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化石漁  作者: 浅丼健一
6/9

【その6】

 親友は慈雨であり、足し算であり、親友は親友だ。

 まだ話したいという申し出を快諾して、僕とヨナは目的もなく歩いた。無目的に疲れると、人のより少ない飲み屋を探すことにした。塩の丘で中毒性の吐き気を提供してくれるのは、噴水近くの『ポーポー』と『地下寺院』、それに『ロミ』。しかし蒸留酒を注文して金を払うのは、今夜のテーマに沿わないと思った。そのための方法を熟知していたので、ヨナを閉店間際の薬屋に誘う。

 薬屋とは缶詰工場との遣り取りがあって、

「来たか」

 と一言言うと、僕らを店内に通した。

「薬屋にも良い物があると聞いたんでね。一人じゃないけど、構わないかな」

「母親想いのヨナなら特別だ」

 レジスターの下に隠した薬用リキュールが振る舞われる。遠慮するなと薬屋がグラスに並々と注いでいった。芹科アニスの香油に甘草を加えた蒸留酒も珍しく、酔いはワルツの足運びで忍び寄る。「俺、お前」の関係であれば、薬屋は愛想が良かった。そこで僕は裸の女についての興味深い仮説を論じ、薬屋の主人はそれを医学的に否定してみせ、ヨナの得意なトイレを巡る笑い話で盛り上がる。

 白羊歯の集合住宅に着いたのは、十二時も過ぎた頃だ。

 アルコルの出迎えを期待していたけれど、部屋には誰一人いなかった。テーブルには温野菜のスープが置いてあったから、迷子になったわけではないようだ。

 また、月夜の舞踏を楽しんでいるのだろうか?

 リキュールで強かに酩酊していたので思考も長くは続かなかった。とりあえずシャツのボタンを外し、アルコルが作った温野菜のスープを食べることにした。最初の内は、料理に石鹸や絵の具、それにチチムーとかを入れていたが、今は安心していられる。人が食べる食べられないの区別よりも、僕が好きな料理を教えることで難問を一つ解決したのだ。

 温野菜のスープにはカボチャ、タラ、山菜、豆が入っていた。家庭料理にしては豊富すぎないか、と味わいながら不思議に思ったが、つまりこういうことなのだろう。部屋にスープの材料がなかったので、アルコルは他の部屋を回ってこれらを仕入れた……と。

 そういえば、食料品店で下の階に住む男がタラを買っていたな。

「部屋……こんなに広かったか?」

 僕はスープを食べ終わると、皿を洗い、化石魚の部屋に入った。アンモナイト礁で手に入れた化石は貝殻なら六十一種、魚類なら三十八種、それらが全て僕一人の心の海にいる。

 海に潜る儀式のため、床に置いた肺魚の化石の背中を慈しむ。トルム、それが丸々した化石魚に与えた名だった。魚でありながら陸地を恐れない肺魚には、昔から「線を越える」ための呪力が備わるとされてきた。生死、善悪、今昔、夢現、部屋に花散る架空の海が、求めに従い変容するを待ち続ける。

 化石魚に話しかける。かつて日課としていたように。僕は毛布にくるまり海洋を漂うことについて考えた。水死体になりたいのかもしれない。死んだら海に流してもらえるように、各方面へお願いしておこう。魚のエサになるのもいいし、海底で眠り続けるのも素晴らしい。

 そういうことを考えていたからなのか。

 次の日、僕は水死体を見た。

 朝、浜辺に打ち上げられていたのは、白亜堂公司の広域支配人だった。

 死体の第一発見者は発掘現場に向かう男たちだ。発掘現場へは浜辺近くの道を通らなければならない。水死体は年に何度か上がるので珍しくないのだが、折り目正しい服装の死体は別だった。不埒者が金目の品を得ようとして、死体が白亜堂公司の関係者だと気付いたらしい。

 襟元の蚩尤の印章も身元の確認には役立つが、身を護るまでには至らなかったのか。

 そういう経緯をヨナから聞いた。

「公司の社用車が崖下から見付かっている。死体に負けず劣らずグチャグチャだ」

「自動車も空に飛ばそうとしたのかな」

「エルビン……」

「冗談だよ。小説だと、こういう場面では、まず不謹慎な冗談を言って場を和ますだろ?」

 僕とアルコルは散歩を楽しんでいた。浜辺の死体に遭遇したのは偶然で、騒ぎを見掛けたアルコルが僕の制止も聞かずに行ったのだ。あの男は嫌いだったが、死体を見たいとまでは思わない。彼の肉体は半分が無残にも失われていて、色を失った顔は恐怖でさらに醜く歪んでいた。

 何をしているのでしょう。アルコルの疑問に僕は答えた。たぶん途方に暮れているのだろう。

 生活圏に海があると、腐臭にも慣れてしまう。

 ただ、気になるのは……

「エルビン、これはどう思う?」

 ヨナが問い掛けてきた。

 皆の困惑は「広域支配人が死んでいる」ことよりむしろ「広域支配人の死体がここにある」ことに原因があるようだ。塩の丘をあの男が訪れているという情報を、誰も得ていなかった。それは右往左往する三下の現場監督を見ても明らかだ。彼の目的は塩の丘にはなく、白亜堂公司にしても秘密裏に進めたい事案だったに違いない。

