、基礎詩が表しているのがそうでは?」
「遺伝情報は長大だが、これほど複雑ではないよ。デオキシリボ核酸もリボ核酸も、塩基配列は四種類しかないし。なぁ、エルビン、巨人が博物館を目差す理由も、この訳の分からなさにあると思う」
「訳の分からなさ」
「ああ」
スフィンクスのようなものだ、とヨナは帽子を被り直す。お互い、同じことを考えていたようだ。
階段を上る。針金のような立像彫刻が両端に並ぶのは、視覚を困惑させる効果があり、閑散とした館内では退屈を拭うことができた。昆虫や貝類の展示室から始まる歌花の座には、十八の部屋と四の広場がある。見るべきものは多いけれども、誰もが目立つものに目を奪われている、とヨナは言った。まあ、そうだろう。
アルコルがいれば、居場所も労せず分かるのに。舌打ちをしたが、今は時間を掛けてでも捜さなければならない。入館できても館主から出てくるという甘い期待はなかった。彼女はどこかにいて、僕がいることにも気付いた上で、見付けてもらいたがっている。
付き合いが長いからだろうか、館主の思考が僕には想像できた。
「まるで童話の世界だな。姫君を助け出す騎士なのか、僕は」
「どちらも掛け離れているぜ」
ヨナが笑う。
「笑うなよ」
「いいじゃないか。中世的だが、姫君と騎士、良い例えだと思うよ。だとすると、館主は君に特別な感情を抱いているんじゃないのか?」
「馬鹿な……」
声を低めた僕に、ヨナは笑顔を浮かべたまま肩を竦めた。
遠くからだと、お前らは恋人にしか見えない、とからかわれてしまう。皆にそう思われていたのか、という問い掛けに、何度も頷かれてしまう。館主がどういう感情を抱いているのかは知らないし、親友として以上の付き合いはない、と断言したが、声の調子は少し狂っていたように思う。
関係ない。館主が僕に好意を抱いていたとしても、今は緊急事態だ。巨人が博物館への前進を止めるのは、その場でタップダンスを踊りだす可能性よりも低い。自分を「篭女」と考えている理由はどうあれ、起源種博物館と運命を共にするのは、巨人に踏まれたがる投棄主義者と同じ程度に愚かしい。
パピルス紙や羊皮紙を硝子板で貼り合わせた展示物が、円形列石のように配置された幻獣資料展示室の先は、水甕と銀砂の休憩室になる。存在を許されないものに形を与えるのが人の特徴と、入口の説明文には記されていた。奇妙な獣を生む想像力はどこからだろうか、それを考えるだけでも面白い。起源種を巡る思索には架空の生命も含まれていた。
天使が鍵を手に竜を打ち据える図を前に、ヨナは何かを考えていたが、意を決したように向き直った。
「エルビン、二手に分かれよう」
館主を捜すのなら、手分けをしたほうが効率的だ。
でも、僕は首を横に振った。二手に分かれれば、計算上は館主に辿り着くまでの時間が短縮されるけれども、連絡の手段がない。博物館で迷子になるのは極力避けたかったし、智王の座へは一度行ったことがある。ヨナと別れるのは最後の手段にしておきたかった。
歌花の座の展示室を一通り歩き、鯨漁のキュビズム壁画の広場に出た。以前、館主が僕にして見せたように、壁画の一つに手を当てる。そこは鯨の目だ。鯨の目は丸石になっていて、ダイヤルのように廻すことができ、口の部分に隠し扉が出現した。
鯨に飲み込まれた聖人は苦労の末に皆を救うというが、これは意味があるのかな。歴史は繰り返す、僕はヨナに史家らしい助言を与えた。ここから先は智王の座。紙本通路を照らす裸電球の淡い光。
ヨナは口笛を吹いて、白亜堂公司がこれを知れば軍隊を差し向けるだろうな、と感嘆を漏らす。壁棚に収納された紙や書物は、無秩序に積み重ねられていて、彼は何枚かを折り畳んでポケットに入れた。これだけで給料分の働きになるという言葉をヨナを一瞥する。
「ヨナ、白亜堂公司は本当に……」
「俺が言えば、もしかしたら」
冗談だと気付くまで時間が掛かったけれども、僕は安心した。ヨナが白亜堂公司の人間であっても無道なことはしないだろうし、彼なら博物館と公司の間を如才なく取り繕うはずだ。