 塩の丘に白亜堂公司の広域支配人が来ていた、というのは極めて限られた人物しか知らないことだった。おそらく三下の現場監督には知らされていなかったのだろう、それは右往左往する姿を見ていれば分かることだ。

 僕と、アルコル、そして館主くらいか。

 起源種博物館での館主を思い出す。強者の理屈が紙屑よりも簡単に破られる。確かに運命は誰にとっても平等で、非情だった。これほどの地位と高級服に飾られた人間が、無惨にも死体となって皆の晒し者になるのだから。

「夜中に車を運転していて崖から転落、辛くも海へと逃れたが、鮫に襲われた。そんなところだろうな」

「ここの海に鮫はいないよ」

「知らないのか? はぐれた鮫ほど凶暴なんだ」

 アルコルは死体に興味がないのか、海の方向ばかり見詰めている。

「喪中」のアルコルを前に、死体をそのままにしておくのは不見識だ、ということで毛布が被せられた。烏羽日傘の少女が死体を見て気を失う、そういう心配をしてくれた皆の気遣いがありがたかった。僕はアルコルが死体を弄ぼうとするのではと戦々恐々だったからだ。

 僕の横に控えるアルコルに、ヨナは始め自分の家族に対するように、次に物珍しい置時計を見るような目をした。少女人形のことは僕から教わっていたが、好奇の念がより勝ったみたいだ。

「君が、アルコルだね。エルビンから君のことは良く伺っているよ」

「はい。エルビンの姪のアルコルです」

 ヨナは僕を見て微笑んだ。

「いや、君のことはもっと詳しく知っているんだ」

「そうですか。御主人様との約束で、私は人前では姪として振る舞うようにしているのです。宜しければ、もう一度自己紹介させてください。御主人様の忠実な僕、自動人形のアルコルです」

「ヨナだ。日雇い労働者、エルビンの友人、それだけ知っていれば十分かな」

「母親想い」

「それもあった」

 アルコルの手袋に包まれた指先に触れる。

「生きていないとは思えないほど精巧だね。あの館主の趣味がどういうものか、俺にも少し分かったような気がするな」

「背徳的だろうか?」

「さあ、難しいことは分からないよ」

 そもそも背くような徳があるのか。美談なんてラジオが垂れ流す政府公認のものしか知らないし、その逆は新聞の紙面では収まりきれないくらいだ。ヨナが呈した疑問に、死体なんて埋めるか焼くかエサにするかの三通りしか使い道がないのに、と付け足す。ようやく現場に到着した白亜堂公司の関係者が広域支配人を運び去っていくのを、白々とした視線で見送った。

 罰当たりな行為は控えるべきだ、と誰かが呟く。冗談かと思ったが、どうやら本気のようだ。考古学者は呪われた職業だが、殉職率が軍人に及ばないのは、死者の祟りというものが機関銃掃射や焼夷弾爆撃よりも効き目が薄いからなのに。

 現実を直視すれば、人は生き物のルールに従い、呪いより空腹を避けようとする。

 パロ・トロームの主人が海岸の缶詰工場を買い取ろうと考えている、そのような話をヨナがした。あそこのオイルサーディンは素朴な味わいで、経営難から無人の廃工場になった今でも懐かしむ者がいる。採算が見込めないだろう、と僕などは思うけれども、道楽だから構わないとパロ・トロームの主人は吹聴しているようだ。見かけによらず大胆なことだ……と言おうとしたところで、僕はアルコルの姿に気が付いた。僕らの話に飽いたのか、波打ち際を一人目に映る鳥の名を歌いながら歩いている。

「何をしているんだろうな?」

「僕に訊くな」

 ヨナは大きな声で呼びかけた。

「巨人さんを探しているんです!」

 と、アルコルが応える。首を傾げたヨナは、僕のほうを向いて、それから塩の丘の伝説を閃いた。

「巨人って、あの巨人か?」

「目が良いと、今でも巨人が見えるって教えた」

「嘘だろ?」

「嘘だ」

 軽く僕の肩を叩く。ヨナは楽しそうだった。波打ち際のアルコルに、巨人がこちらに手を振っている、と告げる。

「本当ですか?!」

 アルコルの声が弾んでいた。

 まずい。このまま一日中でも巨人探しをしそうな雰囲気だ。

 僕はアルコルの手を引いて、浜辺からどこかに行くことにした。白亜堂公司の人間がちらほら増えているし、死体もすでにないので、ここにいても仕方がない。それに僕の頭には起源種博物館があった。館主には、僕のために容れてくれた会談が流れたと、きちんと報告しておかなければならないだろう。

 その上で、また再び白亜堂公司が来れば今度こそ断る。

 Aと言われればBと返すよりも簡単だ。何を言われようと否定文を返せばよいのだから。

 石造りの家々は太陽に照らされて焦げ付き、破砕タイルを塗り固めた屋根は輝くばかりで、アルコルは日傘を目深に差した。枯れた噴水の広場から起源種博物館への緩やかな上り坂を歩く。汽車が見えた。二両編成の機関車は、塩の丘に規則上停車し、誰も乗せず、誰も降ろさず北へと去った。