「死体相手の発掘作業は得意でも、相手のある交渉が白亜堂公司は苦手だからな」
「でも、現在政府とは良い関係なんだろ?」
「打算だよ」
こともなく言い切ると、紙本通路の奥で昇降機を作動させる。
僕らを乗せて昇降機は黍園へと昇っていった。滑車の音が面白い。鋼材と石材の絡み合う斜線が上へと伸びて、博物館の上層に刻々と近付く。背負い袋を降ろした僕に、特に荷物を持っていないヨナが問い掛けた。
「エルビン、背負い袋に何が入っているんだ」
「大したものは持ってきていないよ。ロープ、手袋、水筒、コンパス、それと……」
「化石魚じゃないか。役に立つのか?」
「念のためだよ。ヨナだって、拳銃を持っているじゃないか」
拳銃と化石魚では比較の対象にならない。ヨナの表情はそう語っていたけれども、安心の方法は幾らでもあると納得したようだ。肺魚は水と陸の境界に住むことから、生者と死者の橋渡し役として信仰されていた。信仰されるものには幸運の御利益が期待される。トルムについての話に興味深く耳を傾けていたヨナは、僕が史家の心を持っているのに唯物論的ではないのが意外だったみたいだ。
唯物論はソ連と共に滅びた。迷信が幅を利かせる塩の丘で、しかも神話上の存在だったはずの巨人が博物館に向かって歩いている状況では、神頼みにも一定の効果があると思いたい。
昇降機が黍園に到達する。
「綺麗だ」
と、ヨナは言った。
智王の座も、歌花の座と同じだけの規模があるはずだが、僕が知っているのは黍園と館主の私室くらいだ。温度を調節する機能と、品種改良によって庭園の黍は一年中葉を生い茂らせている。蒸し暑さに帽子で顔を仰ぎながら、僕は先に進んでいった。外から眺めたときの博物館を思い浮かべた。智王の座は塔を頂点にして、幾つもの空中庭園が造られている。
館主が生活する区画と言っても、一人では持て余すほどの広さだから、実際に使用されている部屋や庭園は半数に満たないと思う。振り向くと、ヨナは黍園を流れる水で咽を潤していた。冷たそうだ。地下の奥深くから水を汲み上げて、智王の座から機械の座まで水路を巡らせているのだろう。
「不思議な女だな。ここで何を思って生活しているのやら」
「本人に尋ねるしか」
黍園の奥にあるリフトを使い、館主の私室に入る。
誰かがそこにいることを期待したけれども、館主の私室は無人だった。アルコルが囲われていた部屋は家具も調度品も僕が来たときのままだ。天鵞絨のカーテンを捲り、奥のベットに腰を下ろした。現在政府の指導部や、白亜堂公司の幹部であっても、こういう生活はできないだろう。ヨナはそう言うと、紙巻き煙草に火を点ける。
「あまり煙草は吸わないほうがいい」
「吸うためじゃないさ。空気の流れをみたいんだ」
紫煙は漂い、風景画の下に流れていった。壁は漆喰塗りだが、その部分だけ石壁が露出していて、注意深く見ると隠し扉になっているようだ。僕とヨナは顔を見合わせると、隠し扉を開けるための仕掛けを探した。机に置かれた地球儀や、引き出し、戸棚、天蓋付き寝台の下。
仕掛けは風景画の裏にあった。
石に偽装した隠し扉が開く。そこは芝生の中庭になっていた。強烈な日射しに目が眩む。
「樫の木だ」
ヨナが呟き、僕は言葉を失った。
樫の枝に紐を括り付けて、館主が首を吊っていたからだ。
立方ラタで砂漠を見詰めていた館主が、歴史の意味を尋ねた。過去を知ることと、歴史を学ぶことに違いはあるのか。自嘲的な史家の一派は歴史を学問的な装いをした物語だと考えた。東洋の優れた史書『史記列伝』には、作者の価値観に応じた個人史が記され、ヘロドトスの大著『歴史』ではペルシャ戦争でのギリシャの勝利という結末に至る、実用的な教訓が語られた。西暦の政治学者フランシス・フクヤマは主張する。資本主義的な自由民主主義がマルクス的社会主義を打倒したことによって「歴史は終わった」と。