「どこへ行くのでしょうね?」

「針葉樹林帯を経て、海沿いの新都市を転々とするんだよ。海塩の生産地とタラの漁港を巡るのが、あの汽車の役目なんだ」

 かつて塩の丘はイワシ漁の拠点だったが、北方のニシマダラやニシンの塩漬け肉が流入することで衰退した。大投棄を乗り越えた産業も、経済原理には太刀打ちできない。オリーブ油に漬けたイワシの缶詰を懐かしむ声は、今も海沿いを歩くと聞こえてくるけれども、食材にも「格」があり、イワシよりもタラやニシンが喜ばれた。

「昔の人はね、南で塩を作って北に運び、北で獲ったタラを塩漬けにして南に送ったんだよ」

「どうしてそのようなことを?」

「食べるためさ。塩とタラの関係、と言えば婚約を意味した」

 僕は言い終わった後で、アルコルにそういうことを話しても仕方ないか、と溜息を吐いた。婚約だなんて愚かすぎる。

 だが、アルコルは、

「私たちも、婚約できたら……素敵」

 と呟いた。

「え?」

「あら、博物館は閉まっているみたいですね」

 日傘をクルクル回しながら、アルコルが錆鉄の格子扉に手を添えた。僕は訳知り顔になって、これを使わないと開かない仕組みになっているんだ、とシリンダー式の認証機にトークンを入れてみたが、反応がない。

 二度三度と繰り返してみて結果は同じだったので、アルコルと視線を交わし、照れ隠しに頭を掻いた。博物館が休みとなると館主に会うことはできない。つまり、広域支配人の死を彼女に伝えられないのだ。

 しかし、博物館が休みとは珍しい。

 自動制御で万事が整う起源種博物館は、館主の暇そうな姿を見るまでもなく、管理運営に手が掛からない。館主の存在がなくても、博物館は博物館の機能を果たすのだ。だから今まで、入館者が一人もいない日はあっても、博物館の格子扉が閉じられるということはなかった。

 これはどういうことだろう、僕は地面に手を伸ばした。

「轍の跡……いや、自動車のタイヤ痕か」

 自動車が凹みに嵌り、無理に抜け出た痕跡だった。

 塩の丘で誰が自動車に乗るような人間がいるのか?

 答えは、いた。

 そいつは今、死体置き場で横になっているはずだ。自動車は崖の下に沈んでいる。砂利道と言っても踏み固められているから容易に痕を辿ることはできないが、推測に基づく方程式は心地よく回答を導き出した。館主と広域支配人が昨日の夜に会っていた可能性は、高い。少なくとも広域支配人は博物館の前まで来ていたようだ。

 そして一方は閉じ籠もり、一方は死んだ。

 からころという氷水の音を楽しんでいた館主は、今日のことも計算していたのかもしれないが、そうだとしたら恐れ入る。僕は葬祭神殿を模した建物を見詰めた。アルコルも、起源種博物館も、足下の影も死を色濃くして、生を謳歌する夏の太陽が飲み込まれてしまいそうだ。風が吹いて、汗が滲み、僕は水が飲みたくなった。

「今日はもう帰ろうか、アルコル」

「そうですね。私も日陰が恋しいです」

 日傘で微笑みを隠すアルコルの仕草は、とても美しく可憐なものだった。

 そう言えば、アルコルは昨夜どこにいたのだろう。問い質そうとして、問い質すのは止めた。気紛れというよりも、面倒だった。別の言葉に直せば、事情を話す機会は幾らでも、事情を聞く機会もまた同じ、ということになる。積極的になるのは明日の三時以降でも十分だ、僕はアルコルに同意を求め、彼女も頷いてくれたので気を楽にして来た道を戻った。



 白羊歯の集合住宅に戻ると、僕はまず井戸水を飲んで、シャツに滲んだ水分を補給した。

 部屋では安らぎの表情を浮かべたアルコルが東洋茶の用意をしている。起源種博物館の館主が珈琲ばかり飲んでいる僕の健康を案じて、こういうものを届けたりしていたのだ。一人暮らしだと手間の掛かることは避けるから、今まで戸棚の肥やしになっていたけれども、アルコルが来てからは家のことにも彩りが出てきた。

 いつか起源種博物館で振る舞われたような、手順を踏まえた東洋茶の楽しみ方はできないものの、熱い飲み物で暑さを凌ぐのは心地よさそうだ。目分量なので味が濃いかもしれません、と自信なさげなアルコルに、僕は味の細かいところに疎くてね、と囁く。

 咽を降りる熱い茶に息を吐いた。

「丁度良いよ」

「はい。アルコルは嬉しいです」

 憂いを基調にした造形が、顎の動き一つで変化するのは魔法のようだ。表情の和らぐアルコルの硝子目は、薄影の行き届く室内にあって鈍色の輝きを秘めていた。

 今日は人らしいじゃないか。

 喪服の紐が解けて肩が露わになる。少女人形は目を閉じて僕に全てを任せるように、足を伸ばした。蒸しタオルで身体を拭く。容易く手折れてしまうものを扱うのは苦手だ。ありえない肌の手触りと肩の曲線には、いつも感嘆してしまう。

 西の海に消えた巨人を探すアルコルを、もっと自由に見守ってあげてもよかった。暖かな風が髪を揺らし、浜辺に足跡をつけていくのを一日中楽しむのも、悪くない選択肢だったと思い直す。海は僕とアルコルの数少ない接点だった。

 海を空想する僕と、海に魅せられた少女人形。

「生活にはもう慣れたようだね」

「今も海に行きたいです」

「それじゃあ、化石漁に出ようか。まだ駕籠網を上げるのには早いけれども、舟遊びの気分で」

「ええ、エルビン」

 不意に力が抜けて、僕は倒れた。

「アル……コル?」

 床に置いた洗面器が転がり、床に水が広がる。半裸のアルコルが指先で僕の頬に触れたけれども、泥酔状態のように視野が歪み、感情が興奮の極みに達した直後、急降下して、そのまま意識が途切れた。

 許してね、エルビン。

 誰かが耳元で囁く。浮沈を繰り返す意識は、これが人為的なものだと悟らせた。何よりも台所の床に転がる見慣れない小瓶が、東洋茶に盛られた薬の証拠だった。

 耳に届く風音を邪魔するように、アルコルの唇が触れる。

 海に、と呟きが残された。

 烏羽が雨のように降り注ぎ、一つの場所へと集合していく。漆黒の翼片が染みのように世界を覆い、柔らかな大地が白く美しいものを生み出した。蔓草のように両腕を絡め、笑みを浮かべる少女、それはアルコルではなかった。

 お前は誰だ、と問い掛ける。

 これは夢の泡沫、と女は答えた。

 バラバラに崩れていく形は言葉にし難い。そのまま沈まされた睡魔の淵から身体が起き上がると、辺りは暗く、時計は午前一時を指していた。薬のせいで足下が覚束ないが、それよりも何が起こったのかを理解するのが先だった。

 アルコルの用意した東洋茶を飲み、アルコルの身体を蒸しタオルで拭いていて……そのまま意識を失ったのだ。途切れ途切れの意識を辿り、台所に転がっていた小瓶を拾う。瓶に印された薬の名称は、奇妙な綴りで意味を得ることはできなかったけれども、向精神薬であることは間違いなさそうだ。意識を失うまでの状態から、バルビツール系の睡眠導入剤ではないかと推測した。

 このようなものを誰がアルコルに与えたのだろう。

「畜生、バラバラ……にしてやるそ!」

 いや、ちょっと待て。

「今日はもう寝よう……」

 そうじゃない、そうじゃないんだ。アルコルを探さないと。覚醒したといっても、感情は薬の影響にあって、どうにか安定を得ようと僕は部屋を出た。今が真夜中で助かった。誰かが僕を見れば、錯乱状態にある姿にすぐ取り押さえただろうから。

 ほとんど転がりながら井戸まで辿り着くと、水を大量に飲み、胃が空になるまで嘔吐した。古典的な方法だが、効果があるのだろうか。息を吸い、もう一度水を飲んだ。今日は水を飲んでばかりだな、と呟き、自然と込み上げてくる笑みを放置したまま思考力だけは取り戻そうとした。

 簡単な計算式を解く。歴史の年号を呟いた。

 大丈夫、それほど酷くない。

「まずは、まずは……何をするかを考える。考えるんだ。考えろ」

 アルコルは、どこに行ったのだろう。僕は灯りの漏れる窓を見上げた。

 書き置きなどを残しているなら、まず目覚めたときに気付いていたはずだ。部屋には誰もいなかったし、床に伏せたとき洗面器の水を零してしまったが、それらの後始末はしっかりとなされていた。昼を嫌い夜を好むアルコルが、部屋を抜け出して彷徨うのは以前から知っていたが、どこを彷徨っているのかは実のところ確かではない。

 だが、見当なら。アルコルが自発的に行きうる場所といえば、起源種博物館と海のどちらかしかなかった。起源種博物館はアルコルが再び生を得た場所だし、館主は媚びることを教えた。ただ、より可能性が高いのは海のほうだろう。海を好む性質や、浜辺でのこと、それに意識を失う直前に届いた言葉。

「海に」と。

 岐路に立った僕は海への道を選んだ。縺れた足取りも一マイルを過ぎれば駆けることも可能になった。道を仄かに照らす街灯を頼りに、夜海の浜辺を目差す。あそこには僕が化石漁に使う小舟が隠してあったから、必ずそれに乗って海に出ようとするはずだ。

 知識のない人形が夜海に出てどうする。月は海面を照らして輝くけれども、潮風は舟をよろめかせ、波間に隠れた岩礁は容易く船底を突き破るのだ。化石漁を共にしたアルコルは海の優しい一面しか知らない。白亜堂公司の広域支配人が死んだように、そうだ、人形は命あるものが死ぬことを知らないから、危険も理解できない。