啓蒙的なものとして歴史を考えるなら、人類は人類がしうる行いを全てした。百回、暗黒の中世が繰り返されても、いつか来た道として解釈されるだろう。行為が、結果として絶滅をもたらしても、それは単に「運が悪い」だけだった。過去の事実はこれからも増え続けるが、それはクイズの出題者の助けにしかならない。
「歴史は現実存在を語るように出来ているが、科学のように本質存在へは迫れない」
「キリストの祈祷工場ではミサと称する乱痴気騒ぎで日が暮れて、煙草を蒸かす拝火教徒は地下酒場で金がなくても哲学談義」
「何だい、それは?」
「歴史について、歴史上、最も信頼のおける人物による定義ですよ」
僕の言葉に微笑む館主は、人知れず悪魔的な作業に従事する技術管理者のように思えた。
一年も前の出来事だ。
そして今、僕は走っていた。
木陰が一点に絞られた窪みのような、館主の姿。彼女が吊り下がる樫の木は風で緑葉が揺れていた。ヨナが蹴り倒された台を使い、首に巻き付いた紐を解く。重力の鮮やかな見本として、芝生に落ちた館主の身体を抱き止めた。
脱力した嫌な重さ。
腕に伝わるのは、体温のない物体としての重量だ。わずかな可能性……つまり隠し扉を発見する直前に首を吊った……に賭けたけれども、呼吸を止めた身体は呼吸を再開する力をすでに失っていた。そのときに初めて、存在の冷たさを知った。
死が、館主の時を止めている。
「なぜ」
自然に零れた言葉が一つだけ、館主の閉じた瞼を伝い、土に落ちた。挨拶もなく呼吸を止めた彼女の頭を抱き、最初に溢れ出したのは怒り、次に意味不明な笑み、そして枯れ搾るような悲しみが舞い降りた。何が自殺に値する罪になるのか、ようやく問い掛けることができたが返事がない。ヨナのほうを振り向いたけれども、返事はなかった。
全ての問いに答えが用意されているわけではないと、かつて思想家の言葉を引用したにもかかわらず、無言のままでいられると耐えきれない。僕は館主を抱き締めたまま、問い続けた。ユダヤのラビやラマ僧のように、真理には到達しなくてもいいから、このような真似をした答えを。僕が納得する答えを。
答えを。ヨナが名前を呼ぶのも聞こえない。
「なぜなんだ!」
僕は叫んだ。
「エルビン! エルビン見ろ!」
大声を出したヨナが、僕を正気に戻すために拳銃で空を撃った。
屋根に羽を休めた海鳥が一斉に飛び立つ。僕はヨナの顔を見たが、それよりも館主の死体が抱き締めた力で壊れたことに気付いた。眼球が滑り落ち、肩から左腕が外れかけている。僕は息を飲んで彼女から離れ、ヨナは眼球を指で触った。硝子眼だ、と彼は言い、意を決したように背広のボタンを外していく。
これは……
何も言葉が出ない。
あまりに酷いものを、言い表す術がなかった。
縫合痕が胸から下腹部にかけて、幾筋も走る肌に絶句する。左手と右足は精巧な義肢だった。痩せ衰えた肉体には機能不全に陥ったときに見られる死斑が浮かび、黄色い液体が傷口に当てられたガーゼを汚していた。彼女の美しい顔も化粧と黒髪によってカモフラージュされたものだ。ヨナは冷静に、人が生きていくためのものが何もない、と言った。
「どういうことだ」
点滴と人工器官で生かされた老人みたいだ、というのが答えだったが、ヨナには館主の身体について思い当たるところがあるようだ。首を横に振って、その考えを否定しようとしたが、無理だと悟ったらしい。現在政府は元々、投棄主義者の集団だった、と彼は前置きした上で、権力層の悪魔的風習の話をした。
「……かつて現在政府では、肉体の放棄が栄達に繋がった。政府が投棄主義から距離を置くようになって、そういうのも悪い噂だと思っていたのだが」
「でも、生きていたじゃないか!」
「事情がどうあれ、死んでいるのは確かだ」
失望感がヨナの口調に表れている。館主の死は巨人よりも破壊的だ。これで白亜堂公司が起源種博物館と共同歩調を取ることがなくなったのだから。しかし、これで良かったのかもしれない。公司と博物館は水と油の関係だったから、当事者がいなくなれば、話も纏まりやすくなる。算盤を弾くのは簡単だよ、と僕は生臭い話を打ち切った。
これからは?