 でも、死ぬことはなくても、壊れることはあるんだぞ。

「アルコル!」

 僕は大きな声を出して呼びかけた。

 草むらを駆け下りて、浜辺に辿り着いた。僕の思考は抑鬱状態を呼び起こす薬のせいで、ろくでもない想像しか浮かんでこなかった。アルコルの人工知能は海沿いの洞窟にあって、その宗教的な遺構の中で永く眠りについていた。化石漁に出たとき、あの少女人形は諸島に伝わる古い歌を歌っていた。今にして思えば、それらは自然崇拝と関係があり……傀儡は巫女的機能を帯びる。

 茂みに隠した小舟は予想通りなくなっていた。部屋の窓から外を眺め、海に還りたいと呟くアルコルを、僕は忘れたわけではなかった。ただ、気にしなかっただけだ。もっと気にしていれば、今こうして走り回ることもなかった。

 浜辺に残る小舟を引き摺った痕を追い、アルコルの名を呼びながら波打ち際まで着いた。

 舟が浮かんでいる。月に照らされた夜海の波は風音よりも繊細で、黒鉄色の水面に浮かぶ小舟まで見通すことができた。

 舟には誰も乗っていないようだ。もう、海に落ちてしまったのだろうか。僕は足が濡れるのも構わず舟へと歩いた。夏の海でも冷たいものは冷たいし、暖かな空気との差に鳥肌が浮かぶ。無人の舟は漂い、なす力がないように舳先が動いたが、その時、縁にしがみついた人影を見た。

 それはアルコルではなかった。

「ヨナ!」

 僕は訳が分からず親友の名を叫んだ。

 なぜヨナが夜海にいるのか、それを考えるには余裕がなさすぎた。とにかく海水を掻き分けて、舟へと近付く。舟が沈んでいなかったのは幸運だった。ヨナの側にまで泳ぎ、身体に手を伸ばした。体温が低いけれども呼吸は保たれていて、僕の呼びかけに小さく反応する。

 僕は小舟に上がると、ヨナの腕を掴み、力の限り引っ張った。

「ヨナ! ヨナ!」

 青白いヨナの顔を平手打ちする。口から水が溢れて、噎せ返るように彼の身体が起き上がった。暴れようとする手足を押さえつけて、ヨナの名前を言いながら、もう一度殴る。

 視線が合わさった。

「エル……ビン? 何をしているんだ」

「それは僕の台詞だ!」

 正気に戻ったヨナが、海を見詰める。

 鮫狩りだ、と彼は呟いた。広域支配人の死体が半分喰われていたことから、それが鮫の仕業であると考えた人間が他にもいたのだ。ヨナはもちろん僕と冗談を言い合っていたから、本気にはしていなかったけれども、発掘現場の仲間の誘いを断ることもなかった。

 断れば、皆も鮫狩りに出ようとはしなかっただろうに、と後悔の声色が咽から漏れた。ヨナは塩の丘の誰もが認める好青年だったから、鮫狩りを組んだ人々も頼りにしていたのだ。

 そして、鮫は本当にいた。

 漁師の出した舟に乗って、ヨナを含めた四人が網で鮫を捕らえようとしたが、逆襲されて海に投げ出された。ヨナたちは大破した舟の板材に捕まっていたけれども、鮫は力尽きた者から順番に飲み込んでいった。鮫は一滴の血を何マイルも先から嗅ぎつけて、列状に並ぶ二千本の歯の餌食にしようとする。

 岸へと逃げようとした者も、運命は一緒だった。平時であれば無謀な行為だと判断できたはずだ。しかし、恐慌状態に陥ると何が生死を別つのかが分からなくなる。鮫は獰猛だが、人のような大型生物を好んで食べるわけではない。そのことを知っていたヨナは、板材に捕まり体力の温存に努めた。鮫が襲うのは一に傷を負った者、そして第二に抵抗する力を失った者だ。

「俺は、鮫が満腹になって狩りを止めるのを祈ったよ」

 それは正しかった。最後まで生き残ったヨナを、鮫は食べようとしなかったからだ。ヨナは僕の舟に捕まり命を長らえ、僕がヨナを救出し……

「だとすると誰が僕の舟を?」

 僕は周囲を見渡した。

 アルコルなのか。アルコルがヨナの危機を察知し、僕に先駆けて助けようとした。

 だとすると薬を盛る意味が分からない。

「……分からないだらけだ」

「ごめん、エルビン」

「何を言ってるんだ」僕はヨナに微笑んでみせた。「どちらかが窮地に陥ったら、お互いがお互いを助ける。忘れたってことはないだろ。当然じゃないか」

「じゃあ、ありがとう」

 それでいい、僕は照れ隠しの舌打ちをして、夜海の波間を伺った。

 千々に別れた月影の反射が水面を漂うものを照らしていた。櫂を手にする。鮫だ、とヨナは呟いた。七フィートを超える巨体が、プカプカと腹を上に浮かんでいる。

 死んでいるようだ。

 気を付けろ、とヨナが呟く。舟を漕ぎ、僕は鮫の間近に寄った。

「ああ……何だこれは」

 頭部が無惨に抉れている。途方もなく強い力が、一撃で鮫を葬ったようだ。海には鮫だけでなく、そのようなものが潜んでいるのだろうか。

 その時、ヨナが立ち上がった。

「歌が聞こえる……」

「歌?」

「沖のほうだ」

 彼が指差す方向を僕も見た。

 諸島の神歌が、細波の調べに運ばれて、舟に寄せ返る。夜海のことなら潮流から波頭のフジツボまで把握している僕とヨナが、そこにあるはずがない巨岩と、巨岩の上で歌うアルコルを見詰めていた。仄暗い海底から突然現れたとしか思えない。だが、少女人形の歌声は古から続く韻の響きを伴い、不自然な位相を正規なものへと変えようとしている。

「巨人」

 月が照らす巨岩の正体を、僕は正確に言い表した。



 現実を虫喰う白昼夢、白羊歯の集合住宅から海を眺めると、それと対面する。

 あれは何だ。見慣れた景色に異物が一つ混じるだけで、認識力が大きく歪む。八月の海の紺碧が、巨大な塊を実像化させたようだ。巨大な塊は海洋の波を引き摺っている。塩の丘が「それ」を見たのは何世紀ぶりだろう、「それ」の話は良く知っていた。修道士ヴァルゴと丘の巨人、夜海の西に消えた巨人、塩の丘の最初の住人だ。

 巨人は、アルコルの歌が呼び寄せた。

 そのアルコルが消えて一週間が経つ。

『今日も一日が始まります。今と今と今に感謝を』

 歯磨きをしつつ現在政府のラジオ放送を聴いていたのに、巨人の話題には一言も触れなかった。巨人は半刻に一歩陸を目差し、もう浜辺近くまで到達しているのに。これはつまり、ラジオが政府の傘下にあることを強固に示している。いつの時代も都合の悪い情報は伏せられるものだ。

 しかし、今日と今日と今日に感謝すれば、この現状を肯定することにならないか。

 歯磨き粉と一緒にどうでもいい思考を洗面台に吐き捨て、簡易珈琲を飲んだ。際立たせた苦みに気を引き締め、ラジオから流れるポピュラー音楽を鼻で歌う。夜海から来る巨人に、僕の生活が乱されることはなかった。カーテンを閉めて心を化石魚に近付ければいい。それよりも、アルコルの消えた穴を、僕は未だに埋められないでいた。

 自堕落な自分が恥ずかしい。

 僕は激変した状況からひたすら背を向けていた。ラジオが伝えなくても、巨人の噂は口から口へ、または新聞が面白可笑しく書き立てたことで、物見遊山のよそ者が四方から集まってきたのだ。騒々しさを嫌って、僕は自室での籠城を続けていたが、水が尽きれば井戸へ汲みに行かなければならないし、パンがなければ食料品店まで出掛けなくてはならない。

 良い機会だから外に出てみようか。

 僕は髪を整えると、久しぶりに外の空気を吸った。

 外の空気は煙たく感じられた。現在政府の軍団やジャーナリスト、観光客らが集落を占領しているからだ。軒下に机を置いてチェスをしている老人が、これほど集落が賑やかになったのは十字軍以来だ、と話していたが、それは「見てきたような嘘」に属するものだろう。

 歩行時の水飛沫と蒸気が巨人を白く霞ませていた。

 光に照らされた巨人は青銅の甲冑に身を固めている。丸く、隙間なく表された文様、塔と見紛う高さ、巨人は世界に唯一人という存在感だ。長く伸びた両腕を海に垂らし、全体的に比較して不釣り合いなほど小さな足で前進する。それでも歩幅は二十ヤードを超えていた。

 集落の人々は巨人の姿を「壺」と呼んだ。それほど個性的な外見なのだ。壺形甲冑に頭部はなく、胴体に両目と口を連想させる穴が開いている。甲冑の材質は緑青色から青銅のように見えるが、未知の合金である可能性が高い。そして装甲厚は二十インチを下回ることはないだろう。地響きを起こす強力と、圧倒する巨体は僕の見立てを簡単に超えてしまうような気がした。

 全身の文様は、碑文回廊の韻音文字に瓜二つだ。

 巨人が目差しているのも、起源種博物館だった。

「アルコルは、もういないのか」

 夜海で巨人が現れたとき、アルコルの姿は神寄せの歌と共にいた。それが今は目視できないし、声も聞こえてこない。少女人形のことは心配でならないけれども、海ではなく、もっと別のところにいると思う。

 アルコルは賢いから、政府軍の攻撃に巻き込まれるようなことはないはずだ。

「謎の巨大生物が出現」の報を受けて現在政府は軍隊を塩の丘に派遣したが、上陸を阻止しようとした戦車三十両、自走砲六門による一斉攻撃は巨人に少しの損傷も与えることはできなかった。戦車の放つ砲弾は巨人の甲冑にことごとく命中したが、身動ぎ一つさせられない。