ヨナは紙巻き煙草を燻らせている。
埋葬しようと思う、と答えるのが精一杯だ。ヨナは良いとも悪いとも言わず、ただ頷いた。ありがとう、気を遣ってくれて。彼は名前を口にして、俯くと、ことさら白亜堂公司の手先ぶりながら、打算だと繰り返す。
「ごめん、ヨナ」
白亜堂公司と君の期待を裏切ってしまった。
館主を失った今、博物館が危機的であっても阻止したいという気持ちは薄れた。嫌いではなかったし、好きだったのかも。でも、それを伝える方法はなく、自殺を許すこともできない。
「結局、何も進展はしなかったか。だが……」
ヨナは空を見上げた。
中庭を影が覆っていることに気付いたのは、彼の視線の先にあるものを見る前だった。私室から中庭に出たときは強烈な日射しに目が眩んだのに、それがない。何か、とてつもなく巨大なものが、起源種博物館の上空にあった。最初、それが雲かと思ったけれども、白地に描かれた墨の文様に正体を掴んだ。
大型飛行船『饕餮号』。
「ここからは別行動だ」
涼しげな眼差しを飛行船に送りながら、ヨナは中庭を出ようとした。僕は引き留めようとしたけれども、白亜堂公司の人間としての役割が彼にはあるのだ。
起源種博物館が蓄積している知識を、公司は決して諦めない。巨人が割り込もうというのなら、実力で阻止するまでだ、とヨナは立場を代弁した。彼はある程度の予測を立てていて、通信局の住まいから饕餮号を呼び寄せたのだろうか。悪巧みが得意だと、敵役らしくて面白くなるだろう。そういうことをヨナは視界から消える間際に言い残した。
これで中庭に館主の死体と二人だけになった。
樫の木の幹に横たえると、蓋をされたような空に声を漏らした。地上には巨人、空中には大型飛行船、僕は塩の丘の博物館にいるが、消えてなくなりそうな存在感だ。でも、それが本来の僕だから、これ以上の何が出来ただろう。
館主の長く伸びた黒髪に手を伸ばした。アルコルにしてあげていたから、手串に慣れている自分に気付き、生きている内にこういうことをする機会があれば、結末も随分変わったものになったと思う。館主が僕にどういう感情を持っていたか、知る術は断たれたけれども、教えてほしい。
このまま巨人を待とうか。
起源種博物館は陵墓の上だから、このまま瓦礫になっても「埋葬」になる。ヨナには悪いが、白亜堂公司の飛行船が巨人をどうにかできるとは考えていなかった。砲弾も弾き返す青銅の壺形甲冑の前では無用の長物だ。ヨナが崩壊に巻き込まれなければいいが、それ以外はどうでもよく思える。
もう一つ、心残りがあった。
「アルコル」
僕は少女人形の名前を呼んだ。
館主が博物館から出ることはないし、ヨナは白亜堂公司との関係を秘密にしていた。だとすると消去法で考えれば、僕の部屋に蚩尤のカフスボタンを置いたのはアルコルということになる。アルコルは僕に薬を飲ませ、小舟で夜海に出ると巨人を呼び寄せた。考えてみれば、様子が変わったのは公司の広域支配人が博物館へ向かった夜からだ。
館主はアルコルをどうしたかったのだろう。彼女が少女人形に自己を仮託していたのは、立方ラタでの会話や様子の中でも気付いていたが。
アルコルはもう、アルコルではないかもしれない。
そういう思考が頭に閃いたとき、芝生に黒い穴が開いた。ベル・エポック調の鳥籠型昇降機が穴から現れる。自動制御された博物館は、主人がいなくても変わりなく機能するのだ。
鳥籠型昇降機には人が乗っていた。
いや、人形が。
「邪魔者もいなくなり、ここは二人になりましたね」
意図的に感情をなくした声が耳に届く。
「アルコル」
鳥籠の中にいる姿は、館主が言う「篭女」そのままだったが、檻が開き芝生に足を乗せた。十二条の革ベルトで身体を拘束する喪服を纏った少女人形は、いつもの憂いに満ちた視線と媚びた微笑みを浮かべていたが、僕の知らない何者でもあるようだ。
樫の木まで歩み寄ると、アルコルは館主の顔に両手を添えた。
「可哀想な女、可哀想な女、死なないと想い人と寄り添えなかった。勇気がなかったのかしら、それとも頭が良すぎたから、たった一歩が踏み出せなかったのかもしれません。このような身体だから、恐れたのかしら。お喋りで時間を費やし、本当に話しあうことがなかった」
アルコルは館主の唇に唇を合わせていった。赤い舌が死体の口をこじ開けて、口移しに死者の形見を奪い取る。