 だが、巨人のほうも攻撃をしてこないので、一週間が経過して状況は睨み合いのままだ。

「千八百年ぶりに、巨人が家に帰るか」

 今まさに上陸しようとする巨人を見詰めた。新聞は一進一退の攻防と報じているが、ここで観戦している限りにおいては長閑なものだ。最初の一斉攻撃が失敗に終わった後、軍が無駄な攻撃を繰り返そうとしなかったのは、無駄を無駄と知っている証拠だ。つまり、今まで巨人が一歩進めば、軍が一歩下がるという「攻防」が続いているわけだが。

 起源種博物館はあれ以来門を閉じたままだった。大投棄時代を乗り越えた博物館も、巨人の帰還を防ぐことはできないだろう、というのが塩の丘の住人の一致した意見だった。隊によって外出禁止令が出されているけれども、誰も命令などに従おうとしない。要するに巨人の進行方向にいなければいいのだろう、と口々に言い合って、カフェや酒場で談笑に興じたり賭を立案したりと好き勝手に動いていた。

「百年続いた大投棄時代でも、これほどの危機が塩の丘に訪れたことはなかった」

「大投棄時代は百年も続いていないだろう?」

 僕は食料品店の扉を開けた。

「せいぜい二十年くらいだ」

「珍しい客が来たな」

 白亜堂公司の発掘も中止になっているので、店内は男たちで溢れるほどだ。僕が新聞と生ハムを買いに訪れると、丁度、塩の丘の将来についてが話し合われているところだった。寂れた博物館よりも巨人の住処のほうが、地域発展に寄与するのではないか、と薬屋が主張するのを何人かが頷く。世界的に見て、巨人というものは非常に珍しいものだから、カルタゴ銀貨を払ってでも一目見たいと望む人間は幾らでもいるはずだ。いや、それよりも巨人と意思疎通を図ることが先決だろう、と今度はアイスクリーム売りが言った。

 僕はそういう議論には参加せず、新聞とパンを手に入れた。

「ジュークボックスを動かそうか」

「巨人が好きな曲はあるかな」

「よせよせ、誘き寄せられて、俺の店が踏み潰されたらどうする」

 主人の言葉に一同が笑うのに合わせて、僕も笑顔を作り、店から出た。

 新聞の見出しには、現在政府が巨人対策のために白亜堂公司の共同歩調を取ることが報じられていた。広域支配人が塩の丘で死に、その直後に巨人が出現したのだ。白亜堂公司にとっても見逃せないものがあるのだろう。

 広場では待機中の兵士が煙草を蒸かしている。上陸目前の巨人を前にしても、為す術がないという面持ちだが、それも仕方ないだろう。他方、屋台式カフェの主人は笑いが止まらない様子だった。今日一日だけで一ヶ月分の売り上げだ、と彼が言うのを耳にして、集落の住人が巨人に好意的なのも頷けた。塩の丘に巨人が戻ってどうなるかは誰にも分からないし、事態が大きくなりすぎて見守るしかないというのが正直なところだろうか。

 今までで最も強い地鳴りがした。

「どうやら上陸したようだな」

 話しかけられて振り向く。屋台式カフェの椅子に、パロ・トロームの店主が腰掛けていた。

「店は大丈夫ですか?」

「幸い、奴が歩いている方向とずれているからな。今は自主避難というやつだ」

「それは良かった。騒ぎが落ち着いたら、また魚を食べに行きますよ」

「ただ缶詰工場は駄目だろう。岩塩とオリーブ油で作る夜海のオイルサーディンも、完全になくなってしまう。悲しいよ、ああいうのが破壊されるのは」

 パロ・トロームの主人はそれだけ言うと、何杯目かの酒を呷って黙ってしまった。僕は彼に別れを告げて、自室に帰ることにした。丘を見ると巨人の上陸に興奮して、見物人らが大騒ぎしている。巨人が海から上がったときの力で、岸は高潮と塩水の雨が降っているようだ。

 お前など嫌いだ、と僕は呟いた。館主は最後まで博物館と運命を共にするだろう。

 助けることはできないか。起源種博物館が巨人の居城になるのは、史家になりたかった身として納得できないのはもちろん、館主を守るのは僕の使命のように感じられた。確かに彼女は困った性格の持ち主だったが、僕が助けなければ誰が助けるというのか。館主はアルコルの生みの親だし、僕にとって博物館の消滅はパロ・トロームの主人が缶詰工場を失うのと同じだった。

 どうする。

 ヨナに相談してみようか。

 死んだ広域支配人が「困ったときはお互い様でしょう」と言ったのを思い出した。こういうときに知恵と力を貸してくれるのはヨナしかいない。白羊歯の集合住宅に戻り、買ったばかりのパンを一口食べると、僕は準備を始めた。背負い袋に思いついたものを入れていく。コンパス、ロープ、手袋、水筒、新聞紙をパンで包む、そして肺魚のトルム。何があるか分からないので、持っていったほうがいいだろう。

 簡易珈琲を一口飲む。

 その時、僕は机に置かれた封筒を見付けた。食料品店へ出掛けたときに、誰かが部屋に入ったようだ。僕は何か盗まれていないか周囲を確認しながら、封筒の中身を取り出す。

 入っていたのは白亜堂公司の広域支配人が持つ蚩尤のカフスボタンだ。

 カフスボタンは留め金が外されていた。何か意味があるとするなら、これは博物館に入るためのトークンだと閃く。館主か、アルコルか、もしくは白亜堂公司かが僕を博物館に向かわせようとしている。