それはオルニトミムスの顎骨だ。
僕が館主に手渡した化石の欠片を、アルコルは舌の上で転がして飲み込む。
「このようなものを、心の支えにするほど精神は荒廃していた。御主人様、アルコルにしていただいた恩寵を、この可哀想な女にもしてあげれば良かったのに」
「僕はお前の御主人様ではない」
少女人形は微笑んだ。
「そうでしたわ、エルビン」
「お前は何者だ?」
警戒心を露わにしてアルコルを睨む。
姿形が同じでも、僕の知らないアルコルだ。媚びしか持たないアルコルは、別の言い方をすれば、無垢だった。それが目の前にいる人形はどうだろう。魚と鳥よりも隔たりがあるように思えた。生きているとしか見えない、情念の渦巻く瞳。
薬を盛られて、意識を失いかけたときの呼び声。
「私は、あなたの姪です」
「アルコル」
「『エルビン』が良いですか? 私は『御主人様』が好きなのに」
殺意が一瞬にして輝き、僕はアルコルの首に手を突き出した。指で締めようとし、歯を食い縛る。
目を見開いた。人工皮膚に宿る熱が伝わり心を激しく揺さぶったのだ。アルコルの形は両手で手を掴むと、簡単に首から引き離し、薬指と中指の爪を嘗めていく。歯車で動いているくせに、悩ましさの濁りに湿らそうというのか。
館主は智王の座に相応しい人物であったが、身体は衰弱し、心は荒んでいた。起源種博物館は彼女を囲う牢獄でありながら甲冑、彼女を守る砦でありながら鎖。アルコルは館主を哀れみつつ、労るように身体を撫でた。可哀想、可哀想と呟く、その瞳は泪に濡れているようだ。
漆黒の瞳。
博物館の君主は最終的な解決策を考案した、そう囁く。
「そんな、館主……なのか?」
違います。アルコルは首を横に振る。
「アルコルはアルコルです。館主様は血と肉と五臓をアルコルの身体に与えてくれました。不自由な身の上を嘆きながら、エルビンに愛されたいと始終口にしていましたわ。アルコルは御主人様と一緒にいて、とても幸せでしたけれど、館主様の餓えも良く分かります。館主様は幸せですか? 館主様の目がエルビンを見詰めているのですよ。館主様は幸せですか? 館主様は……」
「アルコル、正気に戻れ。家に帰るんだ」
僕の言葉に少女人形は妖艶な微笑みを浮かべた。それから、左右の眦から体液が染み出すのを、隠しながら跪く。その時、風を巻き込む轟音がして、上空の飛行船が移動を開始した。いよいよ壺形甲冑の巨人と飛行船『饕餮号』の戦いが始まるのだろうか。一瞬、僕は注意を空に奪われた。
アルコルの身体が覆い被さり、芝生に押し倒される。
「ここは私の城。誰にも、誰にも、誰にも渡さない……」
「アルコル、正気に戻るんだ。巨人を夜海に帰せ」
「うるさい黙れ!」
アルコルの唇が僕の唇に密着した。
鉄の味が舌に流れ込む。血液の味に、館主が自らをアルコルに与えていった方法を悟った。つまり食わせていたのだ。怖気が走る。真夜中に部屋を出ていた少女人形を、館主は博物館に誘い出して、眼球や四肢や内臓を食べさせることで、同化を果たそうとした。
それは科学と言うよりも呪術の世界だ。人肉を食べることで、魂の力を得ようとする思想が、かつて南洋の島々にはあったというが。アルコルの両目は風洞のように、光を吸い込んでいく。理性と知恵に富んだ女の眼球、それが狂気にとろけていた。本当に同化しているのかはともかく、アルコルが別のものになっているのは確かなようだ。
唇が柔らかいですね、と囁く。
「愛しくて、大好きです。エルビン、もっと早くに言うべきでした。館主様は毎夜のように怯えていました。醜い、醜いと。私は御主人様と一緒にいたい、館主様はエルビンと一緒に死にたい、私はどうすればいいのですか? 館主様は幸せでした。ここは墓場です。ならば命の意味を知って今死にたい……」
胸元に額を押し付けていたアルコルが、僕の肩に歯を立てた。
滲み出た血を、丹念に嘗め啜る。その痛みに声を漏らした。機械の座に行きましょう。アルコルは囁いた。機械の座に、人の基礎詩があって、館主が僕を招きたがっていると。血に汚れた唇と、白く整った歯並びを見せて、少女人形は鈍く微笑んだ。
鉄筋の蜘蛛の巣を縫う。