 やはりヨナに協力を求めよう。

 彼が住む通信局は集落の外れにあるが、そこまでは片道で三十分ほどだ。白羊歯の集合住宅を出ると、青銅の壺形甲冑を鎧う巨人の姿が目に飛び込んできた。まるで文明以前の人々が信仰していた神のようだ。文様の鈍く光を走らせる様子に、僕は目を凝らしたが、巨人の歩行が衝撃となって屋根の破砕タイルを落下させていたので、僕はヨナの通信局へと急ぐことにした。

 ヨナは母親想いだ。母親想いの人間が、今この状況で、母の元を離れて僕を助けるだろうか。少しでも考えれば、そういう疑問に突き当たるのだが、巨人の視界下にいると思考するのも馬鹿らしかった。巨人見物の特別列車が止め処なく駅を出入りするのを横目に、誰もいない発掘現場を通って、僕は通信局の前まで来た。

 ヨナはいるだろうか。家は静かで、誰かがいる気配はない。

 いや、音はしていた。肌に響く重低音が鉄塔から聞こえる。通信局は廃棄されて久しく、壊れているとばかり思っていたので、作動しているのは意外だった。

「ヨナ」

 僕は名前を呼びながら、扉をノックしようとした。

 鍵はしていないようだ。返事がないから、どこかに行ってるのかもしれない。例えば食料品店か、酒場か、もしかしたら巨人見物。母親は大丈夫なのだろうか。ノブに手を掛けた僕は一度躊躇ったが、家の中でヨナを待ってもいいだろうと思い、扉を開けた。

 彼の家に入るのは今日が初めてだ。

 部屋はヨナらしく質素なものだったが、通信局の機械が壁を作っていた。鉄塔の重低音と同じく、機械類も動いているようだ。生活感が薄く、床には通信文書が散らばっている。鉄塔が受信した信号を、機械が文字の形に直して紙に印刷しているのだ。文書には外国の文字が記されていて、僕には内容を読むことはできなかったけれども、馴染みのある文字列を見付けた。

 これは「白亜堂公司」からの通信文だ。

 発掘の現場責任者が僕を毛嫌いする理由、それはヨナと親友だからだと聞いた。変な理由だと思ったが、ヨナが公司側の人間だとしたら。視線を逸らすと、二階へ通じる階段があった。集落の人間はみな、ヨナの人柄と話だけで「母親想い」と言うが、誰が実際にヨナの母親と会っただろうか。

「いますか? ヨナの友人です」

 足を痛めた病気がちの母親に、僕は階段の下から声を掛けてみた。

「いたら返事を……」

 返事はなかった。

 僕は意を決して二階に上がった。通信局は他の家と大差なく、一階も二階も一部屋だけだ。階段を上がり、部屋の扉を開けてみると、そこは物置部屋のようだった。積み重なった木箱と粗末な寝具、机が置かれている。窓の近くには安楽椅子。

 誰もいない。いたという痕跡も。

「ヨナ……君は何者なんだ?」

 僕は呟いた。

 母親想いで、白パンを母親に食べさせたいと願っていた好青年が、砂のように崩れていく。通信局に住んでいるヨナは、誰も知らないヨナだった。

「エルビンの親友だ」

 背後から、答えが返ってきた。

 振り返ると、そこにヨナが佇んでいた。左手には缶詰や野菜を入れた食料品店の紙袋、右手に拳銃を握り、ばつの悪そうな表情を浮かべている。僕は微笑んだ。巨人が来たから、ヨナは大事な母親を親類縁者のいる新都市に預けたんだろ、と。彼は驚いたように僕を見詰め、それから笑った。

「そういう言い訳もあるよな」

「その場を取り繕おうとは考えなかったのか?」

「帰ってみたら誰かがいるんで気が動転していたよ」

「なあ、どういうことなんだ」

 ヨナは拳銃をしまうと、階段を降りていった。僕も後に続く。紙袋を机に置いて、機械が受信した書類の幾つかに目を通しながら、僕のために紅茶を入れてくれた。鍵を閉めなかったのは大失敗だった、とヨナが言い、良くあることだと慰める。以前、ヨナの通信局に行ったときや、夜海でヨナを助けた後に気付く機会はあったのに、僕や集落のみなを騙し続けたのは凄いことだと思う。

 でも、この際、秘密はなしにしてほしいと僕は言った。

「エルビン、俺は白亜堂公司の代理人なんだ。連絡係、監督者、言い方は幾らでもあるが、地域に融け込み公司と地域住民の融和を図るのが仕事、と言えば分かってくれるだろうか。ここの広域支配人が死んだから、今はその地位も受け継いでいるけれども」

 ヨナは小箱から包み紙を取り出すと、中身を僕に見せてくれた。

 白亜堂公司の蚩尤のカフスボタン。

 彼は僕の目を見詰めた。

「君が来た理由は見当がついているよ。だから、俺にも手伝わせてはくれないだろうか?」

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