黒金の壁に曲線を描くレールを伝い、鳥籠式昇降機は降下した。丸みを帯びた外壁が奇妙で面白い。これは原子力潜水艦の外殻壁だという。博物館には兵器や武具といったものまで収蔵されているのか、という問いに、アルコルは「人のものなら全て」と答えた。高度な情報化社会と、有り余る富がこのような建物を出現させたが、館主の他は誰もその価値を見出せなかった。
甘えるように視線が首筋を噛むようだ。背負い袋に入れた肺魚を思い、僕の気持ちは昇降機と共に沈んでいった。自分の身が危うくなれば頼る場面も出てくるだろう。そのために持参しているのだから。でも、そうなると僕は白亜堂公司と同じ程度の人間になる。ヨナは歴史家ではないから許されるが、僕はどうか。
「何を考えているのですか?」
アルコル、不思議なのは君そのものだ。
「お前を殺す方法を考えていた」
「そのときは、一緒ですよ」
枝を手折るよりも簡単だと言いたげな、弾むような声に僕は苦笑する。
レールは原子力潜水艦の外殻壁から超長距離を砲撃する多薬室砲の砲身へと移った。頭上には複葉機、周囲には戦車と自走砲、これら戦争の道具に埋め尽くされているのは、いつか使う機会を考えてのことなのか。核ミサイルもありますと冗談めかして言うアルコルは、兵器と調理具の違いも理解できていなさそうだ。技術の変遷は武器の発達に注目すれば、あらかたが分かると大学で学んだが、殺人技術の向上は行き着けば結果は灰燼だ。
大投棄時代のような悪夢は賢愚の別なく起こりうるのでは。鳥籠式昇降機は化石収蔵庫へ降りていった。恐竜は自らの意志で滅びたわけではないが、恐竜が滅び、他の生物が生き延びた要因は求めることができるだろう。万物には軛があり、人は理性と叡智をして超越したとされているが、反証は裁判官を圧死させるに足る質量を持っていた。
博物館を風に吹き曝したままでいたことが、理性と叡智を軽視している証と言えるか。大投機も。この収蔵庫の設計者のように、人は守るべき規範から外れるのが大好きだ。狂気の沙汰、僕は収蔵庫を見て、そう思った。樹花を模した柱列が支える空間は、「森」としか表現できない幅広さと重厚感だからだ。
彫刻と化石生物の区別が難しい、と思っていると、微かな振動が砂埃を降らせた。巨人だ。その歩みがいよいよ塩の丘に差し掛かったのか。しかし、アルコルの顔を覗くと巧みに表情を隠していたが、苛立ちのを抱えているようだった。意図通りなはずなのに。そういえば白亜堂公司の飛行船はどうした。僕は不意にヨナのことが心配になる。
無事ならいいけれども。
石の大森林を昇降機で降りていくと、外国の友人を想う気持ちに似てきた。大投棄時代以前から、様々な文物が持ち込まれたのだろう。その頃は「博物館」でもなかったかもしれない。この様子を見れば、巨人も自分が住むだけの余裕がないと気付くかも、と僕はアルコルに言ったけれども、あまり良い反応は返ってこなかった。それは予想通りだ。
「博物館は化石を蒐集して、神に比するものを創造しているらしいが」
「そこまで大胆ではありません」
「じゃあ、何のために化石を蒐集しているんだ?」
「さあ、私には図りかねます」
都合の良いときだけ、少女人形は素顔を出した。
人の基礎詩に案内する、そうアルコルは言った。七の聖韻、十二の舟韻、十五の葬韻、八の龍韻、韻は四十二種類あり、文章として複雑に構築される。遺伝子が四つの塩基配列からなるとして、碑文回廊の基礎詩を見ると、情報量は単なる生物学的なもの以上だった。
起源種博物館は命名を司る。しかし、司るのは生命全てのようにも思える。
あれが北の永久凍土から掘り出された冷凍マンモスです。アルコルが収蔵庫内を一つ一つ案内していった。西暦の最盛期には恐竜やマンモスなどの絶滅種を、クローン技術で再生しようとする計画が進んでいたというが。小説なら可能でも、技術的には困難な問題が多かったようだ。
なぜ、今まで人の基礎詩がなかったのだろう。僕は根本的な疑問を、アルコルの中の館主にしてみた。少女人形は思わせぶりな表情をして、自らの名を持つものを展示するわけにはいかないから、と答える。「アルコル」という名前を与えられた人形は博物館を去り、館主は名前を持たないから博物館に居続けた。
館主の名前。
僕は知らない。名が真の意味を持つのは、命が尽き果ててからだというのに。
エルビンが墓銘碑に生年月日しか記されない男でも、それでも墓は建つ。名前があるからだ。名前がなければ、誰が館主とパロ・トロームの主人を区別するというのだろう。名と墓銘碑があれば、生命は死を超越できる。碑文回廊の基礎詩は、つまり失われた命の墓銘碑ではないのか。遺伝子情報の集積地という白亜堂公司の考えとは、真逆のものだ。
碑文回廊の石版は墓、基礎詩は墓銘碑。古代の陵墓、葬祭神殿を模した建物、化石や剥製、人の手を必要としない管理機能。館主は立方ラタが生命を排除していると言ったが、それは博物館全域に言えた。生よりも死、基本的に博物館は死を展示している。
「素晴らしい推理力ですわ」
「ありがとう」
暗闇の度合いは鳥籠式昇降機の中に居続けるほど濃く、黒くなっていき、カンブリア紀の生物と珊瑚樹の石組みが影と光の合間に見えた。地階に降りると化石は大型生物から小型の、そして原生生物へと転じていき、反比例的に機械装置は増えていった。凹凸が付けられた金属壁は、番号錠を内側から見ているようだ。
アルコルは単純に「歯車」と表現した。
「ここからが『機械の座』です」
「歯車というのは、つまり……」
表現するところの意味を察し、僕は目を円くした。十段の垂直に連なる階層の一段一段が、歯車として回転する巨大機械なのだ。智王の座まで汲み上げられた水が、ここでは枝垂れるような滝になって流れ落ち、各階層の床を濡らしている。アルコルは昇降機に備え付けられた傘を広げた。雨は太陽が隠れるから嫌いではないのですが。お前は身体が濡れるのが好きだから、とアルコルの呟きに言葉を繋げた。
昇降機の真鍮掲示板には「王国」という文字が出ている。
「カバラの世界だ」
「そのようですね。起源種博物館の設計には、多くの神秘学者が関わっていましたから。でも、こういうものは、神秘的な装いを博物館に与えるためだけのものですわ。数学であろうとも神学であろうとも還元主義的な思考は、普遍を求めようとしますが、結局は本質に迫ることなど不可能なのです」
「唯名論的じゃないか」
「だから博物館は基礎詩を書き続けるのですよ」
アルコルは屈託のない笑みを浮かべた。
物理学の究極は十次元にある輪の存在を提示したが、それはすでにユダヤ神秘主義の書『ゾハール』のセフィロト理論に記されていた。神が造る世界の頂点には「王冠」があると。本質を求める人間の思考は、無意味から意味を見出し、また無意味に戻る過程のようだ。
円は実在するどのような円も少し歪み、本当の意味での円は存在しない。点はどんなに微少な点であっても面積があり、一次元を構成する点などはありえない。本質は本質として、あるいは存在するかもしれないが、世界は本質的ではない個々のものから成り立っている。その思考を推し進めていけば、普遍的なものは便宜上の名前でしかなく、個々は因果と必然性によって存在することになる。
歴史の意味を巡る、館主との会話を思い出した。
「史家も普遍的なものを求めていたが、結局はそれを放棄した」
「どうしてですか?」
「さあ、歴史理論は自己否定に繋がると気付いたからかな」
博物館で館主ではなくアルコルにこの種の話をしている。白羊歯の集合住宅では他愛ない喋りばかりだったのに、中身の違いは仕草や眼差しまでも変えてしまうようだ。館主の臓腑を取り込まれたことで、黒水晶は媚びるアルコルではなく別のものに変わり果てていた。僕との生活で育んだものが、記憶としてでしか残っていないのが悲しい。
鳥籠式昇降機の終着点は、階層の最深部よりも下にあった。
自分がエアシューターの化石みたく、どこまでも降りていく。このまま地球の裏側まで行くのかもしれない、そのような気もしたが、レールは墨が溶けた色の中心で途切れていた。機械の音がしなくなり、鳥籠の鉄柵が開く。空気の澱みが肺を黒くするような感覚。暗闇の覆いは目隠しをしていたけれども、ここが陵墓の玄室だと気付くのにヒントは要らなかった。
アルコルの髪が微かに揺れている。
「風?」
「空気を流しているのです。普段は人が来る場所ではないので」
「ここからは死後の世界ということか」
「はい」
「陵墓の玄室なのか?」
「かつてはそうであったと。今は、さらなる深みに通じる大穴に浮かぶ、吊り舞台です」
「穴の底には何が?」
「機械です」
「曖昧な答えだな。それで、ここが玄室でなくなったとして、目的の場所はまだまだ先なのか?」
「いえ、ここで終わりです。ここが人の墓、人の基礎詩がある場所です」
手を翳した動作に反応し、細やかな光の数々が瞬いた。プラネタリウムだ。漆黒の宇宙空間を流れる天の川が、足下から吊り舞台まで導く通路を照らしていた。闇が薄れると、今度はとてつもなく大きなものの輪郭が、心を押圧する。僕の瞳は輪郭の正体が認識できず、汗のでない不快感に下唇を噛んだ。何かがある、と呟いた言葉が零れ落ち、大穴へと吸い込まれていく。
起源種博物館は獅子の身体と女の顔を併せ持つスフィンクス。怪物の心臓に僕は立っているのかも。スフィンクスは旅人に謎掛けをし、答えられない者を食べたという。スフィンクスは博物館そのものであり、アルコルはその縮小された姿だ。館主は間違った答えによって自ら贄となり、僕と同じ運命を辿るのか。白亜堂公司の広域支配人が、浜辺に捨てられていた光景を思う。
足下に気を付けて、と少女人形が館主の口調を真似た。
「良く見えない」
「目を暗さに慣らして。あれが機械の座の中枢です」
恭しく僕に囁きかけるアルコルは、通路の先にある四本の円柱を指差した。歪んだ背骨のようだな、と暗闇に浮かぶ輪郭から思ったが、あながち間違いではないようだ。円柱は何段も積み重ねられた状態で頭上へと吸い込まれていた。通路の光に反応して、左右の円柱の表面を埋める文字が彩られる。
基礎詩、僕は呟いた。
アルコルが頷く。
「四連四十二段回転碑文板を『人の基礎詩』としたのは館主様です。元々は、地球規模の気候変動や社会経済、未来予測をするための位相幾何学機構。かつて、世界の海を支配した多国籍複合企業体によって、博物館を隠れ蓑にして建造されましたが、大投棄時代の到来以前に本来の意味を失っていました。館主様が来るまで、これは博物館の自動制御という端役に甘んじていたのです」
「四連四十二段……韻の数と同じだな」
「館主様は投棄主義を憎悪していました。花が散るのは自然の摂理でも、花を枯らすのは自然に逆らう行為だと。でも、それならばどうして館主様は自分を殺したのでしょうか。投棄主義に対する憎悪に勝る、現実への絶望が私めを狂わせる道を選ばせたのです」
悲しげな少女人形の声。
「館主は、君の中にまだいるのか?」
「館主様の情報は血と肉の味以上に、記憶されています。エルビン、私の愛おしい……」
声が音階を移動していき、低く落ち着いた物腰へと変わった。それがとてもおぞましく、僕は顔を背ける。先を急ごう、僕は言った。
回転碑文板の真下、銀砂を敷き詰めた円形舞台に辿り着いた。四柱の碑文板の境目から、想像を絶するほど巨大な歯車が垣間見える。地下のさらに深くから汲み上げた水を、上層へと供給するための歯車。水は常に流れ続け、熱を冷ます。
舞台の中央には石櫃が置かれていた。アルコルがその側に立つ。石櫃に装飾的なものはなく、悠久の時間を経て風化した、老成と古寂が表面を滑らかにしているようでもあった。四本の回転碑文板が『人の基礎詩』なら、これは『人の柩』なのだろうか。史家として、石櫃の中身を知りたいと思ったが、見たいとまでは思わない。
「懐かしいですね」
アルコルは蓋に手を伸ばし、開けるとも撫でるともつかない仕草を見せた。海岸の洞窟でアルコルの柩を見付けた御主人様は、どうして開くことができたのでしょう。魔法から目覚めなければ、まどろみは今も続いていたのに。「Quo Vadis Domine」少女人形は囁いた。笑顔を浮かべ「星降る海へ」と今一度呟く。
「右へ廻せば滅び、左へ廻せば始まりへ」
「それは、どういう意味だ」
智王の座で館主が戯れで言った言葉を、アルコルが繰り返す。
僕は周囲を見た。玄室を縦貫する四柱は「回転碑文板」と名付けられていながら、回転していなかったからだ。今現在は停止している回転碑文板が回転すればどうなるのだろう。右へ廻せば滅び、左へ廻せば始まりへ。それが答えだったとして、どういう意味か。
「その選択権が僕にあると?」
アルコルは頷き、口を開く。その時、爆ぜた音が僕の身体を前へと突き飛ばした。
「エルビン!」
少女人形の叫びが、通路を転がった僕に向けられる。撃たれた。その感覚だけがあり、僕は背後に立つ男を睨んだ。拳銃を握る男、こうなるとは少しだけ考えてもいた。鳥籠式昇降機で降りていたときの振動、あれは巨人ではなく、無理矢理機械の座に降りようとした彼の仕業だったのか。
ヨナ、どうして。
たぶんヨナは、その疑問には答えてくれないだろう。